巫行017 悪霊
翌日ミクマリはゲキの指示に従い、祓に出掛けた。
祠の仕事とは村民に任せ、巫女は村の周辺を巡回する事となった。
善神を不都合なく迎える為には、近隣の夜黒ノ気が溜まり易い霊場や、事故や災難の多いとされる地点を清め無ければならない。
因みに、彼女は朝早く村を出てからずっと、欠伸で瞳を潤ませ続けていた。
『この場所は千歳を掛けて雫や雨水が溜まり、流れの無い水場と化している。物質的にも霊的にも穢れが溜まって、悪いものが引き寄せられ易い』
ゲキの霊感に頼って当たりを付けて分け入った山の斜面に、小さな池が出来ていた。
山を徘徊する紅白巫女を面白がって付いて来ていた小鳥が、邪気に慌てて飛び去る。
「獣も寄り付かない水場。夜黒ノ気が溜まってるわ。気を祓って汚れた水も散らしてしまいましょう」
霊気を込めて祈祷し、霊感の無い者には見えない汚れを打ち祓う。
すると、唸る様な声と共に耳元を素早く何かが通り過ぎて行った。
「えっ、何!?」
ミクマリは慌てて襲撃者の正体を探る。
気配を追うと、宙に黒い炎の様なものが揺らいでいた。
「ゲキ様、あれは?」
『あれは……何だろうな』
関心無さ気な返答。しかし、黒い霊魂からは明らかに邪悪な気が発せられている。
「ゲキ様も御存知無いのですか?」
『知らぬと言うか、探り様が無いのだ。この様な霊場には特定の性質の気が集まり易い。水の滞りは悪い気を集めるのだが、それは怨念であったり、夜黒ノ気であったり、害為す呪術の切れ端であったりする。あの荒霊はそれ等が混じり合って出来るのだ。霊場も然程強くもないし、ここで滅せれば数十年は安泰だろうな』
「ふうん……」
黒い炎はこちらを警戒している様で、ミクマリの視線の先で膨れたり縮んだりを繰り返している。
『これを奉れば悪神に成り上がるやも知れぬし、放って置いても新たに誕生する神に悪く働き掛ける可能性がある』
「退治しましょう」
ミクマリはまだ目覚め切らない身体に霊気を巡らせ始めた。
それを敵対行為と見なしたのか、黒い魂は唐突に体当たりを繰り出した。
「きゃっ」
顔面に衝突。ミクマリは小さな悲鳴を上げる。
だが、神聖な身体への衝突に依って、悪霊は却って自らを滅してしまった。
『勝手に消滅しおったわ』
「驚いた」
顔を払うミクマリ。
『油断するからだ』
「だって、ゲキ様も全く警戒していらっしゃらなかったんだもの」
『全くの雑魚だからな。と言うか、俺を当てにするな。これは巫女の仕事なのだからな』
「はあ……い」
再び欠伸。
『気の無い返事をしおって。お前は巫女の癖して寝穢い様だが、それで良くも里長が務まっていたものだな』
守護霊は呆れ声である。
「子供達が起こしてくれたんだもの」
嘗ての総領娘の返答に、守護霊は深い溜め息を吐いた。
『さて、今のは児戯だ。これからは鍛錬を交えて祓えを行う。先程の気と同様の存在が、この近辺に数か所存在しておる。探求ノ霊性と招命ノ霊性を用いて、お前独りで霊場を探知してみろ』
ミクマリは師に命じられ、霊気を練り始める。
「あの、具体的にはどうやって遠方の気を探知すれば良いのですか?」
強い霊気であれば向こうから気配を寄越して来るが、あの程度の小物であると視認出来る様な距離でなければ察知は難しい。
『霊気を薄く延ばし、徐々に周囲へと広げてゆく感覚だ』
「やってみます」
ミクマリは目を閉じ、自身の厖大な霊気の境界を広げていった。
すると、辺りの動植物の持つ微量な霊気や、霊場の気配、水の流れ等を肌に触れる様に感ずる事が出来た。
……出来たのだが、急に様々なものに肌を撫ぜられた様な感覚を受け、ミクマリの喉は嬌音を上げた。
『気色の悪い声を上げるな。繰り返せば慣れて何とも無くなるわ』
「は、はい。南西の方角に小さな邪気が二つ、北に大きな霊気が一つ、後は……これも大きなものが竹林の付近に在りました。後者の二つは霊気は強いですが、邪気はそこまでではない……かしら?」
娘は頬染め大袖の中へ手を突っ込み、鳥肌を撫ぜながら答える。
『概ね正解だ。折角の修行だ。日が天を叩くまでに全て解決せよ』
「はいっ!」
さて、ミクマリの霊気と水術の機動力を以てすれば、先程の程度の気を祓うのに時を数える必要もない。
野山を飛ぶ様に駆け、次々と祓を熟してゆく。
他の地点の霊気の反応は、最初と同じく汚水の溜まった小沼の悪霊や、恨みを抱いて死んだ大蛇の怨霊、遠い昔に霊感のある何者かの血糊を付着させた岩が原因であった。
手早く二つは滅され、三番目の岩へと向かう。
岩に居た霊は怨恨等ではなく、人間の魂であった。
どうやら彼は旅中に足を滑らせ頭を強打し果てたらしく、己の余りの情けなさに地縛霊と化してしまったらしい。
迂闊者の霊魂は巫女の姿を見留めると、居ても立っても居られなくなったらしく、「俺を祓ってくれ」と懇願して来た。
ゲキに「寿いで見ろ」と言われ、祝詞を上げる。
「高天に還りし命を寿ぎます」
すると、地縛霊は礼を述べながら高天國へと送られて行った。
「留まって居たと言う事は、生前は高名な術師だったのでしょうか」
『憖に霊感があると、死因に関わらず霊魂が覡國に残留する事がある。しかし、長年地縛霊として過ごして居ながら、夜黒に染められずに居られたのには感服する。確かに黄泉國ではなく高天國に行くべき御霊だ』
ゲキは解説の後に『マヌケだがな』と付け加えた。
さて、残す処は竹林の反応のみと為った。
竹林では昨日とは違い、彼方此方から竹を割る音が聞こえて来た。
タケジイと、それを手伝う村の男衆だ。
「やあ巫女様、御清めは進んでおられますかの?」
タケジイが声を掛けて来た。
「はい。村の近辺は、残す処この付近だけです」
「この辺りっちゅう事は“あれ”かなあ?」
タケジイは眉を顰め言った。
「心当たりが?」
「まあのう。探しに行かんでも、放って置けばそろそろ“来る頃”じゃな」
――何かしら?
ミクマリは敢えて先へは進まず、その場で霊気の膜を広げて気配を探ってみた。
通常よりも強い霊気を持った獣が一匹。邪気は二分と言った処か。二分なら一般的な生物と変わらない。
「狸だわ」
霊気を孕んだ身体の動きで直ぐに分かった。これだけ臆病な中型の生物はこれしか居ない。
「よう分かったな。化け狸じゃよ。術を使って悪戯を企んだり、飯を掠め取る小悪党じゃ」
「えっと、御困りですか?」
邪気の薄い獣相手に力を行使するのは気が引けた。
「それ程でもないのう。度が過ぎる事はせんし、悪戯には“これ”じゃからな」
細い竹を素振り風を鳴らすタケジイ。
「ゲキ様、放って置いても良いかしら?」
上目遣いの巫女。
『竹の神に悪事を働くとも限らんぞ。と言うか、御饌に手を出すだろう絶対。退治するに越した事は無い』
狸が御供え物に手を出す。優しい娘の脳裏にも容易く浮かび上がる図であった。
「あのう、出来れば手荒い事は避けて欲しいんじゃが。儂としては、狸の悪戯が娯楽みたいなもんで……」
タケジイが遠慮気味に言った。
「ええと……」
ミクマリは自身の迷いに困惑した。
恐らく、数か月前の自分なら師匠の言等は無視して、迷わず狸を見逃してやっただろう。
旅の道中、仕方無しに何度も獣を獲っている内に自身の気質が変化したのだろうか。或いは、神代に近づいたのが原因か。
尊い事と比ぶると、どうしても狸の生死が軽く思えてしまった。
後で毛皮を利用して肉は狸汁にすれば赦されるのではないかという考えまでもが浮かんだ。
無論、生命への感謝は片時も忘れては居ない。
人にやったとは言え、昨日の兎は腐らせなかったし、革だって沓の補強に用いる心積もりであった。
最近は術式で難所の踏破を行う様に為っており、沓の痛みが酷かった。
――そう言えば、昨日は狸の溜め糞に足を突っ込んだんだっけ。
ミクマリが思考を泳がして居ると、竹藪の奥から警告の声が上がった。
「大男が出たぞっ。山賊だ!」
山賊と聞いて巫女は身を固くした。
独り旅では回避するなり、遁走するなりすれば諍いを避ける事が出来たが、ここは村の傍で、多くの村民達が居る。
――狸処か、人間を相手にしなければいけないの?
師を仰ぎ見ると、その霊魂の揺らぎが妖しげな催促をしている様に思えた。
「来たぞっ、逃げろや!」
斧を取り落として逃げる男達。それ程までの脅威なのか。兎も角、巫女は調和の術を行使し、身体の力を漲らせた。
「あら?」
しかし、竹藪の奥から現れたのは、一匹の狸だった。
男共はその狸を何度も振り返りながら逃げている。中には腰を抜かしてしまった者も要る有り様だ。
『ははは。面白い奴だ』
守護霊は愉快そうに震えている。
「巫女さんは逃げなさらんのか」
そう言うタケジイも逃げ出す気配は無い。彼は狸の方を見て居たが、目線が妙に高い。
狸は仰々しく、一歩一歩笹葉を踏み締めながらこちらへ向かって来ている。
「タケジイさん。何が見えていらっしゃるのですか?」
「伸びた竹程の背丈の大男じゃが……そんなもん居る訳無かろう。居ったとしたら神様か、鬼辺りじゃろうな」
彼もまた大男だが、恐怖の色を浮かべない理由は他所にありそうであった。
『霊気を磨いた狐狸の多くは、幻術を使って他者を化かす。霊気で目鼻や耳に働きかけて幻を見せるのだ。当然、自身よりも強い霊気を持つ者には通用せん術だ』
「ふうん。タケジイさん、“それ”を少し貸して頂けますか?」
ミクマリは宙を見上げる老人の手にある細い竹の棒を指さした。
彼は笑いながらそれを貸した。
竹を持った巫女が一歩詰め寄ると、何が見えているのか、タケジイは感心した様な声と共に一層上を見上げた。
更に詰め寄ると、狸は狼狽え始めた。それでも何とか歯を見せ毛を逆立て、巫女を威嚇した。
巫女は細竹を振り上げる。
「えいっ!」
乾いた音と共に狸の額が打ち付けられた。
「おっ、大男が消えた。矢張り狸じゃったか」
タケジイが笑う。
打ち所が悪かったのか、土の上に横たわった狸は口から舌を垂らし、腹も微動だにさせて居ない。
ミクマリは屈み込むと、暢気に構えて物言わぬ狸を眺めた。
暫くの沈黙。
狸は急に苦しそうに息を吹き返したかと思うと、身を起こして脱走を図った。
「こらっ、逃げないの」
見破っていた娘の手が尻尾を掴む。
狸は獣らしく人間の手に食らい付こうとしたが、悠然とした生地の衣に抱き竦められ、腹や喉を無茶苦茶に撫でられた。
身を捩り、苦しそうに喘ぐ狸。
娘は狸以上に灰汁どい顔をして悪戯者を擽り続ける。
愈々狸は降参し、娘の甘い手を舌で繕い始めた。
「良し、やっ付けました」
『後で問題になっても知らんぞ』
ゲキは再び呆れた声色を醸した。
「ゲキ様も愉しんでいた癖に」
すっかりやられた狸を抱きながらミクマリは笑った。
結局の処、狸の殺処分は見送られた。
その代わりにミクマリはタケジイ達へ「悪狸とはいえ、獣は獣。火を近づければ驚いて幻術を解くだろう」とゲキの助言を伝達したのであった。
昼を挟み、巫女は小休止がてらに作業者達に清めた水を振る舞った。
「もう一息で立派な祠が組めそうなんじゃが、残りの作業は明後日に持ち越しじゃな」
竹の盃を呷りながらタケジイが言った。
「明後日? どうしてですか?」
巫女は狸を撫でながら訊ねる。
「幣帛を捧げるのに使う椀や器が無いんじゃ。竹の神様を祀るのに、竹の神様から賜った物を使っても礼が伝わらんじゃろ?」
「仰る通りですね」
ミクマリは柔らかく頷いた。信仰を持たない成りに気配りの行き届いた考えが心に響く。
「俺や村の者は皆、竹頼りじゃからな。山向こうの集落に行けば上質な木製の食器も見つかるじゃろうが、今から出ると向こうに着く前に陽が沈む。
最初の幣帛も上等な品を用意したいし、明日の朝に人をやって、翌日に集落を発ってと為ると、明後日という訳じゃな」
指を折りながら言うタケジイ。
「其れなら、僕が走れば明日の日のある内に戻れますよ」
割って入ったのは青年。竹林の傍の村の長だ。
「村長の逸足なら確かに間に合うじゃろうが。急ぐものなのかね、巫女さん?」
タケジイが訊ねる。
「いえ、そう云うものでもないと思いますが……」
「いやいや! 水分の巫女様を無闇に村に引き留め続けるのは失礼ですし、一刻も早く村に神様を御迎えする準備がしたいのです」
青年は鼻息荒く言う。
ミクマリは照れ臭い様な、微笑ましい様な心持がした。彼を見ていると、自身が里長に就いたばかりの頃が思い出されるのである。
「まあ、村長が自分で決定するのなら俺は反対出来んが」
タケジイは頭を掻いた。
「では、早速準備して行って来ます。明日の日没までに帰りますので、皆さんは村内の清掃を。ミクマリ様、僕の留守中、御頼み申し上げます」
青年は白い歯を見せ、早々に村へと駆けて行った。
彼は「出来ればずっと御頼み申し上げたいのだけれどなあ」と呟いていた。
しかし彼は、翌日の日没まで待っても、村へ戻っては来なかった。
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祓……お祓いや悪いものを取り除く行為。
御饌……御供え物。
幣帛……御供え物。食事以外も広く指す。