巫行150 まほろば
「え……?」
目を擦るミクマリ。視界には確かに翡翠色の霊魂、守護霊の姿がある。
「あれ……?」
頬を抓り、強く引っ張り上げるミクマリ。ここは覡國だ。
『何をマヌケ面をしておるのだ?』
訊ねる声は聞き馴れたものだ。
「だって、だってゲキ様は……」
動揺。
『俺がどうしたというのだ?』
「サイロウに祓われてしまって……」
『そうだな? 鬼の面は滅されて、お前の身体から追い出されてしまった。故に、戦いの後に寿ぎを頼んだ。覡國に影向し続けると、消滅してしまう恐れがあったからな』
揺らめく霊魂。
「そう……ですよね。高天へ帰られたのでは?」
『帰ったが、また呼ばれた。向こうでは二日程度しか経っておらぬが。もう少し待って貰えれば、面白い神術の幾つかを披露してやれたのだが。何なら、姿を霊魂でなく生前の姿にする法もあったのに……お前はせっかちだな』
「呼んだ? 私が?」
首を傾げるミクマリ。
『そうだ。俺を守護霊として呼べるのはお前だけだろうに。祖先は俺の他にも居るであろうが、俺は歴代最強だ。お前があっちに行くまでは代替わりも無いであろう。言っておくが、一人一回までしか神に成れぬとか、そういう規定もないぞ。代替わりは守護神が何らかの理由……民と反りが合わなくて追い返されるか、魂が滅してしまうかだが、そうでなければ、また選出対象だ。向こうではこちらとは時の流れが違う故に、お前が俺を呼ぶ念が何百倍にもなって届いて暑苦しかった。しかも、尊敬や崇拝とは違う気配だった所為で、他の高天の住人に矢鱈と茶化されたんだぞ。尤も、祖霊信仰の始まりは、尊敬ではなく執着だという説がある故、これが本来なのやも知れぬが。お前は俺を尊敬している様子はないからな。その説が一層、濃厚になった』
理屈っぽい言葉が並べ立てられる。
「ほ、本当に帰って来たんだ……」
へなへなと床へ坐り込むミクマリ。その瞳には、きらりひとすじ。
『何だ不満か? 残念だったな。巫女は神が選ぶ。俺の巫女はお前だ』
宙で踏ん反り返るゲキ。
ミクマリは両袖で顔を覆い、袖を濡らし始めた。
『……泣き虫なのも変わっておらぬなあ。俺からすれば、ニ、三日前の話だが。そうか、泣く程に厭だったか……』
翡翠の霊魂は尾を引きながら部屋の外へ流れてゆく。
「あ、待っで!」
ミクマリは手を伸ばす。呼び止める声は情けない鼻声だ。
『何を待つ事があるのだ。俺はこの里の神だぞ。他の巫女にも挨拶をしてこねば。それともまだ、お前とアズサの二人しか居らぬのか?』
「い、居まずげど……」
鼻を啜りながら答える。
『それに、立て直した里の様子も見て来ねばな。吝嗇を付けてやるから、お前は顔でも洗って待っておれ』
そう言うと守護霊は部屋を出て行ってしまった。
若しかしたら、今のは全て幻覚かも知れない。そんな不安が過ぎり、巫女は今一度彼の姿を見ようと外へ飛び出した。
「ぎゃー!! ミクマリ様のお住まいからお化けが出て来たーーっ!!」
「お、お祓いしなくっちゃ!」
神殿の方から巫女達の悲鳴。因みに情けない方がヒツチだ。
『ははは!! 俺はこの里に害を為す悪霊だ!!』
翡翠の霊魂は未熟な巫女達を追い回して遊んでいる。
「……」
部屋の外にアズサが置いてくれた朝のお浄め用の器がある。ミクマリはそこへ顔を沈めた。水に心を寄せれば愈々堪らなくなって、大声を上げて泣き始めた。
「わー。綺麗なお化け」
モチコの声。
『お? お前は俺が視えるか。どうだ、お前も巫女になってみんか?』
勧誘するゲキ。
「巫女になるー!」
「ぎゃー!! モチコが悪霊に拐かされる!! シラサギ、早く祓ってー!!」
「無理無理! アズサ様ーーっ!!」
「悪霊となー? 邪気も夜黒も感じへんけど……。あ、あー……悪霊やなー」
アズサの呆れ声も聞こえて来た。
『久しいな、アズサ』
「あい、お久し振りやにー」
軽く交わされる挨拶。
「姉様ーーー!!」
アズサが大声で呼んだ。
ミクマリは水から顔を引き上げ、アズサの方を見た。すると、指を差されて爆笑をされた。
訳も分からず、モチコも真似して笑い始めた。件の霊魂も続く。
「……良かったやん」
一頻りの辱めの後、優しい霊気の籠った囁きが届けられた。
ミクマリは頷き、もう一度顔を洗った。
それから梯子を下り、混乱した場を収め、守護神に里を紹介して回った。里の民には、意外と彼を視ることが出来る者が多かった。
里を一巡し、巫女達との正式な挨拶を済ませて小屋へと戻る。
『規模は以前の里と同程度か。邪気も少なく、皆笑顔だ。良い里ではないか。お前の理想通りに出来たか?』
ゲキが訊ねる。
「分かりません……。ここまで来るのに、沢山、難しい事や分からない事があって……」
『そうであろうな。創るという事は容易い事ではない』
「困った人や悪い人もいて、人が死んでしまうし、わ、私も……。それに、嵐も来ましたし、き、北の地はサイロウの所為で酷い事になってて、女装をした男性の巫女の方がいらして!」
次から次へと溢れ出る言葉。
『さぞ、悩んだであろうな』
「……はい」
目尻を拭うミクマリ。
『時間はたっぷりある。聞かせよ、この二年の間の事を』
ミクマリは話して聞かせた。陽が沈んでからも休む事無く話し続けた。アズサは一度小屋に戻ってくると部屋を覗いてにやにやとしたが、今晩は誰某ん処に厄介になると言って去って行った。
サイロウを剋した報告で聞かされた真実、北の地で多くの泯びを見た事、稲霊の村の末路、曲者揃いの入植者。命の誕生、それを鬼の力で助け運命を曲げた事。恐ろしき蟲の大量発生。老人の死、事故、決闘の申し込み。そして殺人と処刑。止めを刺すかの様に現れた異国の嵐の神……。
兎にも角にも話し続け、出来事への自身の感想や、選択の是非へ残る迷いを土塗りの壁の隙間を埋める様に並べ続けた。
『済まぬ。辛かったであろう。本当は、お前独りにやらせるべきではなかった。後一年でも早く帰って来れれば、違ったのであろうが』
「独りではありませんでした……。アズサや皆が支えてくれたから」
『本当にそうか? 俺には一人で全て背負い込んでしまっていた様に聞こえたが。お前は、守護神の俺の代わりまで務めてくれたのだ』
「……そうかも知れません」
ふと、外を見ればいつの間にやら陽が昇っている。
『朝になってしまったな。夜通し話し込んでいた様だ。眠いか?』
問い掛ける神。巫女は答えず、立ち上がり、外を眺めた。
再び巡る実りの季節。見下ろし照らす天。里を包む穏やかな峰々。草葉は潤いと成熟とが入り乱れる。虫が跳ね、小鳥が追い、木立の間から女鹿が覗く。
山へと入る狩人、それと水壺を頭に乗せた女がすれ違う。農村の方角では細い煙が燻っている。
『良い里だなあ。そうは思わんか?』
「そうですね……」
頷くミクマリ。
『おめでとう、ミクマリ』
優しく寿ぐ霊声。
「ありがとう御座います」
薄桜の微笑と、翡翠の揺らめき。
二人は暫く見詰め合った。
……が、長くは続かず、ミクマリは大きな欠伸をした。
『若い娘が大口を開けおって。人前ではするのではないぞ』
祖先の呆れ声。
『巫行はアズサ達に任せておるのだろう? もう、何も心配する事は無いのだ。思いっ切り、休めば良かろう』
「そうですね……」
頬を染め、今度は袖で口を覆って欠伸をする。
「ミクマリ母さんー。“石投ご”教えてー」
モチコが他の子供を伴って現れた。手にはそれぞれ小さな石ころを握っている。
『どれ、童共は俺が構ってやろう。見えぬ者も居るから不公平かな?』
子供達の方へ漂ってゆくゲキ。
「私が行きます。ゲキ様はアズサ達を躾けてやって下さい!」
ミクマリはそう言うと、洗面用の水から子供の掌に合った水球をたっぷりと創り出し、梯子を使わずに飛び降りた。
「すごーい!」
子供達から歓声が上がった。
『やれやれ……。おい、ミクマリ』
ゲキが呼び掛ける。
「何ですか?」
ミクマリは振り返り、首を傾げた。
『おかえり』
揺らめく翡翠の霊魂。
「ただいま……って、帰って来たのはゲキ様の方でしょうに!」
娘は、ほんとうの笑顔で返した。
この國に、嘗て一人の巫女が居た。彼女は傷付いた者達へ慈愛を水分り、難事へ心身霊をぶつけて旅をした。
彼女の願いは、人々が手を取り、抱き締め合える地を創る事。その大願は今果たされ、巫女は一人の娘へと還った。
永久に移ろわざるものなど、何処にも存在しない。全ては水の流れの如く変容してゆく。
しかしそれでも、流れに身を和ませ、ハレを求めるこころを失わなければ、何れまた笑顔を差し招く事が出来よう。
ここは、まほろばの里。神と巫女の佑わう場所。遥か昔に、人々が神を信じ、御霊を寿ぐ時代があったと云う。
これでミクマリの冒険はおしまいです。彼女はこれから幸せに暮らすでしょう。
長丁場になりましたが、お付き合い頂きありがとうございました!