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巫行015 竹林

 朝餉(アサゲ)とした兎の遺物を洗い清めながら、ミクマリは今朝に見た悪夢を反芻していた。


 淫靡(インビ)な欲と乱れた死の香りの濃い夢であった。

 邪淫を望む男に追われ逃げ惑う夢。委曲は(モヤ)掛かり思い出せないが、身近な男声が代用されていたのは確かだ。

 (クツ)に絡む粘り気のある赤い水が逃走を妨害し、愈々(イヨイヨ)と男に捕まってしまう。

 肩を掴まれ引き倒され、着物の合わせを脂ぎった指で押し開かれ覗き込まれる。

 娘に向けられるのは一本の青竹。


 ……比喩ではない。夢の中の“それ”は竹そのものであった。


 ミクマリは男の象徴を碌に目にした事がなかった。幼児のものか、世話の要る病人のもの位で、元気なもの等は以ての外であった。

 興味すらなかった。

 里長の責や弱者の世話に追われて、自身の欲等は寝る食う程度しか感ぜられぬ暮らしを送って来たのだ。


 唐突に男が消える。

 邪淫は果たされず、ふと気付けば血の池に呆然と立ち尽くしていた。

 何時か自身が作った血潮の渦の再現が起り、底からは見知らぬ男達の遺骸らしき物体(・・・・・)が浮き上がる。


 彼女はまた、無残な死を遂げた者も見た事がなかった。

 肉の残った惨忍事の犠牲者も、盟神探湯(クカタチ)沙汰の死罪人も目にした事がなかった。

 これらを検分し清めるのは巫女の役目。だが、里に属して居た頃は全て父母や妹に任せており、只の乙女であった彼女から穢れは遠ざけられ、覆い隠されていた。

 精々目にした遺体と言えば、病床に伏した老人の面倒を看に訪ねた時に起こった魂の擦れ違い位である。

 巫行に就いてからは無念の死を遂げた者の亡骸を見る機会はあったが、それは白い棒きれと髑髏に過ぎず、酷く物質的で、人の形を失って久しいものばかりであった。


 性や死に直結した肉を見た事の無い娘。


 要するにミクマリは“ねんね”であった。


『……おいミクマリ。何を呆けておる? 何故(ナニユエ)に長々と兎の皮を洗って居るのだ? 毛が傷むぞ』


 ねんねの娘は男の声に驚き肩を跳ねさせる。

 見上げれば祖先の霊。


 一息吐くと、娘は今朝に見た恐ろしい夢を話して聞かせた。


『夢か。霊感が研ぎ澄まされていると、眠りの間に神霊の声を聞く事もある。内容は声の主の望みや、近い未来への警告であったりする事が多い』

「そう云った夢には思われないのですが……」

 ミクマリは皮の水気を切り、乾かす為に縛って荷物に提げる。

『為らば、肉への欲が満たされておらぬ証拠だな。お前は神和(カンナギ)の巫女だ。諦めろ。残念だったな』

 蔑視の混じった慰め。


「そんなのでもありません!」


 信を置いた師の対応は娘を落胆させた。

 ミクマリ自身も、「ああ云う夢には背徳的な快感がある」と若い娘同士で噂をした事がある。

 だが、此度のそれには、恐怖と修行の際の真摯さが綯交ぜに為っている奇妙さを感じていた。

 妹が見て、聞いて貰いたがった予知的な夢が思い出される。


「ゲキ様、寝てる間に身体を御使いに為られたりしてませんよね?」

『無礼な巫女め。詮無い勘繰りだ。大方、ここ数日歩き通しだったのが効いてるのであろう。(ウナ)されるのが恐ろしいのなら起してやるが、疲れを取りたければ何処か落ち着いた村でも見つけるのだな』


 訊ねはしたが大して疑ってはいなかった。悪夢の根源は分かっていたのだ。


 ミクマリは袴の上から密かに下腹を撫ぜた。


 彼女は、あの“御印(ミシルシ)”が現れた事を師へと報告し(ハグ)らせていた。

 何と無しに伝えるのが恐ろしく思えたのだ。或いは、伝えなければそれは無いものと出来るかの様に。

 そのせいで今朝は食が進まなかった。焼いた兎の身を余らせて、葉で包んで置く事にした。

『兎の身が余ったのか。何時もは感謝だ何だと言って残さず平らげる癖に』

「夢の所為です」

『そうか? ……そういえば、言いそびれておったが、神代(カミシロ)へ近づくと食欲が滅したり、好みに変化が生じたりする。時折、身体の調子も悪く変ずる事もある。兆候を感じたら報告しろよ。旅では命取りになりかねん。尤も、器が完成するのは当分は先の事だとは思うが』


 言い訳が運悪く知りたくもない事実を引き摺り出してしまった。

 兎を受け付けなかった代わりに口にした(クワ)の実が不味く感じられたのを思い出す。外れの実を引いたにしては妙な味だとは思ったが、若しかするとそう言う事情なのやも知れない。


――どっちも好物だったのにな。


 身体から何かが剥離する気がした。


『夢の所為ならば、兎も無為に殺されたものだな。お前は無闇に慈愛がある癖に、時折妙に残酷な点がある。天性の甘手(アマテ)で獣を喜ばせて置きながら、それを食事の確保に利用するのだからな』


「生きる為には仕方の無い事です」

 獣を惹きつけ、人に優しさを配る娘も、食事の為に殺生をする事はある。

 里に居た頃はそれ程積極的ではなかったが、今や水術で“食事”の頭蓋を穿つ事に躊躇いは無くなっていた。


 荷物を纏め、山道を歩き始める。昨夕は上り詰める処までは済ませて置いたので、今朝は快適な下り道を残すばかりである。

 食が進まなかった割に体力も満足に回復しており、気を取り直して景色を楽しむ事とした。

 これまでの風景は、草原の毛並みと常緑の木立が視界を涼ませて居たが、次の峠に向かっては生態の分布が少し変わるのか、(ブナ)の木が爛々と燃え広がるのが見られた。

 頭に小さな衝撃。栗鼠(キネズミ)が食事を零した様だ。

「悪戯っ子ね」

 食事をする小動物を眺めていると、団栗(ドングリ)の団子の味が頭に浮かんだ。

 拵えるのに存外に時間の掛かるあれは、人に供されでもしない限りは手を出し難い。

 枝には小鳥達も遊んでいた。山雀(ヤマガラ)が寒を避けて樹皮に潜んだ虫を突いたり、柄長鳥(エナガドリ)が自慢の尾を上下させたり等している。


「痛っ」

 上を見過ぎたか、沓が堅い実の溜まりを踏んでしまった。


 ふと、後ろで団栗が落下して寂しい音を響かせる。

 偶然にもまた少し手前で団栗が落ちた。


 何だか追われている様な錯覚を呼んだ。


 ミクマリはまるで幼児の様に、落ち葉と転がる実を蹴って態々(ワザワザ)音を立てて歩く事にした。

 今度は、足先が何かに弾き返される。


 見下ろすと秋の味覚が顔を出していた。どきり。


『おお、椈松茸(ブナマツタケ)ではないか。生前は好んで口にしたものだ』

 懐かしそうに言うゲキ。

 ミクマリは黄色い落ち葉の間から顔を出したそれを一瞥すると、(サツ)と歩き始めた。

『何だ、採って行かんのか。嫌いか?』

 ミクマリも椈松茸は嫌いではない。(ヒエ)(アワ)と一緒に焚き込んだ飯は好物であった。

 先の味覚の変化を確かめるのが不安であったのに加えて、(キノコ)を見た時に何となく悪夢が蘇ってその場に居られなかったのだ。


 頭の中に茸が現れ、漫々(ブラブラ)と踊り始めた。

 慌てて提髪(サゲガミ)を激しく揺らし、妄想を打ち消そうと努める。


 暫く下ると黄昏(タソガレ)の森が終わりを告げ、今度は青臭い香りが出迎えた。

 どうも避けて通りたい気もしたが、“それ”は里の傍にも在った事を思い出すと自然に体は景色を求めて引き寄せられて行った。


 次に広がるは緑の涼景。


 規則的に節を持った筒が天高く伸び、先を見上げれば仰け反りそうだ。

 風が吹き、頭上高くで細枝と尖った葉を笹々(ササササ)と鳴らした。

竹林(チクリン)か。里にも便利の良いのがあったな』

 またも懐かしそうな色を醸す霊声。

 ミクマリは返事をしなかった。踏み込んだのは良いものの、矢張り今朝の夢が思い出され、歩を早めた。


 彼女の中で茸の代わりに竹が踊り始めた。耳が熱くなるのを感じる。


 態々水術で肉体を操ってまで竹林を急ぐと、目の端に切られた竹の残骸を見つけた。


 (ツト)に目覚めて歩き始めた甲斐だ、上手くすれば今日の内に村が見つかるかもしれない。


 打ち棄てられた竹に気を奪われていると、今度は沓が生暖かいものを踏んだ。

『何をしておるのだマヌケめ』

 呆れ声。革の沓の先には狸の溜め糞。

 娘は悲しい気持ちに為りながら沓先を土に擦り付ける。何時もならばこんな失敗は犯さない。


『ミクマリよ、先程から様子が変だが、不調ではないのか? 頬が赤いぞ。若しやと思うが……』


 守護霊が心配を投げた時、声を真っ二つにするかの様な小気味の良い乾いた音が響いた。


「竹切りの音だわ。近くに村でもあるのかしら」

 行く手を見るが、竹の乱立する風景は無限にも思われた。

 先に椈林の小高い崖から眺めた際にも、そう言った集落の気配は見つけられなかった。

杣人(ソマビト)が遠出して来ているだけかもしれんな』

「会ってみても構いませんか?」

『好きにせい。宿が借りられそうなら好いがな』

 ミクマリは、時折響く竹切りの音を辿って竹林を進んだ。


 未だに頭の中では竹が踊っている。

 良く見ると茸も戻って来て一緒に舞っている。舞茸(マイタケ)と言う茸があるらしいが、これがそうなのだろうか?


 妄想を振り払い、竹の細枝を薙ぎ払いながら、竹取の人物を探す。

 竹を叩く音以外は目立った気配は無い。奥まった竹林に単独で行動するのなら、先ずは男であろう。

 遠出の杣人か、山奥に小屋を構えている厭世(エンセイ)の隠居か。

 どちらにせよ、宿を借りるとなると男と夜を共にする羽目になる。

 娘がその事実に気付くと、踊る竹が太く立派になった。


「ああもう!」

 独りでに噴出する悪態。


 目の前の竹の密集地帯を避けて進むと、太い竹と対峙する男の姿が現れた。

 男は薄汚れた麻の着物を纏った老人であったが、背丈は高く、研磨された石斧を持ち上げる右腕や、丈の短い裾から覗く足は太ましく頼もしいものであった。

 (オキナ)はミクマリをちらと見やったが、構えた仕事道具を大きく振った。


 乾いた音が竹林に響く。


 そして、太く立派な竹は横に真っ二つになった。


「ふふっ」

 何となく笑える。


「こんにちは御老人。私は旅の者です」

 ミクマリは落ち葉の上で果てた竹を目の端に、男へ挨拶をした。


「こんにちは。俺は竹ばかりを取っとる杣人だ。この辺では“タケジイ”として通って居る。あんたは(ヤシロ)の巫女さんの様じゃが、迷い為すったか? 御連れさんはもう何日も前にこの辺りを発ったと聞いたが」

 タケジイは人好い表情を見せ、額の汗を拭った。


「恐らくその方達とは関係が御座いません。私は独りで旅をして居る水分(ミクマリ)の巫女ですから」

「女独りで? ……ああ、俺にはもうそんな元気は無いよ。もっと若い者の処へ行ってやってくれ」

 タケジイが笑う。


 巫行を行いながら旅をする者には、春を(ヒサ)いで糊口(ココウ)を凌ぐ者も居る。居ると云うよりは、そう云った者の方が大勢を占めるのだ。

 敢えては語らなかったが、彼女の旅で横目にした村や、人通りの多い(ミチ)ではそういう輩とすれ違って来ていた。

 そして多くの村では、旅の巫女の事を下の病の媒介者だと考え、却って穢れた者の様に捉える風潮も珍しくない。

 この水分の巫女も、何度巫娼(フショウ)と間違われた事か。


「私は神和の役を持つので、そう言った事は致して居りません!」

 ミクマリは小鼻を膨らませて言った。

「はっは。じゃあ、あれかえ? 村に“舞茸”を売りに来為すったか? お前さん、若いのにあの嘘吐きの“騒がし巫女”に弟子入りでもしたのか?」

「舞茸? 騒がし巫女?」

 ミクマリは首を傾げる。


「知らんのか、騒がし巫女を。この辺りの村と集落を行き来する年増の術師じゃ。巫女の癖に現世(ウツシヨ)に神なんぞ居らんと(ウソブ)いて、大きな土鈴(ドレイ)をがらがらと言わせて踊る(ヤカマ)しい女じゃよ」


「そんな方がいらっしゃるのですか」

「煎じて鼻から吸うと幽世(カクリヨ)が覗けるとか云う舞茸を食い物と交換したり、呪術や儀式をやる代わりに若い男を要求して回っておる」


『典型的な巫女騙りだな。巫力怪しく、(タマ)磨きも怠け、虚言妄言で占う術師だ』

 ゲキは『詰まらん』と付け足す。


「偽者って事ですね」

「そうじゃな、偽者じゃ。本当に困って居る者の為には食指を動かさんし、殯葬(モガリ)や埋葬もやりたがらん」

「困った人ね。村長(ムラオサ)や他の巫女は何も仰らないのかしら?」


「旅人と言っとったが、本当にこの山を越えて来為すった様じゃな。この近隣には村が一つと、そこから一日二日離れた場所に大きな集落がある。村にも集落にも巫女はあの騒がし巫女しか居らんし、その集落には(オサ)と言うものも無いんじゃ」


「長無しにやって行けるのかしら?」

「役割を分けて、互いに仕事や物を交換して暮らして居るんじゃ。忌み事や調薬なんかの、普通は巫女さんがする様な仕事も住人達で何とかしておる。村の方も村で何とか出来ない分は集落に出向いて解決して貰っとるな。そんなだから、俺も竹の為にこんな処に小屋を拵えてしまった位だ」


「変わった処ですね」

「旅人は皆そう言うな。先に来た“王の御使い”とやらも珍しがっておった。彼等を率いていた社の巫女さんも布教を試みた様じゃが、沼に杭を打つ様だと舌を巻いておったな」

 ここでも“王の御使い”か。

 ミクマリは先の二つの村の事情を思い出し表情を歪める。幸いこの翁の言う様子では、村や集落は苦難に遭わされては居ない様だが。

「そんな恐い顔を為すって。矢張り本式の巫女さんとは言え、山越えは辛かったと見える。今晩は俺の小屋に泊まって行くがええ」

 タケジイはそう言うと、斧とは別の石の刃を使って竹を木挽き始めた。

「……ありがとうございます」

 ミクマリは少し思案したが、胸に手を当て頭を下げた。

「これだけやっ付けたら案内してやるからな。なあに、さっきも言ったが、夜這いする元気も無いから安心せい。村の方も、女だけで固まって寝るから、あんたの心配する様な事は何も無いじゃろ」

 心の内を見透かした様に言うタケジイ。


「御見通しですね。矢張り、良くある事なんでしょうか」

 ミクマリは溜め息を吐いた。そう言う悪事は苦手だ。恐ろしい。

 彼女の隠れ里では、子女が無為に穢される様な事件は聞こえて来なかった。子を結ぶ行為は里の仲の良い男女の間のみで交わされていた筈だ。

 尤も、ミクマリがその方に無知だった為に事件を聞き留めて居ないだけかも知れなかったが。


「良くあるも何も、あんたが俺の股座(マタグラ)を盗み見るからそう思っただけじゃ」

「へっ!? ごめんなさい、私、見ていましたか?」

 顔を真っ赤にして謝るミクマリ。

「はっは、嘘じゃ」

 タケジイは笑いながら竹の束を縛ると軽々と肩に担いだ。

「もう、お爺さん!」

「若い娘を揶揄(カラカ)うのは楽しいの。どれ、夕餉(ユウゲ)には茸を出してやるからの」

「遠慮しておきます!」

『食えぬ(ジジイ)だな。襲われぬ様に気を付けろよ』

 此方(コチラ)の男の声も笑っている。

 ミクマリは二人に聞こえる様に、思い切り溜め息を吐いたのであった。


******

ねんね……赤ん坊の様に無垢でものを知らぬ事。“大人の事情”を知らぬのを揶揄して使う事もある。

朝餉(アサゲ)……朝食。

夕餉(ユウゲ)……夕食。

杣人(ソマビト)……木こり。単に切るだけでなく、木工や植林等も含む。

殯葬(モガリ)……死者を葬る事。また、古代日本において、遺体を数日間安置して腐敗や白骨化を確認し、“本当の死”を見定めてから本葬式を行うまでの期間。

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