巫行149 神殿
「うちの里には必要のないものです!!」
里に戻って早々、ミクマリは声を荒げた。
海神の村で憐れな隻腕の男を堪能し、慰安旅行を修めたミクマリ。彼女が里へ帰ると、大きな異変が起こっていた。
何と、姉妹の家の横に、大きな造り掛けの建造物が現れていたのだ。
そして、帰還した里長を見つけた村民は、「新しい神様をお迎えするの、楽しみですなあ」と声を掛けた。
「アズサ、どうして勝手な事をしたの?」
問い詰めるミクマリ。
「こ、こーっと、うちって巫女頭やし、決めても別にええかなーって?」
「相談も無しに!?」
更に詰め寄る。
「アズサ様は、ミクマリ様が嵐の時に、無理を為さって倒れられたのを気にしてらしたんですよ」
いきり立つ里長を抑えるヒツチ。
「そうですよう。守護神様は護りの力に長けるんでしょう? 私達じゃ力不足だし、ミクマリ様の負担が軽くなる様にと思ってー」
シラサギが言った。
「ミクマリ様の前の里は祖霊信仰を為さっとったんじゃろ? 里の再興の締めにはええかとも思ったんじゃが」
サルノテが言った。
「必要ありません。前の里と今の里は別のものです。今はお祀りする御先祖様もありませんから。神殿の建設は取り止めです」
早口で言うミクマリ。
「えーっ!? 言うて、もう材料も集めたし、山神様や隣近所にも話を通してあるんじゃがなあ」
サルノテは頭を掻く。
「お断りとお詫びをしておきなさい。兎に角、うちには新しい神様は不要です」
ミクマリは神殿を睨んだ。
仰々しい作り。樹皮を向いて磨き上げた太い柱を何本も立てている。香りからして檜か。この里を取り囲む山には檜は見当たらない。
他にも飾り立てる為に用意したと思われる、見掛けの良い石材等も積まれている。夕方だというのに、里の者達は熱心に作業を続けていた。
「か、考え直して頂けませんか? 皆、楽しみにしてるんですよう」
ヒツチが憐れな声を上げる。
「そうですよう、皆寝る間も惜しんで、ミクマリ様が居ない間に作り上げようと……」
シラサギが言った。
「しーっ、余計な事言わないの!」
窘めるヒツチ。
「どういう事? 私が居ない間にって。私が居ない方が都合が良かったの!?」
頭に不穏な説が飛び交う。ひょっとして、“私抜きでも回る”のではなく“お払い箱”なのか。
「やあ、ミクマリ様。揉めてますね」
現れたのはサルノテの友人メツケ。彼は里の子供達を伴っていた。
「ミクマリ母さんー、今日ねー、皆で隣村に遊びに行ったのー」
モチコが言った。
「どうしてそんな勝手な事!? 幾ら隣だからって、山道には危ない処が沢山あるでしょうに。獣だって出ます!」
怒鳴るミクマリ。
「別に僕が単独で連れて行った訳じゃないですよ。保護者は多かったですから」
頭を掻く青年。
「そういう問題じゃありません!」
「ミクマリ様、何怒ってはんのー?」
「ミクマリ様、恐い……」
子供達が怯えている。
「……」
ミクマリはたじろいだ。
――私、どうしちゃったんだろう……。
「姉様。神殿の建築は続けます。新しい守護神様の御迎えも。姉様は里長ですが、うち等は巫覡です。神様にお仕えする者です」
他人行儀な妹の言葉。
「……神に仕えるばかりが巫覡ではありません。神様がおわさずとも、立派にやっている村は幾つでもあります。逆に、神様が居る所為で苦労をしている処も」
言い返すミクマリ。
「そうでない処も沢山見て来ました」
言い返すアズサ。
「だから私たちの里は、そうならない様にしたじゃないの。神様なんかに頼らなくたって、平気な様に!」
「平気ちゃうやん!」
アズサは声を荒げた。
「平気でしょう。里の者を見たら分かります。これまで通り貴女達でなんとかしなさい。どうしてもいけない時は私が出張りますから!」
「平気ちゃうのは皆とちゃう! 姉様や!」
「私の何が平気じゃないっていうの? 皆が居るじゃない! 神様なんて、要りません!」
繰り返し叫ぶミクマリ。
「そやったら姉様は前に進めやんやん! 好い加減にしりー! ゲキ様はもう、おらへんやん! のうなってもーたやん!」
アズサの霊気の籠った声が響く。
「……っ!」
ミクマリは駆け出した。子供が一人、自身の大袖を掴んでいたらしく、転倒して泣き出した。引き摺ってしまったか、膝が朱に染まっている。
ミクマリは梯子に縋る様に手足を掛けていたが泣き出す声に振り返った。その場に居た誰もが彼女に注目していた。
……ミクマリは唇を噛み、自室に戻る事を選んだ。
部屋の中、項垂れる娘。
――分かってはいた。
自身の水術師としての力は、生半可な神の力を優に超える。気質としては気紛れな天津神に勝ち、知識や経験は土地に縛られる国津神よりも広い。それでも、人である以上、包み込めるものの限界があった。
先の大嵐の襲来で、霊性の届く範囲だけでも抱え切れない程の命がある事を思い知らされていた。
しかし何者も、寄る辺無くして在り続ける事は出来ないのだ。或いは、何かの所為にしなければ耐える事が出来ない。特に人間はそうだ。だから、出来不出来に関わらず、神に頼らざるを得ない。
勿論それは、水分の巫女とて例外ではないのだ。
――新しい守護神だなんて……。
だが、頭上を見上げる癖の付いた彼女にとって、彼の存在は地面に描かれる落書きの様に、容易く消してしまえるものではなくなっていた。
彼女と彼の出逢いは、今から凡そ三年前。
里が黒衣の術師集団に依って泯滅せしめられ、瓦礫の墓標で涙を枯らし果てた時の事だ。
それ以前にも、神とその神威を与る民としての関係もあったが、巫女でなかった彼女には在って無い様な存在であった。
理屈屋で、蘊蓄垂れな守護霊。時に冷酷な判断を下す彼は、人の善意を頭から信じて、身体が先ず動いてしまう小娘の自分とは、正反対の気質であった。
そんな彼と苦楽を共にしたのは、ミクマリのそう長くない人生に於いて、たったの一年。その一年の間に、一生分の嘆息と落涙を強要された。
――怨んでたって、可笑しくもないのに。
王の討伐後、彼との誓いを護る為に娘は里の再興の為にか細き腕を振るい、寄る辺無き心を砕き続けた。
今度は彼女が、泣き付かれ、当たられ、頼ってくる人々の縁に為らねばならなかった。
自分はその役目を出来るだけ果たしてきた心算だった。妹や里の者達に自身の様な苦労を与えまいと振る舞ってきた心算であった。
だが、さかしまに里の者達は神殿を建てようとしている。
――今の自分に求められている事は、拒む事でも、頑張る事でもない。
ミクマリは髪へと手を伸ばした。長旅でも、烈しき霊気のやり取りでも、激流や暴風雨の中でも失われる事のなかったそれ。
霊簪を掌に乗せる。相変わらず傷一つ無い翡翠の勾玉。
新たな里、新たな民。新たな神を迎えるのならば、それに付き従う巫女もまた新しいものが相応しい。少なくとも、新しい守護神自身が一番強い絆を感じる者を選び取るべきだ。
――私じゃないかも知れない。でも、あの人で無いなら、もう私は……。
どうしてこんな運命、どうしてこんな責任を。選ばれた事でした苦労は数知れず。それでも、彼との出会いは無意味ではなかった。
――髪をお揃いにするって言っていたっけ。あの子にも、きっと似合うだろう。……きっと。
僅かに軽くなった頭に手をやる。まるで敵に術を向けられたかの様な不安を感じる。
これを手放すと思うと、久方振りに鼻の奥が痛む感覚が甦った。
――いつからだろう、泣けなくなったのは。
験しに簪を戻せば、不安も哀しみも瞬く間に霧散した。
これは単なる石の飾りで、瞳より流れるであろうものも自己憐憫に過ぎない。これへの執着は仕事の完遂に於いては、呪いに他ならない。
民の求めに応じ、彼等を和ませ、神招くにする事は、たった一つ。
それからミクマリは、再び髪から簪を抜き取ると懐へ収め、神殿の建造が進むのを、静かに眺め続けた。
部屋に結界を張る事もなく、起床にはアズサの手を煩わせる事もなく、里長と巫女頭として言葉を交わし合い、里の者の願いを聞き入れ、子供達の誘いに応じた。
山へも自ら足を運び、女鹿を訪ね、獣の毛皮を撫でてやった。
そうして彼女の瞳は太陽を失い、空を見上げるのも止めた。
程無くして神殿が建ち、最後に儀式と御饌と幣帛を奉納して完成とする。
祝招るべきは巫女頭であるが、その頭の強い推薦により、里の代表が儀式の主を務める。その代わり、この儀式の後の神事は全てアズサに任せる事と定めた。
神殿の広々とした丸太作りの床に正座する面々。老若男女問わず、それぞれに藁編みの蓆の席が与えられ、一様に神妙な面持ちで坐す。
御饌には里で育てた稲の飯を名物の器へ盛り、海に漁る村より取り寄せた見事な鯛の焼き物や、竹林の恵みに満たされた御神酒が添えられ、幣帛には当然、翡翠の霊簪が捧げられる。
儀式は神懸かりに粛々と進められ、里長は遠方より取り寄せた聖火を背に人の持ち得ない気を醸し、神殿と人々の心を清めた。
唯一度だけ、……守護神との繋がりの証を供物台に乗せる時にだけ、その指先が僅かに乱れ震えた。
「我々の願い、高天におわす祖の御霊へ届け奉れば、御神訪い、この地を常磐に佑わい頂けることでしょう」
朱唇より、出る巫女の言葉が民へと告げられる。
「御神招ぐ整え済しことを、ここに寿ぎます」
柏手二つ。礼をする。身動ぎ一つしない里の者の間を、美しき提髪が退出してゆく。
――これで、私の務めも終わり。これで良かったんだ……。
後は御饌を頂く直会を済ますのみだが、それはもう巫女としてではなく、名ばかりの里長としての参加となる。
祖霊の神格化は優れた者の魂でも、こちらの國で数えて数年の時を要する。神無くしての神人共食の嘗め合い等は噴飯ものだが、神事や巫行とはそういうものだ。神は人の心に在り。
ミクマリは自室へ戻ると、無性に腹が立ってきた。乱暴に寝転がり、毛皮の敷物の上に丸くなる。
儀式を終えたばかりで、まだ太陽も天を叩かぬ時刻であったが、構わず瞼を閉じた。
目覚めると、大禍の残滓が薄ら寒い時分であった。厭々に帯を締め直し、今一度神殿へと向かう。
会食は和やかに行われた。里の諸人挙っての大宴会。
幼い巫女頭が酔っ払いへ薬を与えるのを尻目に、その不快な臭気と正体を失った自由な振る舞いに堪らなくなって席を立つ。
誰も彼女を気に留める者は居なかった。
ミクマリは真っ暗な部屋へと戻り、立ち尽くす。野暮ったい霧の衣にいらつき、袂を緩めて帯を解いた。それでもまだ足りず、全て脱ぎ去って放り投げた。あえてこれを纏う必要もないのだ。
代わりの衣がある筈も無く、寒さ除けの為に用意してあった毛皮を引っ掴むと、それを素肌に纏って敷物の上に転がった。
提髪も煩わしくなり、絵元を取り去って髪を降ろし放った。
際限なく沸き立つ苛立ちを殺せるのは眠りのみ。毛皮の感触も神経を逆撫でたが、胎を抱く様に身を丸めていると、次第に落ち着き夢寐の國へと誘われる。
恐らく陽が昇ったのであろう、妹が他人行儀な目覚ましではなく、呆れ声を何度か掛けてきたのが聞こえたが、構いもしなかった。
小さな子供が梯子を軋ませる音も床を伝って来たが、聞こえぬ振りをした。
身体を動かさない事を苦痛に感じる様になって、漸く身を起こす。子供の声、部屋へ流れ込む外の匂い、太陽の光、全てが過剰に感じられて苛立たしい。
入り口から差し込む明かりの加減で、凡その時刻が分かった。昼過ぎだ。起き上がれば毛皮が肩を滑り、臀部が撫ぜられる。股と項を直に擽る秋風。
慌てて衣を探り身に纏う。纏えばそれはそれで神経を逆撫でた。
『おい、ミクマリよ』
ゲキの声が聞こえた。愈々ここまで来たか、アズサと口を利くのも億劫だが、薬を煎じて貰おうか。
『漸く目覚めたか』
嘲笑う様な霊声。
「煩い」
眉間に皺を寄せる。
『なあにが煩いだ。仕事が節目を見たからといって、少々寝穢過ぎるのではないか?』
「貴方は黙ってて」
『衣まで放り出しおってからに。それに、二年も経ったのにちっとも育っておらぬではないか、その様な貧相なものを隠すだけに神の衣を纏うのは勿体無かろう』
「ゲキ様! 良い加減にして下さい! 祓いますよ!」
ミクマリは怒声と共に見上げた。
眉間に皺、振り上げた平手に霊気を満たし、もう一方の手は確りと白衣の袂を抑えながら。
『久しいな、ミクマリよ』
そこには、本当の翡翠の霊魂が悠々と漂って居た。
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