巫行145 憂鬱
ミクマリは倒れて獣達に介護されている処を、小屋から出て来た民達によって発見された。
運ばれたミクマリは暫くの間は何も言わず伏せっていたが、その間に他の地の巫覡が礼を述べに現れた事で、彼女の行為が里の者に知れ渡る事となった。
里の者達は暢気に小屋の中で集まって談笑していた蔭で若い娘独りに任せた事を恥じた。加えて、その慈愛の偉業と、獣にまで愛される心根の美しさに唸った。
「姉様、身体豪いけ? まだしんどい?」
日に何度も部屋に戻って来ては声を掛けてくるアズサ。
「ううん、平気」
短く答えるミクマリ。
身体も疲労しておらず、一晩中結界を展開したにも関わらず霊気を尽かせてもいない。抑々の処、嵐を根から力付くで滅し解決する事も出来たのだ。
唯、心が余りにも多くの生命に中り過ぎてしまった。
「今しサルノテさんが言うとったけどなー、村の被害は姉様のお陰で、そんなでもなかったみたいやにー。へりこの山も山神様があんきしとったからだんないさー」
「そっか、良かった」
「姉様が見付かった時、いかつい獣もおったから、皆が食べられるんちゃうかってなー。うちが、獣は皆姉様の連れやにーって言うたらさー、吃驚しとったなー」
「私、“甘手”だから」
「なー、姉様。皆が姉様に会いたいって」
「いい、止めとく。少し眠たいの」
眠るミクマリ。
「村もちいと小屋がのーなってもうたけど、皆元気やし、もう建て直し始まっとるなー。食糧庫も無事やったさー」
「そっか、良かった」
「枝や木っ端が散らかっとーから、ほらなあかんけど。皆で出来るから、姉様は休んどきなー」
村の復旧はミクマリ抜きでも直ぐに完了した。もう里は、余程の難事さえ起きなければ、彼女無しでも回るだろう。
次第に巫女達もサルノテも仕事の報告や助言を仰ぎに現れなくなっていた。
未だに彼女を母と慕う童女だけは梯子の下まで訪ねて来てはいたが、最近は呼びもせず、時折、地面を木の棒で擦る音が耳に届くだけだ。
「今日も、あつあすなー。姉様、冷たい川の水飲みに行かへん?」
「いい、ここは涼しいから」
そして夏盛り。ミクマリは長らく日差しを拝んでいなかった。相変わらず夜にのろのろと抜け出して身を清める位だ。
モチコも最近は山仕事の村の女衆に手仕事を習い始めたと聞いた。
「なー、姉様。前の里の祖霊信仰をなー、またやらんけって話出とるんやけどなー」
「要らないでしょ。ここは山神様の祠だけ護っていれば良いわ。余計な神様が居ると、問題が増える」
「そうかー。そやけど山神様はうちらの里だけの神様とちゃうからなー」
「……私じゃ不満?」
ミクマリは言った。
「何怒っとー? 姉様は神様ちゃうやろ。人間やん。皆、心配してはるんやに。ほやで、顔位は見せに行ったってーな」
「……ごめん。分かった」
ミクマリは立ち上がろうとした。しかし、身体は意に反して膝へ顔を埋める行動を取る。
「やっぱり、何もしたくない。もう、私が居なくてもみんな平気でしょ。顔が見たかったら、勝手に来て見てくれたら良い」
「姉様……」
アズサの哀し気な声。彼女は暫く傍に立っていた様だったが、梯子の軋む音の後に顔を上げると、誰も居なくなっていた。
それから妹は、自分の部屋で眠る様になった。
初めの内は日に一度は挨拶をしに顔を覗かせていたが、ミクマリは部屋の入口に水術で結界を張ってしまった。
今は、依るべき山の清流に触れる時と、誰かが届けてくれる食事の上げ下げだけに外と繋がる。
ある日、ミクマリがふと顔を上げるとシラサギが水の結界に顔を張りつかせていた。
暫く放って置いたが、結界が破れる訳でもなし、引き返す訳でもなし、顔を水の膜に押し付け醜態を晒し続けていた。
仕方無しに開けてやると、他愛のない、嘘か誠か分からない話をたっぷりと聞かされた。
それ以降は水の結界を激しく揺らす様にして、覗けぬ様にした。水の音が絶えず鳴り続けていたが、思いの外、心が落ち着いた。
ある日、ミクマリが食事の膳を下げに結界から顔を出すと、ヒツチが待ち構えていた。
これまで仕度した料理の感想や新作の試食の御願いをされた。ミクマリは褒めるだけ褒めて、それ以降は腕だけを結界から出し入れする様にした。
するとまたある日、今度は強烈な音と振動に依って、結界が破れて隙間が出来た。
これを出来るのは里には独りしかいない。それも、容易では無い筈だ。運悪くミクマリは月水に依って体調不良に悩まされていた。
「アズサ!」
声に乗る怒りに歯止めが利かぬ。立ち上がり、拳骨を握った。
「ミクマリ母さん。一緒に食べよー」
入って来たのはモチコであった。
モチコは何やら器を持っている。器には甘く香ばしい匂いのする何かが入っていた。
振り上げた拳を降ろし、大人しく座るミクマリ。尻や背中はむず痒かったが、取り敢えず一欠片だけは付き合い、口へ入れる。
匂いと同じく甘く香ばしい何か。何かを揚げて蜜を掛けた代物だ。揚げは少々焦げた風味が口に広がり、蜜は煮詰め過ぎたか酷く甘い。
だが、ミクマリの好みと、ここの処、食事の味がしなくなった事を加味すると、非常に美味に思えた。
「みーん、みんみん、みんみん」
モチコが揚げ物を持って、何事か呟いた。今は夏。山は賑やかだ。結界の隙間からも同様の音が聞こえてくる。
――これってひょっとして……。
二つ目に伸ばした手が止まる。破れた結界の方を見ると、悪い顔をした妹が梯子から覗いており、目が合うと頭を引っ込めた。
「アズサ!」
またも怒鳴るミクマリ。モチコは「良しっ!」と呟くと、すたこらさっさと逃げ出した。
結界を抜けて外へ飛び出すと、二人の童女は立ち止まってこちらを見ていた。その向こうには里の要職や子供達が居る。少し見ない内に、また知らない顔が増えている様だ。
「ミクマリ様、出て来てくれんかのー! 新しいもんも挨拶がしたいんじゃー!」
「うちの子の名付け親になってくれませんかーっ?」
「わんわんっ!」
里の民達が声を上げて呼び掛けてくる。彼等は勿論、笑顔だ。
「……ごめんなさい。私、疲れてしまったの」
ミクマリはそう呟くと、破れた結界をそのままに部屋へと引き返し、眠りに就いた。
それからも里の民達は、あれやこれやとミクマリを部屋から誘い出そうと策を弄した。
殆どが空振り。結界が修復されないのを良い事に、今度は虫食ではない旨そうな香りを風術が運んだり、子供達が泣き笑いする音が届けられたりした。
ある日、太鼓の音が鳴り響いたと思えば、笛の音や唄う声が小屋を取り囲み、騒がし始めた。
それでも出て来ない娘に業を煮やして、嘗ての嘘吐き娘と盗癖男が強引に引っ張り出して、何を祝うのか不明瞭な祭りの席へと強引に据えた。
ミクマリは多少の食事や会話はしたものの、彼女の憂鬱が次第に祭りの陽気な空気を喰い始め、陽が沈む前にお開きとなってしまった。
――……。
里の者が励ませば励ます程に落ち込む心。動こうと思えば思う程に床に根を張る身体。
『ミクマリ。噂は届いていますよ。最近は山にも姿を見せてくれませんね。獣達も寂しがっています』
深夜。小屋の外に佇む女鹿の姿。
「山神様……。私、何だか疲れちゃったみたいで……。きっと、少しだけ休んだから元気に為りますから」
『体の具合が悪いの?』
「いえ、そういう訳では」
『貴女は独りじゃないわ。皆が心配しているのよ』
「心配しなくても大丈夫です。何かあれば多分、動けますから」
『そう言う事じゃなくって……』
「里はもう、これで出来上がりだと思います。後は、続かせてゆくだけ。これからずっと……ずっと……」
『そんな事は無いわ。大事な物が欠けたままで出来上がりに成りますか? ここは貴女が命と心を砕いて築き上げた里なのですよ』
「私独りの里ではありません。ここは皆の故郷に成りました」
『そうね。だったら矢張り、貴女は肩の荷を下ろして、もう少し楽にした方が良いわ』
「しています。見て下さい。何もしていないんですよ。これ以上の楽ってないでしょう?」
ミクマリは歪に笑った。
『嘘ね。昔の貴女に戻りなさいな。前みたいに子供達と遊んで、母親の代わりを務めて。やりたい様にやれば良いのです』
優しく響く女鹿の霊声。
「……出来ません。しようと思ったって、身体がいう事を効かないのです。何かをしようとすると、余計な事を考えてしまって。考えるとまた何かしてしまう。それが、里を壊してしまうかも知れない」
吐露するミクマリの声は平坦であった。
『だったら、山に入らない? 獣達は何も考えてませんから。指に小鳥を乗せて、暖かで滑らかな毛皮を撫でているだけで良いわ。汚れたって誰も気にしないし、食べ物だって貴女を好いている獣が運んで来てくれるわ』
女鹿の提案。
「ありがとう御座います。でも、私は人間ですから……」
ミクマリは丁重に断りを入れ、再び膝を抱えた。
更に日が経ち、蜩の声が里に響く様になった頃。
陽が昇り切らぬ内に、アズサが遠くから大声ノ術を使って「姉様」と呼びながら小屋へと駆けて来た。
礼も無しに部屋へと飛び込み、息を切らせるアズサ。
ぼんやりと彼女を見やると、頭の上に黒い三本足の烏が乗っていた。
「どうしたの?」
里長の部屋では、普段は来訪者が口を開くまで沈黙が流れたが、ミクマリには厭でも妹の霊気の乱れが感じられた。
問い掛けても、アズサは苦し気に息を吐き肩を上下させるばかり。
「ねえ、どうしたの!?」
強く訊ねても碌に返事も出来ず、アズサはしゃくりあげ泣き崩れた。
「里が……霧の里が……」
「霧の里に何があったの!?」
更に強く問い詰めると、アズサの頭の烏が哀し気に啼いた。
「ナツメが……ミサキ様が……」
「もう! 行くわよ!」
要領を得ない妹を抱き上げて外へと飛び出す。アズサの哀しみの霊気に後押しされ、水分の巫女は再び立ち上がった。
手を翳し、辺りが乾くのも気にせず水気を集めて空へと飛び上がった。
「姉様、急いで。御願いやから急いで……」
唯、泣きじゃくる妹を抱き締める。暖かな涙や鼻汁が首筋に垂れた。
不安と哀しみを材料に、水術に加えて黄泉の血操ノ術を引き出す。
瞬く間に秘境へ。陽はまだ傾き淡い光を醸し、霧に覆われた大地を輝かせている。
雲海に沈み覆い隠された里。一体、何が起こったのか。
脳裏に甦る血と炎を捩じ伏せる自身を思い描きながら、ミクマリは霧の中へとゆっくりと降り立った。
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あんき……安心
あつあすなー……暑いですねー。