巫行144 狂飆
鬼の娘は自室で唯、膝を抱えて過ごした。
彼の者は稀に見る純粋な悪人であった。人の魂は悪意や負の感情にて邪気を発し、穢れ、行き過ぎると鬼へと変じる。
蓋し、悪行を悪行と思わない性根をした者が、在りしままに振る舞っても魂は穢れはせぬ。
実例を見たのはあれが初めてであったが、その存在自体は師の垂れた蘊蓄の中に含まれていた。
それを憶えていなければ、彼女は自身が手を下した者を全くの善人と勘違いして気を狂わせていたであろう。
「姉様、里の人達にはお産の時と同じ様に説明をしておきました。皆、姉様の心配をしていますよ」
少し他人行儀なアズサの声。
「ありがとう。でも、暫くは里に出ない様にするわ。こんな姿、見せられないから」
「……そやなー、人の目が気になるもんなー」
アズサはそう言ったが、部屋へ踏み入る足音が続いた。
「姉様は間違ってへん。あいつ、言葉と霊気が合わへんかった。殺した言うてもやってない言うても、霊気同じやった」
不満気な言葉の後に、隣にどかりと座る音。
「ああいう性根の人もいるのよ」
「うち、そやなくて良かったわー。……姉様も、鬼に成れる人で良かったんやに」
アズサが角に触れた。
「擽ったい。触らないで」
身を捩り逃げるミクマリ。
「あーあ。姉様が鬼に成ったのんは、うちが死んだ時だけやと思っとったのになー。里のもんの為にも成ってもうたしなー」
寄り掛かって来るアズサ。
「アズサは私の妹、私はアズサの姉よ」
「そやにー。うちだけの姉様や。里のもんも姉様やのうて、お母やんみたいや言うしなー」
「そうね」
苦笑するミクマリ。母ならば、いつか親離れする時が来るのだろうか。
「……なあ、姉様、気にしーへんときや?」
「何を?」
「悪もんの頭みじゃいた事」
「ばれてたか」
砕けた調子を装うミクマリ。
「ばればれやにー。そやけど、うちはそんな姉様が好きやん。大好きやに」
「ありがとう」
「姉様、最近無理しとらん?」
アズサが訊ねながら、膝を抱える腕の中へ身体を割り込ませてくる。
「……してる。でも、里が落ち着くまでは頑張る」
「そうかー」
アズサの手がミクマリの頬を撫ぜる。
「手、少し大きくなった?」
「へへ。背も、ちいと伸びてん。着物もちいとつんつんに為ってきたなー。姉様と同じ位になれるかいなー?」
「どうかしら。アズサはちょっと食べ過ぎだから、追い越しちゃうかも」
「そやったら、うちが姉様抱っこしたるなー」
「どんだけ大きくなる気よ」
腕の中のアズサを抱きすくめる。
外ではいつの間にか、静かな雨の音。背が痛い位に冷える空気。
「姉様、だんないで。もうちいとだけ、頑張ろなー」
「……うん」
鬼の娘は腕の中の温もりを抱いて眠った。夢は見なかった。
それから数日、降ったり止んだりの天気が続き、地雨となる頃合いにミクマリの角は引っ込んだ。
だが、妹の励ましとは裏腹に、一向に外へ出る気が起きず、人の身に戻った事を知らせる為に晴れ間を偸んで里を周った以外は、部屋に引き籠った。
里の者にはミクマリと顔を合わせて気を乱す者はなかったが、彼女の方が余所余所しく振舞ってしまった。
「姉様、集真藍が咲いとったにー」
そう言うアズサの手には青と紫の小花の束。
「折ったら可哀想だわ」
「それがなー。メツケさんが、折った木も土に挿したら死なんくて、増やせるってなー」
差し出される集真藍。良く見ると、花は小鉢に収められている。小鉢には今や里外にも知られた画が描かれてた。
「小鉢はシラサギが焼いたんやにー。絵を描いたのはいつもの子やなー」
「そう。皆に御礼を言っておいて。ありがとう、アズサ」
アズサの持って来た集真藍はメツケの言う通りに長く持った。部屋に籠り勝ちなミクマリは日に何度もそれを目にしたが、微妙な色の変化が味わい深い。
アズサは相変わらず同じ部屋で暮らし、夕餉と夢を共にしている。ヒツチが朝餉を届け、シラサギやサルノテも里の近況を聞かせに足繁く訪ねて来る。
それでもミクマリは、水垢離や用足し以外では自分から外へ出る事は控え続けた。
雨の季節が過ぎ去り、若葉青く茂り、太陽の盛る季節が訪れる。
「織る時には手を真っ直ぐ。脚も確りと突っ張って」
ミクマリはここの処、生地を織って過ごしていた。気持ちの上では何もしたくなかったが、何もしなければしないで、負の感情を持て余してしまう。無心に縦糸と横糸を織り合わせていれば、余計な事は忘れられた。
しかし、予てからこつこつと作り続けていた妹の巫女装束が出来上がった為に手持無沙汰となり、訪ねて来たモチコに織物の業を教える事とした。
「あたし、手が疲れたー」
幼子にはまだ辛い仕事だ。モチコは子供用に長さを調節した機織り器をほっぽり出し、両手をぶらぶらとやった。
「じゃあ、今日はもう止しておきましょうか」
「うん、おはなしして」
「そうね、何のおはなしが良いかな」
茜の袴の上に童女を収めて語り掛ける。
「んーっとね……」
そこへ、高床に昇る為の梯子が軋む音が届いた。この音はアズサの昇り方だ。
「おかえり、アズサ。もう自慢は済んだの?」
アズサはミクマリに贈られた紅白の衣装を身に纏い、里の全員に自慢をすると言って出掛けていた。
「姉様! シラサギが呼んでいます」
仕事口調。
「何かあったの?」
「あったというか。これからあるそうです。遠方から“わいた”が来ると卜占に出た様です」
「直ぐに行くわ」
ミクマリは絡む憂鬱の気を振り払い、モチコを抱いて立ち上がった。
集会用も兼ねる山仕事の村の食事小屋には里の要職が集まって居た。
「ミクマリ様。私、恐い。今までにない程に、恐ろしい嵐がやってくる。この速度だと、明日の朝には、来る」
予見する風術師は震えている。
嵐は四季の約束事の一つだ。この山は雨風には強く、多少の嵐で山肌や川が牙を向く事もない。
また、各地を放浪し、この里に根付いたシラサギも、それを知らぬ筈はない。
「言うて、こんなに晴れとるんじゃがなあ……。山の天辺から見ても、向こうまでずーっと青空じゃったが。野分にもまだ早いが」
サルノテが首を捻る。
「また、盛ってるだけじゃないんですか?」
ヒツチが疑って掛かる。
「違う、気配が変なの。只の雨じゃなくって、山神様の気配に少し似てる。ミクマリ様も、この前におっさんが挑戦しに来た時に似た気配を出してた……」
シラサギの震えが一層酷くなる。
「それって、神気って事ですか?」
ヒツチは態度を変えてシラサギの手を取った。
「うん、絶対そう。私、この付近に雨を降らせてくれる雨神様の気配は、何となく分かるんだけど。遠くから酷く荒ぶった神様っぽい気が、こっちに向かって来るのよ……」
「ミクマリ様、皆を避難させましょう」
ヒツチはシラサギを抱き、言った。
ミクマリは空へ昇り、遠方の気配を探った。
「嘘……」
何の神かは分からなかったが、遥か南方にいつぞやの火雷神の一端に迫る気配を掴み取った。
あれだけの力を持った神が、何らかの理由で“意図的な嵐”を起こしながらこちらへ接近、或いは通過する気でいる様であった。
幸い、気配としては雨風が主流の様で、破壊と炎を齎す雷術は発見出来なかった。
先ずは二つの村の全ての住民を、一番大きな建物、山仕事の村の食事部屋へと集めた。農村の方は山側の斜面が急な為、嵐が過ぎてもアズサとヒツチが検め終わるまでは立ち入り禁止となった。
農民達は自身の仕事場を酷く心配したが、割り切りの良い巫女頭が「どもならん、また皆で頑張ろなー」と軽く言うと、あっさりとそれに流された。
「最近、交易やなんや気にして忙しかったからなあ」
「ほんま、鉄の鍬欲しい為に畑仕事に精出しとったんやけど、寝る間も惜しんでやって、マヌケちゃうかと思うとったんですわ」
「あったらあるだけ欲しくなるさかい。おまんま食えてるだけでも感謝せなあかんで!」
「交易も、悪迄余分の品でやってますからね。便利の為に不便をしても仕方ありませんよ」
「爺も、生きてたらそう言ったろうな」
「あのあの! 次に畠をやり直す時、私の開発した肥料を験してみて良いですか?」
「え!? 二度も畠がのうなったら立ち直れんわー。ぐわー、また仕事やでー!」
「酷い! 今度はアズサ様と一緒に作ったちゃんとしたものなんですからね!」
起こる笑い声。
ミクマリは里の者の会話を聞き静かに微笑む。
――覡國は皆の安らぎの地だ。絶対に護らなくては。
「幸い、今は全員が里に戻っているし、ここは平気だろうけど……。僕は近所が心配だ」
交易の担い手であるメツケが言った。
「そうですね。私が警告を出して来ます」
ミクマリは里を飛び出し、近隣の知っている限りの集落へと嵐の警告を告げた。
この地域一帯、彼女の言を信じぬ者は居ない。空はまだ、晴れ間を覗かせてはいたが、忠告を受けた村は挙って出来る限りの対策を立て始めた。
そして明朝。愈々、嵐が始まった。
だが、小屋の中を賑わせているのは人々のお喋りだけだ。
「本当に、嵐が来とるんですかね?」
食事小屋の中、誰かが疑問を呈する。
「ここはなー。うちの結界と姉様の結界が二重になっとるから、サイロウがぎょーさん来てもこわけへんのやなー。またいやにー」
からからと笑うアズサ。
「あんな奴が何人もいて堪るか!」
誰かの突っ込みに小屋の中が湧く。
「退屈やしなー、皆でおはなしせーへん? うち、めっさ恐いの知っとるんやにー」
アズサが悪い顔をする。
「私も! 私も、おはなしは超得意だよ!」
シラサギが手を上げた。
「あんさんのは、嘘っぱちってのが分かっとるからなあ」
「だったら、安心して聴けるでしょ?」
負げないシラサギ。
食事小屋は大きく作ってある。だが、里の民を全員集めるとその熱気で咽返りそうだ。ミクマリは水術で湿気を偸んで過ごし易くしてやると、次々と手持ちの小噺を披露する仲間達を置いて、独り外へ出た。
結界の外では恐るべき狂飆と、神の荒魂に相応しき沛雨。
森の端や風当たりの強い斜面の若木は圧し折れ、根の弱い気はその身を宙に躍らせている。
――思った以上に酷い。ここまでの嵐は、生まれて初めてだわ。
ミクマリが結界の外へ出ると、風を受けた衣が酷くはためき、娘の軽い身体ごと空へと持ち去ろうとした。
「信じられない! 何て風なの!?」
思わず声に出すも、それは直ぐに運び去られる。
今は日中。嵐の中でも何とか辺りの様子が分かる。村を見渡すと、幾つかの小屋が既に更地へと変じていた。
水を以て護り包むは探求ノ霊性。自身の張った結界に打ち付ける雨を吸収させ、その範囲を徐々に広げてゆく。
只の水分であれば、守護神程の力では無いにしろ、一瞬でこの里を包む結界を張ることが出来る。
だが、この神気はこれまでに逢った、どの水を司る神よりも強いもので、ミクマリの力を以てしても剋するのは骨が折れた。
――抜かったわ。ここまでだなんて。何とか、里だけでも護れればいいのだけれど。
ミクマリは跪き、祈る様にして霊性を集中させた。
水の膜は里を覆い尽くし、里を護る山の一部もその中へと抱き込んだ。
彼女は大仰な護りを展開するのは避ける気でいた。人の命こそは護っているが、立ち直る力を養わねば、嵐に関する知識を身に着けねば、里の将来が危ういと考えたからだ。
『ミクマリ、お願い! もっと結界を広げて! 鳥達が皆飛ばされてしまう。獣達が凍えてしまう! 森が! 川が!』
耳に届く霊声。声の方を見れば女鹿。悲痛な山神の助けの求め。
ミクマリは更に霊性を集中し、霊気を練り上げ、神気をも引き出し、結界を広げる。
――このまま広げれば隣村にも届く。彼等を放って置く訳にはいかないわ。もっと、もっと……。
結界を広げる度に感じられる、生きとし生ける者達の不安と恐怖。
その心をも集めて、更に佑わいの力を拡大していく。
誰を生かして、誰を殺すか。魂まで滅してやった無垢なる咎人の笑い声が頭に響いた。
誰を護って、誰を見捨てるか。結界を広げる度に、益々と増える嵐の被害者達の命乞い。
自身から離れれば離れる程、術力を行使するのは難しくなる。結界に触れるものが増えれば増える程、彼等の心が分かり揺さぶられる。
木が圧し折れる時には精霊の悲鳴も聞こえた。山を震わす轟音が多くの霊気を呑み込むのも感じた。
逃げ延びたものもいれば、死したものもいる。これから死にゆくものまでも手に取るように分かる。
嵐の規模は予想以上に大きく、一部、恐らくこれは夏の嵐特有の空白の晴れの領域……がある以外は、何処も彼処も命の抵抗が繰り広げられていた。
「……」
安全地帯へ辿り着けなかった生き物達の無念が結界を叩いた。
「……ごめんなさい……」
これ以上広げれば霊気の操作も届かず、雨風を凌ぐだけの力を維持するのも怪しい。
この範囲の力を行使しながら新たな力を取り入れるのも困難だ。
――切り捨てるんだ。欲張って全てを無駄にしてはいけない。
ミクマリがもう一度心の中で謝罪し、加護を狭める苦渋の決断をした時、結界を誰かに支えられる様な感覚を受けた。
「……!」
見上げる……が誰も居ない。良く感じると、結界が軽くなったのは海に触れた部分であった。
「ありがとうございます」
少しの落胆の色を浮かべながら、遠方の国津神へ礼を述べる。
それに端を発して、あちらこちらで小さな支えを感じた。
――少しの辛抱だ。半日もすれば嵐は過ぎ去るはず。
静かな嵐の中で、佑わいの輩と共に災厄に抗し続ける。
『――――』
ふと、天から霊声が響いた。恐らくは嵐の主。声色からして女か。
だが、その女神の言葉は、自身の知るものとは似ても似つかなかった。
――異国の神様だ。遠い処からここへ何しに来たっていうの?
「……御願いします! 嵐を収めて下さい! これ以上激しく為されると、この地は立ち直れなくなってしまいます!」
巫女が空へと懇願する。
『――、――――――!! ――!!』
激しく返される霊声。だがそれは怒りではなく、混乱と哀しみで満たされていた。
――彼女も助けを求めてるの? でも、どうしよう。何を言っているのか分からない。
気配を探るが、神気が夜黒ノ気に冒されている様子はない。何かの呪術の気配も探ってみたが、分からない。そもそも、これだけの神を冒し呪えるだけの力為らば、既に気付いている筈だ。
『――!! ――!!』
繰り返される異国の言葉。
話し掛けたのが災いしたか、乱雲は移動を止めてしまった。続く狂飆。降りやまぬ瀑布の雨。
「御願いします! 何処かへ行って下さい! 私では貴女を助けて差し上げられません!」
叫ぶミクマリ。神の求めは続く。
ミクマリは耐えた。唯、祈り願う他に無かった。
どれだけ霊気を磨こうとも、どれだけ慈愛を唱えようとも、その力が足らわぬのは事実。幾ら理屈で自身を鎧おうとも、彼女の“ほんとう”は“感じるまま”。
全てを破壊し押し流さんとする雨風よりも、救いを求める声の方が強く響く。
異国の神は次第に同じ言葉ばかりを繰り返す様になった。それは、“助けて”か“ごめんなさい”か。どちらか知れなかったが、酷く哀しい雨と風を呼び続けた。
――私達を助けて下さい。護って下さい。
ミクマリの祈りは一晩中続いた。
次第に異国の霊声は弱り細ってゆき、それに従い暴風雨も大人しくなっていった。
結局、異国の神は立ち去る事もなく、哀しい声色を変える事もなく、その気配を自ずから霧散させてしまった。
「神去られてしまった……。どうして……」
東から、何事もなかったかのように朝陽が昇り始めた。
森からは数多の視線。女鹿を始め、小鳥や狐狸、熊や狼も並んでこちらを見ているのが分かった。
ミクマリは最後の力を振り絞り、集め過ぎた結界の水を海に委ねると倒れ伏した。
******
集真藍……紫陽花の呼び名の一つ。
わいた……台風。
野分……秋の実りの頃に来る嵐や強風。
狂飆……荒れ狂った大風。暴風。