巫行143 罪悪
里の知恵者が埋葬された直後の事であった。
日常の暮らしに戻った人々に、またも不幸が起こった。それも一つでは無く、災厄を大地に踵を接する事となった。
後から里へ加わった者の一人が、春の芽や花を求めて険しい斜面へ踏み入り、滑落してしまったのだ。
彼はそのまま急勾配を転がり落ち、手足を捻り、突き出た石に身を打ち、待ち構える岩で頭を割った。
同じく山へ仕事へ分け入っていた兄貴分の青年がそれを発見した時、彼はまだ暖かかった。
取り急ぎ村へ運び、巫女達に声が掛けられ、頭や長が呼ばれる事となったが、里長への声掛けの時は、もう急がれてはいなかった。
早々にして二人目を迎え入れる墓地。誰も予期せず、また心にそれを受け入れる次の仕度が出来ていなかった為に、老翁と比べて随分と味気無い葬儀となった。
落ちるまでに死を覚悟したのだろう。魂も迷う事は無かった様で、彼は本当に只の肉塊であった。
里の空気を黄泉のつつ闇が漂う様になり、人々は粛々と仕事に耽った。
そんな矢先に、里へ望まれざる来訪者が現れる。
「ここの里長はかの有名な水分の巫女で、あのサイロウを斃したのだと云うのは、誠か?」
男は問うた。彼は筋骨隆々、巫覡らしき装束の腰に銅剣を携えた戦士であった。
その薄ら笑いから醸し出される霊気に、ヒツチとシラサギは震えあがり、二人の前へ小さな巫女頭が立ち塞がった。
「その様子では、お前達はミクマリとやらでは無いな。俺は霊気と武芸の力を磨く者“タメシ”だ。北は山越え雪に鎖され肌を同じくする者、南は海渡り浅黒き色の者まで、名だたる巫覡や戦士と腕試しを行って来た。この交易の境の大地には悪名馳せる豺狼の王が居り、その者は最強の術戦士だと聞いて足を踏み入れたのだが、遅かった様だ。そのサイロウを剋したという巫女に是非、手合わせを申し入れたい」
「お引き取り願えませんか? 私は力比べや破壊には興味がありません。屋根や器の提供や、旅の話相手でしたら歓迎いたしますが」
男の背後からミクマリが言う。可也の手練れの霊気であった為、里を隠す山を越えても気配が分かった。夜黒や邪気が主体では無かった為に、敢えて拒絶はしていなかったが、里の気配が悪くなった為に出向いた。どうやら、面倒な手合いが好む噂も覡國中に流れているらしい。
「俺も、破壊には興味がない。戦いの末に村に損壊が起きたり、験しの相手を寿ぐ羽目になる事はあるが。蓋しそれは運命である。豺狼の王は、ここより遠く離れた地にも伝説が残る男だ。俺は心の何処かで奴を恐れていた。いつか奴を超えようと、この地を避けて修行に明け暮れてきた。故に、王が他の者との果し合いの末に散るのは満足がゆかぬ。これは、俺のたましいの問題なのだ」
引き下がる気はないらしい。
「……分かりました。受けましょう。たましいの迷いを導くのもまた、巫覡の務め。ですが、この地で武力の行使をする事は認められません」
静かに霊気を練りミクマリは言った。
「昂る。その霊気。噂には違わぬ様だな」
玉響、男の姿が消える。
ミクマリは二指のみを用いて斬撃を止めた。
「ここでは闘わないと申し上げた筈ですが」
赤銅熱し、煌めかすは探求ノ霊性。
受け止めた銅剣が超高温に変じ受け止めた指を焼く。銅の熱された臭いが漂うものの、癒しの速度がそれを上回る。
「俺の剣を止めるとは。……サイロウは科戸ノ風にも長けたと云う」
風起こし操るは探求ノ霊性。村を烈風が駆け巡り、村民達が悲鳴を上げた。屋根が剥がれ、土器焼き小屋の煙突が苦し気な音を立てた。
「酷い、皆で作ったのに」
眉を顰める里長。里の風使いも非難の声を上げた。
しかし風は直ぐに止み、挑戦者が蹲った。
「貴様、何をした……」
呻く男。彼は冷や汗を浮かべ両腕を垂らしている。
「手足の肉を内部で断ち切りました。サイロウへ挑むだけの水術の心得があるのならば、その程度は怪我の内には入らないでしょう。これ以上里の物を壊させる気も、大地を血で穢す心算もありません」
「手心を加えて勝てる相手と侮るな!」
早くも癒し終えたか、再び銅剣が霊気の風と共に空を切った。閃く白き大袖が腕を打ち、肉と得物に宿った霊気を全て吹き飛ばす。
続いて開くは茜の花。兎革の沓が男の脇腹を捉え地に叩き伏せる。沸き起こる歓声。
「無意味です。戦いは手段です。貴方のたましいの磨きに戦いを用いるには、私やこの地は相応しくありません。己を磨くのならば他の手段を探しなさい」
水分の巫女は構えを解き、言った。
「これは使うまいと思っていたが」
男は飛ぶ様に立ち上がると懐から水筒を取り出した。
傍目には何も起こらない。タメシの名を名乗る身体の霊気だけが高まり、彼の額に汗が流れる。
「なんや? 喉が渇いたんかいな?」
群衆の一人が言った。
「憑ルベノ水は使わせません」
ミクマリが言った。水分の巫女の前ではサイロウも水神も水の制御を奪われる。
「水の弾丸が村の者に当たるのを忌避したか。しかしそれでは、お前も術が行使出来まい」
水筒を掲げたまま、落ちた銅剣に手を伸ばすタメシ。
水筒から水が抜け出て縄に変じ、持ち主を縛る。
「糞。水で負けるならば火だ」
縛られた男の付近で霊気が揺れ空気が乾き始める。
しかし、燃ゆず。代わりに訪れるのは雨の気配。
「うっそ。私の卜いが外れちゃった!?」
声を上げたのはシラサギ。
「雷雨になるでしょう」
ミクマリが天を指差すと、黒雲の間を光の竜が走った。
「人の霊気でこれ程まで? いやあれは神気。偶然、雨神が来たか?」
天を睨むタメシ。
「天の怒りと貴方を繋ぐ事も出来ます。貴方に降り注ぐ雨だけを選んで水の弾丸へと成す事も出来ます。サイロウは数多の雷に耐え、無数の水弾の中を駆け抜けて私に刀を届かせました。貴方にそれが出来ますか?」
「……ま、待て。これだけの力があるならば、ここでやっては村が危ない。俺も本気を出したい、だから……」
タメシは何か提案しようとした様だが、水の膜に包まれてその声は遮られた。
「これ以上、何を験すって言うの」
水球の中で男が藻掻く様が見えたが、音も聞こえなければ霊気も感じられない。霊感に触れるのはミクマリの水の気配のみ。
「棄てて来るね。直ぐに雨も収めるから」
ミクマリはアズサに言った。
「こんな奴、姉様の術で頭みじゃいたったら良かったのになー」
水球に封印された男を覗き込むアズサ。
「そんな事を言ってはいけません。力比べの事で頭が変になってるだけで、悪人ではないのだから」
ミクマリは空へ飛び上がり、タメシを封印した水球を引き連れて暫く空を駆けた。自身も良く知らない地に辿り着くと彼を降ろし、水の封印を解いてやる。
「怪我はありませんか? 貴方の術師としての腕前は大したものです。力の使い方を見直して下さい。貴方のたましいの迷いを導くのは戦いではなく、人との暖かな交流でしょう」
水球の中でたっぷりと抵抗を験したのか、解放された男は汗に塗れ、手足を広げて空を見ている。
「……水分の巫女殿の優しき忠告、受け入れた。我が名の通り、それを“験し”てみるとする。次に逢う時は無様な姿を目に入れるのではなく、良き噂を耳に入れられる様、努める」
「愉しみにしてます」
ミクマリは微笑み掛け、男の元を去った。
挑戦者を容易く改心させたものの、里へ戻るミクマリには大きな不安があった。
タメシの術の腕前は……まあ、水術を持つ事を加味すれば、ホタルを超える程度ではあったであろう。だが、自身の臆病さを認めている節があった為、戦い自体は彼女の狙い通りに運んだ。
戦いに愉しみを見出す手合いを納得させる為には、圧倒的な力を見せ付けなければならない。だがそれは、里の者の前では行いたくなかった。
里へ帰ると、悪い予感は的中していた。
天気を曲げられた風術使いは、風で飛ばされた屋根の片付けを手伝いながら昏い表情をしている。
他の巫女は姉の過去の武勇伝を並べ立てたり、浮足立って火術を見せびらかしたりしている。
術を持たぬ人々の中にも、冗談で組手を始める者が現れてしまっていた。
自分達の長が不安の種を取り除き、伝説に違わぬ力を見せたのが嬉しいのは仕方の無い事だ。
だが、ミクマリにはその称賛と同化が、争いの肯定を生んだ様に見えた。
叱るか諭すかすべきかと相当に頭を悩ませたが、里を取り巻いていた不幸の鬱屈した気配が消えた事と引き換えに、今回は見逃しておく事にした。
しかし、それは里長の願いとは裏腹に、一過性の流行で収まらなかった。
結局は自ら巫女や兄貴分の者達を集めて、止めさせねば為らなくなった。他者の心の在り様を、権力と裏打ちされた実力にて押さえつけ、護りにも有効な手段となりうるはずの力への憧れを戒める行為。
無論、里の民は従った。巫女達には自身の願いも分かって貰えただろう。
だが、致し方ないとはいえ、この結末はミクマリにとっては酷く哀しく、理想から掛け離れたものであった。
腕前を聞き付けて現れた災厄、里に争いの種を撒かれる位であったら、挑戦者の願いを受けずに直ぐに捕縛し捨て去るべきであったか。
ミクマリは自身を激しく責めた。
そして、胸を患ったかの様な苦しみに苛まれている最中に、更に大きな禍事が里を襲った。
初回の募集にて参加したものの内の一人、親が咎人である事を理由に村を追われた青年。
彼が山仕事から帰らないと里長へ報告があった。
目立った邪気や霊気は見当たらない。また事故だろうか。兎も角、男手を集め山狩りを行う事とした。
アズサは太鼓を打ち鳴らし、声で呼び掛けて返事を探し、ミクマリは山神を見つけて異変の有無を訊ねた。どちらも成果は無し。
何かを苦に里から抜けたのだろう、どうして相談してくれなかったんだ。里の者は歯噛みをする。
それから捜索を打ち切り引き返す段になった夕暮れに、彼の変わり果てた姿が発見された。
「何かで斬り付けられて、衣が奪われている。これは事故じゃねえ。まして、獣の仕業でもねえ」
無念の亡骸を前に怒りの炎を燃やす兄貴分。
彼から飛び火し、身内を殺された里の者の間に怒りが燻ぶり始める。
「誰がやったんじゃ!」
きっと、彼は誰かへ向けて言った訳では無かったであろう。だがその言葉は、大禍の暮と共に里の者達同士に疑心を掻き立てた。
人々は口には出さなかったが、疑いの応酬を向け合った。見えず聞こえぬ争いであったが、ミクマリにはこれがどういう事か良く分かった。
「姉様、どないしよう……」
不安に袖を引っ張る童女もまた、呪術に通じ、声の色を聞き分ける使い手だ。
ミクマリは里の者に外へ出ないように言い付けると独り、下手人の捜索に乗り出した。
悪人為らば、闇夜に乗じて移動するかもしれない。大人しくしていれば気配も殺せようが、動けば自ずと探知に掛かる筈だ。
ミクマリは罵らなければ為らなかった。自身の里の近くに殺人者が居る事を願う自分を。
ミクマリは失望しなければ為らなかった。一つの命が失われた事よりも、後に繋がる災厄の芽を摘む為に心を砕く自分に。
程無くして、下手人は捕らえられた。
大した腕前がある訳でも、危険な霊気や夜黒ノ気を纏う訳でもない男。
身なり悪く、血に錆びた鉄の剣を持ち、左右で違う作りの沓を履き、その貌は無感情であるのに歪んでいる様に見えた。
一つだけ褒むべき処を挙げるとするならば、彼とミクマリには面識がないという点だ。
「里の者を殺めた疑いで、盟神探湯に掛けます」
男は返事をしない代わりに剣を振りかざした。ミクマリは辺りの草蔓の水気を操り容赦なく人殺しを絡め捕らえた。
分かり易さも彼の美点であろうか。彼は裁判に掛けられる前に全てを白状し、豊かな里の近くで野盗として身を立てる企みでここへ来たのだと言い嗤った。
――断を下さなければ。
里の者の間を、下手人を罵倒する言葉が飛び交い、憎しみの邪気が渦巻いている。先の決闘の流れもあり、私がやると火術を燻ぶらせる者あり、俺がやると仕事道具を振りかざす者もあり。
手足を切り落とせ。目を焼け。生きたまま皮を剥げ。
まほろばの民から際限なく溢れる残酷なる提案。
刑吏を務めるのは巫行の内。
罪悪への刑罰を定めるのは里長の務め。
上手く説明する事は出来ないが、この男の性根が腐っているのは生まれつきであろう。公正を果たした小悪党達とは何処か違って思える。しらばっくれながら剣を振りかざし、いざ捕まっても自身の仕事の自慢を出来る根性。
かと思えば一度認めた罪を否認し始め、罵詈雑言を撒き、縛られた身を捩っている。その間、この男の霊気に乱れが一切なかったのだ。これが男の在るがままだ。
恐らく、落ち着いて何処かへ身を寄せた想い出も無い輩であろう。追放の辛さを理解する里の民に提案しても恐らくは虚しい。
「は、は、は、は! 死に様は面白かったぞ! 腰を抜かして、ひえーっ! ミクマリ様助けてーっ! って小便漏らしおってなあ。ここに来て正解だったぞ!」
男が死者を侮辱する。邪気も無しに一連の所業を行える人間。邪気に駆られ今にも飛び掛からんばかりの慈愛の徒達。
――為らば、断罪の答えは唯一つ。
「皆さん」
声を上げる。里長へと注目が集まる。
「人が死ぬという事、殺されるという事。そして、人を殺すという事を識って下さい。どうして私が、この里を優しいものにしたいと願っているか。私が復讐を果たす為の旅で磨いた力、その力の振るい方一つで何が起こるか。目を逸らさずに、確りと見ていて下さい」
辺りの怒りを手繰り寄せ、この男の生まれ持った気質への哀しみ、己の至らなさ、そして良くある様にと藻掻けば藻掻く程に絡まる運命の無情さを混ぜ合わせる。
里の者達は言葉を失った。
提髪解き放たれ、瞳には断罪の場を照らす篝火よりも激しく燃える金色を宿し、額には二本の夜黒き証。
「鬼……」
誰かが言った。鬼は静かに頷いた。
それから鬼の娘の掌が罪人の頭に乗せられ、躊躇いもなく閉じられた。熟れ過ぎた柿が地に落ちる様に終わる男の命。
何の運命の悪戯か、抜け出る魂は全く清いもので、大地へと招かれない。
「貴方には還る場所はありません」
集めた邪気を全て下手人の魂に肩代わりをさせ、鬼の身体からさかしまの力を顕現する。祓われ滅される魂。
――私は里の為なら何度でも、この力に、頼る。
「他の誰にも、こんな風には為って欲しくないの。だから、お願い」
願いを残し、衣を翻しその場を去る。何度使っても馴染まぬこの力。此度の変異は長く続くであろう。
「姉様。後はうちが計らっておきます」
妹の申し出に頷きだけを返し、哀しい鬼は眠りに就いた。
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