巫行141 泯滅
泯ぼせ。泯滅せよ。皆殺しだ。鏖殺せよ。
和み和むを尊しとなすを標掲げる里の長、水分の巫女は、その心に明確な“殺意”を抱いていた。
里の曲者達の性根も落ち着き、新たな命や巫女を迎え、少年は芸術に心血を注ぐ。
そんな理想郷への第一歩を踏み出した矢先、里は思い掛けない危機を迎える事となった。
募集にすれ違った住人を迎える序に、妹を交易と気晴らしの旅へ送り出して早、数日。
姉妹の家へと三本足の黒い烏が訪ねて来た。
御使い様の御子。御子は御使いに使える者、御先としての才覚のある者のみが使役出来ると云う。
烏は恐らく、ミサキから何かの伝言を持って来たのであろう、ミクマリが自宅に戻った際に、アズサの部屋の前の柵で羽を休めている処を発見された。
アズサでなければ御子の言葉は理解が出来ない。彼女は旅で不在。それでも烏は諦めずに、ずっと部屋の前で待ち続けていた。
――一体、何の用件なのかしら。
霧の里まで空を駆けるか、それか、アズサの下へ出向くか。
ミクマリは久しく、不安に胸が圧し潰されそうになった。それも霊感を震わす不安である。
ここの処のミクマリは、自身の将来の像というものが気になり、器に入れた水を覗く水鏡卜いを頻繁に験している。だが、水面は何も映さないでいた。
霧の里の者以外には烏は凶兆の象徴となる。憂いが増し、過分に霊気を込めた水面を覗くミクマリ。しかし、水の揺らめきは自身の姿を水沫に掻き消すばかり。
滔々、出掛ける決意をした。烏は待ちぼうけ。若しや、アズサの身に何かあったのかも知れない。
ふと、妹の巫女名の由来である梓弓を忘れずに持って旅に出たかどうかが気に掛かった。
一度、不安が膨れ上がれば、些末な事でも大事に思えてしまう。弓を部屋に置き去りにしたせいで、彼女や仲間達の命が脅かされてなければ良いが。
そしてミクマリは、アズサの部屋へと踏み入った。
――結界!?
足を踏み入れると、強い結界の境界を感じた。小動物なら邪気が無くとも物理的に侵入が拒まれる程の強い力。
しかしそれは、ミクマリが触れた事に依り破られてしまった。
「何の為にこんな大仰な……はっ!?」
ミクマリは気付いた。アズサの部屋には、恐ろしいものが封印されていたのだ。
遮光用の窓も封じられており、部屋は暗闇。しかし、そこに確かに感じられる蠢く気配。
そして、破れた結界から無数に溢れ出す恐怖と混乱。名うての術師であるミクマリは恐れ慄き、己の無力を嘆く事となった。
憎むべき敵達は瞬く間に里中に散り、小屋小屋から絶叫と、命の取り合いを創り出した。
「アズサ、一体何故、あんなものを封じていたの……」
唇を噛むミクマリ。封印の地に隣接する自身の住まいも、禍に呑まれてしまった。
その中にはアズサに着せてやろうと、ずっと大切に織っていた衣が残されたままであった。
「どうして、私も気付かなかったのかしら……」
ミクマリは他者の領域を無断で侵す無礼を厭う。住まいの出来上がった当初は個人の部屋を喜んで別に暮らしていた彼女であったが、その内に矢張り寂しくなってアズサを招く様になった。アズサもその方が良いのか、次第に入り浸る様になり、アズサの部屋は未使用となっていた。そして、里長の与り知らぬその領域で災厄の種が芽吹き、着実に恐怖の枝を伸ばしていたのだ。
「兎に角、奴等を赦しておけない。殺さなきゃ。皆の仇を討たなきゃ!」
高まる霊気、憎しみの夜黒と雑駁した気配が、嘗て最強の術師を討った力を沸々と甦らせる。
「ミクマリ様ーっ! こっちにも出ましたーっ!」
霊気の籠った風に乗って山側の村から悲鳴が届く。そちらを見れば煙だ。
ミクマリは竹の棒を手に取り走り出す。
煙の元は土器焼きの竈だ。その前では風術に依り火勢を調整していたシラサギが居る。彼女の眼にも憎しみの炎。そして手にはミクマリと同じ得物。戦いは既に始まっている。
「この野郎!」
竹の棒が打ち付けられ、軽快な音が響く。
「糞っ! 何て素早い奴!」
もう一撃。今度も空振り、流行遅れの縄模様の壺を砕いてしまう。
「酷い! 私の壺が! ……ミクマリ様、そっちに行きました!」
「おりゃっ!」
ミクマリが水術に依り加速した一撃で敵を葬る。
「良し、仕留めた!」
殺害を喜ぶ慈愛の巫女。
そこへ里長を呼ぶ声が届く。
「ミクマリ様、拙いぜ。あっちの村でまた出ちまった! 今度は数が多過ぎて、ヒツチ様がやられちまった!」
助けを求めて駆けて来たのはモチコの兄役の少年、カケルだ。
ミクマリが急いで農村に駆け付けると、食事小屋にて倒れ伏すヒツチの姿。
「頑張って材料から作ったのに。土術も上手くなったのに、火の扱いだって……」
悔しそうな貌。
そして、その彼女の顔の上を“件の敵”が這いまわった。
「ぎゃーっ! 気持ち悪い! アズサ様、早く帰って来て下さーいっ!!」
暴れ苦しむヒツチ。
「この野郎! ヒツチ様の仇だ!」
少年は辺りを縦横無尽に這い回る蟲を踏み潰す。
それからヒツチの取り落とした竹の棒を拾い、足と棒に依る二段構えの攻撃に入った。
「このっ! このっ!」
「ぎゃーっ! 潰れた破片が顔に!」
ヒツチがまたも悲鳴を上げた。
「きゃっ、入って来た!」
ミクマリの袴の中に潜り込んでくる“例の奴”。脹脛を伝い、腿を擽るは六本脚の感触。
「いやあん!」
艶美な声を上げて座り込むミクマリ。
その勢いで脂ぎった“それ”が潰れ、中身が内腿にぬるりとしたのが分かった。
「ミ、ミクマリ母さん、死んじゃいやーっ!」
悲鳴を上げるモチコ。
「……もう、あかん」
ミクマリは余所のお邦訛りを発し、気を失った。
斯うしてミクマリの里は、“茶色くて、ぎとぎとに照かっていて、かさかさと這う邪悪な虫達”に占領されてしまった。
里を取り戻す為に、里に残っていた者を掻き集めて緊急会議が開かれた。
大量発生した虫の駆除の為に、老若男女が頭を突き合わせ意見を交わす。
「白状すると、私、蟲がすっごく苦手で……」
最初に被害に遭ったのは第一発見者であるミクマリ。彼女は里切っての蟲嫌いだ。封印が破られて最初に“あれ”が流入したのは当然、隣である彼女の部屋だ。
「里全部に毒を撒いたらどうですか? 皆殺しにしましょう!」
「他の生き物や後の影響が恐いでしょ」
「じゃあ、焼き払いましょう。そっか、こういう時の為に霊気を磨くんですね……!」
巫女達も必要以上に怯える里長を初めの内は嗤っていた。だが、焼く前の土器にへばり着かれたり、術の訓練を発端に精を出した創作料理に頭を突っ込まれてしまい、怒り心頭。
特にヒツチの方は虫食の処女であったにも拘らず、うっかり自分の手料理を味見した際に汁の中を泳ぐのをそのままいってしまい、生きた虫に胃を犯され、里長よりも酷い心的外傷を負ったのである。
「うちらも食い飽きましたわ」
「毒抜きせんと腹痛起こすから、食べるのも追っつかへんしなあ」
「もぐもぐ……」
こちらは虫食の習いがある地の出身の家族。始めの内は頼もしい活躍を見せていたのだが、今はげっぷを繰り返すばかりだ。
因みに、“あの虫”は雑食で悪食な為、腹の中に様々な穢れを溜め込む。食す時には数日間の絶食をさせて、確りと火を通して調理せねばならない。味は海の幸、海老に近しく美味だという。
「爺、何か良い知恵ないか」
「儂等の処も虫には悩まされとったからのう。でかい分、米喰い虫よりはましじゃが、翅持ちじゃから倉を高床にしても入って来よるしのう……」
農耕の盛んな村では、常に虫達と戦争をしている。獣や鳥は比較的対策も楽で、馴れれば寧ろ食事の器を潤すが、小さな虫はそうはいかないのだ。戦いに負け、鍬を投げ棄て虫を齧る暮らしに移る村も多いと云う。
「兎も角、連中は月の満ち欠けとちょっとでまた増えますさかい、今の内に蹴りを着けなあかんのですわ」
「それじゃあ、矢張り、虱潰しに行くしかないのですね……」
落胆するミクマリ。あの数が次の繁殖を行えば最早手に負えまい。次の交易では虫の加工食を名物として出荷する羽目になる。
――私がやるしかないわ。
蟲嫌いの娘が立ち上がる。
「皆さんは一度、村から退去して下さい。それと、低木の枝を使って箒を拵えておいて下さい」
それからミクマリは強い毒を煎じた。知識として持ってはいたが、使う機会の無かった調合だ。薬効に自信は無かったが、毒の扱いに長けるアズサが居ない以上、自分が何とかするしかない。
「私が毒の霧で殺虫しますから、後でシラサギさんの風術で残った毒を散らして貰います。虫は食べずに焼いてしまいます。毒は焼くと無害になるものを使用するので、焼いた灰は畠の肥やしにしましょう。毒に触れた道具類は、ヒツチさんに熱湯を沸かして貰って煮沸消毒しましょう。手の空いてる方は総出で食物倉の掃除を。そこは毒が使えませんから」
淡々と指示するミクマリ。今の彼女に必要なのは、慈愛でもなく、鬼の心でもなく、唯、無心になる事だ。
――そうでなければ無理。
毒水霧に変ずるは招命と探求ノ霊性。草木と蛇由来の虫殺しの霧を操作、噴射し、次々と始末してゆく。
器の中、壺の下、屋根の隙間に潜む連中も逃がさない。
霊気の探知も精度を限界まで上げて、蚤すらも取りこぼさぬ程に調べ上げる。これが悪霊相手ならば、ミクマリは“くさめ”一つで里全てを清められるのだが、中々に生きた虫共は手強い。
「……あれ?」
殺虫の済んだ筈の箇所に小さな気配を見つける。それは動いてはいなかったが、確かに命が宿っていた。それも、ひと固まりに数十個が密集している。
卵だ。“例の奴”の卵は頑丈な膜に包まれていると聞く。どうやら毒霧でも滅しきれなかったらしい。同様の反応が村中に散らばっている。
ミクマリの頭の中に、それらが孵化する姿がありありと浮かんだ。
直後、彼女の中に強い邪気が湧いた。それから彼女は、里の者が見ていないのを良い事に、瞳の色を金色に変じ額もむず痒くしながら、黄泉の術を以て卵を殲滅した。
「ふふふ、黄泉の力も使い方次第ね」
妖しく笑う巫女の唇から覗く牙。鬼の巫女が指を差せば、生命の塊が弾け飛ぶ。
……。
「やっと終わった……。巫女に成って最初の大仕事が蟲の駆除なんて。私、百匹は退治したわね」
シラサギは霊気を使い切ってしまった様で、汗だくで座り込んでいる。
「百匹? 私はもっと殺してると思います」
ヒツチが溜め息を吐く。
「ほんとに? 百匹は盛り過ぎかなって思いながら言ったんだけど」
嘘吐き娘が目を丸くする。
「百までは数えてたので間違いありません。でも私、暫く汁物は食べられそうもない……」
胃を摩るヒツチ。
「ミクマリ様よう、駆除出来たんはええが、そもそもどうしてあんなに虫が現れたんじゃ?」
サルノテが首を傾げる。
「それはね……」
アズサの部屋には、餌が潤沢にあったのだ。
アズサは以前からモチコや老翁から軽食を貰い、最近はヒツチから料理の試作品も貰っていた。しかし、食べ切られない分を自身の部屋に放っておいたらしく、その残骸が奴等の餌となったのだ。虫が増えて駆除も面倒に思ったアズサは石術と音術に依る結界を悪用し、その生命の蠢きを覆い隠していたのであろう。
「あの子、分かってて放置したのよ」
ミクマリの額に青筋。
それから数日後、石の社へ出掛けていたアズサ率いる一行が息災に里へ戻って来た。
「いやあ、矢張りミクマリ様の顔を見ると、帰って来たという気がしますね」
交易を担う青年メツケが微笑んだ。
「よう、メツケ。頼んでおいた黒鉄の小刀は手に入ったか?」
「ばっちり。もう少年に使い方を教えておいたよ。彼は行く先々で色んな絵を描いていたよ。処で、君は悪さをしていないかい?」
「良い事しかしてねえよ。それより、ちょっとここから離れといた方がええぞ」
親友同士が挨拶を交わす。
「姉様ー! 石の社より新しい入植者を連れて来たさー! 旅では悪霊と鬼が出たんやにー! それを、うちが片っ端からぼっこぼこにしてなー!」
嬉しそうに手柄を語るアズサ。片手には大きな梓弓。だが何故か、もう片方の手は頬を押さえていた。
「そう、それは偉かったわね」
ミクマリの前には童女の頭が差し出されている。しかし、撫でてやらない。
「姉様、褒めてー。巫女頭の仕事、完璧やにー」
甘え声と共に擦り寄って来るアズサ。
「アズサ。貴女、どうして自分の部屋に結界を張ったの?」
ミクマリが言った。
「あ……こーっと……。そやった、忘れとった。新しく来た人等の挨拶がまだやったなー」
アズサは離れた。
「ねえ、アズサ。どうして頬を押さえているの?」
ミクマリが微笑み、訊ねる。
「虫歯にでもなったのかしら?」
「な、なっとらんさー」
アズサは腫れた頬を押さえて外方を向いた。
「放って置くと他の歯も毒されてしまうわ」
ミクマリはアズサの肩を掴んだ。
「だ、だんないさー。穴に薬詰めとるから。姉様の水術は怪我は治せても虫歯は治せへんからなー」
「そんな事無いわよ。冒された歯はね、抜けば良いの」
霊気の通った拳が小気味の良い音を立てる。
「それとも、削る方が良いかしら」
いつの間にやら浮かぶ水球から一筋の水の糸が走り、転がった石を両断する。
「か、堪忍して……。食べ切られへんのほっといたら、“あまめ”が寄って来て増えてもうてなー。ほるのうっとくてなー。うちはかめへんけど姉様が厭やろからって、封印してなー……」
引き攣ったにこにこ笑いを浮かべるアズサ。
「堪忍しません」
こちらも笑顔だ。
斯うして、里中にアズサの霊気の籠った悲鳴が響き渡ったのであった。
因みに、彼女を訪ねた烏の用事は、ミサキの娘自慢と些細な近況報告だけであったと云う。
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鏖殺……皆殺し。
あまめ……ゴキブリ。彼等の近縁種は恐竜よりも古い歴史を持ちます。人類との関係も人類が文化を持って程無くして始まったと推測されています。
虫歯……古代人も虫歯に悩まされており、目立った死因の一つでした。特に、木の実を粉にして焼いたクッキーや団子は歯に挟まります。古代でも記録に残ってる国では刃物や木の歯ブラシで歯磨きをしたそうです。