巫行014 御印
水子達の些か過酷な運命は、娘の小さな胸を酷く傷付け、疲れは身体を泥の様に眠らせる。
寝床に着いたのが陽を見てからとは言え、ミクマリが次に目を醒ました時には、宵か明けかを見定め兼ねて頭を抱えた。
彼女は村民の食事小屋から好い燻ぶりが上がって居るのを見て時を知り、空の腹を摩りながら明かりの漏れる村の神殿を訪ねた。
「御早う、ミクマリ。もう夕食の時間だよ」
当代の巫女と成った友人が笑った。彼女は膳の仕度をしていた。
「御早う、イズミ。寝過ごしちゃった」
含羞み挨拶を返すミクマリ。
ふと、神殿の中に見知らぬ若い男が居る事に気付き赤面した。
油断をしていた。てっきり友人と老婆位しか詰めて居ないと思ったのだ。
「これね、あたしの婿にした」
イズミは臆面も恥じらいも無く、正座する男を木匙で指し示す。
男は黙って頭を下げた。喧しくも無ければ、嫌な気配も感じない。凡夫と言った処か。
「行き成り当代の巫女になった上に、村長にもなっちゃったからね。結婚しとかないと締まりが悪いし。本当は余所の村から貰って来なきゃいけない決まりなんだけど、この近くにはあそこしかなかったし……」
一瞬、沈んだ顔。だが反転。
「それに此奴さ、童の頃からあたしの事大好きだったし、もう良いやって!」
奥方に依る粗末な扱いに当の男が吹き出し笑った。
「そ、そう。おめでとうございます」
ミクマリは動揺しつつも寿いだ。
彼女の里……と言うか、多くの村々では、結婚とはもう少し意味有り気で儀式的なものだった筈だ。
ミクマリも里で祝いがある度に、数日間掛けて身体を忙しくしていたの記憶している。
図らずも処女の誓いを結んだ娘は、これも巫女の宿命の一つなのかと、友人の慶事に少し寂しさを覚えた。
「ミクマリ、ここで飯を食べて行きな。ほれ、白湯だ。ほれ、粥だ」
手捷く食器を並べる新妻。
木彫りの器には団子や焼き魚、柿の実等が乗せられている。
「イズミよ、お前は村長なのだから雑務は夫の俺に任せれば……」
婿が恐る恐る言う。
「良いからあんたは座ってな。誰も見てない時位は嫁を楽しませろ」
「ミクマリ様が見て居られるんじゃ……」
「あの子は良いの、特別。あたしに男莖が付いてりゃ、婿取りじゃなくて、あっちに嫁入りしたかった位だよ」
過激な発言にミクマリは咽た。
「そうそう、ミクマリ。守護神様が明日の明朝にはここを発ちたいって言ってたよ」
「ええ。私もそうしたいって思っていた処」
「あたしはずっと居てくれても構わないんだけれど。……村長が直々に許可する!」
客よりも早く団栗の団子を頬張りながら言う村長。
「少しでも長く腰を据えると、甘えてしまいそうで」
「甘えてるのはこっちの方かも。昨日は本当に世話に為ったし……」
イズミはそう言うと、口の中の団子を水で飲み下し、咳払いをした。
それから彼女は正座に座り直した。
「村を救って頂き、誠に有難う御座いました。村の代表として感謝を述べさせて頂きます」
手を突き恩人たる巫女に下げられる頭。
「止めてよ、イズミ。そうされると寂しくなるわ」
「だよねえ。こう言う堅苦しいのも覚えて行かないといけないのは面倒だなあ」
顔を上げた新米村長は苦笑いで頭を掻いた。これから補佐の役に就くであろう夫が溜め息を吐く。
「ふふ、頑張ってねイズミ」
「任せなさい」
村長は胸を叩き歯を見せた。
その晩、ミクマリはゲキに許可を取り、泉の巫女達に祖霊信仰について説いた。
嘗ての泉の巫女の代表も興味を示し、弔いも兼ねて過去の有名な村巫女を選び、新たに祀る事と相成った。
泉の巫女の祖先であるの為らば、身持ちの誓約も今と変わらず、男覡の霊や男神とは違って降臨させる器が処女である必要もなく、水子を寿ぐと云う元の役目にも障りはない。
問題があるとすれば、泉の村と山頂の村へ改宗の強要に訪れた“王の御使いの巫女”の件であったが、今度こそは隠し果すと泉の巫女達は誓った。
しかし、別の難問が浮上。
興に乗ったのか、解説が済んだ後も某守護霊の講釈が止まらず、夕方まで眠り続けていた筈の巫女も若い村長も舟を漕ぎ始めた。
二人はその内に脱落。老巫女だけが朝日が昇るまで延々とくだくだしい蘊蓄を聞かされ続けたのであった。
「お世話に為りました。老イズミ様にも宜しくお伝えください」
ミクマリは見送る村長に向かい頭を下げた。
因みに先代の村長は、長い傾聴に身体を困憊し切らせてくたばっていたので、見送りには出て来られなかった。
「こちらこそ。また近くを旅することがあったら、村に寄ってね」
イズミが両手でミクマリの手を取る。
「ええ、勿論。その時は子供の顔も見せてね」
「頑張るよ。処で、貴女本当に大丈夫? 手が随分冷たい様だけれど」
友人は笑顔一転、不安気な表情を浮かべる。
『霊気と血を失い過ぎたのだ。無理をしおってからに。穢れに穢れをぶつけて支配下に置くだけなら、他に楽な手があったのだがな』
「仰ってましたね。どんな手段なのですか?」
ミクマリは守護霊を見上げ首を傾げた。
『言わん。言うとお前は怒鳴る』
「ええ!? 仄めかして置いてそれはあんまりです。怒鳴ったりしないので、後学の為に教えて下さい」
『断る』
ゲキの霊声には僅かな笑いが含まれていた。
「あー……。あたし、分かっちゃったかも」
「何? 教えてイズミ」
「霊気を含んだ上で穢れていて、量が確保し易いもの……それは尿だよ」
イズミが意地悪く笑う。
「ゲキ様!」
『ははは。あの場でお前が泉に向かって湯放り始めたら面白かったのだがな』
「ちっとも面白くありません!」
「やっぱり怒鳴ったね。今後の為に大棗を煎じた薬を常備した方が良いかもね」
『泉の巫女は懸命だな。ミクマリよ、持ち歩く水筒も増やしたらどうだ?』
ゲキは正に魂を震わせ笑った。
「二人とも端無いですよ! 神和の巫女がその様な汚らわしい法に頼っては為りません!」
ミクマリは両袖を振り上げ守護霊と友人を交互に叱った。
「それだけ元気そうなら大丈夫だね、旅の安全を祈ってるよ」
イズミは笑いを止め、芯の通った瞳で見つめる。
「ありがとう。私も、村の繁栄と泉の巫女が無事に務めを果たせる事を祈っているわ」
抱擁し合う巫女。暫くの沈黙。
二人は身を離し、次に見える願いを胸にしまいあった。
漂泊の巫女は泉の農村に背を向け足を踏み出す。
眠っている間にミクマリの所業が知れ渡ったのか、野良仕事に出ている村民達は真摯に頭を下げ、土竜打ちに精を出してる子供達は無邪気に手を振ってくれたのだった。
ミクマリはその一つ一つに丁寧に礼を返し、畠にも感謝を捧げ、高床の家々にも、水子の消えた泉を抱く森へも心の内で別れを言った。
「良い処でした。次の村はどんな処かしら」
田畠の風景が終わり、丘を越え、振り返っても村の気配を感じられなくなった頃、ミクマリは楽し気に口を開いた。
『今回も稀な当たりだっただけだろうに。こう言った運事には反動が付き纏うものだ。次は村人全員がお前を襲いに来る方に賭ける』
「止めて下さい、縁起でもない。でも、断られるのにも慣れて来ました」
ミクマリは渋い顔をして言った。
「皆さんも矢張り自分の村は心配ですし、何処も困り事を抱えているとは限りませんから。いっその事、断られる方が良いのかもしれません」
『楽観的だな。中には事情を話せないという場合もあるだろうに』
「泉の村の様な事情を抱えている処は多いのですか? 黄泉路を見張ってるのかしら」
『黄泉路が其処彼処にあって堪るか。だが、祀っている神が悪いものである事は珍しくない。神を祀る理由には大きく分けて二つある。親しみや尊敬から来る場合と、恐れて宥め賺す場合だ。どちらにせよ、確かに祀れば益があるし、貶めれば先の稲霊の様に害を為すだろう』
「ゲキ様も粗末に扱うと祟りますか?」
『当たり前だ。生きた人間でも反発するだろうが。それに、穢神ノ忌人が仕える神でなくとも、生きた人間そのものが穢れである場合も少なくない』
「蟲と呼ばれる方々ですね」
『そうだ。気質卑しく、他者に害為す質を持つ。そう言った者の多く集まる集落に属する術師の多くは、巫覡と言うよりは妖しき呪術師であったり、巫女を騙る売笑であったりするのが常だ。大抵は大仰な装飾や化粧を施し、頭に日除けでもなく飾りを乗せておる』
「そう言った装飾には意味があるのですか?」
『神を楽しませたり、姿形を神好みに寄せたり、流派を誇示するの用途だ。お前のその借り物の衣装もそうだ』
ミクマリは未だに純白の衣と緋色の袴を身に着けていた。
包み隠さず言えば、社の巫女装束が気に入り手放すのが惜しくなっていたし、イズミも「ミクマリと御揃いなら」と受け入れたのが後押ししていたのであった。
泉の村が圧を掛けた相手の衣装を受け入れるのは護りになるし、ミクマリにしても不名誉な行為を働く気は一切無かったので、社の巫女の装いを借りたままにする事にしたのである。
「化粧もですか? 模様に意味がある様な話を小耳に挟んだ事がありますが」
『御印も術師へは特に何の働きも無い。あれは神霊との約束事で、憑依する御霊が目印にしているだけだ。神も偶にしか降りぬ者だと、代替わりや加齢で区別が付かなくなる事もあるのだ。他流派の者が神を横取りするのを防ぐのが目的だな』
「私も何か化粧をした方が?」
ミクマリは何となく頬を撫ぜる。すべすべだ。
『話を聞いて居なかったのか? これだけ顔を突き合わせておってお前の事が分からなく為る筈がないだろう。それに、化粧は手間である。消えぬ様に墨を入れるなら技師が必要だし、肌に針を刺して描くから痛むぞ?』
「遠慮しておきます……」
――私の方からはゲキ様の顔は分からないのだけれど。
ふと、血筋を同じにする者の顔を想像してみる。意地悪そうな鬼の面が現れた。
『お前は素のままが良い。唯、身を清め、髪を整えていろ』
「はい」
ミクマリは返事をしながら、霊声の機微に密かな幸福を感じた。
『卑しい集落の術者の中には、嘘の占いや他人に害為す蠱毒ノ法等を用いて他者の心身を掌握し、己ばかり富めんとする奢侈なる者も多い』
「そう言った方々は嫌いです」
ミクマリは折角の幸福を地面へ落としながら言った。
所々土の地面が覗く草原。生える低木には、蜘蛛の巣が掛かっているのが見て取れた。
今後、そう言った人種にも出会わなければ為らないのだろうか。
『本人以外に好く者は居らんだろう。だが、連中は巧みに弱みを握り付け込んで来る。知らずに片棒を担がされたり、無理矢理に従わされる者も多い。悲しい事だ』
「ゲキ様がその様な心配りのある発言を為さるなんて。私、ちょっと嬉しいです」
ミクマリは噴き出す様に言った。
『無礼な事を申すな。俺はこの目で見て来た事を語っているに過ぎん。お前の様な行き過ぎた奉仕に走り回るマヌケと一緒にするな』
矢張りのお叱り。調子に乗った娘が首を縮める。
「見たと仰るなら、当時の里にもそういった方が?」
『どんな集団にも言って分からぬ奴が混じるのは決まり事だが、俺の場合は外で見聞きした話だ』
「外へ? ゲキ様も旅を?」
ミクマリは守護霊に好奇の目を向けた。
『若い頃にな。当時の俺は浅墓で、自身の力量を試したくて疼々しておった。今のお前とは多少やり方が違ったが、同じ様に各地を漂泊し、難事を解決して屋根と器を借りて歩いたものだ』
「ゲキ様も……」
頬を緩めるミクマリ。守護霊は巫行や鍛錬に関する蘊蓄ばかりで、自身の事は秘めたままであった。
興が乗っても、守護霊と成ってからの里の思い出話をする程度。
それも彼は儀式の間から外へ出なかった為、話されるのは代々の古き巫覡の様子に留まっていた。
「あの! 宜しければ今後の旅の為にゲキ様の旅の話を御聞かせ願えませんか?」
興奮気味に願う娘。
『構わんぞ。暫くは一面の緑に退屈しそうだしな』
「それと出来れば……妹や父や母がどうして居たか等も」
言葉は尻に向かう程に弱々しくなった。
『ふ、良いぞ。人肌恋しくなっても油断を招かぬとだけ約束してくれれば』
祖先の霊声は優しい色をしていた。
……一方でミクマリは僅かな罪悪感を覚えていた。
亡き者達を思い出し、守護霊へ弱味を見せたのは真実半分、演技半分であった。
彼女の胸には、イズミにゲキの正体を疑われた時以来、魚の小骨の様なものがつっかえ続けていたのだった。
ゲキの思い出話が聞ければ、彼の生前の人と成りが明らかになる。自身の知る巫覡の話が聞ければ、霊魂の正邪の確かさの証明になる。
そう考えての事だった。
それからゲキは旅先の話や、ミクマリの妹巫女が姉に似て“少々マヌケ”だった事等を話して聞かせた。
小噺は数える程であったが、若い娘の胸に宿った道連れへの不審を払うには充分だった様だ。
小骨は麦粥に流される様に胃の腑へと落ちた。
ミクマリは安堵すると、今度は衣の汚れや、身体の臭いが気になり始めた。
その内に、長ったらしく蘊蓄の迷路に入り込み易い師匠の話を右から左に、川の気配を探る事に専念したのである。
そして、陽が傾き始めた頃、身を浸すに足りる川を見つけた。
拓けた平地でも其れなりの水量と清さを保った流れ。
付近には集落も旅人も見当たらない。遠目でこちらの様子を窺う鹿の親子が居るだけだ。
彼女は居ても立っても居られなくなり、講釈を垂れる師匠の話を真っ二つにした挙句に彼を追い払い、禊に臨んだ。
衣を脱ぎ去り、川辺に屈みながら土の汚れを洗い流した。
袴の裾も良く見れば草の汁気で黒ずんでいる。大袖や袴の長い丈は汚れ易く、飛んだり走ったりするにも不向きだ。
今後の扱いにも苦労しそうだと感じた。
それから、産まれたままの姿で提髪を解いた。
颯と広がる黒曜の糸。
娘は、自身の髪が小川の様に流れ、肩甲や臀部の膨らみを擽る感触を愛おしく思った。
水分の巫女はその性質からして、役割は無論の事、清めも修行も術の行使も水と切っては切れぬ関係である。
水垢離は凍て水であろうと流水で行い、身を浸すに足りる流れが無ければ瀑布叩く滝壺を選ばなければなかった。
ミクマリもその自分に与えられた天性に従い、旅の最中でも相応しい場所を見つけると人目を忍んでは衣を脱ぎ捨て、霊気と霊性に磨きを掛けている。
しかし、安心もあってか、今日は守護霊の目を盗んで単純に水を愉しみたい等と考えた。
清めそのものも巫女に必須な行事ではあるが、乙女としても欠かせない娯楽である。
彼女は霊気を遊ばせ、白い柔肌に透明な水を掻き抱いた。
右の指先で左の腕を擦る。先に刃で付けた傷は跡形も無く塞がっている。
これも水分の巫女の特権である憑ルベノ水の為せる業である。
イズミはこの術を羨ましがっていたが、霊性の才覚は流派とは別の処にあり、ミクマリの天性の為せるものであった。
巫覡も何らか僕に所属し、神や自然の力を借りて炎や風を操る事がある。
その場合でも矢張り術者の才覚は影響する様で、心根良くして邪法に長けてたり、水神を祀る巫女が火術に才を持つ等して頭を抱える場合もあるのだそうだ。
――私は巫女として恵まれている。
ミクマリは他所の巫女を見る都度そう感じ、驕らぬ様に気を付けた。
師が良い枷になって居るのだ。自分独りでは何処かで彼女の才覚を悪用せんとするものの手に落ちていたに違いない。
巫女の娘は瞳を閉じたまま、身体の隅から隅まで撫ぜ、穢れを落とす。
指に渫付いた引っ掛かりを見つけ、師に言われた身支度の一つを思い出す。
幼児の様な肌は、始めの内は擽ったく、恥ずかしくもあったが、今や穢れない肌色の丘陵の様子と手触りは好ましく思えた。
余分な毛を削ぎ落そうと、荷物から鉄誂えの小刀を取り出す。
黒色の光と独特の香り。その気配は何処か残酷で淫靡に思えた。
――今後も世話に為るだろう。無為に穢す事無い様、大切に使おう。
そうだ、独り切りに成ってしまってからは前髪も伸ばしたままで鬱陶しくなっていたんだ、後で綺麗に切り揃えて見ようかしら。
妹達と互いに真剣な顔を向け合いながら髪を整え合っていたあの頃が懐かしい……。
視界は自然に下がり、自身の腹に落ちる。
ふと、何やら下腹に赤黒い汚れの様なものを見つけた。
「打ち付けたのかしら」
指先で押して診るが痛みは無い。霊気を込め、調和ノ霊性に依る治療を試みるが、消える様子がない。
不安になり、臍の下に見つけたそれを確かと観察する。
何かの模様に見える。
――誰かの呪い? 他人の霊気は感じない。
――さっきゲキ様が云っていらっしゃった御印ね? ……だとして、一体何の神を降ろす為の?
ミクマリは身震いした。
自身の下腹部に刻まれた小さな印は夜黒の様に酷く禍々しいものに感ぜられた。
――里で崇めていた守護神でさえ、この身に受け入れるのに抵抗を覚えると言うのに、知らない神を受け入れなければ為らないなんて……。
旅立つ前に、自身を神代とする事は師と示し合わせて居た筈だ。
分かっていた。だが、実際にその完成の接近を感じると、自身が自身で無くなる様な、重苦しい不安が胸を支配する。
「ああ……」
巫女は僅かな嗚咽を漏らし、自身の身体に出来た染みの様な物を恨めしく思ったのであった。
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禊……川などで身体の汚れや穢れを落とす行為。