巫行137 相談
里へ戻ったミクマリは早速、里の為に何が出来るかを考えた。
豊かであれば奪い合いは減るが、危機意識が下がる。平和でもある程度の戒めを以て、自ずから災厄を遠ざける心掛けをして貰うのは必須だろう。
今の処、約束や規律らしいものは存在しない。何処の集落でも共通する、人としての常識の程度である。
――誰かが何かに窮していれば、最後まで助け合って欲しいな。
旅にて様々な集落を見て来たが、これが出来ている処はそう多くはなかった。困窮した者にしても、迷惑を掛ける者にしても、明確に決められた線引きではないが、ある程度を過ぎると切り捨てられてしまうのだ。
この里に身を寄せた者の多くは、その線を越えた者。投げ出される哀しみと辛さを身を以て知っている筈だ。これをこの里の約束事としよう。
理想を語るのは容易い。単純に力技で解決するのもミクマリにとっては難しくはない。しかし、甘やかすのは毒だ。
――里長は状況の把握は怠らない前提で、求められるまで手出しはしない。
「出来るかな……」
自身にも桎梏を課すミクマリ。
世話を焼く事が生き甲斐である彼女にとっては、少々むず痒い決断ではあるが、末永くまほろばの里を存続させようと思うのならば、初めが肝心である。
遠い未来の話には為るが、自身が覡國を去ってからもこの地は続いてゆくのだ。
――他の村から、あそこは良い処だと言われる里にしたいな。
嘗ては隠れ里として、里の範囲と一部山の幸を共有する隣村とだけの付き合いであった。しかし、覡國は広く、様々な人々や物が移動し、互いに教え合い発展を続けていた。里に籠っていて無智に取り残されても、いつかはそれが里を脅かすだろう。だが、容易く他所に流されればミクマリの思うまほろばの里とも離れてしまう。
繋がりを切らず、どこに線を引いてゆくかが肝心だ。
因みに、里はもう少し住人が増える予定である。石の社のイワオには一応募集を止める話は流して貰ったが、擦れ違いに為ってしまった人は受け入れる心算である。
この前の様に誕生が起こる事もあるだろうし、何かの切っ掛けでここへ流れて来るものもあるだろう。
それまでにこの里の大まかな方針を決めて、里の者達に慈愛の意識と基本的な約束事だけは根付かせておきたい。
――先ずは足元を固めないと。
ミクマリは自宅を出ると、山へと足を踏み入れた。山中を緩やかに移動する神聖な気配を訪ねる。
幾ら人間同士の付き合いが良好でも、山に見放されてしまえばこの里はお終いだ。礼儀の意味合いも込めて、山神に昨今の山の状況に就いて訊ねる事にした。
水や実りの利用に就いては問題がないとの回答。
獣の狩りについて、不安な点が一つ挙がった。
狩人であるユミヒキが、雌や子供の獣ばかりを狙って矢を放つらしい。
理由は凡そ想像がつく。悪意ではない。だが、多くを獲らずともそれらを狙い続ければ獣達が増えなくなってしまう。
その上、女鹿である山神も風切りの音に晒される目に遭ってしまったらしく、困っていたらしい。
「彼の処では最近、子供が産まれたから、お母さんに栄養を付けてやりたいんでしょうけど……」
『獣にだって情のある種も居ますから、このままでは獣達の間に哀しみも広がってしまいます……』
頭を突き合わせて相談する代表者達。
本来ならば、山の事は山神が警告を下すべきである。しかし、彼女は神とはいえ、格上の存在であるミクマリを無視出来ないでいたらしい。
ミクマリの方はミクマリの方で、山神が子供の頃から有難い神様だと聞かされていたし、そんな気遣いが起こるとは想像もしていなかった。
「話してみないと分からない事もありますね」
『そうね』
落とし処としては、山の使い方に関しては筋通りに山神に委ね、場合によっては神罰を下す事をも取り決め、ユミヒキの態度や動向次第で里長が山との付き合いに就いての訓戒を行う事とした。
それからユミヒキは、ある日を境に元気が無くなった。ミクマリは直ぐにでも声を掛けてやりたかったが、普段の用訊きはアズサとヒツチの仕事である。
程無くして、巫女達から「ユミヒキが山で奇妙な体験をして狩りに出るのが恐くなってしまった」という話が届いた。そこで漸くミクマリが相談に乗り、「山神様に叱られる様な事をしていませんか?」と訊ねる。
案の定、ユミヒキは家族の為に獣の乱獲している事を白状した。ミクマリには、母子への妙案が無くはなかったが「山神様には私からお話を着けますが、お母さんの件は育児の経験者に相談してみては如何でしょうか」と、他の家族に助けを求める様に促した。
数日後、山へ一礼をしてから踏み入る狩人の姿と、それを優しい眼差しで見つめる女鹿の姿が目撃された。
山と人の次は、人と人。こちらの方は、馴れの為に大目には見られてはいたが、長く続けば誰かの虫の居所が悪い日に当たる事もある。
ユミヒキの問題が解決した後に、今度は盗癖で追い出された青年“サルノテ”からの被害を、かんかんになって直訴する者がちらほらと現れ始めた。
最近になって、彼の相棒だった青年が浜への交易に精を出す様になった。勿論、盗癖持ちを交易に出す訳にはいかない。サルノテはお目付け役が居なくなり、悪癖が抑え切れなくなってしまったらしい。
「いやあ、俺も辞めようと思っとるんじゃけどなー」
そう言う彼は何やら、木の棒を振り振り不真面目な態度だ。彼は一応、杣人の役目を持っており、山で木を切ったり、火の維持の為の小枝を拾い集めるのが仕事だ。建築に関する仕事が落ち着いてしまった為、暇を持て余したのが余計に悪癖に拍車を掛けてしまっていた。
サルノテの盗癖は、飢えからのものではない。ちょっとした品物……石器の一つだとか、綯い掛けの縄の一本だとかを拝借するのだ。勿論、彼はそれを必要としていない。
盗品を何処かへ隠す訳でもなく、破壊する訳でもない。持ち主は困って探して辺りをうろつく。すると、彼が盗品を手に口笛を吹きながら現れるのだ。
――何が目的なのかしら?
取り敢えずミクマリはお説教をし、里の慈愛と助け合いの方針をくどくどと説明し、盗るよりも与える事を覚えなさいと言った。サルノテは返事だけはした。
彼の暮らした村では猿が悪さをする事が多く、彼は次第に真名ではなくその綽名で呼ばれるようになったらしい。
似た境遇と似た綽名のアカシリも数多の罰を受けて更生を果たしていたが、こちらの方も骨が折れそうだ。
「ミクマリ母さん、ちょっと来て」
説教の終盤、モチコがやって来てミクマリの袖を引っ張った。彼女もまた、サルノテと同じく木の棒を持っている。
「あっ……おじさん。その棒」
モチコがサルノテが手にした棒を見詰める。
「サルノテさん? まさか子供から、盗ったりして……」
ミクマリの声の調子が下がる。
「こいつからは盗ってねえよ!」
青くなって首を振るサルノテ。
「母さん、良いから来て」
モチコが袖を引いて急かす。
取り敢えずサルノテを水の縄で縛って連行する。モチコに案内されたのは、いつぞやミクマリがお化けの絵を描いた場所だ。
相変わらずお絵描きが愉しいのか、二人の描き手に依る様々な絵が並んでいる。
「あれ? 今日はあの子は居ないの?」
いつもモチコと一緒に芸術に興じている少年の姿が見えない。
「あっち行った」
モチコが指をさす先は山だ。こちらは農村で、山へ踏み込み難い立地である。辛うじて使える斜面は植林に活用されているが、他は未開拓で危険な蟲が多く、低木や高い草が茂っており、獣も少なく踏み入る者は居ない。
「何でじゃ。奥行くと毒蛇が出るぞ!」
声を上げたのはサルノテだ。
「おじさんがお絵描きの棒を盗ったから、新しいの探し行った……」
モチコが呟く。
「返してくれ言うたら、返そうと思ってたんじゃ! それに、俺はおじさんじゃねえやい!」
髭や髪に気を遣わない為、もっと年増であっても驚かないが、彼は二十そこそこである。
「サルノテさん! やっぱり、子供から盗ってるじゃない!」
ミクマリは激怒した。怒鳴りながらも手早く探知を験す。険しい山と多くの蟲の気配、それと少年の気だ、弱ってはいないが不安を示す色を強く感じる。
「あいつだってもう、子供って歳でもねえじゃろが」
言い訳だが、その通り、集落によっては大人の仲間入りを果たしている年齢である。
「あの子にはあの子の事情があるのです。口が利けないのは貴方も知ってるでしょうに」
「だからって、遊ばせておくのかよ? 俺はだな、あいつを揶揄ってやったら文句の一つでも言って口を利くかと期待して……」
ミクマリを見ながらほざく語尾は弱くなってゆく。
「探して来なさい」
恐い顔をした里長はサルノテの縄を解き、山を指差した。
「衣が破れるから、こっちには入りたくねえなあ」
ごねるサルノテ。
「裁縫は私が得意です。縫って差し上げます」
厳しい口調。繰り返し山へ向けられる人差し指。
「ちぇっ、恐え顔。その方が美人だけどよう」
減らず口のサルノテ。ミクマリは煽てに乗らず、険しい表情で険しい山を指差し続けた。
「はいはい、降参じゃ。行って来まあす」
両手を上げて山へと入って行った。枝を払い、草を掻き分け、ぶつぶつと文句を言いながら。
「ミクマリ母さん、怒った?」
「うん、怒った。人の物を盗ったらいけないよね。モチコ、教えてくれてありがとうね」
童女の頭を撫でてやると、返礼に抱っこを要求された。ミクマリは応えてやった。
「お兄ちゃんも、悪い子? あたし、山は危ないから入っちゃいけないの知ってる」
モチコが訊ねる。
「うーん、ちょっと悪いかも。でも、盗った人が一番悪いかな」
「あたしも盗られた事あるけど、返してって言ったら返してくれた」
――やっぱり盗ってるじゃない!
ミクマリは溜め息を吐いた。
ともあれ、少年は少年で問題がある。口を利かぬのは気質ではなく、心や身体に瑕疵があるのかも知れないが、何にせよ、このままではいけない。
サルノテの言は苦し紛れで出たものであったが、ミクマリは勿論、里の者の多くが感じている事だ。モチコや老人と同居する少年も彼と同じ年頃だが、若くして山仕事や畑仕事に精を出している。
霊気の探知をしてサルノテの動向を窺う。彼は迷わずに少年の気配に近付いている様だ。杣人なだけあって、少年が歩いた痕跡を見抜けているのであろう。
二つの気が合流すると、一瞬両者の気が乱れた。それから少年の気配が一層寒くなった。
――サルノテさん、彼に文句でも言ったのかしら。
溜め息が止まらない。
それでも二人はきっちりとこちらへと帰って来る。
「あ、お兄ちゃん来た」
モチコが指を差す。何故か、先導するのはサルノテではなく少年の方だ。
「ミクマリ様。ちゃんと連れ戻したし、謝ったぞ。もう良いじゃろ、俺は疲れたから帰って休む」
サルノテは少年を連れ帰るなり、そう言って立ち去ろうとした。
「こら! 謝るだけでお終いですか! 反省をしなさい、反省を」
ミクマリは再びサルノテを縛った。
「勘弁してくだせえよう」
本当に疲れたのか、彼は力無く言った。
「……蛇が」
聞き慣れない声。
「「えっ?」」
ミクマリとサルノテが少年を見やる。
「蛇が僕を噛もうとして、おじさんが、捕まえたんです。そしたら、噛まれてしまって。ミクマリ様、診てやって下さい」
表情を変えずに淡々と語る少年。それでも彼の気からは確かな不安を感じる。
「んだよ。口が利けるんじゃねえか」
サルノテは笑った。だが、顔色が悪い。
「直ぐに診せて」
ミクマリは縄を解き、傷を検めようとした。だが、腕は背に回されて隠される。
「良いって。俺は山仕事が生業だ。前に同じ模様の蛇に噛まれた時に、アズサ様から薬を貰っとるんじゃ。小屋に行けば直ぐに治る。……良いか、少年。山に入る時は、俺みたいに頑丈な縄で作った沓を巻いて入るんやぞ」
歩き出すサルノテ。だが、二三歩も行かない内に崩れ落ちてしまった。
「おじさん!」
少年が駆け寄る。
「二度目の毒……」
ミクマリは眉を顰め、唇を噛んだ。
その後、サルノテは生死の境を彷徨った。
アズサが解毒薬を煎じ、ミクマリも憑ルベノ水にて付きっ切りの治療を行った。
しかし……。
「姉様、うちの薬ではここまでが限界です。覚悟しておいて下さい」
アズサの宣告。
ミクマリはサルノテが倒れた直後に彼の腕を縛り、毒が全身に巡るのを阻止しようとした。
水術があれば、最悪、腕を失っても命だけは助ける事が出来る。盗人が腕を失うのは運命なのか。
アズサの見立てでは、前回と同じ蝮の毒。一口に毒と言っても、使い手や受けた箇所によって症状や治療法が大きく異なる。
胴や頭に近い程に危険性が増すが、咬傷は腕。蝮も巫女や山名人でなくとも知識を持つ者がいる程度には一般的な毒蟲であり、大事に至る事は少ない。
“黄泉の手招きは二度目が恐い”。山師の間で伝わる毒の教訓。
毒の恐ろしい処は二点。先の通り、種類の特定が出来ねば薬師でも対応が難しい事。そして、二度目の症状が強く、早く出る者がいるという点である。
「身体の抵抗が異常反応してる。彼の霊気が昂って乱れてる」
二度目の症状では、身体の免疫能力が狂い高まり、それが自身を害するのだ。
水術で緩和する事は可能だが、そうなると毒による打撃を抑える自力も弱まる。加え、乱れた霊気を取り押さえれば身体へは激痛が走る。
そして、その全ては患者の体力を奪うのである。
小屋の中をサルノテの悲鳴と呻きが響き続けた。アズサの術に依り、不安を煽る声は外へ漏れない様になっている。
毒と熱、再生と崩壊、霊気の乱れ、彼の身体を掻き毟る苦しみが邪気を帯び始めた。
「彼は、助からないんですか?」
連れ合いの青年が訊ねる。彼は交易より戻ってから、ずっと付きっ切りだ。
「ミクマリ様、助けて下さい。僕が山に入った所為なんです」
相変わらず平坦な声だが、無口の少年が懇願する。
「君が気にする事はない。好い加減、罰が下ったのだ。おい、サルノテ。君は少々悪事を働き過ぎたんだ。黄泉からのお誘いが滔々来たぞ。だが約束通り、僕は最期まで君を見ていてやるからな」
連れ合いは腕を組んで覚悟の表情だ。
「うるせえ、余計な御世話じゃあ……」
瀕死の身でありながらも憎まれ口を叩くサルノテ。
「サルノテさん。貴方は、まだ生きたいですか?」
ミクマリが訊ねる。
「……終わらせるのもミクマリ様の仕事ですかい? 損な役じゃの。……俺は、半々じゃ。生きたいってのと、俺なんか罰が当たって死ねばええってのと、半々で生きてきた」
時折、苦悶の吐息を漏らしながら語るサルノテ。
「童の頃よう、親父が死んじまって、村のもんもこっちの世話をする余裕がなくてよ……。お袋は山仕事に出て、帰ってからは村のもんの為に縄を綯ったり、石研ぎの仕事もやってた。引き換えに飯を貰ってよ。俺は腹と背中がくっ付く事は無かったが……。お袋はいつ見ても仕事でよう……」
サルノテの目は虚ろに為りつつあった。
「おじさん!」
少年が声を上げる。
「お前は、両親とも揃ってるのに棄てられちまったんじゃろ? 辛えよな、構って貰えねえのって」
「ぼ、僕は……」
「言わんでええ。だがよ、折角、口が利けるんじゃったら、ちゃんと周りのもんと話さなきゃいけねえ」
サルノテが宙へ腕を伸ばした。その腕は赤紫色に腫れ上がっている。
「おじさん、ありがとう」
少年が手を握った。
「君がそれを言うか。僕は知っているんだぞ。君は周りに構って欲しくて泥棒を繰り返したんだろ?」
連れ合いの青年も手を重ね言った。
「んな訳が……。ああ? そうじゃったんか? 要らんもん何ぞ盗ったりせずに、普通に絡めば良かったんじゃなあ……」
膨れ上がる後悔の念。捻くれ者の眼に泪。
「言いましょう。ごめんなさいを、ありがとうを。他にももっと沢山……」
ミクマリが言った。風も無いのに鬢の毛が揺れる。
「姉様。手伝います」
アズサは擂粉木の中身を片すと、違う材料を弄り始める。
集められたのは苦痛と後悔の気。鬼の力の片鱗がそれを縒り上げ、人の身を従わせる黄泉の術を編む。
「サルノテさん。これより運命が貴方を験します。後悔したまま死にたくなければ、これまでの罪をもっと悔やみなさい、哀しみなさい」
僅かに瞳に金色を孕む巫女が、瀕死の男へ冷たく言い放った。
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桎梏……手かせ足かせなど、自由を拘束するもの。