巫行136 後悔
『鬼の力を借りた与母ス血液の術……。成程のう、それでお主はそんなに元気が無いのか』
潮の香りの漂う小屋の中、幼い霊声が唸った。
「はい……」
瞼を伏せて返事をするはミクマリ。彼女の視線の先では、何故か熟年の女が一人転がっている。
『しかしのう、吾の知らぬ領域ではそんな話があるんじゃな。吾は若い国津であるが故、黄泉や鬼の意味も、天津の父母の事情も知らなんだ』
「神様達も出来ない様な事を独断でしてしまって、私は一体何様なのかしら。それに、里長としても甘やかし過ぎかなという気も……」
溜め息を吐くミクマリ。彼女は旅の間に多くの神の身勝手に反感を抱いて来た分、自身の行いに自信が持てなかった。
今後、多く起こるであろう小事や大事にて力を行使して里を護ったとして、それは前回の平和な隠れ里を繰り返す種になるのではないか。自分が居なければ民達は何も出来なくなるのではないか。そういった疑念も拭い切れない。
『んー。後悔しておるのか?』
「それは……いいえ。だって赤ちゃんも元気だし、皆も笑ってるし、私もアズサのお陰で嫌われなかったし」
『それじゃあ、気にする事なぞ無いと思うがな。出産に就いても、お主一人の手柄ではない。誰しもが見事に責任を果たしておる。吾なんて、自分の子と里の両方を救おうとして、浜を壊滅させるという愚行を晒したしのう。お主が居らねば今頃、この里も無く、吾は鬼に成っておるに違いない』
「でも……」
『お前から聞いた神々の話にしても、吾自身にしてもそうじゃが、人も神も大して変わらんと思うがのう。夜黒や神術で摂理を捻じ曲げたとしても、大した事では無かろう。下へと流れる水を掬い上げるのと同じじゃ。お主の役目や力を否定するなら、素人だけで舟を漕ぎ出して漁でも素潜りでもせねばならん事になる。腹は否応にも減るからの』
「そうでしょうか?」
『そうじゃよ。出来る力があるかないかの差で、願いは皆同じじゃろ。母を想い、子を想い、誰かを想い、海を想い……』
優し気に響く海神の声。
ミクマリはあれから暫く塞ぎ勝ちであったが、農民達に誘われて海神の佑わう浜の村へと交易の挨拶へ来ていた。
収穫は上々。一番良い大根の代わりに、抱えるのが大変な大きさの鰤を頂いた。こちらの山でしか採れない山菜の評判も上々だ。
彼女はその序でに、海神へ自身の悩みを打ち明け相談をしていた。
「願うのとやってしまうのとでは話が違う気もします。やっぱり私は傲慢なのかも……」
湿気た顔をするミクマリ。
『ま、慎み深いのも結構じゃがな、あれだけの過酷な試練を耐え抜いたお主が今を享受出来ぬというのなら、誰にも幸せに成る権利はありはせぬ。そんな詰まらぬ余所の事情や、見えぬ悩みなんぞうっちゃらかして……もっと愉しい話をするのじゃ!』
海神は明るく言った。
「愉しい話。何かありますか?」
――そうは言われても。赤ちゃんが産まれたのも素直に喜べない自分に……。
『吾はあるぞ』
「面白いお話がですか?」
『うむ、実は最近な……ナギが“告った”のじゃ!!』
「告った」
ミクマリの耳がぴくりと動いた。
「わ、私はそんな話、初耳ですよ!」
倒れ伏していた女が勢い良く起き上がった。故昆布巫女の娘で、巫女見習いナギの母だ。此度はミクマリの監修の下に、お喋りの序でに海神を降ろす神和の試験を行っていた。
話が長くなり過ぎた為に、力量不足の彼女は気絶してしまっていたのだ。
『おお、もう起きたか。婆の最盛期よりは劣るが、前の様な仕方の無い巫女ではなくなった様じゃの』
「海神様も力を伸ばしておられますし、結構なものではありませんか?」
『それもそうじゃな。やれば出来るではないか』
神と名うての巫女が褒める。
「そんな事はどうでも宜しいです! 告白したとは、誰が、誰にですか!?」
『いやだから、お前の娘のナギがじゃ』
「誰に!?」
海神の声を掻き消さんばかりの問い詰め。
「アカシリさんにですよ」
ミクマリが笑って答える。
「どうして!? 彼は元は村に仇為した大悪人ですよ!?」
宙を見上げて怒りを露わにする母。
『いや、吾に怒られても……。と言うか、お前は知らなかったのか。普通、こう言う事は母が一番最初に相談を受けるものかと思っておったがの。いや、懐かしいのう、お前が漁師の男に惚れてコンブの婆に胸の内を語ったあの頃が……』
「あああああ!!」
ナギの母が顔を真っ赤に染めて身を捩った。
『ま、仕方の無い母親は放ってだな』
「それで、アカシリさんはどうしたんですか?」
訊ねるミクマリ。多少元気が出たか、口元が緩んでいる。
『それがじゃの。……逃げたのじゃ』
「逃げた?」
『うむ。吾はこっそり覗いておったのじゃが、アカシリは告られて直ぐに、俊足を用いてその場を逃げ去ったのじゃ』
「あらら。それでナギさんは?」
『脚に霊気を込めたものの、追いはしなかった。酷くがっかりしておったよ』
「そっか……」
「良かった」
ナギの母が呟く。
『良くない。ナギはこの村の次代の巫女じゃ。アカシリは身体も丈夫で霊感もある。その二人の子なら後の跡取りにも相応しいじゃろうが』
「良いかどうかは兎も角、ナギさんを慰めて上げて下さいね、お母さん」
ナギの母の肩に優しく手を掛けるミクマリ。
『それがの、心配は無用なのじゃよ』
海神の声が弾む。
『何とあやつ、翌日には立ち直って普通にアカシリを引っ張って巫行の手伝いをさせておった』
「あらまあ」
ナギは明るく、霊性や巫行においてもへこたれず努力をする性分だ。一回の失敗如きでは諦めないのだろう。
『しかも、じゃ! もっと面白い事が起こった!』
「何々? もう一回告白したとか?」
ミクマリが訊ねる。
『違う違う。何と、あの“ハコイリ”が割って入って、何やら分からん言葉でアカシリに話し掛けて、強引にナギから引き離して連れて行こうとしたのじゃ!』
「なんと」
ハコイリ。今から数月程前に、この村の浜に棺桶が流れて来た。そこに権力者らしき男の遺体と共に収められていた異人の娘だ。
頭に羽根飾り、長い黒髪に赤茶けた肌。姿は違えど、出生地でも見目麗しい女とされたのではないかと思える整った顔立ち。
彼女は箱に入ってやって来たからハコイリ。浜の者は皆、そう呼んでいる。
彼女は言葉こそ通じないが、多少の霊力と優しい気心で村の者とも良好な関係を築いている。
『それで、ナギが先約じゃったから、アカシリの取り合いになってしまっての。アカシリは俺の腕は一本しかないから勘弁してくれ! って喚いて、傑作じゃった!』
「ふふ、それは両腕でも困るでしょうね」
『いつの間にか、アカシリはハコイリの言う事が分かる様になったみたいじゃの。ハコイリも、簡単な単語を使って村人と遣り取りをしとるよ』
「じゃあ、アカシリさんはハコイリさんと“出来てる”から逃げたのかしら?」
首を傾げるミクマリ。そうであれば、彼ならはっきりと断りそうだが。
『んー、そうでもない様じゃ。あの娘の事は気になってずっと見ておる。ハコイリもアカシリへ好意を寄せているのは良く分かるのじゃが、どうもアカシリの方がそれと気付いて避けてる感じがあるんじゃのう』
「ふうん」
『正直、あの二人は早くにくっ付くと思っておった。片や言葉の違う異国から、片や咎人で禊としてここへ来た者じゃ。アカシリがハコイリの世話を焼いたのも無理からぬ事じゃったしな』
「そうですねえ。でも、アカシリさんが片腕になってからは、ナギさんも沢山世話を焼いたのでしょう?」
『そうなんじゃよなあ。そっちはそっちで良い感じになってるのを何度か見ておるし。あの男は意外とはっきりせんのう。別に嫁が二人でも吾は構わんが、あの様子では上手くはいかぬじゃろうしな』
焦れったそうな霊声。
「他に好意を寄せている女性が居るとかかしら?」
ミクマリは首を傾げた。
「ナギはやれません。箱入り娘さんとアカシリをくっ付けてしまいましょう!」
ナギの母が拳を振り上げる。
「そういうの、良くないと思いますよ」
ミクマリが窘める。
幾ら母とはいえ、手出しして良い領域だとは思えない。
――……やっぱり私も間違ったのかな?
仮に出産が哀しい結末に終わったとしても、自身の人としての巫女の範疇と村人達の自主性を以て解決すべきであったか。
『うーむ、吾も勧めぬが……お前が妨害したいというのならば、好きにするが良い』
意外な御許し。
「あれ? 海神様はナギさん推しじゃ?」
『うむ。まあ、吾個人の願いとしてはそっちじゃがな。此奴の願いは此奴の願いじゃ。どうなるか見守るのも面白いしの。……ま、どっちに転んでも誰かが泣きを見るじゃろうし? 下手に手出しをすれば怨みも買うじゃろうがの?』
「う……」
ナギの母は黙り込んだ。
『ミクマリよ。アカシリや娘達の想い、母親の願い、どれも尊いものじゃ。先程の話ではないが、この恋路に若しも、全員が笑う結末があるのならば、吾も迷わず手助けをすると思う。お主が以前、吾に力を借りた時、吾がその提案に乗った決め手は、“後悔”じゃ。吾は間違いをお主が正し、遺恨を滅してくれると信じた。お主が術の行使が出来なくなった時は何と詫びて良いか分からなかったが、今は問題無しじゃろ? 蓋し、一度は選択を誤ったかに見えても、最後に幸せが後悔に勝るのならば、それは間違いではない。お主は誰もが笑う最善の選択をしたんじゃ。神が何じゃ、理が何じゃ! ミクマリは正しい! これからもじゃんじゃん好き勝手を働くと良いぞ』
言い切る海神。 神の御印が付けられた。
「……ふふ、ありがとう御座います」
笑顔で返すミクマリ。
それからミクマリは里の者に呼び出され、訪れた時よりも軽い足取りで浜の村を後にした。
帰り掛けに、アカシリが二人の娘によって口に料理を詰め込まれて瀕死になっているのを見掛けた。
――兎に角、やってみましょう。先ずは人の範疇から。小さな事は小さな力で。大きな事は大きな力で。
ミクマリは頭の翡翠の霊簪に触れ、前を向いた。アカシリは気絶をした。
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