巫行135 苦労
アズサに連れられ、山側の村へと急ぐ。
「アズサ、何があったの?」
「ユミウチさんとこの嫁さんが、お腹痛いって!」
ユミウチは蟲扱いの村の出身の狩人で、余所の村の娘と駆け落ちでこの里へと身を寄せた。相手方の胎は目立たなかったが、旅路での様子からして身重だという事は、ミクマリは直ぐに気付いていた。
「おなごしは皆集まっとー。姉様、知ってのっけに術で呼んでも、起きへんかったんやん!」
「ごめん! 先に行くね!」
ミクマリは久々に加減無しの身体強化を使い、玉響の間にアズサを引き離した。
ユミウチの嫁には出会った当初から積極的に獣の血肉を多く食わせたり、当帰を煎じた薬を出したりもした。薬学ではアズサに引けを取るが、こちら方面では話は別。これまでの経験や教訓も加わり、自身の行った世話には手落ちはない自信がある。
だが、胎が目立たぬ上に、いつ身籠ったのかが不明瞭であった為、此度の陣痛が正しい時機のものかどうかが分からない。
ユミウチの小屋に着くと、既に経験持ちの女やヒツチが支度を済ませていた。どうやら誕生の時が差し迫っているらしい。当の夫は小屋の中にはおらず、外で兎の後産を乾かしたものを拝んでいた。
「ユミウチさん、彼女の傍に居て上げて」
「でも、これが僕の村での祈りのやり方で……」
言い訳がましく顔を背ける蟲の狩人。
「貴方はその村を去ったのですよ。今はこの里の人間」
語尾を強めるミクマリ。
「ミクマリ様……。そうだ、僕はもう、蟲じゃない……産まれてくる子も!」
立ち上がるユミウチ。
「中に入って、手を握っていてやって」
「はい」
ユミウチと共に小屋へ戻る。
何度やっても慣れない仕事。無数の不安と切迫した現実の鬩ぎ合い。
おらずとも神に縋り、朽ちた藁へも縋りたくなる心境は分かる。実際、空気や当人達の気持ちが結果へ大きく影響する場でもある。しかし、存在しないものへの祈りは自身の心にしか効果を及ぼさない。巫女はそれを良く知っている。今、助けられるべきはユミウチの心ではない。故に、彼を小屋へ戻し声を掛けさせるようにした。
「……私達は蟲じゃない……」
苦しみの中、漏れる妊婦の呟き。蟲に通じれば誰しもが蟲と呼ばれ、その子もまた蟲と呼ばれるのが覡國の無情の理。だが、この水分の巫女の佑わう地ではその法は通じない。
――それでも、産まれてくる子に何か“欠け”があったら……。
過ぎる不安。
悪人や鬼が持つ様な濁りが霊気に視えなくとも、目で識る一般の者には異形に映るだろう。そういった子を切り捨てる村落も多い。
脂汗を浮かべるミクマリ。幾ら自信が里長として多くを決められるとはいえ、人の心の在り様の全てを操作する事は出来ない。恐らくそれは神にさえも不可能だ。
万が一、禍事の種が産まれてしまったとすれば、自身は一体、どうすれば良いのか。
「頭やあらへん、足やわ」
手伝いの女が唸った。
難産の事実を切っ掛けに、産褥に漂う気が乱れ始めた。
ミクマリは自身の緩い地の霊気を辺りに醸し、それに抗った。
だが、戦況は火を見るよりも明らかな劣勢。刻々と流れる時間、息みの力も弱り始め、見える赤子の足の色も黄泉へと近付く。
「あかんか」
女の声は虚無。またも彼女の一言を契機に、気の色が変化を起こす。哀しみだ。
「有難い巫女様だって聞いてたのに」
ユミウチからも恨み節。未だに諦めていないのは、命を削り続ける親子だけか。
多産や安産を司る神でも居れば違ったのだろうか。ミクマリは長い旅の間にも、これに関して確かな恩寵を示す神に会った事はなかった。“流す方”にはあった事があるが……。
――やるしかない。
ミクマリは苦しむ女を後ろから抱きかかえた。
「力を抜いて、何も考えないで」
妊婦は逆らう事無く力を抜いた。だが、これでは赤子は出られない。
「アズサ、彼女に音が届かない様にして」
ミクマリが依頼すると、童女の返事と共に妊婦の耳元へ霊気が通る。
――やるの。やるのよ。
腹を括るミクマリ。彼女は言った。
「やっぱり、蟲の子は蟲。殺すしかないわ」
慈愛の巫女とさかしまなそれは、人々の血相を夜黒色へと瞬く間に塗り替えた。
裏切者。信じていたのに。騙された。赤子殺し。
噴出する邪気が容赦なく娘の身体を苛む。
「姉様、何を……」
アズサも信じられないという顔をしていた。
「良いの、これで」
らしからぬ言葉を発した本人からも深き哀しみの気。色濃くなる黄泉の気配。
生きた人の身操るは招命ノ霊性。
夜黒の胎動。その場に居た者達が身を抱き震え上がった。
直後、妊婦の股座から、するりと赤ん坊が頭から産まれ出た。
「えっ、姉様、今何を……」
産褥に渦巻いていた死の香りが霧散する。
ミクマリは直ぐに赤ん坊を取り上げ、焼き清めておいた刃で臍の緒を切り、結んだ。
「泣かない」
誰かが言った。赤子は青に近い紫色である。だが、まだ生きている。
他者の血行を水術で操る事は可能だ。赤ん坊ならば霊気の抗いもない。だが、憑ルベノ水は受ける側の自己治癒を促す為に、自力の低い赤子や瀕死の者への使用は危険である。悪迄、依るべきものありきの術なのだ。
「……死んだまま産まれてきて良かった。私の里に蟲の子は要らないわ」
ミクマリはもう一度、鬼の面を装いて嘘を絞り出した。
再度浴びせられる邪気を集め、今一度、傲慢なる与母ス血液の術に頼る。
瞬く間に暖かな血色を取り戻していく赤ん坊。
「良し。アズサ、音術を解いて」
上がる産声。
「……お疲れ様。元気な男の子よ」
ミクマリは寂し気な微笑と共に、赤ん坊を母親へと手渡した。母親も息未だ荒く玉の汗を浮かべたままであったが、気丈にも渡される前より腕を伸ばしていた。
「姉様、うちは姉様が何をしはったのか、分かりますけど……」
アズサは瞳を潤ませミクマリの袖へと縋る。彼女は夜黒の術の存在も知り、嘘の見抜きも出来る。
「そやけど、これじゃ」
母親と赤ん坊、それに父親となったユミウチは何を放っても喜んでおり、感謝の言葉も述べている。
だが、他の手伝いの者からは烈しい混乱の気配。里長を見る視線には疑念と、明らかな恐怖が感ぜらせた。
「……良いの。あの子の命には代えられない。久し振りに術を使ったから疲れちゃった。後は皆に任せて、休んでも良いかしら?」
ミクマリはアズサの返事を待たずに小屋を後にした。
誰も追っては来ない。
見上げれば、欠けた月舟が闇の海に浮かんでいる。アズサに呼ばれたのは昼前だった筈だ。まるで、高天の戸喫を受けたかの様だ。
「本当に、これで良かったのかな。私は、こうするべきだったの?」
月は答えない。ミクマリが心配していたのは、自身の信用だけではなかった。“本来の在るべき運命”を自身の術で捻じ曲げた事である。
国津神ですら、無闇に自然現象を歪める事はしない。多くの勝手を働く天津神ですら、神々の父母という既に用意された縦糸を元に横糸を重ねているに過ぎない。
恐らく、鬼の術に頼らずに産褥で戦い続ければ、残酷な未来が待ち受けたであろう。死に哀しむ両親を見るか、仮に赤子が生き長らえても、あの状態では身体に瑕疵を抱えて育つ可能性も高かったであろう。そうなれば、ユミウチとその家族は差別や仲間への疑心に苦しみ、更なる禍根を生み続けたやも知れない。
手に入れた結果は親子の笑顔と未来。だが、神をも超える高慢な所業が本当に正しいものであったのかどうか、確信が持てなかった。
前もって与母ス血液の術にてお産を助ける事は可能だと分かってはいたが、穢れの力と摂理への叛逆を忌避して、ぎりぎりまで封じていたのだ。
旅に出て知見を広める前のミクマリであれば、駆け付けて直ぐに自身を鬼に染めてこの力を利用したに違いないが……。
「どの道、同じ手はもう使えない。今度だけね……」
慈愛の巫女は、その性質は神聖にして清廉潔白。元より持つ邪気は人並み以下だ。今や泯滅の怨みを忘れ平和に身を委ねた彼女が黄泉の術を任意に発する為には、自身を憎しみの依り代とする外がなかった。
自宅へと戻り、手を清めて部屋へと上がる。
ミクマリは遠くに歓びの霊気を感じながら、一人寂しく眠った。
もしも、この所業に予め共謀する相手や、それを命ずる者が居てくれれば、彼女もあの希望溢れる場に加われたかもしれなかった。
翌日、ミクマリは妹の控えめな音術に起こされた。
部屋を出ると、小屋の下には里の民達が総出で並んでいた。
「おはようございます! ミクマリ様!」
出迎える彼等の顔は明るい。いつもの彼女を慕う里の人々だ。
その後、里ではミクマリを最上座に置いた宴が開かれ、民達は新たな命と立派な里長を、陽が沈むまで讃え続けた。
ミクマリが産褥を去った後、後始末を済ませたアズサは里長の名誉の為にもう一度皆を集めたという。
そして、ミクマリの口から出た言葉や不気味な気配への説明に心を砕いた。
アズサは割り切った気質の為、あの術が夜黒ノ気に頼ったものであるという事も包み隠さず解説をしたらしいが、結果は御覧の通りだ。
「はー、姉様、ちゃんと説明せんとどっか行ったりせんときなー? うち、めっさしんどかったんやから」
アズサが横へやって来て、肘で脇腹を突いた。
「うん、ごめんね」
身を捩りながら謝るミクマリ。
「ごめんね、ちゃうなー? おおきに、やに!」
アズサはにこにこの笑顔だ。
宴に混じる人々も皆、笑顔。新しい父母の姿も眩しくも睦まじい。
「うん、そうだね。ありがとう……」
ミクマリは呟く様に礼を言う。
だが、久々の難事を乗り越えた彼女の顔は、酷く浮かないものであった。
「ねえ、アズサ」
「何ですか?」
口をもぐもぐと動かしながら返事をするアズサ。
「私がやった事、正しかったのかな?」
深くは語らず、唯、問い掛ける。
「……? 勿論やにー? また姉様の武勇伝が増えたしなー」
首を傾げ、それから無邪気な笑顔と共に答えが返された。
「そっか、そうよね。ありがとう」
ミクマリは微笑み礼を言う。
しかし、言葉とは裏腹に、彼女の気持ちは沈々と深みへ潜り続けたのであった。
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おなごし……女衆。女子衆。
戸喫……死者の國にて食べ物を口にすると帰れなくなるという、黄泉戸喫というものがある。神の国で食事をすると神の国と同じ時の流れを体験するという。