巫行134 退屈
互いの顔や地理の記憶、住まいの仕度に追われた晩秋は瞬く間に過ぎ、越冬も暖かな山に抱かれた地では容易く行われた。
女鹿の山神は新たな住人を認め、住人達も山へ感謝を捧げた。
「暖かくなったら、畠を大きく広げてみましょう」
老人始め、農業経験のある者達の知識が生かされ、元より農地だった場所の再生が行われる。
ミクマリの方針により、自然の地形を大きく弄る事はせず、灌漑工事や河川の操作は保留とされた。河川まで水を汲みに行かねばならぬ為に手間が掛かるのだが、この地に息衝く神は山神であり、水の方面には長けていない。不測の事態を避けると共に、水との触れ合いが事務的にならぬ様にと考えた。
「水遣りは私がやりますね!」
その穴を埋めるのが水術師の本分。ミクマリが言った。
「姉様、起きるの遅いからなー。お日さんが出るまでに撒いた方が、ええんちゃうけ?」
アズサが首を捻る。
「あたしもお手伝い! 水遣りしたいー」
モチコが言った。
結局、水遣り用の溜め池を拵えて、そこから水を掬って撒く事とした。これならば子供でも出来る役割になる。
「長く同じ土地を使うと土の精霊の力が弱く為ってしまうので、土術で精霊を操作するか、薬を煎じて土に撒くのが良いです。精霊は余所の土から持ってくる事になるので、お薬や、食べ物の滓を混ぜた土で精霊を育てて移すのが一般的ですね。遠方の浜に畠に良い薬を煎じる巫女様がいらっしゃって、私はその人の真似をしたのですが、却って土を悪くしてしまって。それからあれよあれよと嫌われて生贄に……」
水分の里の巫女の一人、“ヒツチ”が言う。逃げ出した彼女は暮らしていた村での巫女名を明かす事はなく、そのままそれを捨て去った。
新たに名乗り始めた名は単純に火と土の術の才覚がある故の命名だ。才覚があるとは言うが、これまでにミクマリが戦いで見て来た術師の操る様な破壊の力ではなく、種火要らずや土の精霊の様子を探る程度の細やかな実力である。
「そやったら、うちと一緒に畠の薬の研究しよなー」
アズサが言った。彼女は既に新入りの巫女を子分にしており、約束通りに巫女頭の役を頂いている。……とは言っても、巫女は三人しかいないが。
今の処は巫女の必要性に迫られては居ないものの、今後ミクマリが霊視を行い、才覚のある者を調べる予定になっている。
覡國に於いて、“里”とは複数の村や集落の点在する地を包括して呼ぶ。村同士は交易の糸よりも強固な絆により結ばれ、同じ規律や約束の下に生活を営む。基盤となるのは、豊かな山や川等の資源や、その地に佑わう神の力の及ぶ範囲だ。水分の里の場合は、隣村を除いた女鹿の山神の神威内を指す。
里では二つの村があり、どちらも過去の村と同じ位置に作られた。片方は山の恵み……狩猟、採集、釣りや飲料水、木材、粘土等の世話になる為の村で、もう一方には平坦な土地による農業と、栗の木の植林を験す斜面がある。どちらも外からの悪意には晒されていない為、大仰な乱杭は設けず、猪除けの環濠等も山との地続きを感じる事を重視する為に採用しなかった。
民達の強い進言もあり、ミクマリとアズサは村と村の間の地点に他のものより少し立派な家を建てた。虫除けや湿気対策になるからと穀物倉と同様の高床方式を採用し、内部はサイロウの館で見かけた、“部屋”の仕組みを採用している。
「見て、アズサ。私達の、家よ!」
指をさすミクマリ。
「そやなー……」
アズサは少し不満気だ。彼女は建築の際、“部屋”は要らないと言ったが、ミクマリが押し切ってしまい、中には仕切りが設けられていた。お互いの部屋には個別に寝床の毛皮が敷いてあり、私物も分けて置かれている。
「見て、アズサ。家よ!」
梯子を上がり、再び指をさす。
「はいはい、そやにー」
苦笑いのアズサ。
「見て、部屋!」
今度は中に入って指をさす。
「部屋はええねんけどなー。うちはさー、姉様と一緒に寝たかったんやにー」
悄気る妹。
「じゃあ、一緒の部屋で寝ましょう」
「ええ……。そやったら何で態々部屋なんて作ったんけ……」
肩を落とすアズサ。
「何ででしょう?」
部屋に固執した当人が頬を掻いた。
春の暖かい日に、水分の里に来訪者があった。昔の里の時代から付き合いのあった隣村の村長達だ。彼等と祝いと返礼の品を交換し、今後の友好と発展を約束し合った。
多くの長と関わり合った今なら良く分かる。隣の村は良い村だ。末永く良好な付き合いが出来るであろう。
「夏になったら、験しに浜の村まで歩いてみようかな」
付き合いと言えば、浜の海神の村。あの幼声や、ナギ、アカシリの事を思い浮かべながら畠を眺めた。大根や粟が茂り始めている。その内に、塩や海の幸との交換を考えても良いかも知れない。
「あら?」
畠の中に、太陽の光を反射する奇妙な物体が吊るされているのを見つけた。銅鐸だ。
これは、サイロウ退治の礼として、北の湖の里のカエシから無理矢理に押し付けられた品だ。遥か彼方の地では豊穣を祈る道具として用いられていると聞いたが、この地では最近まで寝穢い娘の枕元でがんがんと打ち鳴らされるのが主だった。
――アズサに内緒で捨てたの、ばれてたか。
ミクマリは本来の役目に戻った銅鐸を拳で軽く小突いた。
『こらーっ! この糞あんごーーっ!!』
唐突に、アズサの罵声がどこからともなく響き渡った。
「えっ!? ごめんなさい! 明日はちゃんと起きるから!」
耳を塞いで辺りを見回すミクマリ。しかし、アズサの姿は見えない。
「アズサ?」
呼んでも返事は無し。
「アーズサー?」
呼びながら銅鐸をまた小突く。
すると、またもアズサの罵声が響き渡った。
「凄い! 銅鐸から声が出てる!」
どうやら、音術と石術を使った仕掛けらしい。ミクマリは面白がって何度も叩いた。すると次第にアズサの「糞あんご」は小さくなって、聞こえなくなってしまった。
「鳴らなくなっちゃった」
叩いても、ごわんごわんと元の銅鐸の音が響くばかりだ。銅鐸に込められた霊気も尽きた様だ。
「あーっ!? 姉様、何しとー!?」
今度は本物のアズサが駆けて来た。手には銅鐸と同じく銅の棒。“舌”と呼ばれる銅鐸を鳴らす為の道具だ。
「アズサ、これはなあに? 面白い術ね」
ミクマリが訊ねる。
「それは、兎や猪を脅かす為の術やん! それ作るのめっさ大変なんやにー! 姉様、要らん事しやんで!」
“舌”を振り上げ、やんやんと目くじらを立てるアズサ。
「ご、ごめんなさい」
首を縮めて謝るミクマリ。
「もーっ!」
アズサは銅鐸の紐を解き取り外すと、小脇に抱えて霊気の籠められた足音と共に去って行った。
銅鐸は獣除けとして使われているらしい。種は鳥が穿り返してしまい、成果物は猪や兎、狐狸が狙う。この山の場合は、兎が一番幅を利かせている。
ミクマリは悄然した。どうもここの処、余り役に立っていない気がする。里の者の多くはそれなりに仕事が出来る。
水に関わる事や力仕事なら、何でも自分がやる心算でいたが、力仕事は男共に奪われ、粘土や皮弄りに欠かせない乾燥の術すらも女達に断られている。余りに早く詰めて仕事をしても、やる事が無くなるのだそうだ。
「穏やかに、ゆっくり暮らす……」
――良い事だけど、私が望んでいた里には欠かせないものだけど。
この畠にしても、水撒き用の池の面倒を見る位で、殆ど触れていない。
「そうだ、兎」
ミクマリは巫女に成る以前に、畠の番をして兎を追っ払う仕事をしていた事を思い出した。
その辺りに腰掛け、兎が現れるのを待つ事にした。しかし、聞こえて来るのは風が作物の葉を擦り合わせる音ばかりだ。
そもそも、霊気の探知をすれば、若い畠に害意を持った生物が付近に居ない事は一瞬で分かる。
「退屈だなあ……」
膝を抱える娘。
数多の村を助けた彼女の巫力にとって、難事は疎か、仕事らしい仕事はなかった。
清められてからは一度も災禍を経験していない地である以上、穢れに関する仕事も大したものは無い。里の規模も、他の里の様に複数の巫女が周らねばならない大きさではない。そもそも普通の村で出る穢れでは、ミクマリやアズサは疎か、ヒツチの祓の技でも余る位だ。
旅をしていた頃は、常に他者の命や敵意に気を配らねば為らなかったし、幾ら神を剋する力があるとは言え、身体が人間である以上は油断からの死や貞操の危険もあり、霊気も術力も幾らあっても無駄には為らなかったのだが。
「誰か困ってる人は居ないかな」
不謹慎な事を言う里長。
「よし、探してみよう!」
ミクマリは大事や難事でなくとも、相談役があれば嬉しいだろうと、農村を覗き周った。
家々をこっそり覗いても、村民達は仕事へ出ていて留守か、のんびりと縄を綯っている位だ。お喋りな嘘吐き娘が暇を持て余している様であったが、こちらには話し掛けないでおいた。
「あら、何をしているのかしら?」
草もない平地にしゃがむ少年。近くにはモチコも居た。二人は棒を持って地面を弄くっている。
「ミクマリ母さん、お絵描きー」
モチコが地面を指差す。彼女によって描かれた歪な線や円が並んでいる。
「こっちは木、こっちは太陽!」
「上手ねー」
微笑み童女の頭を撫でてやる。
子供の落書きを追っていくと、明らかに何かを表現した絵に当たった。楕円の身体と四本の脚、そして特徴的な角。
「これは鹿?」
「静かなお兄ちゃんが描いた」
指さすモチコ。少年は黙々と木の枝で絵を描き続けている。今描いているのは足が短く胴長で、牙を持った獣だ。
少ない線で表現されていたが、その身体の比率や特徴を捉えた描写で、何を描いたのかが非常に分かり易かった。
「貴方が描いたの? 上手ね」
声を掛けるミクマリ。少年は返事もせずに黙々と絵を描いている。
彼は石の社の里の募集で現れてから今日まで、殆ど言葉を発していない。怒る事も勝手を言う事もなかったが、未だに名前すら分からないのは困りものだ。
募集を訊いて石の社を目指していた一団が彼の村を通り掛かった時に、家族と村長に押し付けられて里興しに参加する事に為ったのだという。
彼は水分の里では役目らしい役目を持ってはいない。だが、モチコの兄役の少年が農業だけでなく山仕事にも出掛けて留守にする為か、モチコは大抵は彼の傍で遊んでいる。彼も特にそれを邪険にする事もなく、モチコが放置されて危ない目に遭った話も聞かない。
「ミクマリ母さんも何か描いて」
モチコが木の棒を差し出す。
「よおし、それじゃあ私は……」
ミクマリは地面に絵を描き始めた。丸と線だけで構成された大小の人形を並べていく。
「どう? 何を描いたか分かる?」
描き終えてモチコに訊ねる。ミクマリの自信作だ。
「どうして、お化けを描くの……?」
モチコが哀し気な声を上げた。
「えっ。違うよ。これは里の皆だよ……」
ミクマリは自信作を見詰めながら肩を落とした。
暫くお絵描きに興じるが、ミクマリは早々に飽きてしまった。二人は黙々と地面に線を引き続けている。
自分も童女の頃は飽きずに同じ事を繰り返したものだが、今はもう、子供達に付いていくのは難しい様だ。ミクマリは近くの石に腰掛けた。
結局、お絵描きの他には、大して面白い話も、覗いて楽しい情事も無し。
「里長なのに、こんなので良いのかなあ?」
腕を組んで首を傾げるミクマリ。
幸い、誰しもが彼女の噂を知っており、その術力の一端も披露されている為に、何をしなくとも有難がられるし、威厳も保てている。寝坊や子供好きのお陰か、その尊敬が行き過ぎて畏怖へ変わる事もない。
身体が有ってぶらついている事を除けば、今のミクマリは姿のない国津神とそう変わらない存在かも知れない。
「退屈だなあ……」
不謹慎であるが、大した労や達成感も感じずに手にした平穏に、一抹の寂しさを感ぜしめられる思いだ。
「アズサも構ってくれないし」
アズサは相変わらず術や薬学の研究に余念がない。ミクマリも衰えぬ様にと霊性の鍛錬は怠っていないが、修行は別々だ。
アズサは「巫女頭は自分の領分外の仕事も、理解だけはしとかなあかん!」と言い、熱心に稲霊村の翁の処へ通って、使わないであろう範疇の仕事の骨までもせがんでいる。故に、日中も余り相手をして貰えない。
それなら私もと、ミクマリもくっ付いて行ったが、どうも蘊蓄を垂れられると、聞き流したり舟を漕ぐ癖が付いてしまっていて早々に断念せざるを得なかった。
――平和に慣れなくっちゃ……。
ミクマリは背中にお日様の熱を受け、ぼんやりとした。
遠くで雉が鳴く声がする。近くでは雲雀。その内にまた燕も来訪するだろう。
人ばかりでなく、獣の面倒を看てみるのはどうだろうか。いや、それは山神の領分か。
あれこれ考えている内に、村で一番遅くに起きて来た娘は再び夢の世界へと足を踏み入れてしまった。
夢の中でも同じ様に、新しい里で生活をしていた。幸せな暮らし。しかし夢の中の彼女は現実とは違って退屈をしておらず、困り事がある度に頭上へ質問をしたり同意を求めていた。
……。
「姉様! 姉様何でまた寝とー!? 早よ起きりー!」
頭上でかんかんと銅鐸の音。
顎に垂れる液体と共に顔を上げると、妹の顔が在った。
「おはよ、アズサ」
銅鐸の騒音は不快だが、これもまた幸せだろうか。ミクマリはもう一度、膝に顔を埋めようとした。
「姉様あ! 豪いこっちゃ! 寝とる場合とちゃうやん! 姉様の力が要るんやにー! 起きりー!」
慌てたアズサの声。
「どうしたの!?」
焦燥を感じ取った霊性の感覚が眠気を吹き飛ばす。
「今度は、うちもちゃんと手伝いますから! 姉様、お願いします!」
アズサはそう言うと山側の村の方へと駆けて行く。里長は立ち上がり、袴に着いた土を祓うと後を追った。
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