巫行013 堕誕
「こんな大事な時に術が解けたの!?」
若イズミが声を上げる。
『術が解けたのではない、追い出されたのだ』
「蛭子神か……」
老婆は目を凝らし、蛭子を見やった。しかし赤子の姿を借りたそれは、未だに痛みで沼田打ち回って居た。
消し飛ばされた部位が妖しく蠢くのが見て取れる。
『蛭子の術でもないぞ。まさか、俺に逆らう位に霊性を上達させていたとはな』
ゲキは笑う様に言った。
「へ? つまり、ミクマリが貴方を追い出したって事?」
『そうだ。尤も、俺の油断も大きく手伝ったがな。ミクマリよ、己の失態を取り返そうと言うのか?』
「違います」
水分の巫女は肩で息をしながら答えた。
『俺を追い出すのに霊気を使い過ぎたな。その様では次の成長を制するのが手一杯だろうに。おい、マヌケ娘。何故この様な事をした? 水子を食い荒らす黄泉の使いを滅する妨害をした理由を言え!』
師は荒げながら問うた。
「ゲキ様のやり方があんまりだからです。“あの子”だって苦しんでるのに」
『はあ!? “苦しんでる”だあ!? あれは黄泉の“欲深なる母”に魅入られた忌み子だ。地上に彷徨う無垢なる水子を悪鬼に変えんとする邪霊だぞ!』
蛭子がまた膨れ上がる。今度は胴体が腫れ上がり、まるで手足が無いかの様に変容した。
『矢張りまた成長だ、切りが無いな。今一度、お前の身体を貸せ。今度の蛭子の霊気はお前の万全にも等しい。水場も夜黒ノ気が強過ぎて霊気も通らんだろう。その霊気に術の触媒も無しに、打てる手等は浮かばぬだろうが!』
ゲキは激しく呼び掛け、器たる巫女に迫った。
しかし、器の持ち主は弱った霊気を苛立たせて男を拒んだ。
「厭です!」
『早うせい!』
「男の人は黙ってて!!」
ミクマリは鋭い気魄を孕んだ声で叫んだ。その間も赤子から一時も目を離さず。
『……どう云う考えか知らぬが、俺はもう手を貸さんぞ』
そう言うとゲキは上空に舞い上がり静止した。
「御二人も離れて居て下さい!」
身体の権利を取り戻した巫女は、泉の巫女達へと言い放った。
「お母さん……お母さん!」
赤子は腫れ上がった笑顔を浮かべ、蛭の如き手足の無い身体を打ちながら迫る。
ミクマリは手早く霊気を練ると、巨大な赤子を弾き返した。
飛んで距離を詰めもう一撃。更に飛んでもう一撃。
石投ご遊びの様に何度も手衝き、包まれた様な姿の赤ん坊を泉へ泉へと押しやって行く。
飛沫と共に蛭子が水没する。
「……分かってる。この位じゃ、何も変わらない事、変えられない事は」
沈んで行く蛭子を見つめるミクマリ。
薄紅に濁った水が震え、繰り返される赤子の声を彼女の耳へと届ける。
「ごめんね、私はお母さんじゃないの」
ミクマリは水底より這い上がる声を抱き締める様に、懐に手を差し入れた。
取り出したるは鉄誂えの小刀。
「貴方も痛かったでしょう」
そう言うと彼女は左手の袖を捲り、真新しい刃で自身の腕を斬り付けた。
苦痛に歪む唇。切れる程に強く噛み締め、口に広がる血の香りを味わう。
「ばあ!」
水中から歪な頭が飛び出した。赤ん坊は笑っていた。
意固地な巫女は何を企むのか、腕の傷から滴る体液を泉に注ぎ続けている。
「まだ出て来ちゃ行けない」
そう言うと霊気の塊を気魄の籠った視線のみで操り、赤ん坊を再び圧し沈めた。
「ばあ!」
霊気の圧が足りぬのか、容易く突破され再び笑顔が現れる。
ミクマリは血を流しながらも再び沈めた。
「ばあ!」
浮上を繰り返し、赤ん坊は楽し気に笑う。
「……良し!」
繰り返し顔を出す赤ん坊を尻目に、泉へ混ぜ込んだ血液へ霊気を通し、命じる。
己の血液操るは調和ノ霊性。
流し込まれた血の量は泉の水と比ぶれば雫の一滴であったが、霊気の源であるそれの働きは充分に発揮された。
泉は撹拌され、赤い渦を作り始める。
水流逆巻き、命の飛沫が宙に舞う。
「はっ!」
発気の掛け声と共に両手を握り合わせ、破竹の如き祈祷を捧げる巫女。
祈りに応じた薄紅が被膜と成り、赤ん坊を包み込んだ。
泡立つ白波と共に回り続ける泉。強い霊気と摩擦が熱を帯び、水を温かな液体へと変じる。
「……」
蛭子はふと空を見上げると背を丸めた。
身体が縮んでゆく。
渦と共に廻々と命の温水を揺蕩い、小さな手で瞼を擦り始める。
蛭子神が、怠惰に開いたままの穴に挿入され、黄泉へ産まれ出る道へと呑み込まれてゆく。
「貴方は、貴方を育ててくれる人の元へお還り」
うねりを持った穴の路は、生死混濁の臭いを含んだ空気を一吐きし、その瞼を閉じた。
そして、乾いた底からは再び澄んだ水が湧き、その器を満たした。
巫女は黄泉の気配が消えたのを悟ると、決して彼ノ者へと届く事の無い祝詞を捧げた。
「……大地に還りし命を寿ぎます」
戦いは終わりを迎え、ミクマリは長く長く息を吐く。
静寂を取り戻した水面は清浄を取り戻し、以前と同じ様に命の星空を迎え入れた。
「ミクマリ」「ミクマリ様」
泉の巫女達が駆け寄る。
「守護神様抜きで蛭子神を追い祓うとは、このイズミは魂消ましたぞ!」
老婆はさも愉快そうに言った。
「追い祓ったのではありません。眠らせて、返してやったのです。ごめんなさい、態々危険を冒してまで……」
俯く水分の巫女。
「あたしには分かるよ。上手く言えないけど、ミクマリのやりたかった事。若しも、あたしに同じ位力があれば、あの子を……」
若イズミは協力者の手を両手で握り、額に付けた。
『ふん。穢れた水に自身の血潮を混ぜ込み霊気を通り易くしたか。血を失うのは旅にも鍛錬にも差し支える。他にも手は在ったのだが、まあ及第点か』
静観していた霊声が降りて来る。
「ゲキ様。意地を張ってごめんなさい」
ミクマリは守護霊を見上げ謝る。瞳を僅かに揺らしながらも、静かに次の叱咤を待った。
『構わぬ。師の望むは弟子の成長、守護者の望むは庇護者の無事だ。お前は俺の二つの望みに応えた。だが退けたとは云え、あれは蛭子の一端に過ぎぬ。穢れや水子に反応して黄泉路は再び開くであろう。根本を解決せねば、明日の晩にでも再び顕神するであろう』
ゲキはそう言うと、再び何処かへと流離って行った。
「そっか、この子達が居る限りは何も解決してないんだ……」
若イズミは水子の魂を手の甲で撫でて言う。
「嬰児殺しの儂には何をする資格も無い。“イズミ”よ、この老イズミは先に休んで居るからの」
老婆はそう言い残すと、腰を摩りながら村へと引き返して行った。
無邪気な筈の水子は、老婆の罪の臭いを嗅ぎ取ってか、道を空ける様に逃げた。
「イズミ……大丈夫?」
ミクマリは新たな泉の巫女の代表を案じる。
「うん、覚悟は出来てた。だけど、今のあたしの霊気じゃ到底足りない」
イズミは悲し気な眼で輝く森に遊ぶ霊魂達を擦った。
「私が霊気を分けて上げるわ」
「ミクマリも疲れてるでしょう?」
「良いの。泉の巫女の役目に手出しは出来ないから、責めて……」
ミクマリは友人の背に張り付いた。
――もしも、また何処かの罪無き里や村が泯滅の危機に瀕するくらいなら。
赤子の魂が哀しき夜黒に染められるくらいなら、残りの霊気を全て上げてしまっても良い。
「ありがとう。蛭子神を追っ払うのは手伝って貰ったんだけどね。あたしで出来る事は、あたしがしなきゃ」
胸に回される友の手を撫でるイズミ。未熟な彼女の器が強い霊気で瞬く間に満たされてゆく。
「何か、貴女が疲れてるなんて信じられないな。あたしも婆ちゃんも、平和に暮らし過ぎて磨きが足りてなかったみたい」
「平和な事は、掛け替えのない事よ」
ミクマリは霊気を分け与えると身を離した。
「思い知ったよ。このままじゃ、いつかここも上の村の様に泯びるかも知れない。あたし達が祀ってたのがあんなのだったのなら、もっと力を付けなくちゃ……」
「私も、里を失って漂泊の旅を続けているの。力を蓄えて、村の仇を討つ様にとゲキ様に言われてるの」
「辛い旅だね。あたしだったら耐えられない。歳も変わらないのに、尊敬するな。でも……」
友は言葉を吃する。
切なき瞳。
「……復讐なんてミクマリらしくないよ。それって、守護神様に言われたからだよね?」
それは理解者の瞳。
「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。私も、本当の処は分からないわ。若しかしたら惨忍事を働いた方達に、償って欲しいのかも知れない。こんな事を言うとあの方には絶対怒られてしまうけど……」
生き残りの娘が目を逸らす。
「守護神様じゃなくっても怒るよ。説得は無理だ。殺されに行く様なものじゃない」
イズミは肩を落とした。
「私が旅を諦めたとしても、ゲキ様は絶対に諦めないでしょう。御独りでも一矢報いようとする筈です」
「あの守護神様がミクマリに降りたのを見たけれど、恐ろしい程の霊気だった。あの偉そうな王の使いや、上の村の惨事だって、比べたら可愛いものだ。ミクマリだって充分に凄い。それなのに、まだ鍛錬を続ける必要があるの?」
「どうかしら……。相手の術師集団は恐ろしい者達だった。殺された妹は私よりも巫女の才覚に恵まれた子だったけど、それでも負けてしまった。ゲキ様は、彼等を斃すには、この身を神を降ろせる大器と成さねば為らぬと仰っています」
過去に師が云った事を反芻するミクマリ。
疑問が浮かぶ。里の儀式の間には祀られたる守護神が居た筈。彼は妹巫女に頼まれ私を救い出したと言っていた。
心的な可不可は置いても、今のミクマリの霊気であれば平凡な村を亡きものにするのはそう難しい事ではない。
襲撃の際のミクマリには敵の力量を測る巫力は無かったが、今にして思えば二人が負けたのが不思議でならない。
本職の巫女であった実妹が敗北を喫し、守護神が彼女や村から離れ無力な里長のみを護らねばならない程の事情とは何なのだろう?
敵がそれ程までに強大で逃げば為らないとして、それが里を襲った理由は何か。敵の強さ以外にも何か理由があるのか。
「ねえ、ミクマリ。ちょっと疑問に思うのだけれど」
イズミが首を傾げ訊ねる。同じ疑問だろうか。
「何かしら?」
「神代に成る必要があるって言われたって、守護神様も神には違いないんだよね? ちょっと意味が分からないのだけれど……」
「守護霊の神和は血が繋がってさえいれば高位の神代に成らなくても出来るの。私達が借りようとしているのはもっと別の神様」
「でも、あのゲキって霊からは神気を感じなくない? 蛭子神もそうだったけれど、守護“神”なんでしょ?」
イズミは何かを思い出したのか、身震いをした。
――何だそんな事。イズミはゲキ様が悪いものではないのかと心配しているのね。
ミクマリは咳払いをし、口の中を唾で潤すと語り始めた。
「私の里では、姿を見せない山の神と御先祖様を祀っていました。霊魂と云うものは、通常は亡くなってから月日が経つか寿がれれば、黄泉か高天に還ってしまっているものです。それを子孫が再度祀る事で魂を覡國に召喚し守護霊にとするのです。人の霊である守護霊も強ければ神に成る。ゲキ様の神格化もずっと昔に済んでいる筈です」
「送られたり引かれたりしてからでも構わないんだ?」
「候補に出来るのは高天に住む祖霊だけで、神格化するまでの期間は三十三年から四十九年と云われており、その霊魂の巫力や霊感に依って短縮されます。真っ当な巫覡であれば、三年から六年程度の御祀りで済むと云われています」
ミクマリは嘗て妹に教えて貰った話を引き出しながら語る。
「ゲキ様は、生前に大きな巫力を持った男覡だったと伝え聞いていますので、立派な守護神でも在らせられます。なので、神気を宿らせている筈なのですが……」
ミクマリは真の神気に触れた経験がある。幼い海神の神気は、霊気や夜黒とは違う畏れ多いものであった。
「うん、だからそこだよ。気になるのは」
「恐らく……守護者としての務めを果たせず、里を泯ぼされた所為で、黄泉に引かれ掛かって神気を失ってしまったのだと思います」
これまでに霊感のある者達がゲキの気配を察知した際の反応は、余り好いものとは言えない。彼の事を悪霊と呼んだり、震え上がったりしていた。
ミクマリは薄々感付いていた。ゲキがこれ以上憎しみを募らせれば、覡國に仇為す悪鬼悪霊へと成り果てるのだと。
「実は御先祖様じゃなくって、黄泉から来た悪いものって事はないよね?」
イズミは首を縮め、空の様子を窺いながら囁く。
「まさか。私が神代に成らなくても憑依が可能なのは、血縁の証よ。神でなく霊でも降ろせるのは同じだし」
ミクマリは笑った。
「何れにしても、ミクマリの存在や仇討ちの成否が彼の今後を占う訳だ」
「うん、仇討ち何て恐ろしい事、本当はやりたくないのだけれど、自分の御先祖様が覡國に仇為す存在に成り果てるなんて、絶対に厭だから……」
「だから取り敢えず修行しながら旅をしているって訳ね。優しいなあ」
これは優しさなのだろうか。ミクマリは確信が持てなかった。
「あたしの村も祖霊信仰始めようかなあ。守護霊にそれだけの力があれば蛭子神も抑えられそう。大昔には立派な巫覡が居たって婆ちゃんから聞いてるし、元々は上の村も血筋は同じらしいから、死んだ皆も喜んでくれそう」
「そうね。本気で考えるのなら、降霊術や神和についての知識を伝授するわ」
「良いの? そう言うのって不出じゃないの?」
「私達はもう里も無いし……」
「ああ、ごめん。本当、あたしったら……」
頭を抱えるイズミ。
「構わないわ。それよりも、私の里と同じ何かを何処かに残せた方が嬉しい」
「分かった。実際に祀るかは婆ちゃんと相談するけど、話だけは後で聞かせて」
「喜んで」
友人同士、巫女同士、長同士で手を取り見つめ合う。
「でも、その前にもう一つお願い……」
イズミは見上げた。
空では相変わらず無数の水子達が遊んでいる。
「あたしが初仕事をやり終えるまで、傍で見守って居て欲しいな」
「勿論よ。だけど次の黄泉路までには、もう少しだけ間があるでしょう? 今夜だけ……今夜だけは、あの子達を遊ばせてやりたい」
「そうだね、責めて夜が明けるまでは。ミクマリは本当に優しいな」
命の星空の中、二人の若い巫女が身を寄せ合う。
揃って手を伸ばせば、無垢なる魂が尾を引き絡み踊った。
太陽が山間から顔を出す頃、無数の水子の霊達は二人の処女の手に依り滅せられた。
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