巫行128 北来
「アズサ! そっちに行ったわよ!」
ミクマリが声を張り上げる。
「はい、姉様! ……ほいっ!」
アズサが弓を弾くと光の矢が飛び、夜黒き悪霊を打ち砕いた。
サイロウが治めていた國より北方の地。彼が術や神器を求め、禍事を撒き散らしたであろう道筋を辿って、姉妹は再び沓を踏み締め地上を旅し始めた。
これまでの地に比べて矢鱈と悪霊と鬼が多く、その気に当てられた動物の精霊等も邪気を醸し、出逢う人々に笑顔は皆無。彼等は身体と魂が離別していなければ、それだけでましと言える程であった。
「この地も、立ち直るのは難しいかも知れない」
ミクマリは破壊された村と忘我のままに空を見上げる人々を見やり、唇を噛み締めた。
無論、姉妹はこの様な村落や穢れに当たる度に、その巫力と術力を以て解決へと心を砕いた。
二人の力を以てすれば、大概の悪鬼悪霊は玉響の間に滅ぼされ、水術と薬学に依り身体の傷も解決を見た。
しかし、幾ら慈愛と快活の心根を以てしても、一度絶望を突き付けられた人々の心を救うのは容易ではなく、悪逆の王の死を告げても虚しい返事が返るばかりであった。
「姉様、さっきのお父やんが!」
アズサが声を上げた。さっきのお父やん。村民の一人に、特に怨み哀しみの深き者がおり、彼は生きながらにして赤黒い靄を纏っていた。
ミクマリの手に依ってその陰鬱な気は一旦は祓われたものの、邪気や夜黒は根源を祓い癒さねば無限に湧き続けるのである。
「わしゃ、ほんまに“だぼ”や。可哀想や思うて食ってもうた。わしゃなんぞ幾らでもあだけるがええ!」
男の身体が急速に靄に包まれる。注意して見ると、その邪気の供給は本人からだけではない。地の下や他の脱力した村民からも流れ込んでいた。
「……! アズサ、下がって!」
霊気を練り、男へと駆けるミクマリ。
「あかん、鬼に成ってまうなー」
アズサは指示に従い距離を取る。
「確りしてください! 哀しい事は考えないで! 貴方が悪いのではないわ!」
呼び掛けるミクマリ。
半鬼半人は応えず。鬼や夜黒に染まる者はその霊気との比率に従い正気を失ってゆく。力弱き者程、早くに鬼へと成り切る。夜黒を祓えども、残りの霊気が少なければ魂が生きるのに堪えぬ。
則ち、一般の人や鳥獣であれば、片足を鬼へと差し入れた時点で待つのは死のみ。
「何があったか話して下さい! 御力に為りますから!」
「あゝ、わしゃ、食った……苦しんで死ぬのは可哀想やと思って殺して、一人じゃ寂しかろ思うて……」
鬼が邪爪を繰り出す。ミクマリは飛び退き躱す。負傷への忌避ではない。自身の強過ぎる気や、神威の衣の清めを恐れての事だ。
「姉様、もうあかん! 御祓いしりー!」
アズサの警告。
「食った……食った……もっとお前達が早く来てくれれば! お前達も喰ってやる!!」
男の額から角。拳の指が異様に伸び、その爪は更に長く伸びた。
「ま、まだ……」
祓えば彼は死ぬ。しかし、心が鬼より戻り、自ずと清めを放てば助かるやもしれぬと、一縷の望みを賭けての説得を続ける。
しかし、言葉を編もうとすれども、口の中で絡まり出て来ない。
唐突、鬼の頭が爆ぜた。
己の音に命ずるは調和ノ霊性。上空へと飛び去る光の一矢。
鬼頭は血肉ではなく、赤黒い靄と砕けた白い骨を散らす。
「ア、アズサ!」
ミクマリが振り返る。
「姉様の、くそあんごー!」
祓の気の籠った罵声がミクマリの提髪を激しく揺らす。その向こうに居た、首無し鬼が清め滅される。
「……あれ以上、ほかっといたら、“あたん”して他の人にまた感染るやん。鬼の御役目、忘れたんけ?」
アズサの目は座っている。
「ううん、でも……」
ミクマリは祓われた鬼を見やった。そこには頭蓋を欠いた骨が散らばるばかり。
人間として語り掛け、異形と成っても、それはまだ彼女にとっては人間と地続きであった。初めから鬼であれば素直に祓えるが、目の前で変じればまだ救い様があるのではないかと思案してしまう。
「姉様、あ-成ったら、どもならん。鬼があたんしたら、夜黒が増えてまうさー」
「うん……」
妹の説教に項垂れるミクマリ。
「そやけど……あっこ」
アズサが指をさす。その先には見物人。姉妹が幾ら奉仕しても、心ここに在らずだった人々が、こちらを見ている。その瞳には、感謝や憐れみ等の火が燈っていた。
「鬼さんは、出やる時に人の冷やこい心持っていかはるんやにー」
「うん、そうだね。そう……ありがとう、ごめんね」
ミクマリは消えてしまった男の御霊に感謝と謝罪の心を捧げた。
一人の鬼化を切っ掛けに、村民達は立ち上がった。この地は嘗て森の神を祀り、平和で豊かだったという。しかし、家々は倒れ、森も焼け、彼等の語る神の気配も感じ取る事が出来ない。
「あ、あの。もし宜しければですが、私と一緒に里を興しませんか?」
ミクマリが声を掛ける。
「ここの巫女様に成ってくれるんか!?」
村民が歓喜の声を上げる。
だが、ミクマリが自身の里興しに加わって欲しい旨を伝えると、彼等からは言葉の応援こそは貰えたが、首は横に振られた。
「地が死に、神が死のうとも、ここが良いのだ」と言う。
姉妹は彼等の意志を尊重し、多少の力添えのみを行って村を後にする。
「あの人達、平気かいなー?」
アズサが振り返る。
「分からない。でも、やれるだけの事はして上げた。後は彼等次第ね……」
不安げなミクマリ。彼女は振り返らない。
北の地では、幾つかの建て直しの難しい瀕死の地に遭遇した。ミクマリはその都度に「共に生きませんか」と誘った。しかし、彼等は一様にその地を離れる事を拒んだ。
或いは、戦乱や資源の減少に依り、村同士の関係が悪化した地に出逢った。当然、仲裁に入り、争いの根を断った。そして、戦乱に依り人が減ったのだから、村を合併してはどうかという建設的な意見を提示した。
それでも彼等は、容易には頷かなかった。長く住み慣れた土地は、住人達を祝い続けていた筈だが、時折、それが呪縛へと変ずる事がある。
この旅でも多くの哀しみや救いと出逢ったが、今のミクマリにとって一番印象深いのが、その土地の呪縛であった。そして、自身もまたその呪縛に捕らわれている事を自覚した。
新たな里を興す為には人が必要である。人は“何処か”に住んでいる。詰まり、彼等にその地を棄てろと言わねばならない訳だ。村丸ごとが決断して移動する話は珍しくない、だが、何処かの出来上がった村の一団をそのまま引っこ抜いても、それは里興しとは違うだろう。彼等は彼等なりのやり方や考えがある筈だからだ。ミクマリの旅の終わりは、自身の慈愛の考えを体現した里を作ってこそ達成されるのだ。
――本当に、里が興せるのかしら。
旅が進む程に募る不安。
目の端で、アズサがこちらを覗き込んでいるのが見える。
「ま、うちの“御守り岩”も置いたしなー。だんない、だんない!」
ころりと表情を変えるアズサ。彼女は先に石術、道返ノ石の才が発覚し、その修行を行っていた。
空気に霊気を這わせられる日誘ノ音を持つ以上、戦闘においては特に役立ててはいなかったが、石術の特長である御守り作りには精を出している。
行く先々、そこに暮らすのが人であろうが獣であろうが、特徴的な岩を見る度に熱心に霊気を込めて、邪気や禍事を退ける場へと変じて来ていた。
「そうね。だんない、だんない」
ミクマリも妹の切り替えに合わせて笑顔を努めた。
さて、幾らサイロウとはいえ、彼も人間。全ての村々を虱潰しに回った訳ではない。
運良く彼が素通りした村や、諸事情で手を下さず命拾いをした集落等もあった。
そういった地では、少し変わった話を耳に出来た。
「うちんとこの男覡がむっつの童子やって知ったら、殺さず見逃してくれたんやわ。暴れるには暴れて行きおったが……」
「噂程、悪い人やないと思ったんじゃがなー、おらが村では鬼退治をしてくれたからのう」
ほんの気紛れだろうか、思う処が在ったのだろうか、彼の生んだ災禍を前にすれば無にも等しい慈悲や善行だが、それは確かにミクマリの心の琴線に触れる挿話であった。
それから旅は進み、破滅の地は徐々に清められ、花が散り実を結ぶ木々が目立ち始めた頃。
ミクマリとアズサは、海の如く巨大な湖の在る地へと辿り着いた。
「姉様、あれ! ぎょーさん路が繋がっとるなー。村も大きいなー!」
小山から見下ろす風景。湖の傍に大きな集落が方々へと路を伸ばし、小さな村落へと繋がっている。
「大きな処ね。栄えているのかしら」
広い地であれば、それだけ負の連鎖も運命の糸の絡みも強くなる。ミクマリは帯を締め直した。
しかし、大集落に近付くと、拍子抜けをする事となった。
路を行く旅人が言うには、サイロウはここを訪れて多少の悪さはしたものの、急に引き返してして去ったらしい。
被害も大きくなく、対比して里も大きかった為に、その埋め合わせは早くに済み、既に元の暮らしに戻っているそうだ。
大集落の手前の村で噂を拾い集めると、どうやらこの地がサイロウの旅の終着点であり、時期的にも國へ引き返してミクマリに討たれる直前の事だと分かった。
「あっ、姉様。結界!」
「ほんとね」
集落に入ると、空気の変化を感じた。
「姉様、何で結界張ってるんやと思う?」
直ぐに問い掛けてくるアズサ。ミクマリもいつかの人喰い鬼の村を思い出していた。
「うーん。霊道の祓いかもしれないし、旅人の憑けた悪霊を落としてるだけ、かも?」
「そやろかー。ちいと聞いて来るさー」
アズサが駆けだし、その辺の草叢で何かを採っている壮年の男性へ近づいた。
「なーなー、おじやん」
「何や、見ない童だな」
「旅の巫女やにー」
「ほー! ちっこいのにな。よー、おいんなー」
「おじやんは鬼け?」
明け透けに訊ねるアズサ。
「ふっふっふ……ばれてしもーたか。その通り、おらは鬼じゃあ! お前の事を捕まえて、頭からばりばりと食ってやろー!」
石鎌を振り上げる男性。目が笑ってる。
「もー、おじやん嘘ばっかやにー」
アズサも笑う。
「ま、あんた等の話は聞こえとった。この里の結界が気になるんじゃろ?」
「はい」
ミクマリが返事をする。
「まだ旅人さんには知られてないかあ。ぼちぼちかと思ったが」
男性は意味深に呟くと、腰を叩いて立ち上がった。
「勿体振らんと教えてくれへんー?」
アズサがせがむ。
「うむ、教えて進ぜよう。この里……というか、この村の外れに祠があってな。湖の神様とは別に、“邪神様”を祀っているんや!」
おっさんが悪い貌をしてアズサに迫る。
「……」
アズサは目を丸くしている。
「穢神ノ忌人が居はるんやろけ……」
姉を振り返る童女は不安気だ。
「大丈夫よ、穢神ノ忌人は邪神を抑える御役目だから、それ自体が恐い人じゃないの」
苦笑するミクマリ。
「“くさめのいわしなんちゃら”は知らんが、邪神様には巫女は付いとらんぞ。邪神様の好きな様にさせちょる」
男声の口から飛び出す驚愕の一言。
「「えっ!?」」
「そんな驚かんでも。まあ、一応は結界は張ってあるし、湖の神様に仕える巫女さん等の許可と監視もあるから、平気平気。折角やし、おらが邪神様の処へ案内しちゃるわ!」
おっさんはそう言うと、汚い歯を見せて笑った。
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だぼ……アホ。
あだける……転げ落ちる。
あたん……八つ当たり。
おいんなー……いらっしゃい。