巫行125 報告
暴虐の王を斃した水分の巫女は妹の待つ我が家へ帰った。
待ち人は愛しい人の帰宅を知ると、心身霊を一杯に使って喜びを表現した。
しかし、辺りを見回し、戻るべき者の一人が欠けてしまっている事を知ると、涙を流した。
当の神を失った巫女は泣かずにアズサを励ました。そして、妹から「意地くさらんでええよー、豪かったなー、しんどかったなー」と気丈な愛を返されたが、首を振って微笑を浮かべただけであった。
「大丈夫よ、アズサ。私は大丈夫」
ミクマリとゲキが死地へ赴いた後、アズサは所在無く空を眺めていたらしい。そうこうしている内に、うとうとしてしまい、夢の中で姉が斬り捨てられるのを見たという。
それで小屋で両手を組み合わせていたが、夢を反芻する程に不安は募り、愈々堪らなくなって、自身の霊気を込めたお祈りを空の主へ向かって叫び続けたのだそうだ。
「うちのお祈りのお陰やなー?」
笑うアズサ。
「そうね」
微笑むミクマリ。
「暫くはゆっくりしーへん? 里興しって、めっさ時間掛かるんやろー?」
アズサは、小さくなった耳朶に垂れる友情の印を弄りながら言った。
「んー。実はね、明日には、もう一度旅に出ようと思うの」
ミクマリは帰宅を果たしたばかりだったが、既に“次”を計画していた。
彼女がサイロウを斃した事は、王の國の者達は知っている。術師達も逃げはしたが、遠巻きに気を感じて戦いを視ていた者もおり、帰りに通り掛かった時には、勝者がどちらかなのかは誰しもが知る処となっていた。
彼等の中には王の命により手を血で染めた者も多く在り、ミクマリは誰かの代わりに謂われも無い謝罪と懺悔を受けた。
彼女は自身の中にも鬼の罪が残っているのを知っていたので、「皆で水に流し合い、赦し合いましょう」と返し、その地を後にした。
王のお膝元は良いにしても、噂が届くに時間が掛かるであろう遠方や、傷痕生々しい筈の北部の地、毎日の様に尖兵と戦い続けている火垂の衆、王の任務で動いている御使い等、早めに報せてやらねばならない人々が数多くいる。
自身の足であれば、噂よりも早く駆ける事が出来る。ミクマリは次の己の役目は、各地へ安心を伝える事だと考えたのだ。
「分かった。そやったら、酔い止めぎょーさん煎じとこなー」
アズサは、姉の背へ負ぶさる気満々の返事をした。
妹との再会を済ませた後、山を佑わう神へ、守護神の神去りと王の征伐を告げる。
女鹿は守護神が去った事を残念がったが、直ぐに出立する事を知ると、娘の事をしつこく心配した。
「もう、大した危険はありませんよ」
山神へ笑い掛けるミクマリ。
『そう? それなら良いのだけれど……』
その晩ミクマリは、慣れ親しんだ山の清流にて水浴みを行った。
彼女にとっては身の清めも大切であったが、水垢離を行う事は心の調律にも繋がる。
アズサが川水で一緒に遊びたがったが、外して貰い、月下で飽きるまで舞を行い汗を流した。
敢えて身体を癒さず、心地良い疲れと共に流れに身を任せ、独り星空を眺める。
――これからはもう、覗かれる心配もないのね。
仕様も無い事を考え、寂しい笑いを零す。
身体を川から引き揚げ、術で乾かし衣に手を伸ばす。
ふと、視界の隅に違和感を感じた。自身の身体にある筈のものが見当たら無い。
「嘘……」
――御印が……御神胎ノ術が消えてる!
何度確かめても、胎にあった筈の赤黒い印は見当たらず、唯、己のなだらかな丘陵と臍の窪みがあるだけであった。
施術者が去った故か、それともあの女神の再生の業の所為か。どちらかは分からぬが、神代の任は無言の終わりを告げていた。
神の器でなくなった“それ”は、虚しい洞か、それとも人の女のものか。
「ゲキ様……」
失って哀しんだ機能を取り戻せる希望が見えた。だが、彼女の呟きが物語ったのは、別の感情であった。
翌朝、大声ノ術に依り寝穢い娘が目覚め、新たな旅が始まった。
妹を背負って最初に訪れたのは、豺狼の國より山一つ隔てた地。復活の大地が火垂衆の村。
既に届いているかと期待をしたが、どうやらまだ風は未踏らしい。
英雄娘の到着よりも少し前に、王の御使いによる攻撃があったばかりらしく、王の死を知らぬ配下達は無意味に伸されており、火術師の娘が敵に向かって「だらしがないぞ!」と怒鳴っている最中であった。
ミクマリがそこへ割り込むと、歯抜けの火術師ホタルは大いに喜んだ。
それから、サイロウを斃した事を告げると「何で、戦いにあたいを呼んでくれなかったんだ!」と地団太を踏んだ。
「しかし、漸く落ち着いたってーのに、ちょっと面倒になりそうだな」
ホタルは栗毛の短髪頭を掻いた。
この地ではサイロウの配下を撃退するだけでなく、希望した者を味方として取り込んでいる。それらは元々は余所の村や、サイロウの擁する國の民だった者だ。
彼等の多くは戦士であり巫覡で、湖の復活を遂げた地で新たな任に就いている。帰郷の為の最大の障害が居なくなったと知れば、里心が起こるのも無理が無いであろう。
「お前はどうせ、何もせんだろうが」
その父トムライがぼやいた。
結局、あれからのホタルは盆地の里長へは就かず、面倒事を全部父親に押し付けていた。今は、戦いそのものよりも婚約者となった青年の成長が一番の楽しみらしい。
もう一つの報告、ゲキが覡國を去った事を告げると、ホタルは頭を掻いて「そっか、そりゃ残念だ」と表情を落とし、トムライは男泣きに泣いた。
悔やむ二人を見て、ミクマリは少し誇らしくなった。思わず頭上を見上げたが、そこには翡翠の揺らめきはおらず、直ぐに胸を悄れが支配してしまった。
「処で、カエデさんは?」
ミクマリが訊ねる。
「カエデかー。あいつは何処に居るか、ちょっと分からないな。春になったから、山神と一緒に植物や動物の様子を視て回ってるんだ」
元石の社の流派、紅白の衣装と、胎に神の器。同じ気持ちを共有した友人への報告は外せない。
ミクマリはその話を聞くと、カエデを探す為に早々に村を出た。
「なー、姉様。別にカエデに会わんでもええんちゃう? 探すのめんどいやん」
背中のアズサが気怠そうに言う。
「どうして? あの子も一度はサイロウの手下だったんだし、出身の村の事も気になるんじゃないかしら?」
ミクマリの声は少し弾んでいる。
「まー、ええけどさー。……処で、ホタルもホタルのお父やんも、うちの事、何も言わへんかったなー?」
そう言えばそうだ。アズサは彼等と面識がある。何日も一緒に生活をして居たのだから、顔や体が変わっていれば気付いても良さそうなものだ。
「あんま、覚えられとらんかったんやろか? うちも結構、頑張っとったんやけどなー」
渋い顔をして唸るアズサ。
「忘れられたんじゃなくって、今のアズサが自然で気付かなかったのかも」
当然だが、肉体がミクマリの実妹のものに変わったアズサは、姉と顔立ちが似ている。
「そやにー。うちは姉様と姉妹やもんなー」
アズサは満足気に言った。
二人はカエデを尋ねて、盆地の村々を行脚する。ミクマリが作り出した湧き水の池は健在。幾つかは湖と地下で繋がっていた為に、湖の復活直後に失われていたが、どの村も最後に訪れた時よりも豊かになっていた。
神や精霊の気配こそまだ無かったが、山から移された若木や、初々しい春の野菜が輝いており、最近は獣も獲れる様になったらしく、皮を干している家も見えた。
霊感のある者は里の救い主の事を良く覚えており、誰しもがそれぞれに持て成そうとして来た。幸い今回の持て成しは芋虫や蛇ではなかったが、一々引き留められるもので、忙しさを強調してカエデの行き先を訊ねて逃げた。
カエデの足跡を辿り、幾つかの村を経る。行く先々での歓迎と、尋ね人の好評。
カエデは攻め手側の女であったが、心根優しく、多少の治療術にも通じており、その容姿と端正な身の熟しは里内で人気が高かった。
ミクマリは噂を聞く度ににこにこし、アズサは何故か不機嫌になった。
人気者の行く先は確りと捕捉されており、陽が沈むまでに彼女の滞在する村へと辿り着く事が出来た。
「ミクマリさん!」「カエデさん!」
夕陽の中、ひしと抱き合う娘が二人。その傍で誰かが唾を吐いた。
カエデはサイロウが討たれた事を知ると、長く息を吐き、礼を言った。
「もしもまた、彼が攻めて来たらどうしようかって、心配だったんです。折角、皆落ち着いて、草木や獣も戻って来たのに」
矢張り彼女は、この地で生きると肚を決めている様だ。「神代の力を使い、山神と共にこの地の自然を守り続けます」ともう一度語った。
ミクマリは御神胎ノ術を失っている。それは、抜け駆けの様な後ろめたさと、絆の薄まりを感じさせ、口に出す事は出来なかった。
カエデの逗留する小屋でアズサと共に世話に為り、一晩、旅の語らいに花を咲かせる。
ミクマリはここに来て漸く、アズサがどうもカエデを嫌っているらしい事に感付き、旅の話はなるべく妹への自慢を取り上げる様にした。
「なーなー、カエデ。うち、何か変わったと思わん?」
アズサが歯を見せ、頬を指差す。
「アズサさんが? 霊気は相当強くなった様に感じますけど……」
首を傾げるカエデ。
「分からへん? 分からへん?」
しつこく自身の顔を指すアズサ。
「あっ、少し御痩せに為りました? 前はもうちょっと、狸みたいな顔をしてましたよね」
「たぬ……」
アズサは絶句し目を丸くした。ミクマリは袖で口を覆って密かに笑った。
「姉様、笑ったやろ? うちな、前のアズサとは違うんさー! 姉様の本当の妹に為ったんやにー!」
じたばたと暴れ始めるアズサ。
結局、アズサの死亡から甦生までの経緯も語る事となった。
カエデは知ったは良いものの、言及に窮した様だ。妹や実妹の死等の触れ難い話題の上に、甦りは呪術のまがい物か伝説上の話。社の流派や王の御使い時代にも眉唾な話しか耳に入れていないという。
「元々ミクマリさんの妹だと思っていたし、自然過ぎて気が付かなかった」と結び、アズサはその言葉に嘘が無い事を検めると、漸く機嫌を直したのであった。
斯うして、王の國に隣接する里への報告は幕を閉じた。
「姉様、次は何処行くんけー?」
「そうね、次は……」
ミクマリは遠くの空を眺める。彼女の後始末の旅は、まだまだ始まったばかりだ。
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意地くさらんでええ……意地張らないで良い。