巫行124 太陽
「魂が出て来ぬ。残念だ。寿いでやろうと思ったのだが……」
サイロウが呟いた。
死んだ筈の娘の身体が赤き泡を上げながら消え失せてゆく。
「また“欲深なる母”か? それとも、新たな鬼が来るか?」
男覡は細き身体に、聖なる祓の気を纏い、高め始めた。
ミクマリだったものが裏返り、清らかなる水の蛇へと変じた。その身には一点の赤も黒も無し。
「これは、神気か!?」
飛び掛かる蛇の体当たりを躱すサイロウ。
辺りの水気が蛇の気配に呼応し始める。
サイロウの足元から暖かな水。その水は膜と成り、彼を包み込もうとした。
「大した気ではないが、これは何だ? 何が起こった? 高天の仕業か?」
王は繰り返し自身を包もうとする水の皮膜から逃れつつ、天を睨んだ。
しかし、空はいつの間にか鎖されており、太陽を隠していた。
「下等な雨の神か? まあ良い」
世燃ス焔が燃え上がり、水の抱擁を拒絶する。
「神なら斬る! 俺を斃すのは、同じヒトで無くてはならぬ!」
達人の一太刀。
蛇が真っ二つ。
しかし、三つ数える間に再生。次は蛇頭ではなく、髪の長い女の裸体が生えた。
透明な女は這い寄ると、男の身体を抱き締めようとした。
「蛇神は好かぬ!」
二色の気を込めた最強の布都撃。
「再生を司るならば、その気が失せるまで斬り刻むまでだ!」
神殺しの刃が乱れ煌めく。
首撥ね、胴離れ、乳房散らす。
しかし蛇神は、死ぬ度に甦った。
「何度でも言う。神は好かぬ!」
刃に宿るは憎しみの焔。蛇神の身体を溶かし、散らし、穢し尽くす。
愈々霧と為り、神気は残滓を香らすのみ。
「はっ!!」
気魄と共に目を見開く男覡。穢し犯す、四方津ノ風が吹き荒れて、霧を黒く染め上げる。
続いて祓の発気。
光に包まれ、付近一帯がハレの気配を拝んだ。
「未だ天は晴れぬか。雨神では無かったのか?」
一仕事を終え、曇り空を見上げるサイロウ。
しかし、彼は一瞬眉を上げると、顔を正面へと向けた。
……ハレた空間に一人の女が立っている。
「貴様は、誰だ?」
王は問う。
その女は、顔面甚だ美しく整い、黒く艶やか髪を遊ばせ、清き紅白の衣装に身体を包んでいた。羽衣や千早も身に着け、そのどれにも肌理細かく、煌びやかな刺繍が施されている。
女は不肖な微笑みを浮かべ、耳を労わる様に摩った。神気が薄っすらと漂い始める。
「聞こえぬのか? 誰でも良い。神は斬る」
水術に依る加速。目にも止まらぬ振り抜きが、女の顔へと水平に迫る。
艶やかな桜の花弁が開き、その冷たき死に接吻る。
かちり。刃へと白い歯が立てられた。
粉々に砕ける剣。
「……有り得ん!! 神を斬る刃を噛み砕く等!!」
無表情破れ、折れた刃を愕然と見詰めるサイロウ。
「女の顔を二度も斬り付けるとは、無礼を通り越して溜め息しか出ぬな」
女は漸く口を開いた。それから口に残った刃を摘まみ上げると、しみじみと破片を眺めた。
「何処かで見た刃だ」
そう言いつつも、その辺へと放った。
「貴様、一体何者だ!?」
猛る男から立ち上る霊気と夜黒。燃える魂。
「喧しい人の子だ。見れば分かるだろう? 女だよ。どれ、証拠を出してやろう」
女は衣の袂へ細く科やかな指を掛け、その印を露わにした。
豊かな実りが二つ零れる。
「どうだ? 女であろう?」
笑う女。
「どうでもよいわ」
サイロウは折れた刃の切っ先を向け、女が無防備であるのにも構わず、突きを繰り出した。
白く柔らかな左胸がそれを根元まで受け入れる。
「手応え有り。……だが、まだ心の臓は動くか」
眉間に皺、白き歯を軋ます最強の男。
「せっかちな男だな。童貞か? もっと奥まで挿れてくれんと分からん。どれ、私が手伝ってやろう」
女は唇と胸から血を静かに垂らしながら、今度は自身の胸の傷に指を掛けた。
自ら引き裂き、開かれる胸の割れ目。紅き肉と、白き胸骨。
しかし、その奥に鎮座するは血液送る臓器に非ず。
真っ赤に、真っ赤に燃える晴れの根源。本来、遥か彼方に存在する筈のそれ。
「貴様は、若しや……!?」
熱の核が光を発する。何かを悟った男の姿が、短い音を立てて蒸発した。
「我が國に、還りし、命を寿ごう」
奏上される祝詞。彼女は巫女か。光の中、玉響に肉を失ったサイロウの魂を天へと招いた。
「気前が良かろう? 我は祈ろうとも、祀ろわぬとも、全てを等しく天から照らす神であり、巫女だ」
女神が語ると、辺りを誕生の如き爆発が包んだ。
それから、光が消え、女神の姿も男覡の気配も無くなっていた。
残ったのは、倒れ伏した一人の茜袴の娘であった。
娘は静かに起き上がり、空を見上げた。
黒く輝く瞳の見る先には、いつしか春茜が訪れていた。
「ありがとう御座いました」
太陽に向かって一礼をする巫女の娘。その衣も、髪も、肌も、完全であった。
娘は暫く、そこに佇み続けた。
幽かな気配が漂う。
『……良くやった、ミクマリよ』
娘の元へ現れたのは、小さな翡翠の霊魂。
「はい、ありがとうございます」
自身の神へ微笑み掛けるミクマリ。
「ゲキ様、御無事だったのですね」
『そうだな。奴が祓えたのは、俺の鬼の面だけだ。力を殆どそちらに向けていた為、こんな無様な姿に為ってしまったが』
その熱無き炎は、斜陽の輝きに呑まれて今にも消えそうであった。
「彼は、怨みも憎しみも全て捨てて、その御霊を高天國へと移しました」
『そうか。お前は成し遂げたのだな』
「……いいえ、これはまだ始まりに過ぎないのです」
『そうだったな』
二人は見詰め合う。太陽が沈みゆく音だけが、互いの間を通り過ぎる。
『ミクマリよ。お前の新たな旅立ちだ。愛する我が巫女よ、お前の神は祝い、寿ごう』
ゲキが言った。
「……はい」
にっこりと微笑むミクマリ。
『さあ、俺の事も寿いでくれぬか?』
「はい」
ミクマリは微笑を浮かべたままで答えた。
翡翠の揺らめきに額を着け、腕を握り合わせる。
『お前は、暖かいな』
満ち足りた霊声。
「高天に、還りし命を、寿ぎます」
巫覡、寿ぐ。
慈しみの祝詞は告げられた。
優しき光を祖霊が包み込む。
訪れる、さよならの時。師の気配が、守護霊の気配が、魂の連れ合いの気配が覡國を去ってゆく。
「ありがとう御座いました」
去る神へ礼を言う。
「次に会う時は、高天で」
ミクマリは泣かなかった。
彼が天に還ったのを見届けると、ぽつり。自身の本当の名を呼んでやった。
「さようなら」
それからミクマリは晴日を背負い、再び歩き始めた。
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