巫行012 蛭子
「ゲキ様。何処に行ってらしたの。それに、穢神ノ忌人って……」
空から現れた守護霊。水子の霊達は、その一際大きな霊魂から逃げる様に散って行ってしまった。
『霊気と言うものは誰しもが多少の濁りを持つものだ。俺が泉を探す時もそれを念頭に気を探ったが、この泉は見つけられなかった。それは、この泉に溜まる気の色が無色透明だったからか。それとも隠れるのが得意な者が潜んで居るのか……』
守護霊は質問に答えず、独り言ちた。
「ふうん。それは兎も角、泉の巫女達の秘密を探る様な卑しい真似なんて為さらないで下さい。私が恐れられた原因はもう分かったのですから」
語らいを妨害された娘は不満気であった。
『この泉は相当に穢れたものを祀り封じて居る。薄汚い、厄介なものをな。穢れた神に仕える巫女を穢神ノ忌人と呼ぶのだ。尤も、今の泉の巫女達では相当荷が重かろう』
「ちょっと! 黙って聞いてたら何なのこの悪霊は? 見破ったからって何だと言うの。婆ちゃんが引退したって、“その時”までに役目を果たせられる様にあたしが修行すれば、何も問題は無いでしょ?」
熱り立つ若イズミ。
『威勢が良いな。だが、今直ぐに男と契りを結んで子を産むのは無理だろう?』
「今直ぐに? 時期はまだ数年は先だって婆ちゃんが……」
一同、地の底から這い出る異なる気配に気付く。
一斉に見やったのは透き通った泉の底。
血が噴くかの如く底から漏れ出るのは闇か血か。
「何て濃い夜黒ノ気!」
ミクマリは霊気を練り始めた。
尋常ではない事態。濁り行く泉を睨む。
『あの泉の底は黄泉國に通ずる道の一つだ』
「黄泉路が開くって言うの? 早過ぎるよ、あたしまだ……」
若イズミは後退る。
水底に出来た洞が瞼を開く如くに開口する。
穴の中、襞の様な黒色の壁が引く付き、うねり、奥から白い泡を吐き出す。
『黄泉路は黄泉側からの意志で開かれるものだ。恐らく、この付近の水子の数や怨嗟の夜黒ノ気に呼応するのが切っ掛けだろう』
「山頂の村が誘い水になったの?」
『恐らくはな。六つ子の件も大きかろうが』
「ど、どうしよう。今直ぐにこの子達を寿いで逃がしてあげないと」
見上げる頭を抱える若イズミ。
「若イズミ、この水子達を寿げば良いのね?」
「ミクマリに出来るの?」
ミクマリは若イズミが呈した疑問に対して僅かな違和感を持ったが、縦横無尽に空間を飛び回る水子達を纏めて送る為に練気を始める。
――名も持たない幼子の霊達。それを「寿げ」と言った。
通常、巫覡や神、その候補でない魂は黄泉へ行くもの。
この子達は神に成るのか、それとも神の子? 逃がすとは一体どう言う事なのかしら?
「無垢なる水子の魂よ、高天へ御還り為さい」
ミクマリは高めた霊気を天へと伸ばす。強烈な霊気が白い柱を造り出す。
森は清浄なる光に包まれ昼を越えて白となった。
「まっぶし! 何て霊気なの!?」
若イズミは顔を大袖で覆った。
ミクマリは大盤振る舞いをしていた。通常はここまでの強烈な霊気を用いて祓を行う必要はない。
ただ、今回は時間と数の問題があった。加えて、友人への奉仕や自慢と言った処か。
「高天に還りし命を寿ぎます」
巫女が宣うと白柱は太く広がり、一帯を包んだ。高天國へと続く路が開く。
「……あれ?」
ミクマリは首を傾げた。
本来為らば、清められた霊魂は柱の導きに従い高天へと還る。
だが、水子の霊達は相変わらず宙を逃げ惑ったり、暢気に遊んだりして居るままであった。
「出来てないじゃない! 期待して損した! ミクマリは子供を育てた事無いの?」
「あるわよ!」
弟や妹だけでなく、里の子も勘定に入れれば両手両足で足りない程である。
「じゃあ、どうして!?」
『育児は手慣れておっても、その身で子を成して産んだ事が無いからだろう。水子の霊は真の母を経験した巫女にしか送る事は出来ぬ。言葉の意味も知らず肉体を失ったのだ。水子は高天への路の意味も知らぬ。故に、母が促してやらねばならない』
「糞っ、婆ちゃんの言った通りだ。このままじゃ“神”が出て来ちゃう!」
泡吹き続ける泉の洞を睨み、額に皺する若イズミ。
『同じく、通常の鳥獣の霊魂は送らず滅する事が多いのも、言葉の不理解が原因だ。神格化するか、鳥や兎の巫女でも居らねば寿ぐ事は出来ん。まあ、そんなものが居ればの話だが』
「もう、ゲキ様! 蘊蓄は結構です! あの穴から出て来るのは何なのですか? 黄泉に繋がるのに、神様が!?」
ミクマリの胸は不安ではち切れそうだった。
祓を受け付けない霊、本来は高天國に居る筈の神が黄泉國から現れる。
未だ、自身にのみ不透明な真実。
――水面が揺れた。
音。
心臓の鼓動の様な、水を飲み下す様な口籠った音が響く。
穴が痙攣すると、奥から夜黒色の巨大な“欠けた掌の様なもの”が這い出て来た。
『彼処より出るのは捨てられた神の子、“蛭子神”だ。神と言っても、そのものではない。悪迄はその一端であり、黄泉に引きずり込まれた神は最早崇めるべきものとは言えぬものへと為り果てている』
丸味を帯びた掌の次に現れたのは膨れた腕、無毛の大きな頭。
続いて現れたもう片方の手は親指が立てられ、唇に吸われていた。
その姿に、娘達は見覚えがあった。
「赤ん坊……なの?」
「あんなの追い返せないよ」
娘の心臓が高鳴る。下腹が逃げて引っ込む様な感触。
「あれを追い返すのが泉の巫女の役目なの?」
「……違う、違うよミクマリ。あれが出て来ない様に、ここに集まる水子達を送るのが役目なんだ。一応、退治すれば追い返せるらしいけど、あたしなんかじゃ無理だ」
夜黒の稚児が水面から這い出る。閉じたままの腫れた瞼。歯の見当たらない空を開き、天に向かって咽び泣く。
まるで、母を呼ぶかの様に。
「泣いてる……」
胸に手を当てるミクマリ。目の前に居るのは姿形は紛う事無き人の赤ん坊。
――どうして? 何時もゲキ様に叱られる要因を作る、あの感情が湧かない。
あれが纏うは、忌むべき夜黒ノ気。
『元は尊い神より産まれた御子であったが、“足りぬ”からと実の親に川へと流されたのだ。捨てられた恨みと悲しみに依り、黄泉の欲深い母に付け込まれ、地上に害為す役を担っておる。あれは神でも、水子を集めた悪霊でもない。赤子の姿を借りただけの黄泉から出し尖兵だ』
大木程の背丈の赤ん坊は、泉より這い出て拙く手を伸ばし、辺りに彷徨う水子を掴み取った。
「ああ! 止めて!」
声を上げる若イズミ。
鷲掴みにされた水子は、赤子の口へと運ばれて行く。
咀嚼。
「食べてる。……ね、ねえ、ゲキ様。あの子達はどうなってしまうのですか?」
ミクマリの身体は震えが止まらなかった。可笑しくも無いのに、否応にも口元が笑ってしまう。
『蛭子神に取り込まれれば、無垢な水子であろうとも、その霊気は夜黒と化し覡國に害為す存在となる。そう為ってしまえば、滅する外に道はない』
「……そんな、止めて! 止めて上げて!」
ミクマリは、食事を続ける巨大な赤子に向かって走り出した。
『蛭子神を斃せ。見てくれに惑わされるな。お前の巫力を持ちて黄泉の尖兵を滅せよ! それが犠牲になった無垢なる水子への弔いだ!』
師の叱咤。
若き巫女の震えが消え去る。
「はいっ!」
ミクマリは両掌に祓えの霊気を込めて飛び掛かった。
大地を蹴り、純白の衣を翻し、提髪激しく震わせ宙で回転。
赤子の頭頂部を白く光る両腕で衝いた。
赤ん坊の悲鳴が耳々を劈く。
「何て軽業だ。ミクマリは武芸者なの!?」
肩耳を塞ぎながらも驚愕の声を上げる若イズミ。
『あれは憑ルべノ水の水術に依り、身体の水気を調和ノ霊性を以ちて操作する法だ』
赤ん坊は夜黒ノ気を散らす事もなく、攻撃者を追うこともせず、再び水子達を掻っ攫い食んだ。
「食べないで!」
ミクマリは自身がまだ力に枷を掛けたままだった事に気付き、もう一度霊気を練る。
今度は手加減無し。祓いではなく、只滅する為の一撃。
片手に集めた霊気が、聞かん坊を打ち薙いだ。
頬への直撃。
閃光夜を駆け、赤子の頭が夜黒ノ気と共に弾け飛ぶ。
「凄い、やっ付けちゃった」
若イズミは感嘆の声とその身を弾ませた。
『まあ、堕ちた稲霊と大差の無い霊気だからな。あの程度の神では修行にも為らんわ』
頭部を失った神の身体が泉の畔で跳ね、濡れた音を叩く。その姿は水を失った魚の如し。
『ミクマリ』
「分かっています。夜黒ノ気が形を作ったに過ぎない存在為らば、頭の役目にも意味がない事は。……胴も滅します!」
もう一度霊気を練り、残骸に向かって構えを取る。
瞬き。赤子の邪気が赤黒く膨れ上がった。
「お母さあああああああああああああああああああん!!!!」
大絶叫。赤子は消し飛んだ筈の頭を体内から再び生やした。それは更に大きく、歪な形をしている。
「元に戻った!? それに、今のは……」
ミクマリは赤子が早くも平手に依る攻撃を叩き込んで来るのに気付き、後方に飛んで回避した。
警戒してか、泉の向こう側へと着地し、片手で胸を押さえる。
叫び。音は消えども、未だに女の胸を揺さぶる。
『再生したのみではないな。成長もしておる。それも、恐ろしい早さでだ』
「一人じゃ間に合わないって事? あたしも行く!」
若イズミが駆ける。本来ならば人魂を祓い寿ぐには充分な磨きの霊気を持つ巫女であるが、仮初めの神を相手取るにはどうか。
夜黒の尖兵の巨大な拳が伸び、泉の先に居るミクマリを狙う。
「やはり、あの子だって……」
ミクマリは、胸に押し込められて見失ってしまっていた自身の気持ちに気付き、唇を噛んだ。
――迫る殴打。
水に命ずるは探求ノ霊性。
泉を引き摺り出して障壁を作る試み。
しかし水は応じない。
「水が重い!? 何故!?」
その重さ、大地そのものを引き上げるかの如し。
水面を見やると、まるで大怪我を洗ったかの様な濁りが模様を描いていた。
次の瞬間、夜黒の拳が娘の身体の全身を打ち、彼女は森の奥へと吹き飛ばされて行った。
「ああ! ミクマリッ!」
若イズミは咄嗟に石を拾い上げ、有りっ丈の霊気を込めて敵へ投げる。
輝く石は蛭子の頬に命中。石は貫通。しかし掠め取られた夜黒ノ気は直ぐに形を整えた。
「全力でやったのに……」
次代の泉の巫女の顔から血の気が引いた。
攻撃を受けた蛭子神は無力な娘へと巨大な頭を向けた。
「お母さあああああああああああああああああああん!!!!」
蛭子が虫の様に素早く大地を這い、若イズミへと迫る。
「違うよ、あたしまだ、お母さんなんかじゃ……」
巫女の瞳一杯に赤ん坊の貌。赤ん坊は声を立てて笑った。
――衝突音。
赤ん坊は大きく頭を仰け反らせる。
間に割って入ったのは一人の老婆。
「婆ちゃん!」
「蛭子神が産まれてしまったのか」
「上の村と六つ子が呼び水じゃないかって」
「やはり儂がいけなかったか」
再び拳打。老獪な巫女はそれを弾いた。
「婆ちゃん凄い」
「これで手一杯じゃ。攻撃の流れを僅かに逸らすのがこの儂の……」
黄泉の赤子は嬉しそうに声を立てると、丸味を帯びた指を広げ、老婆へと連打を繰り出した。
イズミは渾身の霊気の防壁に依って肉体の損害は免れるも、次第に身体を地に沈ませて行った。
「お母さあああああああああああああああああああん!!!!」
赤ん坊が立ち上がる。重い頭を振り振り、大きく蹌踉めいた。
「婆ちゃん、逃げよう!」
若巫女が老婆の腕を引く。
「カカカ! 足が埋まってしまった! お前だけでも逃げなさい! 神罰は儂に下るべしっ!」
老婆は残り少ない霊気を、弟子を弾き飛ばす事に注ぎ込んだ。
巨大な影が覆い被さる。
重い身体を大地に沈める赤ん坊。
自身で転んで於きながら痛みに堪え兼ねたか、そのまま泣き叫びながら転げ回り始めた。
「嘘……婆ちゃん」
老婆の埋まるであろう大地が蹂躙されるのを力無く眺める娘。
涙すらも流す事すら忘れている様であった。
赤子の駄々捏ねる音が辺りを覆い、老婆の断末魔も、骨の砕ける音も拾えない。
「……おい、未熟者の泉の巫女共よ。礼は宿と食事で勘弁してやろう」
男の声。
呼ばれた未熟者は、現実から目を背ける口実とばかりに声の方を見やった。
そこには声に相応しくない娘の姿。純白の衣と緋色の袴。
婀娜めく黒髪は解け、桜の唇と雪の頬を擽り、淫靡な匂いを散らす。
そして“彼”は小脇に老婆を抱えていた。
「貴女……ミクマリ?」
「あのマヌケ娘は気を失ったわ。身体を器とさせて貰った。降霊術と言う奴だな。久々の肉体だ、心地が良い」
ゲキは老婆を降ろし、拳を握り確かめながら言った。
「婆ちゃん」
「た、魂消た。高天が見えたかと思うたわ」
老婆は健在だ。
「良かった。……あの、貴方は?」
若イズミが見上げ言った。
「俺はミクマリの里の守護神だ。貴様等不出来な泉の巫女共に代わって、あの黄泉の子を始末してやろう。……始末と言っても、あれは端切れに過ぎぬから、追い返すだけだがな」
「言い方が気に入らないけど……お願いします!」
若イズミは口の端を笑わせ、それから頭を下げ拝んだ。
「昼間の歓迎よりは心が籠っておるから良しとするか。若イズミよ、俺にも上質な膳を備えろよ」
ゲキはそう言い残すと、袴の身体を駆り飛んだ。
「お父さあああああああああああああああああああん!!!!」
気配に感付いた蛭子神が立ち上がり、平手を振り下ろした。
巫覡はそれを片手で受け止めるが、力余ってそのまま蛭子の腕を霧散させた。
「加減が分からんな。貴様は寿ぐ価値も無い存在。少々遊ばせて貰おうかと思ったのだが」
赤子は悲鳴と共にもう一撃。己を滅さんとする敵をいざ薙がんとする。
しかし、今度は黒き手首から先が滅された。
「躾けにしてはまだ強いな。もっと弱くするか」
そう言うとゲキは飛び上がり、赤子の眼前で大袖を振った。
袖は空を切ったが、赤子の両の瞼は黒き体液を迸らせた。
「お父さん、止めてええ!!!!」
苦痛に満ちた悲鳴。
「ははは。鼓膜に悪いな」
ゲキは慈愛の巫女の身体で犬歯を見せ笑う。
「再生するんでしょ? 早く倒してよ!」
若イズミが叫ぶ。
「外野が喧しいな。まあ良い」
――そろそろ消えろ。望まれぬ子め。
娘の顔が鬼の様に変じ、高笑いと共に極大の霊気が練り上げられる。
不気味な圧が物理的に木々を圧し、枝葉に悲鳴を上げさせた。
泉の巫女達は余りの気の強さに全身を鳥肌立たせた。
……ふと、巫女の瞳の色が変わった。
「あれ? 今、雰囲気が……」
若イズミが巫覡を見やると、禍々しいまでの表情をしていた筈の顔は、整った若い娘の顔立ちに戻っていた。
『糞、油断したわ。まさか追い出されるとは……』
苦々しい霊声が頭上に木霊した。
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