巫行119 最愛
姉妹は、黄泉國で体験した事を、ゲキへと話して聞かせた。
守護神の彼は里の者の魂がもう残っていなかった事や、妹巫女に会いそびれた事をとても残念がった。
だが、生死の上での別れはずっと以前に済ませていた為か、その魂を赤や黒に染める事は無かった。それよりも、ミクマリの帰還やアズサの甦生を喜ぶ事に注力した様だった。
『二人が戻って来てくれて、本当に良かった。もう、何もかもが終わったかと思った。お前を黄泉に取られたと悟った瞬間、自我が消えてゆくのがありありと感ぜられた』
洞穴の端でゲキが言った。
「時の流れが違ったのかしら? あの子は体感が変わるとしか言ってなかったけど」
『さあな。黄泉國の理は理解不能だ。ただ、それが幸いして、俺が正気を失う前にお前は戻れたのだ』
「そうですね。処でゲキ様。どうして隅っこに居らっしゃるのですか? 再会の抱擁とは行きませんが、もうちょっとこっちに寄って下さい」
にこにこと笑うミクマリは手招きをした。
『……』
ゲキは応えず、洞穴の狭く天井の低い位置を保持し続けている。
「ね、アズサ見て。ゲキ様、照れてらっしゃるのよ」
ミクマリが若けながら言った。
「そやろか」
声が小さい。アズサもいつの間にか別の隅っこへと移動している。
「どうして貴女も……。遠慮しなくて良いのよ、もう一回抱っこさせて」
ミクマリは大袖の腕を開き待ち受ける。
「厭や。姉様、めっさ臭い。あり得へん」
アズサが言った。
「えっ……!?」
指摘を受けて衣や肌の臭いを確かめる。胃が跳ねる様な強烈な臭気。
『黄泉臭いな。墓場の死体でも、もう少しましな臭いだろ』
「姉様、うんこより臭い」
再度の非難。
「あんまりだわ。さっきは何も言わずに抱き合ったのに……」
『急いで禊をしてくるんだな。外に海があるだろう?』
「うう、海水で水垢離をすると、毛先が痛んで塩を吹くから厭なのよね……」
項垂れるミクマリ。
『塩は食事の味付けに使えて便利ではないか』
「厭ですよ気持ち悪い! ……もう、取り敢えず行って来ます」
ミクマリは溜め息を吐き、洞穴を進んで外へと出た。
岩礁に打ち付ける波が、激しく白い飛沫を上げている。
「憑ルベノ水が無ければ溺れちゃいそう……」
ミクマリは海水に目鼻を痛くし、ごつごつとした岩や藤壺にも苛まれ、荒波に揉まれて頭をぶつけながらも、何とか黄泉の臭気だけは落とした。
霧の衣も不純物が付いていた為に、術式で確りと清め編み直す。本当にこの衣には世話に為っている。ミクマリは衣を撫で、霧の持ち主へと礼を呟いた。
清めを済ませて戻ると今度は『磯臭い』と貶された。ミクマリは自身の身体にくっ付いた塩を集めて、無礼者へと投げ付けた。
それでも、海の匂いももう一つ落ち着かない為に、結局は洞穴を出て清流を探す事にした。
「何の為にあんな痛い思いして身を清めたのかしら……」
ミクマリは山道を歩きながら、恨めしそうに師を見上げる。
『意味はあるぞ。お前、穢れにも鈍麻になっては居らぬだろうな? あの黄泉の残滓をその辺の河川に流しでもしてみろ、間違いなく禍事を招くぞ。あの次元の穢れは、海でなければ受け持つ事が出来ん』
「鈍ったかな……」
言われて見ればそうかもしれない。ミクマリは自身の額を確かめる。角は生えていないが、血を操る黄泉の術は未だに健在だ。血は穢れを呼ぶ最たるもの。普段はそれに含まれる水気を操っているだけの心算だったが、実は随分と前から黄泉の術に通じていたのかも知れない。
「与母ス血液……」
記憶の端、黒衣の術師が呟いた術の名。
『夜黒を使う血操の術を気にしているのか? 大した事も無かろう。昔ならいざ知らず、俺達はミサキやオクリの技も見て来ているのだ。鬼や穢れの意味も知った。お前為らば、その技も正しい事に使える筈だ』
師は事も無げに言った。
「そうですね、今更、ですよね」
『そうだ。今更だ』
「ね、アズサ。私、何か変わったと思う?」
アズサから見てはどうだろうか。自身や師が赦せても、他人からどう見られるかというのは矢張り気になる。
「こーっと……分からへんです」
頬を掻くアズサ。
「う、矢張り、何処か変になったのかしら?」
不安を覚え、色々と思い返すミクマリ。自身の天賦の才である“甘手”は健在だった筈だ。洞穴へ行く前に兎を引っ掛けて腹に収めている。
水垢離の際に水鏡で体の処理をした時には異常が無かったし、顔にも鬼の兆候は無い筈だが……。
「あ、姉様。そう言う事とちゃうんやにー。うちの方が何か、変になってしもてて……」
「え? そうなの?」
「何とか、音や霊気は拾えるんやけど。声も何か変やし、歩くのも、ちいとしんどい……」
洞穴を出てから大した距離を歩いていない筈なのに、彼女の額には汗が光っている。
「大丈夫? 身体の調子が悪いの? ゲキ様、どういう事でしょう?」
『ううむ、経過を見るしかないな。元はアズサの身体ではなかったのだ。その身体自体も、長きに渡り夢見の術で仮死状態だったものだ。髪の長さが変わった処の話ではないだろう。尤も、この様な例は、伝説上の呪術や神器の効果でしか聞き及ばなかった為、俺にも何が起こるか想像が付かん。暫くは無理はさせられぬな』
「心配だわ。急にぽっくりと死んだりしないかしら」
不安気に妹を見やるミクマリ。
「姉様、恐い事言わんといてーなー……」
『そうだぞ。まあ、何もせぬよりは、身体を良く動かして、霊気や霊性の鍛錬もこれまで通りに続けた方が良いのではないか? 馴らして、自分の身体にしてゆくべきだろう』
「そうですね。アズサ、その長い髪も切っちゃいましょう」
妹巫女はミクマリと同様に、黒髪を結って下げていた。
「なっとな!? 何言ってんさー! これは姉様の妹さんの……」
足を止め、慌てるアズサ。
「もう、貴女の身体なのよ。私と同じ血の流れる」
ミクマリも立ち止まり、妹に眼差しを向ける。
「姉様と血の繋がった……」
アズサは自身の両の手を見詰めた。
「……」『……』
ミクマリとゲキはその姿を静かに見守った。
アズサは暫く静かにしていたかと思うと、急に駆け出し、立ち止まり、両手を口に添えて、遠くの桜の山に向かって「やっほー!!!」とやった。
霊気が籠った大声ノ術が木々を揺らして、桜花の嵐を巻き起こした。
「術は使えてるわね。でも、あれは何なのかしら」
『さあな。あいつなりの歓びとか、感謝じゃないのか?』
苦笑する二人。
結局、アズサは以前の肉体と同じ髪型にする事にした。姉妹は清流で身を清める序でに、お互いに髪を整え合った。
「うん、この方が貴女らしいわ」
切り揃えられた髪を見て満足気に頷くミクマリ。
「頭軽うなったなー。姉様も、いつ見ても綺麗な髪やにー」
「でしょう?」
自慢気に回って見せる。
「そやけど、姉様と血が繋がっとーに、何でうちの髪はそんなに綺麗やないんやろ。姉様と同じ位綺麗やったら、長い方が良かったんやけどなー。“こっちの方”は同じに為った癖に……」
アズサが自身の胸を摩りながらぼやく。
「そうね。姉妹でも、少しづつ違うものだから」
性格も違えば、身体に与えられた天性も違う。ミクマリは家族は多かったが、同じ至宝の髪を持つ者は他に居なかったし、甘手の技能も彼女だけのものだ。
「そういえば、アズサの“苦手”はどうなったのかしら?」
『術は魂由来で、肉体を媒介とする技能。苦手は単純に肉体由来であろうからな。恐らく知識や骨はそのままで、毒気には弱く為っている筈だ』
「うー。うちの得手が一個消えてもうた……」
しかめっ面のアズサ。
『身体が慣れれば、蟲を捕らえる技は使える様に為るとは思うがな』
「うー。頑張ろ……」
「頑張らなくても良いわよ。危ない事はしないで。私の一番大事な妹なんだから。もう、無理に毒なんて口にしなくて良い、蟲も捕まえなくても良いわ」
微笑む慈愛の姉。
「そやかて、うちの自慢やったんやけど……」
「アズサ、蟲は捕まえなくても良いわ」
蟲は捕まえなくて良い。ミクマリは繰り返し言った。
「姉様、うちを巫女頭にする話忘れてへん? 薬学は覚えてしもたら団栗の背比べやに。音術は珍しいけど、もっともっと磨かんと……」
そう言って腰元に手をやるアズサ。彼女の顔が見る見る内に青くなる。
「あらへん……弓がのうなってしもうた!」
アズサが頭を抱える。
「あーっ! ナツメと交換した耳飾りも無いやん!」
『そう言えば、地蜘蛛や雷神を剋した後、全く何もせずに走り出したからな。アズサの荷物も、村の事も全部そのままだ』
「ツルギ様にも、タマキさんの事を伝え忘れてるわ」
『確かに。それもあったな。ミクマリよ、一っ走り、神剣の村へ行って来てくれぬか? アズサの事も、あの婆だけには伝えてやって欲しい。流石に可哀想だ』
「そうですね」
ミクマリは頷く。内心少し愉しくもあった。水術と血操の術を併せれば、どれだけ早く吉報を届けられるだろうか。品を持ち帰ればアズサはどれ程に喜ぶだろうか。
『では、早速だが行って来てくれぬか? アズサも弓が無ければ落ち着かぬだろうし。俺はアズサと里に戻っておる』
「里に?」
『そうだ。直ぐに復興を始めるという訳ではないが、今後の為に土地の状況等も詳しく見ておきたい。屋根も一つ位は残っておるだろうし、魂は消えたとは言え、骨も片付けてやりたいからな』
「そうですね。私も、用事を済ませて直ぐに戻ります。皆で一緒に、里の片付けをしましょう」
『うむ、愉しみだな』
「あ、そうだ、骨と言えば。アズサ」
霊気を練り始めながら訊ねる。
「なんー?」
「骨、要るかしら?」
「骨? 何の骨?」
首を傾げるアズサ。
「貴方の身体の骨よ」
「うえっ! 要らへん!」
「そう? じゃあ私が貰っちゃおうかな?」
本人は生きてはいるが、何となく取って置きたい気がした。
「姉様、きしょいわー……」
げんなりするアズサ。
『うーむ、それは持って帰らぬ方が良いかも知れぬな』
師が唸る。
「どうしてですか?」
『肉が残っておらぬとはいえ、魂的にはまだそちらの方に繋がりが強い筈だ。近付けると魂が移るやも知れん』
「うち、骸骨には為りとうないなー……」
ミクマリは動く骸骨に「姉様!」と呼ばれるのを想像してみた。
「ふふっ」
アズサが睨んだ。
「では、行ってまいりますね」
ミクマリは川の水を拝借すると、宙に飛び上がった。
足取り軽く、空を駆け抜ける。暖かな風と、眼下に広がる春の山々の景色。
「綺麗……」
これ程までに、覡國が美しいと思った日は無い。
結局の処、当初の魂の救済は永遠に果たせず、実妹とも別れてしまった。
それでも、一応のけじめが着けられた事や、これから最愛の人達との生活が始まる事を考えると、誰かさんではないが空に向かって「やっほー」の一つもやりたくなる。
ミクマリは空で立ち止まり、空を見上げた。
もっともっと高い天から、太陽が微笑み掛けている。
「ありがとうございまーす!」
空に向かって叫ぶ。太陽が一瞬、煌めいた気がした。
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