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巫覡、寿ぐ(ふげき、ことほぐ)  作者: みやびつかさ
結ノ章 終止符を
115/150

巫行115 夢魘


――やってしまった。あの子を失った上に、人を殺めてしまった。


「アズサ……」


 春の雨落(ウラク)に髪を濡らしながら、瓦礫の傍で紅い膝を抱える。

 囁く様な雨音の中を、娘の嗚咽と(ハナ)を啜る音が続いていた。


 妹を殺害されたミクマリは、大切な魂を黄泉國(ヨモツグニ)に贈った術師の命を奪った。

 彼女は正直に告白すれば、実感も無ければ、後悔も無かった。

 あれだけ恐れていた人を(アヤ)める行為。それを行ってこの程度の感慨ならば、実はあれは、あれらは全て夢だったのかもしれない。


 ミクマリは在りもしない慰めの後に、顔を上げた。


――私は、ここと同じものを作ろうとしていた。


 ここは始まりの地点。嘗てのまほろばの地。未だに壊れた小屋の跡や、人の手の入った地面等が残っている。

 守護霊が憑依し、ミクマリの身体を乗っ取った後に、ここへとやって来た。


 両手を血に染めたとはいえ、復讐の一部を果たし、腹立たしい神の一端を滅した。雷雲の神である故に後の空が心配ではあるが、あの地には雨を呼ぶ剣が残っている筈だ。そこまでは良しとしよう。

 だが、その後の自分はどうだ? サイロウに自分達と同じ気持ちを味わわせると宣った。

 彼の國へ踏み入り、何の罪もない、或いは虐げられていた筈の民を弄んだ。


 若い巫女の背中に出来た古木の枝の様な火傷や、自身を顧みず妹を護ろうとした男の腕がへし折れる感覚、それから遠く泣き叫ぶ子供の声。


 それらは、仇の生命とは比較に為らない程に強く、強く、娘の胸へ爪立て続けていた。 

 何も居ない宙を見詰め、もう一度喉から嗚咽を漏らし、袖も絞るばかりに大粒の涙を流して、血の衣に顔を埋める。


『大丈夫か?』


 ゲキの声。彼はミクマリの破壊の提案に乗らず、一旦は別れたかの様に見えたが、その暴走を止める為に憑依の機会を窺っていた。

 鬼からの防衛戦の不幸で倒れた石柱が、子供の前で母親の頭に叩きつけられそうになったその玉響(タマユラ)の間。

 間一髪の処でミクマリは、彼に身体の制御を奪われ、親子を不幸の運命(サダメ)から遠ざけて貰っていた。


 彼は無残事に手を染めようとした娘を嘲る事も、叱る事もしなかった。

 親子の無事だけ伝えるとその件にはもう触れず、唯々ずっと、ミクマリの心身を案じる言葉を投げ続けている。


『鬼の角はすっかり引っ込んだ様だな、お前はその方が可愛い』

 

 娘は返事をしない。


『先程な、一足早く実を結んだ桑の木を見つけたのだ。まだ酸っぱいだろうが、確かお前の好物では無かったか?』


 娘は返事をしない。


『お前は、満開の桜を見た事があるか? ここの森にも二、三本は紛れていたかも知れぬがな、向こうの山には桜が群生する場所があるのだ。確認して来たが、見事であった。一緒に見に行かぬか?』


 続く啜り泣き。


『……おっ、丸々と肥えた兎が跳ねておるな。未だに畠を漁る癖が抜けないと見える。ミクマリもずっと何も食べて居らぬのだろう? (クツ)もそろそろ痛んで来たのではないか?』


 兎の足音。土地の主達に気付かぬのか無視をしているのか、兎は一年前までは畑だった場所を堂々と掘っている。


『おお! あれを見てみろ。今、木立の間を抜けて行ったのは燕ではないか? あの独特の空を切る様な飛行は他にはおるまい? 燕と言えば、お前の舞を思い出すな。あれは本当に見事で、美しかった』


 ミクマリは顔を上げなかったが、その耳で春を聞いた。

 冬に比べて重たくなった木々の囁きや、小啄木鳥(コゲラ)のぎいぎいと軋む様な声に、ぴぴぴちちちと雲雀(ヒバリ)(サエズ)り。

 兎のふてこい掘削の音や、枝々の間で何かが移動する気配も分かる。


 音も温度も無いが、頭上には太陽代わりに暖かな言葉を注ぐ揺らめきも感じられた。


 繰り返す悔恨は次第に薄く為り、思考は横道へと逸れ、暖かな春の空気が眠りを促す。


 ほんの一瞬だけ幸福を感じ取り、


 ……直ぐに悪夢の國へと放り込まれる。


 無垢で清らかなる巫女達。自身に似たそれや、妹に似たそれ、或いは友人達。それを(ホフ)り、その死を(ハフ)り、自ら寿(コトホ)ぐ夢。

 初めは他人の空似だ。繰り返し殺し続ける内に、それは確かに自分や妹達と酷似していく。

 そして、血の鏡に映った自身の顔を見て、悲鳴と共に目覚める。


「……」

 額に触れる。また角。


『雨が止んだな。草木が光っておる』

 ゲキが呟く。


 ミクマリは、未だに返事をする気が起きなかったが、ここに来て漸く、翡翠の霊魂を見上げた。顔を上げると髪が流れ、それに何かがぶら下がっているのに気付く。

 髪に引っ掛かった物を手に取る。魂のような形の翡翠の石をあしらった(カンザシ)

 この里の守護神に仕える巫女の証。あれだけ激しく動き、何度も敵の攻撃も受けたというのに、(キズ)一つ見当たらない。


「ゲキ様……」


『辛いか?』


「はい」


『まだ泣いていても良いぞ』


 言われるがままに再び顔を埋めようと考える。だが、どうしてだろうか、涙は出なかった。


「……もう、旅を辞めます」


『そうだな、ゆっくりしよう。一応は復讐も果たした、二人それぞれ鬼へ片足は突っ込んだが、今こうして正気で会話も出来ている。里も無理に再興しろとは言わぬ。望むなら、俺も神の任を下りて高天(タカマガ)へ帰っても良いが……』


「居て下さい。居なく為らないで」


『分かった、そうしよう。俺もその方が良い』


 暫くの沈黙。ミクマリは自身の掌を見詰める。赤茶けて乾いたものに覆われた手。何の血だろうか。

 爪も見知った自身のもの。額に手を触れると、“あれ”もまた引っ込んでいた。


『酷い顔だな。触れると余計に汚れるぞ。清めて来てはどうだ? 水も暖かくなって来た頃合いだ』


 師の勧めに従い、ミクマリは立ち上がった。長く膝を抱えていた所為か、背中や腰が痛む。

 昔の記憶を頼りに、里で使っていた山の清流の場所を思い起こす。


『俺はここで待っておるからな、ゆっくり身を清めてくると良い』


 ミクマリは師を仰ぎ見ると首を振り、「一人にしないで下さい」と言うと、清流を求めて歩き始めた。


 静かな川の(セセラギ)。昼日が顔を出し、水の音に合わせるかの様に流れをきらきらと瞬かせている。

 自身が新たに織った衣は奇妙な手触りで、生暖かい。

 それは酷く穢れたものだというのは理解が出来たが、妹の血肉であり、無碍な扱いは出来ない。

 丁寧にそれを脱ぐ。戦いで破れ、元より引き摺る程の丈であったそれは、どう畳めば良いか分からなかったが、取り敢えずそっと川原へ置いた。


 ミクマリは、守護霊が少し離れた処で佇んでいるのをじっと見つめる。

 何も言わなかったが、しつこく見詰め続けていると、彼は彼女の頭上へと憑いた。

 それを確認すると、霧の衣と袴を脱ぎ、晒した肌を隠す事もせず、丁寧に畳んで妹の隣に置いた。


 傷痕一つ無い肌。汚れているのも衣から出ていた部分と、胎の赤黒い印だけ。

 昼日と重なる様に揺らめく魂を眺めながら、仰向けに清流へと身を預ける。

 身体を這う(クスグ)ったい流れと、髪に染みていた汚れの溶け出す感覚。

 指をあちらこちらに這わせ、自身から出た垢を剥ぎ取る。脇や股座(マタグラ)に引っ掛かりを感じる。

 身を起こし、荷物から黒鉄の刃を取り出す。少し赤茶けた汚れが付いており、擦ってもそれは取れない。


『錆びだな。鉄が朽ちて来るとその様になり、切れ味が鈍る。体毛の処理も無理に続けなくとも良いぞ。手間だろう』


 師はそう言ったが、ミクマリは刃を身体に押し当てる。

 処理に何度か痛みを感じたが、傷は血の玉を浮かせる事も無く、出来た端から跡形も無く塞がった。

 何となく、“元に戻しておきたい”気がしたのだ。本来の生えっ放しの方が元の状態ではあるのだが、今やこの方が落ち着く。

 今や……今やといえば、傷を癒す事も、水を操る事も、意識外でも行うことが出来る様に為っていた。

 身体に染み付いたもの、一度手に入れた力は捨てる事が出来ない様だ。


――だから、私の“元々”は、彼と出逢ってから。


 あの時も二人きりだった。今もまた二人きりだ。だから何も変わらない。


「水浴みが終わったら、何処かへ行きませんか?」

 何となしの提案。


『何処へ行こうか』


「そうですね……」

 肌を晒したまま、悩む素振り。

 出来ない事を除去してしまえば、求める事等、何も思い浮かばなかった。


 ……ぐう。


 赤面。虚偽の桜見の提案を思い付いたが腹の音が遮った。


『先ずは腹ごしらえだな』

 霊声(タマゴエ)が少し笑った。


 身体の正直な訴えが出ると、呼応する様に、心も偽りの衣を脱ぎ捨てた。

 かといって、今更、彼へ「あっちに行って」とは言えまい。

 ミクマリは、春の陽気というよりは夏の熱気を身体から発しながら、いそいそと身の清めを済ませて霧の衣を纏った。


『それはどうするのだ?』

 師の問い。ミクマリの前には妹の血衣。

 伸ばされる手には少し戸惑いが見られたが、衣は元の様に霧の衣の上に重ねられた。


 (ホロ)びた畠の新たな王を、甘手(アマテ)を以てひっ捕らえ、礼と謝罪の後に、余す事無く使い切る。

 煙の臭いは過去の恐怖や悔恨と繋がったが、師の物見遊山の蘊蓄(ウンチク)と、少し焦げた歯ごたえと脂の旨味が救った。


 腹が落ち着くと、無性に悲しくなった。


 もう一度、涙が流れる。


『折角、顔を洗ったのにな。出掛けるのであろう? こういう時は身体を動かすと良いぞ。何処へ行こう? 何をしよう?』


――私のしたい事、行きたい処。


「アズサに、アズサに会いたい」

 厭が応にも浮かぶアズサの顔。両手で顔を覆い、さめざめと泣くミクマリ。

『済まぬが、それだけは絶対に断る』

 連れ合いの拒否に、泣きながらも繰り返し頷く。


『だが……若しも、お前が望むのであれば、“別の妹”に会わす事が出来るやも知れぬ。もう、肉体の在処(アリカ)を隠す必要も無いからな』


――別の妹。あの子。


「会いたいです」

『では、案内しよう。だが、本当に会えるとは限らぬ』

「分かっています。魂はもう、黄泉(ヨモツ)から戻れないのでしょう?」

『それもそうだが、肉も残っておらぬやも知れぬ。夢見の術に依り魂を黄泉へ送った妹巫女は、魂が黄泉へ根付かぬ限り、その肉体が黄泉の蟲に嗅ぎ付けられる事は無い。とある場所に隠して結界で覆っておる故に、鳥獣や悪霊に害されている可能性も無い。故に、肉体が消えていればそれは、目的の達成と旅の終わりを意味する。俺が正気でお前が半分鬼なら、あの子の魂が黒く染まったのは考えられんからな。御使いがサイロウへ恨みを集約する伝言をしてしまっている故に、そうなる可能性は薄いが、一応は心に留めて置いてくれ』

「成程……。分かりました」


 再び顔が見れればそれは嬉しい事だ。骨しか残っていないのなら、私達の仕事は完遂され、里の者達の魂も鬼に巻き込まれる事は無い。

 骨は墓を作って埋めてやろう。アズサの骨も見つけて来て、一緒にしてやるのも良い。


――それで、私の旅はおしまいだ。


 師と共に、泯びの地を後にする。敢えて早駆けを使う事もなく、素の娘のままの歩調で。

 山を越え陽が沈み、二人静かに夜を明かし、朝日と共に歩き始める。


『丁度、この先が例の桜の群生地だ』


 坂を下ると、視界一杯に広がる美しき遠景。

 二人の居る地点まで桜の森は続いており、道もまた薄く色づいている。


『どうだ? 見事な光景であろう? 俺は草花では桜が一番好きだ』

 師が自慢気に言う。

「少し、香りますね」

 娘はそれだけ答えた。


 咲き乱れる桜。きっと美しいのだろう。だが、初めて一面の青い海を見た時の様な感動は起こらない。

 木々は春を讃えているのだろうか。だが、それを見る彼女にとっては、祝うべき事は何一つ、ありはしないのだ。


 特に見上げる事も、振り返る事もなく、穢れの(クレナイ)は行く先だけを見詰めて、桜の道をゆく。


 静かに、静かに。唯、舞い散る音だけを感じて。



 もう一つ小峰(コミネ)を越えると、景色は険しい山岳へと変わった。

 それから少しばかり進めば、山肌に(ホラ)が見えた。


『この穴は、いつ誰が作ったものかは分からぬが、海へと続いておるのだ』

「海へ?」

『そうだ。そしてこの洞穴の奥に、お前の妹の身体は眠っておる。余談だが、俺はこの地に結界の力を多く割いておる。本来ならば、もっと大きな力を持っていたのだぞ』

 踏ん反り返る霊魂。

「そうですか」

 少しの微笑み。


 洞穴には太陽の光は届かなかったが、守護霊が灯り代わりに為り、楽に進む事が出来た。

 澄んだ空気が流れており、僅かに潮の香りを感じる。


 その内に、幽かに穴の中を潮騒(シオサイ)が反響し始めた。


『そろそろだ』


 広めの空間に出ると、石の台の上に敷かれた毛皮の上で、仰向けに寝かされている者の姿が浮かび上がった。


 ミクマリは恐る恐る近寄る。そして、顔を覗き込むと、最後に会った時と、自身の想い出の中と違わない、“血を分けたの妹”の寝顔を見付けた。

 呼吸も、脈拍も、命の鼓動も全てが揃っている。だが、本来誰しもが持っている筈の霊気(タマケ)。これが全くの皆無であった。

 巫女と成った今なら分かる。肉は生きているが、魂は不在。


 真名(マナ)を呼び、声を掛けてやりたかったが、溜め息だけに留める。


『元のままの様だな……』

 安堵の様な、落胆の様な霊声。


「まるで眠っているみたい……」

 妹の頬を撫でるミクマリ。


――温かい。でも、この子の魂は、黄泉で、未だに私達の事を信じて……。


「旅を……旅を続けたい(・・)。この子の魂を、楽にしてやりたい(・・)!」

 動かぬ身体に縋り、泣き崩れるミクマリ。


『そうだな……』

 師は何も奨めず、何も否定しない。


 身体は動く、霊気は練れる。今は鬼の兆候も出ていない。笑おうと思えば、形位は笑う事が出来る。

 ひょっとすれば今の腕前であれば、サイロウをも斃せるかも知れない。

 だが、彼女の“たましい”はすっかり哀しみに呑み込まれ、立ち上がる力を失っていた。


『俺も、そうしてやりたかったな』

 同調する神と巫女。こちらの揺らめきも力無い。


 海の音も香りも、哀しみの色と同化してゆく。

 二人は物言わぬ妹の前で、震え続けた。



 ……見つけたわ……。


 (コエ)


 ……ここを見ていれば、いつか必ず来ると思ってた……。


『“欲深き母”か!』


「きゃあ!」

 悲鳴を上げるミクマリ。

 彼女の足には、地面より生えた腐り(トロロ)いた腕が纏わり付いている。


 ……漸く、お前は(ワラワ)のものになる……。


 増える手。足を、腰を、血の衣を掴まれるミクマリ。


『糞っ! 矢張り祓えぬか!』

 強烈な(ハラエ)の気を発するゲキ。勿論、ミクマリも同じ事を験している。


 ……おいで、おいで……怨みや憎しみだけが、妾の領分ではないのよ……。


 地面がまるで沼の様に変じ、娘の身体が沈み込み始めた。


「い、厭っ! 呑み込まれちゃう!」

 藻掻くも、身体は地中へと引きずり込まれ続ける。


『糞っ! 放せ! ミクマリを放せ!』

 ゲキが妖し気な腕へ突撃を試みるも、びくともしない。


「助けて! 助けてゲキ様!」

 藻掻き、手を伸ばすミクマリ。


『助けてやる! 何とかしてやる!』

 ゲキはミクマリへ縋りつき、或いは憑依を試みようとするが、何もかもが失敗に終わる。


 ……一緒に哀しみましょうね……。


 撫でる様に優しく、そして(キタナ)い聲。


 娘は手を伸ばした。肉を共有し、魂を触れ合わせ、心通わせた自身の神へと。


 もっともっとと求めるが如くの(タナゴコロ)

 応えるべき彼には、伸ばせる腕は無し。


 そうして娘は、誰よりも近い者と、何処よりも遠く別たれた。


******

夢魘(ムエン)……悪夢にうなされる事。

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