巫行114 反転
闇夜の空を女の嗤い声が木霊する。
神の視点から見れば、敵の根城は一目瞭然。この夜黒の瞳は、夜目が効いて便利だ。
月の無い夜。鬼が大國の要へと降り立つ。
羽衣煩わしく、術解きて、その肉の力だけでの着地を披露。木造の神殿の蜈蚣に似た意匠の屋根が悲鳴を上げる。
自身の醸す気配は濃厚か。足元の神殿から、大きな館から、村落を囲う守りの砦から、力のある者達が集まって来る。
「曲者だぁーっ! 濃い夜黒ノ気が現れたぞ! 巫覡に祓わせろ!」
松明や火術の灯りを携えた術師達。ここは社の流派の分社か、紅白の衣を着た女の姿も数多く見られる。
巫覡達が祓の気を放出する。
ミクマリは、にやりと笑うと、神気の護りで祓を防いだ。
「神気!? どうやら、夜黒に染まった神らしい。霊気をぶつけて削り倒せ!」
「太陽の神殿を傷付けるな! 武術の心得のある者よ、前へ出よ!」
風切りの音が耳元を掠める。弓矢か。石の鏃には霊気が込められている。
「ふうん」
ミクマリは飛来する矢を見抜いて掴み取ると、適当に投げ返した。弓術師の男の肩へと突き刺さり、悲鳴が上がった。
「あぁっ……!」
その様を見て、喉が艶冶な音を鳴らした。
一人の武芸者が屋根に飛び乗る。この跳躍、この気配。水術の心得有りか。手には長い石棒。石には霊気と祓の力。
気合一発。男が若く快活な発声と共に、鋭い突きを披露する。
敢えて胎でそれを受けるミクマリ。臓物を震わす衝撃が、肺から空気を追い出し、胸と股を震わせる。
「撫でてるのかしら?」
紅の花が満開になる。胴回し一閃。
男は霊気の籠った石棒で蹴りを防御するも、その得物は粉々に砕け、呻きと共に屋根から宙へと身を躍らせる。
受け身の間も無く、人の暮らしに依り踏み固められた大地が、男の身体を雑に受け止めた。
「大丈夫ですか!?」
転がる男に縋る巫女。穢れ無き白き衣、緋袴に黒き堤髪。こいつも水術の心得有りか。女から男へと癒しの霊気が流れるのが視える。
……ミクマリの耳は、二人が確かに互いの名前を呼び合うのを聞いた。
「赦さない」
治療を終えた若き巫女が立ち上がり、こちらを睨む。揺れる提髪、黒く芯の通った瞳。腹が立つ。
「……許されないのは貴女でしょうに。神和の巫女の癖に!!」
ミクマリは天を指差した。
空は黒く、目には何が起こっているかは見当が付かない。唯、霊気が一点に向かって集中している。
若き巫女に編まれた水の蛇が飛来する。ミクマリは袖でそれを容易く払うと、指を天から巫女へと移し替えた。
空に命ずるは探求ノ霊性。肉に雷糸結ぶは招命ノ霊性。
霹靂が恋する巫女へ仕置きを与える。衣爆ぜ、若い肌を曝け出し、そこへ大地の罅を髣髴とさせる雷花を咲かせた。
悲痛な叫びと共に、身を掻き抱き震える巫女。その醜く爛れた背中を篝火が仲間達へと晒し、辱める。
「ふふっ」
――気持ち良い。
力の行使とはこの様に気分の良いものなのか。戦いとは、この様に愉しいものなのか。
――ごめんね、ホタル。私が間違っていたわ。
「この際、太陽の神殿は捨て置け! サイロウ様が御戻りに為るまでに直せば済む事だ!!」
「ふん、奴にとって神殿は飾りだ! 一度も神事に参加した事が無いだろうに!」
「何でも良い! 有りっ丈の術を叩き込め!」
地面が亀裂を作り、神殿が傾く。風が板を引き剥がし、猛る炎蛇に加勢した。
手早く編んだ水球で身を護り、全ての術を遮断する。
水の結界の中から、術師達を見やるミクマリ。
――どいつもこいつも必死ね。
連中はそれなりの術師なのだろう。多分だけれども。
ミクマリは欠伸をする。
ふと、先程の罰してやった女が、男に癒し返されているのを見つけた。
「不愉快だわ」
伸びる爪、自ら切り裂く結界。跳躍。男女の絆しを罰する鬼の邪爪が振るわれる。
割って入る一人の武芸者の影。筋骨隆々の髭面。霊気は大して感じぬが、その太い両腕でミクマリの撃ち下ろしを確かに受け止めた。
小気味の良い音を立てて拉げる腕。
「ぐう! 流石は鬼! 何て怪力や!」
顔を真っ赤にして笑う益荒男。
「せやけどなあ、この腕が二度と使えなくなろうとも、俺の妹はやらせねえ!」
「……っ!」
咄嗟に身を引くミクマリ。
「私は鬼じゃない!」
「どう見ても鬼やろが! 角生やしおって!」
男は隙を見逃さない。腰に下げた二本の石斧を掴むと、ミクマリへと叩きつけた。
痛みは無い。呻いたのは折れた腕を使った男の方だ。だが、自身の額に手をやり、二本の短い印を見つけた娘の顔は、苦痛に歪んでいた。
後ろから熱気、髪が風で揺らぐのを感じる。咄嗟に飛んで回避する。「あちち! 何処、狙ってるんやい!」と男が吠えた。
「宙に逃げたぞ! 有りっ丈の術矢を放て!」
石矢、火矢、破魔矢、加えて多くの自然術が飛び掛かる。
ミクマリは茜と紅の二重の袴をくるりと翻すと、その全てを拒絶した。
「皆、嫌いよ!!」
手加減無しの攻撃は反射され、あちらこちらへ飛散。木の圧し折れる音や、跳ねる土煙、人間の悲鳴に変換された。
「鬼の反撃のせいで村落に火の手が上がったぞ!」
「非戦闘員に怪我人が出るぞ! 薬師と水術師は一旦退却!」
遠く、家々が燃える音が耳に届く。
「私じゃない!!」
身を護っただけなのに。
子供の声が耳に届く。助けを呼んでいる。恐がっている。
――ああ……。
ミクマリは目を固くつむり、耳を塞いで立ち尽くした。
それでも頭蓋を苛む子供の泣き声。
――どうして聞こえるの? 耳を塞いでいるのに! 目も閉じているのに!
その間も加えられる攻撃。だが、水、血、気の三色の護りは決して主を裏切らない。
「来てはいけません!!」
術師の一人が声を上げた。女だ。
「お母さん、帰って来て! 一緒に居て!」
幼い娘が、傾いた石の鳥居を駆け抜けて現れる。腕には泣きじゃくる小さな赤子を抱いていた。
「お母さんはね。皆と悪い鬼を退治しなきゃいけないの。ちゃんと仕事を果たさないと、お父さんの様に首を切られてしまうわ。ここに来たら危ないわ。ほら、良い子だから……」
追撃。大地が揺れる。護りが破れぬなら、それごと呑み込めば良いと考えたか。土に宿る精霊が埴ヤス大地に従い、揺れと共に鬼の足元へ亀裂を生じさせ始めた。
地が揺れれば、そこに立つものも揺れるのは道理。ミクマリはよろめいた。そして、傾いた石の鳥居が、我が子を逃がした術師の頭蓋を目掛けて振り下ろされるのを見た。
「お母さん! いやあああああっ!!!」
童女の絶叫が劈く。
耳を塞ぐ鬼。その胸中では、同じ悲鳴が反響している。
嘗て、赦しと慈愛を語って憚らなかった娘は、その両の腕を血に染めた。穢き所業に両足沈め、毒水吸い上げた性根。
気付けば牙が伸び、爪は黒く尖り、同じく額には二本の印。
その他者を害する為の腕を以て行うのは、無敵の身を単なる音から護る事のみ。
――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい!!
繰り返される謝罪。されど身体は動かず。剰え、その意識は黒き闇の中へと沈んで行く。
制御を奪われる慈愛の巫女。消えゆくミクマリの意識。遠ざかるまほろばの願い。
角が怒張し、更に鬼の力を増し、その腕の一振りは倒れる石柱を吹き飛ばした。
「……これではあべこべではないか」
唇から漏れるは男の声。金色の瞳は、恐怖で尻を地に着けた女を見下ろした。
「お母さん!!」
童女が舞い戻り、忘我の母へと縋る。
母は我に返ると子等をその腕に収め、燃える瞳で鬼を見上げ睨んだ。
「全く、止める為に俺が憑依する事になるとは。隙を見つけ出すのに苦労したぞ」
鬼は頬の濡れを拭うと、安堵の溜め息一つ吐き、再び闇夜へと舞い戻って行った。
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