巫行113 神殺
「吾を滅するだと? 戯謔が過ぎる。神を叩いて現るならば、貴様は巫女か?」
不愉快そうに老人の顔を歪める雷神。
雷神は火球と雷球の術を手早く編み上げ、紅き衣を纏った巫女へと放った。
神の炎はミクマリの衣に当たると消滅し、雷は袖に払われて消える。
「面白い。人の領分で何処までやれるか、見てやろう」
雷神の指がミクマリへと向けられる。
発火せず。
「温いわ。ねえ、アズサはどうして死ななければいけなかったの?」
色のない瞳が問い掛ける。
瞬きと共に、衣から次々と射出される血の弾丸。
黒衣の肩から出血。雷神は眉を上げ、稲妻の如き速さでその場から逃げた。
「吾の神気の護りを容易く……!」
持ち上がる左腕、その中に若き雷霆。間髪入れずの投擲が為される。
容易く貫かれる娘の腹。悲鳴と共に吹き出る若い血。肌と衣を走り続ける電流。
「……痛くない」
術に苛まれ、術に癒され、ミクマリの身体は紅い蒸気を上げながら崩壊と再生を繰り返す。
――あの子の苦しみに比べたら、こんなもの!
主失いし血液、操るは探求ノ霊性。
散った衣の欠片が花弁の様に舞い始める。
舞いて散る散る、時雨し血桜。柔らかな血刃が雷神を宿す仇の肉体に飛び掛かる。
雷神は身を躱すも、その術は弾丸とは違い、彼方へ過ぎ去りはしない。風に吹かれる様に向きを変えると、繰り返し繰り返し斬り付けた。
「厄介な黄泉の術。あの女の恩寵を受けた者か? しかし、気配が違う」
何事か呟く雷神。
「まあ良い、先ずは願いを果たそう。大雷迅の術を受けよ」
血陣の中、肉体を擦り減らしながらも両手を掲げる雷神。
「あの人が言ったでしょ? アズサの護った村なのよ」
広範囲の結界の展開。周囲に水底の様な音色が流れた。雷嵐は遮断され、再び慈雨だけが地へ届けられる。
「攻めと守りの双方を同時に扱うか。吾も応えよう」
生成される若雷迅。矢継ぎ早に雷槍が投げつけられる。
膨れ上がる黒き気配。血衣が膜を作り、娘の身体を男神の貫きから護る。
「恐ろしや。それだけの力を持つのであれば、吾の様に高天に属せば良いものを。黄泉は臭かろう」
「高天は嫌い。黄泉も嫌い。皆、覡國から全てを持ち去ってしまうから」
「言っている事が分からぬ。力には力、知には知。夜黒には夜黒。五ノ迅雷、黑雷迅」
雷神の腹から、ぬるりと黒き稲妻が生まれる。それは這う蛇の様に宙を彷徨い、血の膜を潜り抜けると娘に達した。
娘が辺りに血を撒き散らし、天地を昏くする大絶叫を上げた。
「……痛くない」
傷を癒し雷神を睨むミクマリ。
「何故、死なぬ!?」
雷神は眉を上げた。
「成程、霧神の恩寵も受けているのか。益々分からぬ奴」
ミクマリの破れた血衣から覗くは、穢れなき白。
「だが、終わりだ。この地と共に泯びよ」
両手を掲げる雷神。黒雲が呼応し、無数の雷を射出する。
だが、それは人里や獣の暮らす地へは落ちず、全て娘の身体へと吸い込まれていった。またも悲鳴を上げるミクマリ。
「……痛くない」
「貴様を撃った心算はなかった。今度は何をした?」
再び雷神の両腕が天を衝く。
……空に命ずるは探求ノ霊性。
次に雲が穿ったのはその主の身体。空に広がる神威は最早、娘の掌の中。
「吾の雲を偸むとは、畏れ入った。雷の摂理を見破ったか。だが、雲だけではないぞ」
翳される右腕。爆音。大地からさかしまに伸びる稲妻がミクマリを撃つ。
「……痛くない」
唇乾き、己の髪の焦げる香り鼻を衝き。嘘を零し。
それでも彼女はもう一度、血の花を咲かせた。
敵が紅き花吹雪に覆われる。
「は、は、は、は、は!! 矢張り、土雷迅では斃せぬか。次の迅雷にてその身を縛り、吾が最後の雷、伏雷迅を以て葬ってくれよう」
切り刻まれながらも高笑いを見せる神。
彼は一頻り笑うと、大きく息を吸い込んだ。
「七ノ迅雷、鳴雷迅!!!」
何処かで見た術。空気の震えに神気が宿る。
――音術!
ミクマリは大気の水分に命じ震わせ、神の声を相殺した。
稲妻も電撃も視えぬのに、痺れる全身。
「……アズサ! アズサ! アズサ!」
亡き妹を叫ぶ姉。その血肉を狂った様に乱舞させ、弾丸と成し、鞭に振るい、敵の神代を攻め立てた。
黒衣霧散し、老人の皮裂け、肉爆ぜ、骨が砕ける。
「最早、器が持たぬか。女よ、見事な力だ。……蓋し、戦いとは問答也。気狂いでさえなければ、今後の神の世を、信仰の憂いを共に語れたやもしれぬ。だが、矢張り女には、道理は分からぬと見える」
雷神を宿した器が赤い灰へと変じてゆく。
侮辱の言葉と共に立ち退きつつある神の気配。
「……逃がさない」
ミクマリは何かを握る様に拳を突き出し、嗤っていた。
『貴様……!』
神に命じるは招命ノ霊性。
神の気、神そのものを掴み取り、天へ逃げ帰る卑怯者を引きずり下ろす。
神を降ろすは巫女の役目。しかし、その器たる胎を満たすは紅き穢れ。女の怨みが、憎しみが、その身体から伝播して神を黒く染めてゆく。
『吾を夜黒に染めようというのか。だが、無意味である。抑々の吾の生まれは黄泉也。穢れ如きではお前の様に正気を失いはせん』
嘲笑うかの様に、急速に夜黒へ転じる雷神の気配。
「……マヌケな神様」
反転。漆黒に染まった娘から、純白の輝き。
『祓の霊気!? 貴様、一体いつの間にそれだけの祓の気を……』
動揺に包まれた霊声。
おもむろに現れた聖なる気配。二面性を示すは神の荒魂、和魂だけに非ず。人もまた正邪二つ持って、初めてヒトと成る。
神を崇め奉り、生むのがヒトであるならば、神を滅するもまた人間ノ本能。
「悪霊は消えて頂戴」
冷たく言い放つ巫覡の女。
空が光に包まれ、音のない爆発が起こった。
雷雲は立ち去り、古ノ大御神の一柱である火雷神の一端が消滅する。静かに訪れる落陽の時。
『な、何て奴……。これならばサイロウにも勝てるやも知れぬが……だが』
浮上する祖霊。
「サイロウ……」
西の空を睨むミクマリ。
彼女の瞳には太陽が映っていたが、繰り返し希った無垢な祈りの煌めきは失われている。
『少し休め、頭を冷やせ。骨しか残っておらぬだろうが、アズサの弔いを済ませよう』
ゲキは諭す様に揺らめく。その翡翠の如き光は、いつもより一層強く、そして白いに近い眩さを見せていた。
「アズサ……」
虚ろな瞳。ミクマリは師には応じず、裂けた紅の衣を翻すと、西に向かって空を駆け始めた。
『何処へ行く気だ!? お前の得た力の性質は鬼だ。無理をするな。俺も夜黒を抑える骨を掴んだ。息を合わせて共に技に磨きを掛けるのだ。二人でならばサイロウにも勝てる。今はまだ行くな。今のお前の心は黄泉に片足処か、半身を浸しておる!』
追従する守護霊。娘は答えず疾駆と跳躍を繰り返す。
『そもそも、お前が向かっておるのはサイロウの國であろう? 奴は今、北の地の何処かで活動をしておると聞いたではないか? 急がず、これまで通りに地上を行脚しよう。北の地でサイロウが起こした禍事を、お前の慈愛で塗り替えてやろう』
「これまで通り? アズサは死にました。殺されました。もう戻りません。大方、神器を求めて地蜘蛛に命じたのでしょう。根はサイロウ。奴に対しては、白に染め返すだけでは生温いのです」
娘の顔が歪む。笑いである。斜陽に光るは犬歯。
『……待て、何をする気だ? 俺は行かぬぞ』
「ですから、黒く染め返してやるのです。私達は里を奪われました。大切な人達を奪われました。サイロウも王です。首長ならば自分の國や民は大切でしょう? 仮にそれが慈愛に依るものでなくとも、執着をしているのは明らか。若しかしたら、長く生きているのだし、あれにだって大切な人間の一人や二人、居るかも知れませんよ?」
ミクマリは、連れ合いを見て、子供が燥ぐかの如く声を立てた。その瞳は金色に輝き、縦に長い瞳孔を見せる。
『おい!!!』
静止し、怒鳴るゲキ。
しかし、その言葉は届かず、嬌声に掻き消される。
夕陽沈む空の中、唯々二人は、その距離を離し続けたのであった。
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