巫行111 春雷
黒煙を目の当たりにし、ミクマリは霊気に依る探知を行った。
村の付近から西方に掛けて、幾つかの強い気配。しかし、探求と招命の触覚は一番欲しい答えを返さなかった。
探知は静止した状態で行うのが普通である。上空での早駆けの最中だ。熟達した術師とはいえ、結果には疑いが残る。
だが、目に見えた異変と、確認への恐怖が再探知を許さない。
神剣の村上空。火の手は一つ。神器を安置している祠からである。
――御願い、無事でいて。
ミクマリは足場を解き、水の羽衣の緩慢な落下に焦り付く。
祠の傍に人だかり。ミクマリの降臨に気付き、どよめきが起こる。群衆から慌てて飛び出して来たのは、村の巫女ツルギ。
老婆は口の中で言葉に為らぬ譫言を弄びながら、ミクマリの前まで駆けて来て、その足元で蹲った。
辛うじて聞き取れた言葉には、謝罪の言葉と妹の名が含まれていた。
ミクマリは老婆を捨て置き、人の囲いへと走り込む。
彼女は一体どんな貌をしていたのであろうか。村民達は慌てふためき、逃げる様に道を空けた。
人の去った後に残されていたのは、仰向けに寝転がったアズサの姿であった。
「アズサ!!」
悲痛な叫び。駆け寄り、倒れた童女を抱き起す。
「姉様……」
蚊の鳴く様な弱々しい返事。邪気ない唇の端が朱を描く。
「アズサ、何があったの!?」
「黒い服着た術師がなー……。あれが神器の剣を寄越せ言うて来てなー……。あかん言うたら村壊すぞ言うて、祠みじゃきよって。婆やんと剣じゃ勝てへんくてなー……。ほやで、うちがやったったんやにー……」
力無く笑うアズサ。彼女の身体には多くの穿たれた穴や、炭の様に為った酷い火傷が無数に見られた。
「人を殺ってしもたなー……」
悔恨の呟き。
『地蜘蛛衆か。剣は無事の様だが、敵の死体が無い。……そんな事はどうでも良い! ミクマリ! さっさと治療せんか!』
喚くゲキ。
無論、それがすべき事であるのは百も承知である。しかし、数多の治療と救命を繰り返して来た慈愛の巫女には、最早、為す術が無いのが良く分かった。
優秀な幼き巫女の身体は既に碌に霊気が無く、肉は治療術に応える力を失い、唯、暖かさだけが残されていた。
『き、傷が癒せぬのなら霊気を分けてみては、口に食事を入れてみてはどうだ?』
提案は彼らしからぬ震えで満たされている。
「アズサ……」
呼ぶ外に出来る事はない。強き抱擁さえも、この無数の傷に依って苦痛に変ずるだろう。
暖かな雨が一滴降り、嘴の印をなぞった。
「姉様、泣かんとってなー」
妹の心配顔。
「アズサ、死なないで」
それは祈りか懇願か。神に等しい娘が弱々しく言った。
「死んでは厭よ……」
「……うちさー、ほんまはなー、生贄にされた時に、のうなっとるもんやったしなー。お父やんもお母やんも死んで、滓扱いされてさー……。そやけど、姉様がたろうてくれて、めっささいこ焼いてくれて、妹にして貰うて、おもしゃい事もあって……。ぎょーさんええもん、貰うてしもたわー」
姉の顔が崩れるのに相反して、懐古する妹の顔は笑顔へと成ってゆく。
アズサは長く声を出し疲れたのか、腕の中で少しづつ、重くなってゆく気がした。
「もっと、もっと一緒に愉しい事しよう? 私の事を手伝ってくれるんでしょう? 里で巫女頭に成るって言ったじゃない……」
何に対する拒否か、ミクマリは激しく提髪を振って言った。
暖かな雫が散り、娘達の頬や地面を濡らす。
「姉様、泣き虫ちゃう? だんないよー。うち、居らんくても、ゲキ様おるし、姉様ならだんないさー」
少し意地悪に笑い、それから緩んだ微笑み。
「だんなくない……だんなくない……!」
折角の慰めを涙で塗り替えようとするミクマリ。
「……が、死んだら」
小さな呟き。
「死なない!」
大きな叫び。
「……うちが死んだら!」
振り絞られる声。
「高天國に行くんやにー。……姉様が死んだら、何処行くんけ?」
「……高天國よ……」
「そやにー。……一緒や。また一緒やん。だんない。うち、待っとるからなー? はんま喰わさんといてなー」
妹からの約束。
「……うん」
嗚咽を押し込む様に頷く。
「最期に、また“あれ”やって……。うち、村護ってん。誰も死んでやん……」
「そうね……アズサは偉いわ。自慢の妹よ」
傷付き果てた身体を優しく抱き、黒き短髪に掌を這わす。
「姉様は、ぬくいなあ……」
幸せな吐息。
「アズサ……」
もう一度呼ぶ。
「姉様……おおきになー……」
最期の感謝が小さく為り、声に込められた幽かな霊気が耳に触れる。
胸に掻き抱いた小さな体が、ふっ、と軽くなった。
それから、空の叢雲が春の雨を降らせ始めた。
催花の雫温かく、心には時戻りの冷たき時雨を降らせて。
遺された者は、玉響の間に幾星霜の瞬きを感じる。
それから、只の肉の塊より、生命の結晶がひょっこりと顔を出した。
離別の時だというのに妹のそれは、出たり引っ込んだりを繰り返したり、宙に尾を引き剽軽な舞を披露した。
「泣かんとってな」と聞こえる筈のない声が、耳の奥へ残響する。
『ミクマリ』
哀しくも優しい師の促し。
巫女は両の手を握り合わせる。
練れぬ霊気。起こらぬ導きの柱。
――手放したくない、失いたくない。
執着というものは、こういう気持ちなのだろうか。
私の妹は、また死んでしまった。
私の大切なものが、またこの手から零れ落ちてしまった。
本当なら、アズサとはずっと一緒だと、そう誓い合った筈なのに。
――私の妹。
『……』
師は唯静かに揺らめく。
もう、失い疲れてしまった。多くの大切が過ぎ去り、新たな大切を手にしたというのに。それも取り上げられてしまうのか。
姉の愛など、巫女の矜持など、私の覚悟など、運命の前では何の意味も無い。
妹の魂が、姉の前で寂しく揺らめく。
子を失った母達も、こんな気持ちだったのだろうか。
――この子は、アズサは。
アズサは何処かで、或いはずっと前から、自身の死に就いて考えていた。父母を黄泉に取られ、自身が巫女に成った事で、死後の再会を失った事を嘆いていた。
――為らば、私が高天で再び見える母と成ろう。
組んだ腕を一度解き、愛しき生命を包み込む様に再び握り合わせる。
いつしか春の嵐を巻き起こしていた雲を突き抜け、ハレの道が空へと延びる。
――アズサ、また逢いましょうね。
最後の一滴を流し終え、一人の女もまたハレを取り戻す。
「高天に……」
開く唇。
「還る命を……」
その寿ぎは、何よりも清く、何よりも美しく。
……招かれざる祝詞によって、儚く散った。
「母の元、強き者のその御霊、誘い伊邪那美み、黄泉へ贈らん」
耳を劈く春雷。瞬けば稲光と共に光の柱は消え失せた。
戸惑う御霊は、何かを訴えかける様に激しく揺れたが、大地へ引かれ沈みゆき、……そして、覡國を去った。
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のうなる……亡くなる、死ぬ。
たらう……拾う。
さいこ焼き……世話焼き。
おもしゃい……面白い。
ぎょーさん……たくさん。
はんま喰わす……すっぽかす。
ぬくい……温かい。
おおきに……ありがとう。
だんない……大丈夫。