巫行110 再来
我が子を高天國へ送った女は、巫行へ就く事が決まった。
蛭子神を祀る泉の村の頭首は快く迎え入れ、事が済んでから漸く現れた御隠居も大歓迎をした。
さて、巫女と為れば真名を棄てねば為らぬ。それと同時に、巫女名を得なければ為らぬ。
新たな巫女の名は環。命名したのは先代の泉の巫女、老イズミである。子の御霊達の循環と、再び母子に還る時への願いから名付けられた。
この際だからと、老イズミは自身の、王の御使いに押し付けられた社の巫女の衣装を譲り、本格的に巫行から退く事に決めた。
名を変え、衣を変え、過去の過ちや哀しみを断ち切ったタマキ。腕に巻かれていた麻紐の環だけが、彼女の以前からの持ち物となった。
その環にはミクマリが誂えた骨針に髪を巻いた御守りが括り付けられた。ミクマリの真心は、新たな巫女への霊験の足しや守護の助けへと為るだろう。
万が一、何かの理由で黄泉路が開いてしまう事があっても、これを投げる事で一時凌ぎが出来る。
タマキが自身の子を寿いだ後、トウロウの子も母の元へと急ぎ足で向かって逝った。
霊気の扱いが未熟だからか、優秀な巫女の子の魂が重かったからか、タマキはその日はそれ以上の幼子や水子の寿ぎが行えなかった。翌朝に験せば、また幾つかの霊魂を送る事が出来た。
その間にも、泉の森へ二つ三つの魂が加わったという話ではあるが、霊気や霊性は使えば使う程に磨かれる。
少しづつではあるが、タマキは母に成るのを待つ当主と共に修行や巫行に勤しみながら、泉の巫女としての任を果たしてゆくだろう。
「さて、目的も果たせたし、帰ろうかな」
ミクマリは独り明るく言った。彼女は寝坊をしていた。他の者は既に森で巫行や修行の最中だろう。
彼女は自身の手落ちもあった手前に、この地へと降り立った時は決して明るい気持ちではなかった。だが、タマキが巫行に就く事となり、任が滞っていた泉の巫女と、水子の御霊が救われる結末となった為に、その暗鬱とした気持ちとも訣別が出来た。
決して、これで良かったとまでは言わないが、麻や苧を名の由来に持つ娘の不幸もまた、誰かの救いへの一糸になる運命であったのだと、考える事が出来る。
――多くの苦しみや悲しみも、最後に誰かの笑顔に繋がるのならば、決して無駄では無い筈。私の旅もきっと……。
『何だ? もう帰る心算なのか?』
森からゲキが現れた。始めの内は水子に嫌われていた性悪な彼であったが、今は夜黒の気配さえ抑えれば、幼き霊魂達も逃げない。
ミクマリは、彼が霊場で巫女達の修行を指南する序でに、こっそりと幼い魂をあやす様に漂って見せていたのを知っている。
「はい、ツルギ様にも今回の件を報告しないと。それに、噂や心配で真名を呼ばれると、巫力に害がでるでしょう? 村の人達にも早めに伝えておかないと」
『とは言われておるがな。本人の前でしつこく呼ぶとか、繋がりの強い者が呼ぶとかしなければ、そうそう目に見えた逆修を顕しはせんぞ』
「そうなんですか。だけど……」
師を見詰めたままで脳裏に浮かぶのは、妹の顔。
『アズサが心配か?』
「はい、少し。でも、話が良い方に向かったので、神剣の村を出た時程ではありません。あの子はちゃんと出来る子ですし」
『そうだ、俺達の弟子だからな。それよりも、水子の増加の速度をタマキの巫力が上回るまでは、様子を見たい気がするのだ』
確かにそれはミクマリも懸念している。
タマキは現時点では十分な巫力を持つとは言えない。幾ら才覚や霊感が目覚めたとは言え、現時点ではその辺りの詐欺紛いの巫女や、売笑傍らに巫力を提供する巫娼よりも劣る。
巫覡は適切な指導や修行の元であって初めて、その力を正しく伸ばし、扱う事が出来る。今でこそ人の域を外れたミクマリではあるが、ゲキへ師事する前は只の娘であった。時系列で考えるならば、ミサキの擁する幼い見習いが相手だったとしても、霊気や霊性では引けを取っていたであろう。
鱒に仕える男覡見習いの童男、マスが早くに開花出来たのと同様、タマキももう少しゲキやミクマリから指導を受ければ、大きく伸び始める可能性がある。
「そうですね。タマキさんだけでなく、イズミとも巫行の話をしておきたいかも」
『巫行の話だけでなく、旅の話も聞かせてやれ。あの娘とは最初に来た時、随分と気が合っていたであろう? 俺やアズサには分からぬ苦労への理解が得られるやも知れぬぞ』
殊勝な気遣いを見せるゲキ。
「そーそー。もうちょっと、ゆっくりして行きなよー」
イズミがタマキと共に森から戻って来た。
「ね、聞かせてよ。あれからここへ戻って来るまで、どんな事があったの?」
親友が白い歯を見せた。
それからミクマリは、友人達へ旅の出来事を話して聞かせた。
悪の調伏、夜黒の斎い、乾いた大地への水分りと、新たな妹との出会い。
「妹と言っても、血は繋がっていないのだけれどね」
苦笑するミクマリ。最近は寧ろ心配される側に回ったが、アズサの名を出せば、否応にも不安が過ぎってしまう。
「血の繋がりなんて、あまり気にしないけどなあ。村が一緒だったら、家族みたいなものだし。ミクマリとアズサだって、これから二人で里を興すんでしょう?」
イズミが言った。
「私も、血の繋がりよりも、心や土地の繋がりの方が好きです」
天涯孤独のタマキも言う。
「そうよね」
同意するミクマリ。
二人の言う事は良く理解が出来た。嘗て、ミクマリの血縁の妹や弟は併せて四人居た。巫女と成った次女とは、過ごした時間の長さや、里の民としての役割上の共闘もあった為に繋がりは強いが、他の幼い妹や弟は、一緒くたに面倒を看ていた里の子供達と大きな差を感じない。
序列を付けるのは卑しい事だとは思ったが、矢張り、過ごした時や思い出に依る差というものは強い。
アズサもまた、他の子供達と比べては短い付き合いではあるが、苦難と共にした数や、庇護の関係としてだけでない感情のやり取りも多く、確実に特別な存在へと為っていた。
――若しもまた、“あの子”とアズサに「どっちが一番の妹か?」と訊ねられたら、どうしよう?
前に一度、どっちが良いかと訊ねられた事があり、その時のミクマリは虚偽でアズサを選んだ。
ミクマリ自身も以前に、守護神へ似たような質問を投げ掛けて困らせた事があったが、あの時の彼の気持ちが良く分かる気がした。
――多分私も、はぐらかして小屋の隅に逃げるわね。
『姦しいから』と言って席を外しているゲキを思い浮かべて、唇に優しさを浮かべる。
「それにしても、神様って勝手なのが多いんだね」
イズミは腕を組んで唸った。
「うちは、神様じゃなくて品物を祀っているので、唯々驚きです。恐い神様ばかり……」
タマキが言った。
「ミクマリが色々体験して来たのは分かったけど、何て言うか、あたしの村って随分と世間知らずっぽくて恥ずかしいな」
「山奥だから、旅人も少ないものね」
「多分、元々が裏の泉の為に興った村なんだろうけどね。昔は山頂の村との交易で全部完結してたから、最近はそっちの方も少し困る事が増えて来ててね。山に強い人はあっちの村に多かったから、実はタマキの山の知識や織物の腕前も、すっごく有難かったりするんだ」
照れ臭そうに頬を掻くイズミ。
「イズミは薬学が苦手なの? 単にそそっかしいだけだと思ってた」
腹痛への処方に腹下しを煎じたり、傷に芥子を塗る娘だ。
「そう、実はその両方なんだよ」
胸を張る巫女頭。
「何、威張ってるの。薬学と言えば、うちのアズサは薬周りは得意よ。私よりも詳しいし、蟲の毒にも通じてるの」
突っ込みを入れるこちらも小鼻を膨らませている。
「へえ、小さいだろうに良くやるねえ。霧の里ではちゃんと色々と伝わってるんだなあ。うちは何にも伝わって無いし、何にも知らなかったんだよあ」
イズミが溜め息を吐く。
「何でも知っているのが、良い事とは言わないけれど……」
ミクマリは覡國に暮らす巫覡は高天の父を始めとした身勝手な神々や、黄泉の“欲深なる母”に弄ばれているのではないかという話は伏せていた。彼女達の役割はその様な大きな話ではない、無垢なる魂への真心だけで充分だ。
多くを知り、多くの巫覡を擁していた為に、分流して惨忍事へ手を染め始めた流派もある。
だが、他の流派より聞き及んだ、鬼や黄泉からの使者にも役目や意味があるのだという事を伝えるのは外せなかった。
若き泉の巫女達は、「そう言う事なら、蛭子神を無闇に恐れなくても良い、若しも戦わねば為らぬ時が来たとしても、決して憎しみではなく、慈しみを以て祓う」と誓った。
多くの悲劇や辛い宿命。これまで、出逢い、別れて来た巫覡と神々。
ミクマリは、数多の運命の糸を撚り合わせ、滔々、この近隣一帯に恐怖を轟かせる王をも討とうとしている。
全てはこの為であったのだろうか? 社の巫女や、ミサキに仄めかされた運命。当初は言葉だけで何の実感も無かったが、今や自らの意志で、里の者の怨みを彼へと集約し、避けて通れない道へと成した。
――王を、討たせて頂きます。
それは気負いでも、高慢でも無ければまた、憎しみや怒りでもない。
自身の中で確かに踏み固められた決意。その先に待つのは人外の領域か、人里の長の座か。
――怯える事は無いわ。
怨みにて、私達が鬼に成る筈がない。幾らサイロウが、多くの民を養う王でも、その惨忍事は数知れない。
幸せの仕合わせ。全体の幸福度を見たら良いだけ。出逢った頃のあの人ならば、絶対にそう理屈を捏ねたでしょうね。
いつしかあの人は優しくなり、その分私は、理屈っぽくなった。
――私達ならやれる。絶対に大丈夫。
それからミクマリは、これが最後だと言わんばかりに友人達との一時を愉しんだ。
話の興味は出来事だけでなく、絶景や舌を唸らせる海産物、交易の要で見かけた美しい石や、男女の情事にも及ぶ。
輩との友情を深め、巫行に関する心配も晴らし、再来の時には優秀な妹の顔も必ず見せると約束し、泉の村を出立する。
再び空を駆ける若き燕。
白き翼を羽搏かせ、黒き尾を空に棚引かせる。
唐突に、ミクマリは足を止めた。
『どうした? 耳なぞ押さえて』
ゲキが訊ねる。
「いえ、今。アズサの声が聞こえた様な気がして」
幽かではあったが、自身の耳に聞き慣れた音が届いた気がした。
その色は不確かで、何を訴えかけるかも分からぬ。そもそも風の悪戯かも知れない。
『気に為るならば、急ぐが良かろう。慌てて足を踏み外すなよ』
ミクマリは鳥の様に空を駆けてはいたが、それは水術の足場を乗り継いでの事である。万が一、転落すれば助かるまい。
「矢張り、心配です。急いで戻ります。ゲキ様、確り憑いていらして下さいね」
気を引き締め直し、身体と水に霊気を満たす。
潮よりも早く。嵐よりも早く。水分の巫女が空を跳ぶ。
湿った空気は次第に濃くなり、行き先にその正体を示す。
――嵐の気配だ。春雷の儀式にはまだ早い筈だけど……。
空の黒雲は娘の胸にも侵入してくる。
『おい、あれを見ろ!』
ゲキが声を上げる。ミクマリは疾りながら目を凝らした。
黒雲だけではない。村の中からも漆黒。
「……」
ミクマリは息を呑んだ。
その天と地を繋ぐ黒き柱は、あの悲劇の再来か。
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逆修……霊力霊験を高める修行とは反対の行為。