巫行109 再誕
一同、地の底から這い出る異なる気配に気付く。
一斉に見やったのはミクマリの足元。
血が噴くかの如く底から漏れ出る霧は、闇か血か。
「私の真下から!?」
飛び退くミクマリ。彼女の立っていた場所から地面が裂け始め、瞼を開くが如く、黄泉への洞を開通させ始めた。
「……お母さああああん……」
穴の底から蛭子神の呼び声。噴出し続ける夜黒ノ気。辺りに漂って居た霊魂達が慌てて散って行った。
「お腹に響くような声……」
マヲは泣き出しそうな顔で耳を覆った。
「ミクマリ、御免だけど、また頼むよ!」
両手を合わせて懇願する泉の巫女。
「……」
ミクマリは霊気も碌に練らずに穴の中を覗き込んでいる。
『蛭子の気配が近付いて来んな?』
声はすれども姿は見えず。亀裂も中途半端に開いたままで、奥の方は狭苦しい。
「詰まってますね、これ」
ミクマリが指をさす。
「……お、お母さああああん……」
蛭子神の虚しい呼び声。
『ううむ。本来の黄泉路とは違う道を使った所為であろうか。それとも、影向すべき時でもないのに現れようとした所為か』
「ミクマリの真下から出て来るなんて、ミクマリを狙って落とそうとしたのかな?」
イズミが首を傾げる。
『先に甘い扱いをされたのを覚えていて、ミクマリの気に呼応して黄泉路が開いた可能性もあるな』
「私の所為ですか!?」
声を上げるミクマリ。
『懐かれておるのかもな。何にせよ、このままでは黄泉路は閉じる事が出来ない。ずっと夜黒ノ気を放出し続けるぞ』
噴出する黒い気は付近に充満し始めている。
ミクマリは霊気を練り始めた。
師が求めている事は分かる。蛭子神を滅せよという事だ。今ならば、あの赤子の姿を見ずに済ませられる。あの姿は心臓に毒だ。
それでも、出て来たら前の様に優しく送り返してやる心積もりであった。
『穴は繰り返し使えば緩くなってくる。“次”はここから出て来るぞ』
「どうしよう。また別の岩で塞ぐかな……わっ!」
蛭子が何かしたか、濃度の高い靄が噴出してイズミを驚かせた。
「マヲさんは平気?」
ミクマリは穴から目を離すと、耳を塞いで蹲っている娘の方を見やった。祓の気を扱える巫女は兎も角、なまじ霊感がある体質だと、夜黒ノ気は毒だ。
人によっては直ぐに気分が害され、負の感情が強く出やすくなる。そうして邪気が生まれ、それが育ち夜黒は勢力を拡大してゆくのだ。
「……あら?」
辺りに漂う黒い靄が、彼女を避けているのを目にした。
『ほう、大丈夫そうだな』
「何処が? マヲさん、怯えて泣いてるじゃない。早く何とかしてよう」
イズミが蹲るマヲの背を摩る。
「行きます!」
ミクマリは強烈な祓の気を穴の奥へ向かって放った。
夜黒き道に白い光が注ぎ込まれる。
奥底から湧き上がる赤子の絶叫。
「いやっ!」
マヲが耳を塞いだまま頭を振る。
『ミクマリよ、時間を掛けて練った割には大した威力ではない様だが……』
師が疑問を投げ掛ける。穴の奥からはまだ泣き声が続いている。
「うーん。私にはあの子を滅するのは出来そうもありません。可哀想なんだもの。単に、挟まっていたのを解放して上げました」
苦笑い。肩を竦めて師を見上げる。
『そうか。責めはせんが、為らばさっさと塞げ。良い加減に夜黒臭いし、マヲも限界だろう』
「えっと、どうしましょう? 私の神気でも塞げますか? あ、珠を投げ込みますか?」
黄泉國に大量の神気を送り込むと、向こうが厭がって黄泉路が閉じる。一度、雷神の珠を投げて封印をした経験があった。
『幾らお前とはいえ、神気だと練っている間に、また蛭子が登ろうとして挟まりかねないな。かと言って、言葉の神の珠は勿体無いな』
優柔不断に漂う守護霊。指摘通り、神気の扱いは霊気のそれよりも重く時間が掛かる。
『そうだ! マヲと赤子の為に拵えていた御守りがあったろう? あれを験してみてはどうだ?』
師の提案。一晩掛けて母子の為に拵えた御守り。あれにはミクマリの霊気も神気も、十二分に籠っている。
ミクマリは頷くと、懐から渡しそびれていた御守りの片方を取り出し、穴の中へと落とした。
暫くすると、夜黒き穴の奥で赤子の嬌声が木霊し、大地を揺るがす震えと共に亀裂が閉じた。
ミクマリは師を見上げて微笑む。彼もまた優しい揺らめきで答えた。
「はあ……閉じた。また、御封石を乗っけとかなきゃなあ」
溜め息を吐くイズミ。岩を自慢していた時とは反転して、すっかり意気消沈している。
「その必要は無いかも」
ミクマリが言った。
「どうして? 今のがミクマリの所為だとしても、次は水子が溜まった所為で出て来ちゃうよ? また、この子達を滅するっていうの?」
若き泉の巫女の憐憫。憐れみだけではないだろう。あの時は仕方なかったとは言え、無垢な子供魂を消滅させる所業は、心に大きな負荷と為る。
「大丈夫、寿いで上げれば良いのよ」
微笑むミクマリ。
「寿ぐって、あたし達じゃ出来ないじゃん!」
声を上げるイズミ。水子の魂は、母親を経験した巫女の祝詞しか聞き入れない。
『ふむ、そうか分かったぞ!』
師が明朗な霊声を響かせた。
――流石、私の守護神だけあって、理解が早い。
ミクマリは微笑を笑顔に成長させた。
『さてはお前、他所から経産婦の巫女を攫って来て、水子の魂達を寿がせようと考えておるな? お前の空駆け為らば、それも容易い訳だ。良し! ひとっ走り巫女を攫って来い!』
「違います!」
がっくりと肩を落とすミクマリ。
『冗談だ。マヲにやらせようと言うのだろう? 先程、夜黒ノ気がマヲの身体を避けて流れているのを俺も見た』
「その通りです」
「無理ですよ! 私、霊感が多少あるだけで、山賊の人達に憑いていたものだって、はっきりとは分からなかったんです」
涙目で首を振るマヲ。
「う、本当に出来るんなら有難いんだけど、無理言っちゃいけないって。避けて流れたとは言え、あんだけ濃い夜黒に中てられたんだよ?」
イズミが言った。
「私、視えないです。ここに漂う霊達も、黒い靄も」
マヲは顔を逸らした。
『子が死んだ時もそうであったか?』
ゲキの質問に、子を失った母は目を見開く。
「ちょっと! いくら性悪だからって、そんな事を思い出させなくても良いでしょう!?」
イズミがゲキへと喰って掛かる。
『お前の役目にも関わる重大な話だ。少し黙っておれ』
「偉そうに! ミクマリも何とか言ってよ!」
「マヲさんは、どうしてこの泉に来たんだっけ?」
ミクマリは暴れ出さんばかりのイズミを手で制し、マヲを見詰めた。
「……本当の事を言うと、あの子の事、少し憎かった。静かに寝ていたらね、とっても可愛いの。父親が誰だろうと、これは私の子だって思えた。でも、どうして泣いているか分からない事が多過ぎるし、お乳も出ないし、誰にも助けを求められないし、何度か、居なくなってしまえば良いって、思った事がありました。……だけど、あの子が動かなくなった時、身体から、丁度ここの森に居るものと同じものが出て来て、何処かへと飛び去ったのをはっきりと見たんです。身体はまだ暖かったのに、それで、ああ、死なせてしまったんだなあって思って。その時になってやっと、あの子が大事だったって分かって。だから、謝りたいと思って、ここへ連れてきて貰いました」
マヲが顔を上げる。
「もしも、私が何かのお役に立てるなら、験してみたいです。お話を聞いていた分では、誰かがやらないと、この子達は消されてしまうのでしょう?」
上げられた彼女の視線は、遊ぶ霊魂達を確りと追っている。
「私が、寿ぎと霊性の指南を行います」
ミクマリが言った。
寿ぎ。相手の御霊が高天國に至るのに相応しき資格を持つ場合に、巫覡の徒が祓の気と共に祝詞を挙げて送り出してやる儀式。
寿がれた魂は、怨み、憎しみ、哀しみ、多くの負の感情や、覡國への枷となり得る執着心を全て失い、神の暮らす國へと旅立ってゆく。
その際に、祝招る者の心に怒りや憎しみが渦巻いていると、邪気が混じって心の祓が不十分となり、寿ぎが成立しない。
ミクマリの様な慈愛の者であれば、特に意識をせずとも達成出来るが、本来ならば自身の心の在り様を強く制御せねば為らず、容易な事ではない。
真の巫覡であれば、相手が我が子の命を狙った様な悪党の魂に対しても、憎悪を差し置いて相手を祝う気持ちにて祝詞を上げるのである。
余談ではあるが、祓とは逆方向の力を使い熟す呪術師もまた、思考の切り分けは別問題だとして、修行の過程で寿ぎの技を身に着ける者も多いと云う。
さて、この我が子を失った母の場合はどうであろうか。
「高天に、還りし命を、寿ぎます」
マヲは自身の霊気の扱いを説明された後、近くを遊んでいた霊魂に向かって祝詞を上げた。
間も無く、天と地を薄っすらと白い光が繋ぎ、霊魂はくるりと宙返りをした後に、空へと昇って行った。
「やった! 出来たじゃん! 良かったあ!」
掌を返しイズミが跳ねた。
「喜ぶのはまだ早いわ」
厳しい声を投げたのはミクマリだ。
「あっちの方に霊魂が沢山集まって居るわ。近付いてみましょう」
ミクマリが森の奥を指差し、提案する。一同はそれに従い、幼き霊の群れへと近付いた。
すると、一つの魂が群れから飛び出し、マヲの周りを弾む様にくるくる回り始めた。
「ひょ、ひょっとしてこれって……」
霊に纏わり付かれ、たじろぐマヲ。
「きっと、あの子の魂よ。ごめんね、私が至らなくって」
ミクマリは瞼を伏せ、指先で霊魂を撫ぜる。温度は無いが、気配の差で触れているのが分かる。
「私も、ごめんなさい。ちゃんと育てて上げられなくて、ごめんなさい……!」
涙零し謝罪する娘。霊魂は彼女の前で制止すると、一度宙返りを披露した。
「さあ、寿いで上げて」
ミクマリが促す。
マヲは頷き、一拍我が子の霊を見つめた後、祝詞を上げた。
「高天に、還る命を、寿ぎます」
……しかし、先程とは違い、空も魂も何の反応も示さなかった。
「どうして!? もう霊気切れ?」
声を上げたのはイズミ。当のマヲは原因を自分自身で理解している様で、寂し気に霊魂を見詰めている。
「手放したくないのよね。逝って欲しくないの。だから、祝詞が意味を成さない」
ミクマリもまた同じ表情をし、親子を見詰めた。
「ミクマリさんの言う通り、私には出来ません。本来在るべき処へ還してあげたいけれど、これがあの子だと思ったら、逝かないで欲しいって思ってしまいます」
『赤子も、幾ら無垢で邪気が無いとはいえ、母への執着は捨てられぬか……』
ゲキが呟く。
「じゃ、じゃあ取り敢えず他の子からお願い! 一人位は残ってても、あいつは来ないしさ!」
拝むイズミ。
『お前、中々調子の良い奴だな……』
ゲキが溜め息を吐いた。
「え、えっと……兎に角、他の子達を送って上げますね」
マヲは表情を戻すと、辺りを見回した。
すると、またも一つの魂が群れから飛び出し、今度はミクマリの周りをくるくると回り始めた。
「えっ!?」『何だと!?』
イズミとゲキが声を上げる。
「その魂、ミクマリの……?」『俺は許さんぞ!』
困惑する二人。
ミクマリにはその霊魂の正体が感じられた。その霊の気配と良く似た水術師と、命を賭けた戦いをした事があった。
「これは、私の……私の大切な人の子の魂」
思い出される血の朝焼け。この御霊の母は既に高天へ逝った。
「貴女のお母さんは、先に逝って待ってるのよ」
呟くミクマリ。この御霊が昇れば、トウロウは向こうで再び腕に子を抱く事が出来るだろうか。
『そうか……あの時の水術師の子供か。高天に集められた魂は、永い時を経て、別の神に生まれ変わると云う。それまでは高天の住人として、この覡國とそう変わらぬ豊かな地で暮らすのだ。高天に昇る資格のある者は、気高き魂を持つ者、無垢なる魂を持つ幼子、そして、神との交信の力を持つ巫覡だ』
「巫女も、この子達と同じ処へ?」
マヲが訊ねる。
『そうだ。巫覡の才の多くは生まれ付きであるが、魂の貴賤はその生の間に何度も塗り替わる。具体的には、心に強烈な衝撃を受けたり、人の生死に触れた際に、死せずとも肉の中で魂が再誕する事があるのだ。お前は辛い経験に依り霊感を手に入れ、恐らくは出産か子の死に触れた瞬間に、その資質を大きく伸ばした。今やお前も、その領域に達しておる』
語る守護霊。彼もまた、様々な彩りと、深き色合いを湛えている。
「私、巫女に成りたい。いつかはこの子と同じ処に行きたいっていうのもありますけど、この子の死や、これまでの私の人生を、それを支えてくれたツルギ様や皆の意思を無駄にしたくないです……」
マヲが言った。
『どうだ、泉の巫女の当主よ。この女をここの巫女として迎えぬか? お前が母に成るのを待つよりは手っ取り早いぞ』
「えっ!? ここの!?」
目を丸くするイズミ。
『そりゃそうだろう』
「……こちらとしても、お願いしたい位だよ。でも、この地の巫女は、普通の村の巫女とは訳が違う。さっきみたいな黄泉からの使いを相手にしなきゃいけない役目なんだ。それに、巫女に成るって事は真名を呼ばれる事を禁じられるんだ。貴女は、これまでの自分の名前を棄ててしまわなくてはいけなくなるんだよ? それでも、良い?」
訊ね返すイズミの貌は、お調子者ではなく、一個の巫女頭としてのそれであった。
マヲは暫く沈黙すると「生まれ変わり、ね」と呟いた。
彼女の身体から神聖な気。
「高天に、還りし命を寿ぎます」
二度目の寿ぎ。天と地が、強い光で繋がれる。
「行ってらっしゃい」
母は微笑んだ。
御子の魂は温かな母の愛に包み込まれ、無事に天へと昇って行った。
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