巫行108 石術
水分の巫女は、娘を背負って神剣の村を出立した。
力の限り地上を走ると、些末な難事すらも目に留まって仕方が無い。沓に返す地の震えが、背負う娘の頭や胃の腑を苛み兼ねない。
ミクマリは憑ルベノ水で自身の肉体を強化すると、ふわりと飛び上がり、宙に水の足場を出して飛び移り進み始めた。
霊気で程良い硬さに仕込まれた水の足場は柔らかな感触を返す。風が頬を撫で、大袖と茜袴を賑やかにはためかす。
背中の娘は、初めこそは恐れ慄いたが、その内に空から彼方を見渡す鳥の真似事を満喫し始めた。
此度の事件には自身にも落ち度がある為、移動中に反省を行う心積もりであった。
だが、難所も障害物も無視する掟破りの空の旅行は、長距離を験したのが初めてであった為、距離と時間の予測を大きく狂わせた。
心を戒め切る前に、いつか師と共に祓と寿ぎを行った焼け落ちた村を目視。陽が沈む前に、蛭子の産道を隠す泉を祀る村へと辿り着いてしまった。
『何てこった。あっと言う間に着いてしまった』
師が驚きの声を上げる。
「もう着いてしまったんですか? もう少し飛んでいたかったです」
超常の出来事の所為か、謝罪と弔いの旅らしからぬ反応を返すマヲ。
ミクマリは足場を羽衣へと作り変えると、風を受けてゆっくりと地上へと降り立った。
山道だ。山道は無数に通過して来たが、ここは苦い引き出物のある場所であった。
サイロウの配下の横暴により、六つ子全ての命を奪われた女。その女からの人違いを受けて、石包丁で襲われた場所である。
あの女の名は確か“桑”と言っただろうか。あれから月の満ち欠けを幾つも繰り返し季節も流れたが、悲劇から立ち直るにはまだ遠いだろうか。
ミクマリにとっては、この地は多くの初めてを経験した地でもある。
初めて黄泉國の気配を色濃く感じ、初めて村外に同じ巫女の友人を得て、師への強い反発を初めて見せたのもこの地だ。
一晩掛けて無垢な御霊達と遊び、悲しみと共にそれを滅した記憶は忘れ難い。
友人への訪問は愉しみではあったが、初心に帰り気を引き締める機会としたいとも考えた。
「ここからは徒歩で村へ向かいましょう。驚かせてしまってもいけないので」
ミクマリが連れ合いにそう言うと、直後に背後から声が上がった。
「えっ? ひょっとして、ミクマリ?」
振り返れば、社の流派の衣。泉の巫女の若き当主、泉。
一行は直ぐに、歓迎と共に村長の住居兼神殿へと通された。
「いやあ、どこぞの尊い神様が現れたのかと思ってびくびくしていたら、ミクマリなんだもんね。ほんと、吃驚しちゃったよ!」
イズミはどうやら、空から強烈な気配が村へと向かって来るのを察知して様子を見に来ていたらしい。
「ごめんなさい、驚かせるつもりは無かったんだけれど」
『空は遮るものが無い為、気配が通り易いのだろうな』
「おお! 守護霊様も相変わらず濁った気配だね!」
『お前も相変わらずの様だな。村長にも就いただろうに、他所の神へ対して何という口の利き方だ』
ゲキが嘆く。
「霊気の修行は随分したんだけどなあ。自分では別人じゃないかって思う位に、巫女巫女しくなった心算だけど……」
頭を掻くイズミ。ミクマリは彼女の霊気を探って視た。確かに、初めて会った時とは比較にならない位には力を付けている様だ。それでも、単身で蛭子を食い止めるのはまだまだ難しそうだが。
「どう? ミクマリは巫女してる?」
「何よそれ」
ミクマリはイズミの奇妙な表現に噴き出す。
「衣が前と変わって……るよね? あたしのと御揃いだった筈なのに」
首を傾げるイズミ。
『噂は届いておらぬのか? こいつは巫女処か、善神と比肩する程の活躍をしておるぞ』
ゲキは自慢気に言った。
「知らない! 僻地だからなあ。旅人も滅多に来ないし。まあ、でも元気そうで良かったよ。処で、今日は何か用事があってここへ来たんでしょ? そっちの娘は誰?」
イズミはマヲに向かって歯を見せ、手を振った。マヲは空の旅の時の元気は何処へやら、小さくなって愛想笑いと共に肩を竦めた。
今回の一件がイズミに説明される。
「うんうん、成程ねえ。そう言う事なら、泉の森に入って貰っても構わないよ。そっか、自分の子の魂に会いに来たかあ……」
目を閉じ、繰り返し頷くイズミ。
「でも、見つけられるかどうかは別かなあ……」
『どう言う事だ? 先にミクマリと共に清めてからなのだから、森に集まった魂の数も多く無かろう』
「実はね……」
イズミの表情は昏い。
こちらはこちらで事情有り。ミクマリが出立してから程無くして、“北の方角”から多数の霊魂がやって来る様になったという。
無垢な幼子の魂である筈なのに、初めから穢れを背負っている者もおり、他の霊魂を追い回す為に、仕方無しに滅せねば為らなかったりもしたらしい。
北と言えば、現在サイロウが赴いている地である。ミクマリとゲキは、誤解を恐れずに彼奴の所為であろうと言い、歯噛みした。
この村の裏手には、幼子や水子の霊が集まって来る霊場の森と泉がある。その地を護る巫女はその御霊達を寿ぎ、高天へと送ってやらねばならない。
だが、その役を担えるのは、子を産んだ経験のある巫女のみで、この村に居る巫女の内の片方、先代の老イズミは六つ子殺しの罪に依りその力を失い、当代の若イズミは婿を取ってからまだ幾月かであり、子があろう筈もない。
霊魂が溜まってしまうと、泉に封印されていた黄泉路が開き、黄泉から蛭子神が現れる。
蛭子神は、黄泉に溜まり過ぎた穢れを無色の霊魂達へと移し、鬼や悪霊へと変えてしまう。そうなってしまうと霊魂達は滅する外になくなってしまう為、泉の巫女は蛭子が現れぬ様にする役を担っている。
「本当は、あたしが寿げるように為らなきゃいけないんだけどね」
『子供は意図通りに出来るものでもないしな。早くとも、まだ腹が目立つか目立たんかか?』
ゲキはイズミの腰の辺りを一回りした。彼女の腹は特に出ていない。
「かな? 良く分かんないけど。毎晩、頑張ってるんだけどなあ。でも、春が近くなって、夫の畑仕事が忙しくなったもんだから、夜の元気がなくってねえ。仕様が無いから無理矢理に襲ってるよ!」
あっけらかんと言い放つ若い娘。ミクマリは赤面した。
「……でも、やっぱり、焦るよね」
反転、イズミは表情を落とす。
彼女の寝床の傍には、男性器を象った石棒や腹の出た女を象った粘土焼きが置いてある。
「また、サイロウの所為、か。悔しいな。このまま水子の霊が増え続けると、蛭子が近い内にまた現れるって婆ちゃんが言ってた。あたしと婆ちゃんだけじゃ追い払えないし。一応、封印は験しているんだけど……」
『封印? お前の処では碌な術が伝わっておらぬのではなかったか?』
ゲキが興味を示した。
「うん。うちは石の卜いとちょっとした薬学や呪術くらいだけ。だから、自然術で何か使えそうなのが無いかって思って、修行の序でに色々験したんだ。陽が沈んで“あの子達”も分かり易くなった頃だし、見に行ってみようか」
イズミに案内され、村の裏手の森へと入る。
森の中の星空。一歩足を踏み入れれば、枝の間を漂う幼き霊魂達が目に留まる。
己の死さえも理解していないのだろうか、彼等は愉し気に漂い、追い駆け合って遊んでいる。
――この子達は、どうして死ななければ為らなかったのかしら。飢え? 病? 生まれてから? お腹の中で? それともサイロウ達が直接……。
赤子に手を下す男を想像する。いや、それは無いか。彼は地蜘蛛衆より黄泉送りの祝詞を手に入れている。自ら手を下したのであれば、幼子の魂がここに流れ着く筈はない。
何にせよ、誰かが勝手に奪って良い未来では無い。
――彼は何故そんな事をするの?
怒りよりも、唯、胸を切なくする。
「綺麗……」
見上げ呟いたのはマヲ。ミクマリも初見には同様の感想を抱いた。
「マヲさんも霊感があるんだ?」
イズミが訊ねる。
「ええ、ちょっとですけど。山で暮らしてからかな。“あの人達”は、悪いものをたまに憑けて帰って来てたから……」
震えて自身を抱くマヲ。ミクマリが肩に手を掛けようとすると、イズミが先手を取ってマヲの背中を叩いた。
「元気を出しなよ! 自分の子に会いに来たんでしょ?」
水子の守り人が笑顔を向けた。
命の彷徨いを眺めつつ、昏い森を進む一行。
泉に到着すると、そこには以前は無かった筈の物が鎮座していた。
「これは、岩?」
館程もある大岩が、泉にすっぽりと収まっている。
「そ、岩。中々の霊気でしょ? これはあたしがここまで運んで来たの」
「イズミも水術を?」
水術の強化であれば、大岩を持ち上げる程の怪力の発揮も出来る筈だが、ミクマリは好んでは使わない。ずばり、女子に有るまじき印象を与えると考えているからである。
だが、友人が同じ術の才を芽生えさせたと為れば、矢張り嬉しいものだ。
「良し、私がイズミに水術の指南をするわね!」
笑顔の提案。
「ちっちっち。違うんだなそれが。“岩を術で軽くして”運んだんだよ」
ミクマリの前で指が振られる。
『成程、分かったぞ。これは御封石だ。さてはお前、“道返ノ石”の才があるな』
ゲキが愉し気に言った。
「正解! 流石、ミクマリの御師匠さん。あたし、石術が得意なんだ」
「石術……って、土術とは違うの?」
ミクマリが首を傾げる。土にだって小石は含まれているし、今一つ違いが分からない。
『そうだ。道返ノ石は、石そのものに霊気を込めて働き掛ける術で、土術の埴ヤス大地は、土に住まう精霊に働き掛ける術だ。前者は自然物に働き掛ける、探求ノ霊性、後者は他者へと働き掛ける招命ノ霊性が重要と為っておる』
「ふうん。具体的にはどんな事が出来るんですか?」
『石自体が固形のものである為、水術よりは幅がかなり狭い。だが、不変である故に、長く霊気を留めておける。主に、御守りの作成や魔除けの封印に長けている術だな。石そのものへの働きは、霊気に依って重さを操作したり、頑丈にしたり、それらを用いて強力な投擲を行ったりといった処か』
「あ、見た事があるかも」
ミクマリは石の社の守り人のイワオを思い出す。彼も同質の技を使っていた。採掘等にも便利そうな術であった。
「霊気が少なくても、抜けちゃう前に追加で籠めれば結界を強化する事が出来るから、修行不足のあたしでも便利の良い術だよ」
『俺も使えたが、これは余り才が無かった。そもそも、使い手自体がやや珍しく、土術や水術の方が利便性が高い為に、注目され辛い術でもある』
「ふうん」
「だから、あたしは毎日一所懸命、この岩に霊気を込めて、蛭子が出て来られない様にしたって訳。頭良いでしょ?」
イズミが歯を見せる。
『いや、お前はマヌケだな』
ゲキが言った。
「え、何で!? ちょっとこの人酷くない?」
イズミが声を上げる。
『ははは、確かに毎日霊気を込めているだけあって、この岩は見事な結界の力を持つ。蛭子もこれを押し退けるのは不可能だろう。並の悪霊はこれに触れれば消滅する。だがな、押し退けられぬのなら、避けて通れば良いだけなのだ』
「避けて通る?」
ミクマリが首を傾げる。
『そうだ。結界と云うものは“一点”で作るものではない。その“場”全体を包んで封じなければ為らぬものなのだ。霊場なのは泉だけでなく、この森全体だ。泉から出られぬのなら、他所から出れば良い。今にその辺に亀裂が入って、おぎゃあと言うに違いないぞ』
揶揄う様に言うゲキ。
「ゲキ様! 不安になる様な事は言わないで下さい!」
師を睨むミクマリ。
『冗談ではないぞ。故に石術は扱い辛いのだ。雑魚を退けたり、霊道を曲げる程度なら間に合うが、黄泉路を相手にする為らば、この森の地面の全てを石で覆うか、或いは隙間無く囲うかしなければ、万全とは言えんな』
「うー、それは流石に無理。でも理屈は分かる……。蛭子が出て来るまで、まだ猶予はあるって婆ちゃんが言ってたから、また何か手を考えないと」
頭を抱えるイズミ。
……猶予がある筈。何という間の悪さであろうか。大地の奥底が唸り、烈しく揺れ始めた。
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