巫行107 疑惑
親子の為に支度していた御守りが手から零れ、地に落ちた。
慌て駆け寄り、自身の霊感を否定しながら赤子を検める。
執拗に確かめ直そうとも、痩せた身体からは脈も魂の気配も失われていた。
元より、元気とは言い難い様子ではあったが、乳を吸う力位は残されていた筈だ。
ミクマリは母と共に泣きながら、一体何があったのかと訊ねた。
「分からない、分からない」と繰り返す孤独の母。
自身には落ち度は無かったか? いや、与えた食事には赤ん坊に毒なものは避けた筈だ。だったら何故?
『なあ、ミクマリ。赤子には俺が視えると思うか? あやす位なら手伝えんかなあ?』
事情を知らぬゲキが、のこのこと現れる。
『……!』
事情を察したか、入り口でぴたりと静止する霊魂。ミクマリは母親の背を擦ってやりながら、濡れた顔で彼を見て首を振った。
今更、何をした処で、失われたものが戻る訳では無い。だが、動かずにはいられない。
ミクマリはマヲを落ち着かせてやってから、小屋の中を検め始めた。
自身で動けぬ赤子である以上、異物の嚥下も考え辛い。乳が不足して力を失っていた為に、無理に薬の処方はしなかったが、矢張り何か病を患っていたか。
「……これは!」
ミクマリは小さな壺に収められた、とろみのある品を見つける。指で掬い、舌に乗せれば広がる幸福の甘味。
『蜜か』
ゲキが唸る。
「マヲさん、これは何処で?」
冷たくなった亡骸を腕に収め直した娘に訊ねる。
「ツルギ様に……」
『矢張りか』
恐らくこの蜜は、特別な虫を使役して花の蜜を集めさせた上等な品である。蠱術で精製される品の中でも珍しく、他人に害を為すのが目的ではないものだ。
但し、赤子には毒とされている。
「これを赤ちゃんに上げたのね?」
ミクマリが訊ねると、マヲは肩を震わせて頷いた。
『だが、いつ与えたのだ? ミクマリの口利きの後の事ならば、まだ症状が出るか出ないかだろう』
男覡の霊魂が言った。
「そうですね。でも、もっと前なら……。指を吸う力も弱かったし……。あの時に気付いて居れば……!」
歯軋り。
『責めるな。お前は悪くない。それよりも、一番知っていなければ為らぬ筈の者がおるだろうに』
「マヲさん、村の人達は手伝ってくれないって、ツルギ様にも迷惑を掛けられないって言ってなかった?」
ミクマリはマヲに訊ねる。
「……ツルギ様は、時々私の様子は見に来てくれていました。私が元気が無いからって、“特別の品”をやろうって。皆には内緒だって」
ミクマリは小屋を飛び出した。ゲキもそれを止めず、彼女に追従する。
向かう先はこの村の長を務める巫女の住まう館。
「ツルギ様!!」
礼も無く怒鳴りつけるミクマリ。
「ど、どうした!? 何か事件かえ!?」
飛び起きる老巫女。
「マヲさんの赤ちゃんが亡くなりました」
冷たく言い放つ。
「そうか……。乳の出が悪いと言っておったからの。遅かれ早かれとは思っていたが……」
溜め息を吐く老巫女。
「これ、憶えがありますよね? どうしてマヲさんに上げたんですか?」
老婆の顔に突き付けられる、蜜入りの土器。
「いやいや! 確かにくれてやったが、それは悪迄マヲに精が付く様にだ。赤子には毒になる故、絶対に与えるなと言い付けておった!」
老婆はたじろぐ。
「マヲさんは独りで苦しんでらしたのに、村の人は手伝ってくれなかったそうです。貴女は巫女で村長なのでしょう? もう少しどうにか出来た筈でしょうに!」
ミクマリの鬢と提髪が揺らめき始める。
「そ、それはじゃな……」
言葉を詰まらす老婆。
『大方、神の御子が目障りになって消そうとしたのだろう?』
守護霊からも霊気が滲み出る。それに仕える巫女からは更に強い気配。巫女の館に置かれていた巫具や薬の入った壺が音を立て始めた。
「ま、待て待て! 御主等、本気でそう思っておるのか!?」
老婆は両手を振り、尻を床に着けたまま後退る。
「態とでなければ何だというのですか? 貴女程に巫行を重ねて来た巫女が、蜜が赤ちゃんには毒になるって、知らない筈がないでしょう!? 言い訳は盟神探湯の場にて聞きます」
水筒からするりと水縄を編み出すミクマリ。縄には怒りと哀しみの雑駁した気配が、水の限界までに込められている。
「何ちゅう、化け物染みた霊気じゃ。いや、神気か? 御主、一体何者か」
老獪な巫女は震え始めた。
「化け物? 私は人間です。マヲさんは一所懸命に赤ん坊を育てようとしていたのに……。化け物は貴女でしょう!?」
騒ぎを聞きつけたか、館の外に人の気配が集まって来た。館を覗き込む顔がちらほら。
『村民が集まって来たな。丁度良い。ミクマリよ、濡レ衣ノ法を用いてこの場で裁いてやれ』
ミクマリは躊躇もせず自身の衣に手を掛けた。神の衣の重さを思い知れ。
「待ちりー」
割って入ったのは間延びした妹の声。
アズサは館の中にのんびりと歩いて入って来ると、怯える老婆の傍に寄った。
「婆やん、ほんまに赤ん坊を殺そうとしたんけ?」
「い、いや。儂は確かに、蜜は子にはやるなと念押しをした」
「そやにー。さっきもそう言うとったなー」
アズサは頷く。それから、未だ霊気溢れさせるミクマリとゲキの方へ向き直った。
「姉様、ゲキ様。ツルギ様は嘘を言ってません」
『では何故、村人に助力を止めさせておきながら、自身はマヲに内密に貴重品を渡したというのだ? 神殺しか間引きかは知らぬが、赤子の死に繋がる恐れのある行為だと分かっておったろうに』
訊ねるゲキ。未だ疑いの霊声。
「止めて等おらぬ。暗黙の了解と言う奴じゃろうに。儂等はマヲの赤子への愛が本物かどうか験しておったのじゃ」
「暗黙の了解? どう言う事? お話に為って!」
よもや、またも村民全員での謀か。疑念を強めるミクマリ。
「皆が見ておる前で言えるか。全てはマヲの為を想っての事じゃ」
『アズサ、婆は嘘吐きか?』
怒鳴る様な霊声。
「はあ……御二人とも、ちいと頭をべちゃこに突っ込んで冷やして来て下さい。それと、マヲさんを呼んで来ましょう。事情が話し辛いのだと仰るのなら、うちが音術で音が漏れない様にしますから」
それからアズサは、猛る霊魂と姉へのそれぞれに顔をずいと近付け、一発づつ大きなため息を押し付けた。
「こーっと、その前に。赤やんを弔ってやらんとなあ……」
さて、赤ん坊を村の流儀で弔い、それから館に役者が集められた申し開きの場。音頭を取るのは嘘を見抜く力を持つ幼き巫女。
彼女の前では、虚偽の証言は一切無効。相変わらず野次馬が館の周りに集まっては居たが、入り口に水と音の術両方の結界が設けられており、中で何が行われているかは知れぬ仕掛けと為っている。
「そろそろかと思って、敢えて蜜を渡したのじゃ。儂が殺す為ではない。マヲに選ばせる為じゃ」
ツルギの申し開き。言うまでも無く、嘘は無し。
「確かに、ツルギ様には赤ん坊に蜜を与えてはいけないって言われていました。蜜は、甘くて美味しいし、舐めたら私は元気が出たんです。でも、お乳は出ないし、それでもあの子はずっと吸ってて。あんまり可哀想になったものだから、慰みにと胸に塗って吸わせたんです。少しくらいなら、平気かと」
これも嘘無し。要は母が自らの愚かに依り、禁を破ったという事。
「選ばせるとはどう言う事でしょうか? マヲさんが自分の子を殺したがるとでも思ったのですか?」
未だ怒り冷めやらぬ若き巫女。
「そりゃのう。忌み子だからの」
老婆がちらとマヲを見た。
『忌み子? 神の子ではないのか?』
「守護神様まで本気で仰っておるのか? あれはどう視ても人の子じゃろうに」
『いや、知らんが。半神半人なら、気配が人のものでも妙ではない』
「そもそも、ツルギ様が神隠しだ、神の御子だと仰ったのではないのですか?」
「そら、言うじゃろう。そうでも言わねば、マヲは村に戻れんかった。……ほれ、マヲ。こいつ等、ちっとも分かっておらぬ。儂は初めから気付いておったぞ。良い加減、全部白状してはどうか?」
老婆の促し。
マヲは何も答えなかったが、その動揺からは音術を持たぬ者でも不審が見て取れた。
「マヲさん、何か嘘を? どう言う事ですか? 責めたりはしないので、仰って下さい」
矛先が赤子の母に変わって、漸く落ち着いたか、ミクマリは優しく促した。
マヲが吐いた嘘は唯一つ。
神隠しから戻った際に、ツルギに何があったかを訊かれ「何も覚えていない」と言った事のみ。
マヲは山で繊維の研究に勤しんでいる処、人攫いに遭っていた。
何処とも知れぬ山奥へ連れていかれ、恐ろしい山賊の男共の朝晩の世話をさせられていたのである。
逃げれば命を取ると言われ、従う他になかった。初めは拳が振るわれもしたが、自ら身体を捧げ、己の持てる山の知識を貸す事で、何とか彼等に気に入られて生き長らえたのだと云う。
しかし、彼女の胎が目に付く様になり、山賊への世話にも支障をきたす様になった為に、こっそりと元の山へと返されたのだ。
本来ならば、子を胎から追い出されて仕事を続けさせられるか、母子共に覡國から去る結末が悪行としては順当。
マヲの哀しいまでの献身は、無情の徒に蟻の足先ばかりの慈悲を芽生えさせる事に成功していた。
その暮らしに身を窶して居た時ならいざ知らず。一度故郷の地を踏めば、その記憶は思い出すも辛ければ、語るも到底出来はせぬ。
山賊の悪行は珍しくない。長き人生、村長を務め続けたツルギには、マヲに降り掛かった不幸の正体は容易く見抜けた。
しかし、悪人の元から無傷で帰った事や、胎に悪人の胤を宿している事が知れれば、それは村民達にとって、心の毒と為る。
産まれて直ぐに天涯孤独になった働き者の娘。当然、村長である彼女が目を掛けていない筈はない。その為、失せ物探しに効果が無いと知りながらも、御神体を持ち出し、村民総出で、太鼓打ち鳴らして山狩りを行ったのだ。
何があったかはもう問わぬ。唯、命があればそれで良い。仮令、出先で悪行に手を貸したりしていても、戻って来たのならそれで良い。
だが、無言を貫いたまま放って置けば、勘の良い者は気付く。一つ噂が立てば毒は膨らむばかり。そこでツルギは、神隠しや神の御子の話をでっち上げた。
神の御子であれば、他の村民は手出しを出来ない。だが、当の母親はその正体を知っている。
ツルギが助力をしなかったのは、母の愛が勝つか、悪の胤への憎しみが勝つかを見極め、当人に選ばせる為であった。
そして、子育ての労が重なり、赤子の命も限界かと思われた最近になって、母への滋養となり、また“権利”となる蜜が渡されたのである。
だが、配慮実らず、招かれたのは不幸。
追い詰められた若い母には、正しい判断が出来なかった。マヲは、「自身の心の何処かに、何もかもを無かった事にしたいという気持ちがあったのかも知れない」と語り悔いた。
「疑ってごめんなさい」
ミクマリは頭を下げる。
『ツルギよ、済まなかった』
ゲキもその炎を小さくして謝った。
「儂も、巫行を部外の者に任せるのであれば、事情位は話しておくべきじゃった。若いながらにして神を引き連れ旅をする、本物の巫女を侮っておった」
首を振るツルギ。
『言い訳をさせて貰うなら、俺達はこれまでの旅で、神の勝手に散々弄ばれて来たのだ。故に、在り来たりな悪人の所業の線を曇らせた。神隠しの末に身籠らせたという話は、多くは伝説や御伽噺に過ぎないと言うのにな』
「私も、赤ちゃんの事だから、つい、かっとなって……」
萎れる師弟。
「儂は気にしておらぬ。御主達は苦労して来たのじゃろうな。うちは神ではなく、確実な品を祀る村故に、その苦労は余り分からぬが。守護神殿は何処か邪気を孕んでおる様じゃし、ミクマリさんは真っ直ぐで優しい気を持っておる。それに、妹のアズサさんも珍しい術と、その歳で儂を上回る巫行の数々を披露した。御主達は何か大きく尊い宿命を持った者達なのじゃろう」
目を閉じ語る老巫女。
「本当、アズサが居なかったらどうなっていたか」
ミクマリは溜め息を吐く。
『俺はミクマリがツルギを逆剥の刑に処すると言っても、止める気は無かったぞ』
「濡レ衣ノ法も、そもそも霧の衣じゃ、いつまで経っても乾く筈が無いし……」
死刑一直線である。
さて、事情は分かり、誤解も解けたが、却って苦しみを深くした者が一名。
「私、あの子に謝りたい。私が至らなかった所為で……」
涙湛えて震えるマヲ。
「肉体から魂は疾うに離れてしまっておるしのう。赤子の魂は天や地に還らず、何処かへ流れて行ってしまうが、あれは何処へ行くのじゃろうな」
背を撫でてやっている老婆がぽつり。
「……謝れるかもしれません。もう一度、あの子の魂に会えるかも。私もあの子に謝りたい」
ミクマリが言った。
『例の泉を祀る村か。この近辺の幼子や水の子の御霊は、全てその泉に集まるのだ。そこで巫女に依る寿ぎを受け、御霊は高天へと導かれる』
「ほう、高天へ……。そんな尊い役目を持つ村があるのか」
『だが、当主が未だその条件を達してい無い故、魂はまだ泉で他の御霊と遊んでおる筈だ。今から行けば、あの娘が母親になるよりも早く戻れるな』
「マヲさん。会いに行ってみませんか?」
訊ねるミクマリ。
「会えるなら、是非。でも、遠い処なんでしょう? 今の私の身体では、旅は難しいです」
『ミクマリよ、お前が負ぶって水術で駆ければ、何日掛かる?』
「マヲさんの体調にも依りますが、本気で駆ければ往復でも月の満ち欠け四半分程度でしょう」
「そんな! 何日も背負わせるなんて出来ません! ミクマリ様だって私と背丈が変わらないでしょう?」
『此奴は術に依り身体の強化が出来る。その気になれば山を跨ぎ、海や空も駆ける事が可能だ。行って来い、ミクマリ』
自慢気に言うゲキ。
「はい。春雷の儀式までには戻ります」
生真面目に頷くミクマリ。
「……若しや、御主はあの水分の巫女なのかえ? 各地の難事を治め水分り、剰え、サイロウの割った大地を塞ぎ、雨神呼び戻し、死した地を蘇らせたと云う。旅人の戯言かと思うとったが」
『ツルギよ、その通りだ。霊気は神にも等しく、心は慈愛に満ちておる。俺の巫女に遠慮はいらぬぞ』
「為らば、儂からも御頼み申し上げます。ミクマリ様、是非ともマヲの哀しみを癒す手伝いをしてやって下され。マヲよ、この方に付き従うが良い。きっとお前の今後の生に、光を与えてくれる筈じゃ」
微笑む老婆。マヲは話が分からぬのか、合点の行かぬ様な貌であったが、頷いた。
『良し、決まりだな。さっさと行って来い。俺はアズサとここで待っておる』
「行きましょう、マヲさん」
ミクマリが立ち上がる。
「あんなー。ゲキ様、ちいとええけ?」
アズサが声を上げた。
『何だ?』
「ゲキ様も、姉様に憑いて行って下さい。うち、姉様が心配やにー」
『ぬう、お前にそう言われると言い返せんな。また海神の時の様に、何か無茶をするとも限らんしな』
「無茶はしません。私はアズサの方が心配ですけど」
『うーむ、それもそうだな』
日和る守護霊。
「だんない、だんない。ねっから心配無いさー。それより、もう傍を離れぬと言ったのは誰やっけなー?」
アズサが笑いながら言う。
『ぐ、そうだな……。まあ、俺もあの赤子の事は少々気になっておるし……。では、アズサよ。暫し留守にするが、この神剣の村の事は頼んだぞ』
「婆やんおるから平気やにー。せや、婆やん、良かったらうちに太鼓教えてくれへんけ?」
アズサは早くも気持ちを切り替えた様だ。後ろ手を払い、さっさと行って来いと促している。
「……」
しかし、ミクマリはアズサが心配であった。これまでツルギの切り盛りでやって来れた村。それ以上の巫力を持つアズサが居れば、何の心配も無い筈だ。
親が子を失った場に居合わせた所為だろうか、アズサのしくじりよりも、何か別の不吉な運命が気になって仕方が無い。
「ね、ねえ。アズサも行かない?」
訊ねるミクマリ。
「二人も背負われへんやろー? ええから早う……」
アズサが振り返る。
ミクマリは、不安も心配も隠さない顔で見詰めた。
「しゃーないなー」
そう言うとアズサは、苦笑を子供らしい笑顔に切り替えて、ミクマリの胸へと飛び込んだ。
「姉様、だんないよ。うちの事は置いて、行っといでなー」
優しい妹の励ましの言葉。
「うん、直ぐに帰って来るからね」
ミクマリは、童女の身体を奪わんばかりに掻き抱いた。
******
逆剥……皮を生きたまま尻から剥ぐ事。或いは屠殺。