巫行106 赤子
ミクマリは居眠り中に通りすがった親子を捕まえ、あれこれ世話を焼いた。
弱った赤ん坊を抱いた母親の名前は苧麻。幼き頃に両親を失い、天涯孤独の身となってしまった娘。年端はミクマリと同じ位。
産みの親の元の仕事が麻や苧等の、繊維を扱うものであった為、この様に名付けられた。
最近、子を産んだのだが、初めての子で色々分からぬ事が多かったり、乳の出も悪く苦労をしているらしい。
「お乳の出が悪い時は、お肉やお魚を確り食べましょう! でも、脂の摂り過ぎは避けて下さいね」
いつの間にやら巫女の手には新鮮な魚と兎。
「それから、藤菜の根を煎じて飲むと良いでしょう!」
憐れ、春を目前とした黄色い花も その長い根を晒す羽目と為った。
「あ、ありがとう御座います……」
小さな声で礼を言うマヲ。
ミクマリは獲って来た素材を彼女の小屋で調理し、薬も煎じてやった。
「……美味しい。子供の面倒を見ながらだと料理一つにも難儀してしまって」
供された食事を口にする娘の腕は細い。その腕には麻の環が飾られていたが、飾りとしてはやや大きく、却って腕の貧相さを引き立てている。
「沢山食べて、元気を付けましょう!」
ミクマリの腕に赤ん坊。別に奪い取った訳ではない。マヲが食事をする間だけ預かっているだけだ。
赤ん坊は、乳の代わりには足りぬが、清めた指に浸した野菜と穀物の煮汁を吸っている。
歯がむず痒いのか、吸われる指先に時折、心地良い歯茎の圧が加わる。
『そうだな。こいつはお前と同様、もっと肥えねばならぬ。胸の方も出の悪そうな残念乳だな』
厭らしい悪霊は、マヲの周りを飛び回った。マヲは下を向く。
「ゲキ様。聞こえていらっしゃいますよ」
ミクマリは薄っすらと祓の気を放出した。
『……失礼した』
部屋の隅へと逃げる悪霊。
「本当の事なんで……」
「胸の大きさとお乳の出は余り関係ありませんよ」
胸を張るミクマリ。
『そもそも出る筈もない人間が威張るな。しかし、出ないのならば、村の誰かに分けて貰う事は出来んかったのか?』
「確かにそうですね? 時期が悪かったのかしら?」
『あの婆は矢張り手を抜いておるのではないだろうか。産婆の経験もあるだろうし、食事や薬の手助けも出来ただろうに。丸い筈の赤ん坊も痩せておるではないか』
不満気な祖霊。
「……」
ミクマリは赤ん坊に食事を与えながら表情を落とす。
平和そのものだと思っていた村だが、どうやらそうではなかったらしい。村民達も気が良い人ばかりだと思っていたが、思い違いだったか。
「あの、村の皆さんは悪くないんですよ……」
マヲがぽつり。
『どう言う事だ?』
「この子、父親が居ないんです」
表情を落とすマヲ。暫くの沈黙。
食事は気に入った様で、早くも綺麗に片付いている。ミクマリは赤ん坊を返してやった。
『父親が咎人だったのか? 故に、村の者が避けるのか?』
「また無神経な事を訊いて! どういう理由があろうとも、若い親子を見捨てる何て、あり得ません!」
喚く様に言うミクマリ。赤ん坊が愚図つき、思わず袖で口を抑える。
「あ、あの……そうでなくって。私は、去年神隠しに遭ってしまいまして」
『神隠し?』
「そう“らしい”んです……」
マヲが語るは奇妙な話。
両親が死んで天涯孤独の身と為ったマヲは、村の者の世話を受けて暮らしていた。そこには村の絆が確かにあったという。彼女は返礼として、その分早くに山に入って仕事をする様になった。
彼女の村での仕事は主に裁縫と採集。多くの山菜や植物の特徴を覚え、獣の追い払いも命を危機に晒す事も無く習得しており、数年で村でも屈指の山名人と為っていた。
既存で伝わる山の知識は粗方覚えてしまった為、麻や苧に代わる繊維の植物が無いかと、山を漁っていた時に事件は起こった。
「急に霧が出て、目の前が真っ白になってしまって」
マヲの語りを訊きながら、ミクマリはもどかしい気持ちに為った。何かを思い出しそうで思い出せない。
『それで?』
「気が付いたら、村の前に立っていて、お腹が大きくなっていたんです。村に戻ったら皆に驚かれて、一年近くも行方不明だったって言われて……」
『その間の出来事は何も覚えとらんのか? 神の顔も?』
「はい……。神隠しは、ツルギ様がそうだと仰るから、そうだと思ってて……。このお腹の子は神様の御子なんじゃないかって」
「それで畏れ多くって他の人が手助けをしてくれないの?」
「はい、多分そうだと思います……」
萎れるマヲ。
『神隠しなあ。何も覚えとらんなら何とも言えんが。確かに天津神が遊びで人間を拐す事もある。人の方から生きたままに高天に至るのは不可能だと言われておるが、神の方が招けば容易い』
「天津神……また勝手な事を為さって」
ミクマリは天津の神に対して嫌悪を募らせる。
『それならば、一年で戻って来られたのは幸いだったな。向こうとこちらとでは時の流れが違うのだ』
「そうなんですか?」
ミクマリが訊ねる。
『うむ。生きた身では基本的に覡國の理で時を流れるのだが、向こうの食物に手を付けると、時の流れが高天のものと同調するのだ。高天ではこちらよりもゆっくりと時間が流れておる。あちらで一日を過ごせば、こちらで一年程だと云われておるな。故に、俺も死んであっちに昇ってから、守護霊としてこちらに召喚されるまで数日の事であった。もう少し向こうで術の探求が出来れば、霊魂ではなく、見せかけの人の姿を得ることも出来たやも知れぬな』
「ふうん……」
ちらと師の生前の姿を想像してみる。以前にもやった事があるが、矢張り意地悪そうな男が脳裏に浮かんだ。いや、昔より少々格好がついた気もする。
「と、兎に角。だから村の人は悪くないと思うんです。私が居なくなってしまったので、村の皆さんが総出で太鼓を鳴らして、御神体まで持ち出して山狩りをしてくれたんですって」
『御神体には失せ物探しの力もあるのか?』
「いえ、特に無いそうですけど。その、皆さん、私の事昔から本当に大事にして下さっていたので、それでも縋りたかったのかもしれません」
『適当な巫女だな。御利益が無いのに御神体を持ち出す等……』
ゲキは呆れている。
「そんな事ありませんよ。ツルギ様はこの子が産まれる時も一所懸命に御助力して下さいましたし」
優しく子を撫でるマヲ。
『しかし、神の御子であるなら、それこそ巫女がきっちりと世話を焼くべきだろうに』
「これ以上、ツルギ様に迷惑を掛ける事何て、出来ませんよ……」
マヲは表情を落とす。
その様子をまじまじと眺めるミクマリ。
「マヲさん、若しかして……」
鋭い巫女の眼光。
「な、何でしょう?」
たじろぐ娘。
「皆に避けられているんじゃなくって、貴女の方が遠慮して助けを求められていないんじゃない?」
ミクマリが指摘する。
『まあ、そんな雰囲気だな』
「……」
図星か、マヲは押し黙ってしまった。
「幾ら、お薬でお乳が出る様に為っても、たった独りで赤ん坊を育てるのは難しいわ。貴女にも村での役割があるでしょうから、矢張りその間は人の手を借りなくてはいけません」
マヲは戻ってから仕事を再開している様で、小屋の中には織り掛けの布や、干した繊維植物等が見当たる。誰の手も借りていないという事なら、彼女は赤子を片腕に抱いたままでこれらの仕事を熟している事になる。
「私から、ツルギ様や村の方にもお話しておきます」
ミクマリは立ち上がる。
「そ、そんな。申し訳ないです!」
止める様に立ち上がるマヲ。
「直ぐに頼らなくても良いわ。少しづつ御願い出来るようになりましょう。私も春雷の儀式の見学が終わるまではこの村の手伝いをしていますから、何でも遠慮なく言って。ね?」
肩に手をやり、娘を座らせる。
『では、俺達もそろそろ小屋に帰るとするか。アズサも戻って退屈をしておる事だろう』
師と共に小屋を後にするミクマリ。
「あ、あのっ!」
マヲが声を上げる。ミクマリは振り返る。
「御食事、美味しかったです。お薬もありがとう御座います。それから、口利きの方も……」
語尾を弱くするマヲ。
ミクマリはそんな彼女に微笑みを返し、自身に供された小屋へと戻った。
小屋に戻ると、アズサが“腹ノ音ノ術”を編み出していた。
彼女は一日巫行に没頭し、村の煩瑣な仕事まで綺麗に片付けたという。ミクマリは彼女の仕事ぶりに耳を傾け、若い母へ供した料理に負けず劣らずに腕に撚りを掛け、童女の胃袋を黙らせてやった。
それからミクマリも、マヲとの一件をアズサに話した。
すると、アズサは「姉様はちゃんとお仕事して偉いなー」等と言って、姉の頭を撫でた。
『立場が逆転しておる』と笑う師。
頬を染めるミクマリ。撫でる方は兎も角、撫でられる方に回るのは何だか照れ臭い。
ふと、ここの処のアズサは、自身の頑張りに対する褒美に、撫でや抱擁を要求する事が少なくなった事に気付いた。
霧の里で耳にした事のある神隠しの話を披露する童女を眺めながら、寂寞の想いに浸る。
――少しマヲが羨ましいかな。
順当に行けば、これからも何年も子の温かみを愉しめるのだ。食事中に借りた赤子の感触を思い出す。
無意識のうちに、自分の手がいつもアズサを撫でる時の様に動き始めた。
「はいはい」
苦笑と共に、そこへアズサが自ら収まりに来る。満足と安堵を得るミクマリの腕。
「処で、ゲキ様」
『何だ?』
「あの赤ちゃんは、本当に神様の御子なのでしょうか? 抱いても神気を感じなかったんですよね」
首を傾げる。
『どうだろうな。半分は人の子なのだしな』
「そもそも、人と神さんとで赤ちゃんって出来るもんなんけー?」
アズサも疑問を呈する。
『事実かどうかは知らんが、出来るらしいぞ。御神胎ノ術で月水が消えるのも、無闇に神の子を身籠るのを避ける為だと云う』
その話を聞いてミクマリは胎が疼いた。確かに、覡國にて肉体を持たない神がどうやって人と子を成すのだろうか。自身が降ろしている間に、出来る様な事が行われているというのか。どちらにせよ、もう自身には関係のない話だが。
『神も気紛れで手を付けた者の責任等は、取りたくは無いのだろうな』
「……」
ミクマリは心の中で唾を吐いた。
「ほんまに神さんなんかいなー?」
『人に手を出すのは神だけとも限らん。精霊の類が人の娵や聟を欲しがる話は割とある。俺も性悪な精霊が夫婦の契りを要求をしてきて困っていた娘を助けた事がある』
「ふうん。何の精霊だったんですか?」
『蛇だな。この手の問題では蛇が群を抜いて挙がってくる。何故か蛇の精霊は男女問わず人間を誘惑する事が多い。次いでは狐と言った処か。この二者は、邪気や夜黒の問題の前に、元より他者を騙し誑かす性質を有しておる故、悪気と言うよりは、半ば本能で行っておるのやも知れぬな』
赤ん坊には神気が感じられなかった。と、すれば、矢張り蛇や狐の仕業という事もあるのだろうか?
空白の期間にどの様な暮らしをしていたのかは分からないが、事の始まりは稜威なる者の一方的な拐しから始まっている。戻ってから幸福の記憶が残されておらぬのなら、矢張り悪事と見て良いだろうか。
「御守りの一つでも支度して上げた方が良いかしら?」
『それは名案だな。ここは神が佑わわぬ地。剣は恐らく天候に関わる効能しか持たぬ故、国津神の様に自ら出張って悪を退ける事もないだろう。巫女も並と来ておるから、心配ではあるな』
「姉様の御守りが有ればだんないなー」
衣の間から御守りを取り出すアズサ。
「そうね。マヲさんと赤ちゃんの分、二つ拵えましょう」
村民達に口利きをすれば、いずれ助力を仰げるとは言え、自身が村を離れた後は男手を持たぬマヲは苦労をするだろう。
マヲも一度は稜威なる者に目を付けられた身であるし、ゲキが見えているという事は、霊感もあるという事だ。今後、類似の災厄が降り掛かる可能性は、他の者よりも高い。
――あの赤ん坊が、大きくなるまで、独り立ち出来る様になるまで、何ならば、その子や孫の代まで護れる様に。
ミクマリは久し振りに自身の神の気と髪を使い、夜なべて御守り作りに精を出す。
気だけでなく、心も籠めて。マヲの生業の証でもある骨の針に、丁寧に自身の黒糸を巻き続けた。
横で見ていた守護霊が『やり過ぎだ。親子処か村まで護れるぞ』と優し気な苦笑を漏らす。
――為らば、村の全てを包んで差し上げましょう。
夜が白む頃になって漸く出来上がった品。ミクマリはその出来にやや気色の悪い笑みを浮かべ、床へ就いた。
翌朝。ミクマリは誰に起こされる事もなく床を出て、顔を洗った。
首に掛けるのが良いか、腕に巻くのが良いか。丁度、彼女は腕に環をしていた。それに結わえ付けても良いだろう。他人の髪に触れるのが厭ならば、二人で一緒に袋でも編んで、それに納めても良いかも知れない。
今の裁縫の腕前ならば、それで身を立てられる程度に自信がある。御守りに用いる袋など朝飯前だ。
ミクマリは大袖振って、茜の袴を朝のまだ冷える空気に揺らしてマヲの小屋を訊ねた。
……。
するとそこには、神気処か生気も感じなくなった赤ん坊の前で、泣きじゃくる母の姿があった。
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藤菜……タンポポ。