巫行105 叢雲
次の目的地までの道のりは遠く、長旅となった。
これまで通り各地を行脚し、慈愛振り撒き水分る旅。
骨身に厳しい越冬の旅ではあったが、この間は特に目立った無残事や、娘の心に新たな傷痕を残す出来事は起こらなかった。
神器の噂を調べれば、各地に石ころの様に転がっており、その幾つかは実際にお目に掛かる事も出来た。
しかし、噂を検めて見ると、眉唾ものであったり、本物であっても効力が苦笑や失笑を誘うものであったり、その全てが王討伐の備えに足らう品ではなかった。
結局、当初予定していた宝剣を祀る村へ近づく迄に多くの空振りを繰り返し、春の足音が聞こえる時期に為ってしまった。
「今日は暖かいですね。風も無くて過ごし易いです」
凍解ける山峡を歩く一行。ミクマリは欠伸を袖で隠す。潤んだ視線の先には。薄く色づいた蕾を湛えた枝々。
『この辺りは特にそうらしいな。桜の開花も近そうだ』
この道は人が繰り返し歩き、道から路へと変じた交易の一糸。日に一度は旅人や旅団とすれ違う。
「温いなー。あっこの方はまだ白いのになー」
アズサが振り返り指さす先には、通過した峰の一つ。未だに雪化粧を残す。
「あら? あれは何でしょう?」
ミクマリは進行方向に奇妙な景色を見止めた。
路の上に、揺らぐ水溜まりの様なものが見える。しかし、彼女の憑ルベノ水の才は、そこに見掛け程の水量の存在を認めなかった。
『あれは“逃げ水”だな。気温や水気の噛み合わせで、空気に傍の景色が映る現象だ。蜃気楼と言って、幻の一種だな』
「歩いても、べちゃこがちいとも近くならへんなー。呪術でもないのに幻なんやなー」
『地形によっては、遠地の様子が現れたり、空中に森や村が現れる事もあるそうだ。神の悪ふざけだと良く言われるが、実際は自然の理の一つで濡れ衣だったりする』
「ふうん」
師の蘊蓄を聞き流し、欠伸をもう一つ。
ミクマリは春が取り分け好きだ。花や鳥が目に愉しく、眠りに就いていた獣達が遊び始め、穏やかな風と香りが鼻を擽る季節。
何よりも、暖かな日差しは無限に眠気を誘い、本能に身を任せれば身も心も淡い快楽に溺れられるのが好きだ。
「すぅ……」
「ん? 姉様今し、寝とらんかった?」
「えっ? まさか! 今朝は良く眠れたし、そんな事は無いわ」
袖を唾液で穢す娘。
『幾らこいつが寝穢いにしても、歩きながら寝る筈あるまい』
「せやろか」
見上げる妹の目は座っている。
さて、歩き寝子の一行は再び山を登り始めた。先に訪れた村で耳にした噂では、この山の先に宝剣を祀る村があるらしい。
山の前にも集落が一つ。人々が畚に荷物を詰め込んで旅支度をしている。彼等は老若男女問わずに大荷物を背負っていた。
「あの、皆さんどうなさったんですか?」
ミクマリが声を掛ける。
「んー? 旅の巫女さんかい? 悪いけど、俺達は今から春村に下りるんだわ」
「春村?」
「おう。冬はこっちの方が暖けえし山の幸が多いから、ここの秋村で過ごす。冬を越したら海に近い春村で魚とか獲って暮らすんだわ」
「そうなんですか」
「巫女さん方も、山を越えるなら早い目にした方が良いぞ。もう直ぐ嵐が来るかんな」
村民に言われて空を見上げるミクマリ。特に雨神の気配も無く、目にも叢雲は無し。水気の流れも否を卜う。
「雨なんて降るのかしら?」
「天気卜いでもやらなさるか? だったら、この近辺では当てにするのは止した方がええな。山向こうの“神剣の村”では、定期的に御神体にお祈りをして、天に雲を引き寄せて雨を降らせるんだわ。春は一等激しい嵐を呼ぶ事になっちょる。春雷の儀式は、俺達が神剣の村を通過してから月の満ち欠け半周でやるのが習わしになっちょるから、のんびりしとったら山の中で嵐に巻き込まれるかんな」
そう言って男は他の男と協力して、大きな畚を担ぎ上げた。
「ほんじゃ、俺達は行くよ。小屋はそのままだから、ちょっち借りる位は文句を言わねえけど、嵐は長く為る予定だからな。旅を急ぐんだったらお勧めはしねえ」
村民達は各々荷物を抱えて去って行った。
『神剣の村か。例の宝剣を祀る村とやらだな。やっと辿り着いた、長かったな』
「ずっと外れ続きやったからなー。めっさ歩いて沓もみじゃけてもうたわー」
アズサの沓もすっかり擦り切れている。ミクマリは、また補強してやらなければと思った。
「霧の里から、私がずっと走り続けると丸二日位は掛かる距離かしら」
『そんな事が出来るのはお前位だ。冬の山旅であったから、尋常の小娘ならば季節を跨ぐ処か、國を跨いで黄泉へ行ってしまうであろうな』
実際の今回の旅では月が二度も満ち欠けをしていた。旅の険しさと神器探しの徒労のせいである。
「私、本気で走ったら一日で何処まで行けるのでしょうか?」
『さあな。気になるなら験してみればどうだ? 俺はアズサと昼寝でもして待ってるが』
身体のない筈の霊魂は眠た気に言った。
「言ってみただけです。私も走るよりお昼寝がしたい」
何度目かの欠伸。
「姉様、びしょたれやなー。お昼寝は神剣の村に着いてからやにー」
「着いても、神器が貰える訳じゃないし、今一やる気が出ない……」
また欠伸。ここの処は大した出来事も無く、鍛錬や水垢離以外では気を引き締める機会が無い。
『神器は本物らしいが、それを借りていく訳にもいかんからな。確かに辿り着いたからどうという話では無いのだが……』
こちらも身体が無い癖に欠伸の様な声を出した。
「二人とも、確りしーなー?」
苦笑いする童女。
さて、一行は目覚まし序でに、陽が高い内に山を踏破する事にした。ミクマリがアズサを負ぶって、水術で一跨ぎだ。
同じく重い物を担いだ先程の村民達は僂指の間も無く追い抜かれ、峯では太陽を追い越し、陽が傾くよりも早くに目的の村々を見留めた。
アズサも背負われる事にすっかり慣れた様で、疾る景色へ、げろの代わりに歓声を投げ掛けていた。
神剣の村は、尋常の神を祀る村と余り変哲のない村であった。
神の代わりに御神体が在り、それに仕える年寄りの巫女がおり、巫女は巫行霊験そこそこで、余所の多くと同じく村長を兼ね、村民からはそこそこの尊敬とそこそこの畏怖を集める、そこそこの村である。
違いと言えば、神代わりの神器は土地の国津神の様には口を利かず、天津神と違って、気紛れではなく、確実に霊験を授けるといった点だ。
意思疎通の齟齬や振り回しが無い分、神器の方が却って便利で具合の良いものかも知れない。
一行は村へ到着すると、長である剣の巫女へと挨拶をした。
ツルギは姉妹の力と性根を見抜き、村への滞在と、春を祝う春雷の儀式の見学を許可した。
「そいじゃあ、村の巫行は任せたぞ。幾年振りかに、楽が出来そうじゃ」
老婆は欠伸をして自身の館へと引っ込んで行った。一応、彼女にも後継者な弟子が居るらしかったが、仕事の出来は今一つらしい。
『会って間もない流れ者に村の仕事を丸投げとは、何て婆だ』
「良いじゃないですか。私達も悪さをしに来た訳では無いのですし」
『何か腹が立つから、適当にやってやれ』
無茶苦茶を言う師。
「いけませんよ。何だかんだ、お年寄りの巫覡は手強い方が多いんですから。手を抜いている様に見えて、私達の事を監視していらっしゃるかも知れませんよ」
「そやにー」
苦笑交じりのミクマリ。アズサも何かを思い出しているのか、苦笑いをした。
とはいえ、村もそれ程大きな難事を抱えている訳でない様だ。ミクマリの得意分野に関しても、頻繁に雨を降らす役目を担う村である為、水周りは確りと気が遣われており不要。
怪我人は一度水術の治療を施せば終いで、萌ゆる季節という事もあり、二人の仕事はどちらかと言うと、アズサの薬学や“苦手”を中心に需要があった。
この村は剣の霊験が確実なものである為か、不確かな卜いの仕事は余り求められなかった。獣の流れにしても、春になればそれ程悩まずとも狩りが出来るであろう。
「……」
村の広場で立ち尽くすミクマリ。
先程まで、アズサの手伝いをしていたのだが、どうしても擂粉木を回す音が規則正しく耳に届くと、それに合わせて頭が前後に揺れてしまうのである。
目を擦りながら小屋を抜けて、身体を動かそうと目論んだのだが、斜陽は暖かで、彼女はぽかぽかとした気持ちになり、集う叢雲の様な眠気に覆われて滔々身体が動かなくなってしまった。
「おお、旅の巫女様が精神統一なさっておる。ツルギ様がお仕事を任されるだけの事あって、常に鍛錬を欠かさないんじゃなあ」
通りすがりの老人が拝んだ。年寄りが穏やかに生きれる村は、豊かな村だ。
「なあ、この人、寝とらん?」「いやいや、立ってはるやん。まさかそんなマヌケな巫女様なんておらんやろー?」「巫女言うたら、俺等よりちっこい奴があっちで仕事しとったぞ」
子供達が通り過ぎてゆく。子供が元気な村は、良い村だ。
「わんっ!」
犬の声。何だか足元も暖かい村だ。
「ぴーひょろろー」
山で鳶も啼いている。
平和そのものの村。悠久の平和を求めて旅をして来た娘であったが、旅が過酷続きであった為、人の命に差し支える次元の難事でなければ、気合が入らない体質になっていた。
それでも安心召されたい。水分の巫女、その性根は慈しみと愛に溢れている故、些末な不幸や煩い事でも、求められれば、その掌を差し伸べるのには決して吝かではない。
「すぅ……」
寝息を立てるミクマリ。薄っすらと開いた唇の隙間からの水気が、夕陽にきらきらと輝いている。
『はあ……』
翡翠の霊魂が漂って来て、その様を見付けるなり溜め息を吐いた。
『おい、ミクマリ。婆に剣以外の神器の噂を聞いてみたが、特に知らぬと言われてしまった。神器も、雨や雷を呼ぶ程度で、剣としては錆びてしまっており、草刈りに使うのが関の山な鈍らだ』
「そっかあ……では次は、何処へ行きましょうかねえ……」
『寝ながら返事をするな、マヌケ娘が。する事もないなら小屋で寝ろ。恥を晒すな、恥を。アズサは立派にやっておるぞ』
師の苦言に寝息で返事をするミクマリ。太陽はゆっくりと自身の寝床へと帰ってゆく。
そこへ、一人の若い娘が独り言を呟きながら通り過ぎた。
彼女の腕の中には赤ん坊。赤ん坊は泣くのが生業であるが、その声は弱々しい。
ミクマリの耳がぴくりと動いた。
「今日もまたお乳の出が悪かった……。どうしよう……」
若い母の溜め息。
「何か御力に為りましょうか?」
悩める母へと救いの手が差し伸べられる。
神聖なる紅白の衣。漆黒の提髪は至宝。きりりと引き締まった口元の涎と、凛とした瞳には目脂。
水分の巫女はきっと親子の助けに為るであろう。
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ぬくい……暖かい。
べちゃこ……水溜まり。
今し……たった今、今し方
畚……縄や蔓、竹等で編んだ運搬用の道具。