巫行103 姿見
暖かな炎と共に夜道を歩み、一行は川神を祀る村へと到着した。深夜だった為に既に巫女達は休んでおり、再会は明日へ持ち越しとなった。
祠起こしの事業の為に、村には作業員用の小屋が余らせてあり、そこを借りて床に就く。
未明、ミクマリが妹に音術で叩き起こされ、眠い目を擦り擦り小屋を出て森へ向かうと、一足先に森の祠に到着していた親子の睦まじい姿を拝む事が出来た。
姉妹は覗きに長けた術を使って二人のやり取りを眺めていたが、悪事はばれてしまい、親子は揃って顔に火を点けていた。
森の神へ祠の完成を知らせ、祝い寿ぐ儀式。祝招るのは森の祭祀に合わせて本部より派遣された、“樹”なる通り名の男覡。アズサの少し先輩に当たる青年らしい。
女子よりもやや伸びが遅く、今回の派遣で初めて両の耳へ飾りを賜ったそうだ。それでも彼は精鍛で整った顔付きと声で祝詞を上げ、初仕事を難なくやり切った。
肉のある神である白兎は祝詞の後に森からひょっこりと顔を出し、美形の青年の腕に抱かれて、とても満足そうに鼻を鳴らしていた。
ミクマリも笑顔で祝いの言葉を贈ると、兎は恥じ入った様にその耳を垂れさせ、円らな瞳を隠したのだった。
ミサキの話によると兎神は若い雌の兎の精霊出身で、神が自ら巫覡の候補達を見て、彼を自身の男覡にすると決めたらしい。
特段、森に良い自然術に長けている訳でもなく、祓や呪術に突出した男では無かったが、まあ、顔の造形も天賦の才と言えば天賦の才だろう。
多産を司る兎神の恩寵を受ければ、人も獣も作物も、豊かに埴えるに違いない。
『何かむかつく顔をしておるな』
ゲキがぼやいた。
「どうしてですか? 格好良いじゃないですか」
ミクマリは忌憚なく褒める。
『……ちっ』
「何ですか? 焼きもち妬いてるんですか?」
若けながら守護神を見上げるミクマリ。
『違うわ。あいつはアズサやナツメの後任として派遣された訳だろう? 詰まり、毎日ダイコン達の足を拝みたい放題だという事だ。許せん』
宣う守護神。件の足の太い巫女姉妹は、このやり取りを聞いて衣の裾を押さえた。
それから雑駁した気を孕んだ霊魂は、祝いの場から巫女の手に依って追い払われた。悪霊退散。
霊魂が追い出されるのと同時に、烏が数羽、木から飛び立つのが見えた。
「御使い様の御子様やにー」
額に手を掲げ目を細めるアズサ。御使いもまた、祝いとして子を遣わせていたらしい。
儀式を無事に終え、改めて再開の挨拶をする一同。ミサキは今朝の覗きの通り、娘とは幸せにやっている様だ。
ダイコン姉妹に関しては、一つ大きな変化があった。姉の方が水分の名を下ろしたのだという。
川神とのやり取りは出来る様になったものの、事ある毎に“優秀な方のミクマリ”と比べられるもので、改名したのだそうだ。
今は祠の整備や河川の橋掛けの仕事で多忙にしている事から“丸太”の巫女を名乗っているらしい。
マルタも川神には愚痴られてはいるが、以前よりは水術の腕前も上がっており、神へ文句の一つを言い返す位には根性も座った様だ。
それでも川神と各位との関係は良好で、今の処は水難も上手く避ける事が出来ているそうだ。
『成程、確かに丸太だな』
さて、我等が悪霊が悪さをする前にと、ミクマリはミサキへと今回の用向きを伝えた。
「それならば、御使い様に力になって頂けないか、訊ねてみましょう」とミサキは快諾する。但し、儀式の幣帛を片付ける仕事と直会がある為、どうしても翌々日に為るだろうとの事だ。
そこへ耳の良い神である兎神が跳ねて来て、『自分の事はもう良いから、ミクマリ様の事を助けて下さい』と頭を下げた。
そこまでも急ぐものでは無いとは話してはいたが、ミサキは神の計らいを無下にするまいと直ぐに本部へ戻る事を決定した。
ミクマリは礼代わりに甘手を用いて、白兎をたっぷりと撫でて揉み倒してやった。
霧の里、御使いの流派の本部。その神殿。これまでの旅で目にしてきた中でも屈指の美しさを誇る。作りの凝り様は社の流派の本部に匹敵する。
高床式の巨大な木造建築で、それは二極の彩りに依って輝いている。
松煙を用いた塗装により、艶やかで黒く染められた木材。神聖さ香る白樺の木材。これら白黒の木材を組み合わせて建てられている。
精巧な木彫りの鳥と石造りの鳥が随所に飾られ、極太の縄にて入り口には結界が張られている。
内部も、建築より長き時が経っていると云うのにも関わらず、木の洞の様な香りを充満させ続けていた。
神殿の内部には最近、木造の建屋を害さない篝火が設けられたらしい。
奥ではその聖火二つに挟まれて、人の大きさ程の何かが鎮座している。それには白く輝く布が掛けられており、正体は窺い知れない。
「先ずは、御使い様に御伺いを立ててみます」
ミサキは胸に差した大きな濡れ羽の飾りを撫でると、正座し目を閉じた。
程無く神殿には何かの気配が起こり、風を巻き始めた。女子の髪と霊魂は揺らいだが、聖火は己の揺らめきを崩さなかった。
屋根の上で物音がした。
「……! いらっしゃいました。まさか直接御出でになるとは……」
天井を見上げ目を見開く御使いの巫女。
「ミクマリ様、御使い様は黄泉へ伝言を伝えてやると仰っております」
彼女は額に汗を浮かべて言う。
ミクマリとゲキは礼を言うと、黄泉で未だ地上に肉を残したままの巫女の霊魂が祓か結界の技を行っている筈だから、彼女に伝言を伝えてくれと頼んだ。
「我等の里の怨嗟の樹、辿れば根は豺狼の王、唯一人である。悪逆の王であり、多くの民も苦しめられている。彼を斃せば、我等が里の泯滅の無念も晴れるであろう。また、新たに里を興し、無念に倒れた者の志を継ぐ事を約束する。担い手は守護神と、稀代の巫女と成った嘗ての里長である」
ミサキが伝言を伝えると、屋根の上で大きな羽搏きが聞こえた。
「では、“目”を追います」
ミサキは立ち上がり、篝火の間に置かれた物体に掛かった布を取り払った。
現れたのは、人の丈程の円形の物体。
『“鏡”か』
「はい、出自は明らかにされてはいませんが、これは神器だそうです。普段は水面の様に姿を映すだけに留まりますが、御先特有の術に依り、御使い様の見ている景色を追う事が出来るのです」
鏡の前に立つミサキ、鏡の中には彼女の後姿が鮮明に映っている。
「夜目、夜黒掻い潜り、帳の先に光下ろし賜れよ」
短き祝詞と共にミサキの親指、人差し指、中指に黒き炎が灯った。鏡に向き合い、鏡の中の自身の指と指を重ね合わせる。
すると、指先の炎は消え、鏡の中が黒く燃え広がり始め、何も映さなくなった。
「御使い様は既に黄泉國に入られていらっしゃる様です」
『黄泉路の開いた気配は無かったが』
「そこは御使い様の力です。黄泉路や寿ぎによる國の移動は、人や鬼の業です」
『成程。しかし、何も見えんな』
「御使いの加護に通じる者でなければ目を借りる事は出来ませんから。今は何か、薄暗い秋の森の上空を飛んでいる様ですが……」
鏡は相変わらず黒一色である。
黒き鏡に向かって黙して正座を続けるミサキ。
「……はっ!?」
ミサキは声を上げた。
『どうした? 何が見えた?』
「いえ、恐らく仰っていた妹巫女様と思しき霊魂が一瞬見えました。音や気配までは読めませんが、彼女は清純を保っている様に思えます」
『そうか、それは良かった』
守護神がほっと息を吐く。彼の巫女もそれに続いた。
「あの子はまだ頑張っているのね。伝言は伝えて頂けたのかしら?」
「鏡の力では音は届かないので、御使い様が戻って来られるまでは何とも言えません。暫く待ってみましょう」
そう言うとミサキは鏡に触れ、術を解いた。本来の性質へと帰する鏡面。映る女の貌は昏い。
「ミサキ様?」
ミクマリが覗き込む。
「ごめんなさい。黄泉を覗く際は夜黒ノ気を扱うのです。少し気分を冒されてしまって……」
「大丈夫ですか? 私達の為に、ありがとう御座います」
ミクマリがミサキの背を摩る。
暫くすると、羽搏きの音と共に屋根に何かが圧し掛かる物音がした。
「御使い様が御戻りになった様です。伝言は確かに夢の巫女へと伝えたと仰っております」
「良かった、本当にありがとう御座いました」
『向こうからは何か言ってはおらんかったか?』
「ごめんなさい。そこまでは」
風と共に神殿が揺れ、御使いの飛び去る音が聞こえる。
『そうか。何にせよ、他流派の者への助力、忝い』
ゲキが礼を言った。
「とはいえ、これでサイロウを討つ外になくなってしまいましたね」
ミクマリがぽつり。
『今の俺達で奴に勝てるだろうか。ミサキの卜いでは切り捨てられると出たのであったか?』
「え? ええ……。とはいえ、悪迄も当時の卜いの結果ですし、百発百中という訳では……」
申し訳なさそうに言うミサキ。
「それも心配ですけど、彼は王です。悪名高いとはいえ、彼の御蔭で暮らせている人達の怨みが不安です」
「その点は心配ないでしょう。サイロウを討つ事は復讐である以上に義です。生ける者から受ける怨念よりも、祝福の方が大きい筈です」
『まあ、万が一にも俺が鬼に変じた時は、頼むぞ』
師が揺らめいた。ミクマリは返事をしなかった。
『アズサ、お前もだ。俺はお前達二人に滅せられるのならば、本望だ。何なら黄泉から他の者の怨みも全部集めて来てやるから、大盤振る舞いでもしたら良い』
冗談を言うゲキ。
「そんな事は、成るべくなら考えたくありません。鬼に染まる前に寿いで高天に逃げたりとか、出来ないのかしら」
『お前、結構せこい事を考えるな』
「良い考えじゃありませんか? やれる事は全部験しましょう」
ミクマリは気丈に微笑んだ。
「ね、アズサ?」
アズサを見ると、彼女は黙りこくって視線を床に落としている。
「どうしたの?」
「……? こ、こーっと、別に何もあらへんです」
慌てて首を振るアズサ。明らかに顔色が悪い。
『アズサ、若しや何か……』
ミサキの言に嘘があったのだろうか。
「い、いえ。心配しはる事はないさー!」
『そうか? なら良いが……』
「アズサには御使い様の気配が重かったのかも知れませんね」
ミサキが立ち上がる。彼女も腰を摩った。
「そうかも知れへんなー。うち、めっさ肩凝ったわー」
そう言ってアズサは、正座のまま身体をずってミクマリの前へ移動した。水術の血行治療と共に肩を揉んでやるミクマリ。
それから、神殿を後にして、ミサキの館で一晩世話に為る事となった。
旅の一行は、親子へ礼には足りぬがと旅先での逸話を聞かせ愉しませ、母は娘の失敗や自慢を惚気る様に語り、娘の頬を真っ赤に染めた。
団欒の一時を終えた後、守護神は月下へと二人の巫女を呼び出した。
『アズサよ。鏡の間では、ミサキは嘘を吐いていなかったのだろうな?』
ゲキが訊ねる。
「はい。ミサキ様は確かに御使い様に御願いをしてくださいましたし、戻って来てから伝言を伝えたと仰ったのも嘘ではありません」
『そうか、なら良いのだが。為らば、お前が浮かない顔をしていたのは何故だ?』
ミクマリも気には為っていた。
「こーっと、それは……」
アズサは少し躊躇をした後、一つ白状した。
本来、御使いの加護を受けた者で無ければ見えない筈の、姿見の映す黄泉の世界を見てしまったというのだ。
御先でも無ければ、最早里を抜けた人間である自分が見て良いものではない為、ミサキの前では言い出すに言い出せなかったらしい。
『何が映っていたのだ?』
「あの子はどうだった? 里の人達は?」
喰らい付く様に訊ねる二人。
「こーっと、あの、御使い様の目を借りてたんでなー、景色は早く流れとったしなー、酔ってしもたんやに……」
照れ臭そうに頭を掻く童女。
『何だ、期待を持たせおって』
「でも、アズサも言うなら、きっと怨みの矛先はサイロウへ流れた筈ですよね」
『そうだと良いが』
「また、不安になる様な物言い!」
ミクマリが声を上げる。
「姉様、ゲキ様。だんないさー。妹巫女様は鬼やなかったし、だんないさー」
アズサが言った。まだ、酔っているのか、月明かりの所為か、童女の顔は青白い。
それから彼女は、口の中で何度か「だんない」を繰り返した。
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