巫行101 帰郷
夜が明け、集落を呑み込んでいた影はあるべき形へと戻った。
霊性の勘を取り戻したミクマリは、結界に覆い隠されていた厖大な量の穢れに驚いた。
集落とその付近一帯は、餌食とされた人々の悲哀と悔恨で、呼吸もまま為らぬ程であった。
巫覡の一行は、全ての影鬼を殄滅し、穢れを祓った後、霊気と音を以て生存者を探した。
鬼の宴の前には、確かに憐れな囚われ人が居た筈であったが、戦いにより荒れた蕭条たる風景は、何も返事を寄越さなかった。
師が曰く、囚われ人の御霊は、祓で他の魂が地に旅立つ際に、呼び水の様に共に流れて去って逝ったのだと云う。
凌辱の記憶と身体を抱えたままに再び生を歩むよりは、仇討ちたる巫女の祓に乗じて、全てを棄てる事を選ぶ方が幸せであったのだろう。
霊的な清めを終えた後、ミクマリは瓦礫を用いて墓所を作った。
罠に掛かった大人の遺骨も、喰われる為に産まれた命も全て集めて同じ穴へと葬る。
魂が覡國を去り、肉を蟲や鳥獣が分け合った後の骨は、精霊無き石ころとも大差がない。それでも、清め弔わずにいられないのは、蓋し、嘗て在った魂の残滓が、心に分けうつるからではないか。
魂のみの存在も、巫女に成って浅い者も、この慈愛の巫女の意見に静かに同意した。
二日掛かりの大仕事を終え、またも茜湛える太陽と、晴れを取り戻した地を俯仰し、巫女達は手を組み合わせて仕事の納めとした。
さて、陽が沈んだ訳であるが、娘達は休む訳にはいかなかった。
旅の再開や食事は取るに足らない事だ。可及的速やかに必要とするのは身の清め。
二人とも黒穢の物質的な汚染と己の血汗に依り、歩き巫女為らぬ、歩き黄泉の如き臭気を放っていた。
彼女達が水場を探して山へと踏み込むと、遠くで狼の群れが悲鳴を上げて山を駆け登って逃げた。
守護霊も『乙女の水垢離を覗くのは、倫理に反するからな』と嘘を言って何処かへ飛び去った。
姉妹は礼を欠く者共は放って、水場にあり付き、衣を脱ぐと月が覗くのも忘れて遊び倒したのであった。
二人は身体がすっかり凍り付き、焚いた火の傍へと避難した。
抱き合う彼女達の間に言葉は要らない。互いの無事や成長、復活をその温もりを以て寿いだ。
その内に師も戻り、漸く此度の一件に就いての話が交わされた。
始まりは分からぬものの、住民全員が鬼の集落。鬼が集まり出来たものか、人々が肉を喰らう内に鬼と変じたのか。
一行は倫理の境界が内側から破れたのではない事を祈った。
『何はともあれ、二人が無事であって良かった』
ゲキが言った。
「ゲキ様は何処にいらしたんですか?」
何度心の中で助けを呼んだ事だろう、ミクマリの口調にはやや棘があった。
『結界の外に溜まっていた霊魂をずっと祓い清めていた。そうこうしている内に陽が沈んだので、お前の元に戻ろうと思ったら、守護霊の駆け付けの術が結界に依り通らなくてな。集落を手当たり次第に周っていたのだ。そして村の異常を目にして焦っておったら、アズサが住民に追われながら俺の前に来てな』
「ほんでなー、ゲキ様に言われて結界の外まで追っ手を連れてったら、そいつが鬼やって分かってなー」
『アズサと滅した後、一旦集落の様子を伺い、こっそりとお前達の借りた洞穴に行けばお前の姿は見えず、代わりに現れた住民がまた襲って来てだな』
「姉様が入れられた穴を教えてもろたんやけど、行ったら姉様居らんし、探すのめっさ豪かったわー」
『攫われたと知って、気が気でなかった』
「……御免なさい。私、縛られていたんですけど、アズサを探して無理矢理脱出してしまって」
『良く逃げられたな、霊性はいつ戻ったのだ?』
「アズサと鬼を斃した時に」
『では、嘸かし痛い思いをしたであろう……』
「はい……」
緩む頬を持て余すミクマリ。待っていれば二人が助けに来たかも知れなかったが、あの流れの末に霊性の復活があり、この暖かな心配だ。不謹慎であったが、悪夢も覚めれば面白いかという考えが過ぎった。
『本当に無事で何よりだ。俺は守護霊だ。もう迂闊に傍を離れぬと誓う』
「さっきは離れたでしょうに」
『そこは離れなきゃ文句を言うだろうに』
「またやっとるなー」
三人は揃って溜め息を吐き、それから笑った。
『処で、どうやって霊性を取り戻したのだ? 母神の憑依で掻き乱されたものを治すのは並大抵ではないと思うが。これまでの鍛錬でも、極僅かにしか調律出来なかったであろう?』
ゲキが疑問を呈する。
「それは……」
ミクマリはアズサを見た。アズサもまたミクマリを見た。
「内緒、やにー」
白い歯を見せる妹。
「そう、内緒です。喩え師匠にも手の内は明かさないものです」
同じく笑顔の姉。
『何だ、教えてくれても良かろうに……』
不満気に揺らめくゲキ。
さて、旅の再開。目指すは難所に依り隔絶されし霧の里。
だが、力を取り戻したミクマリにとって、旅人達が槍と謳う峻山も、黄泉國に繋がると囁く幽谷も
、富岳絶景を愉しむ為の薬味に過ぎなかった。
一行は日や雲も読まずに気の向くままに足を止め、獣や冬の草木を遊び、近く再会するであろうアズサの故郷の人々の噂話に花を咲かせた。
山を越え、峠を越えて、冬を耐える草木の種類が変わった頃、辺りに霧が立ち込め始めた。視界を殺さぬ程度の涼やかな霧だ。
「ここ、知っとる処やにー。お父やんと蟲捕りに来た事あるさー」
懐かしそうに言う童女。
アズサの父は男覡では無かったが、猟や山仕事に長けた男で、彼もまた“苦手”であった。
アズサは見習いとして御使いの流派の本部に身を寄せる前から、父より蟲や草花に就いては学んでいたという。
また、母は特に得手を持っていた訳でないが、多少の霊感を持っていたらしい。アズサは両親の長所を両方継いだ訳である。
「まー、ほんでもうちは、滓になってもーたんやけど」
アズサは照れ臭そうに頭を掻いた。
霧の里は三本足の巨大な烏の様な鳥に仕える流派だ。その烏もまた、大きな神に仕える存在であり、“御使い様”と呼ばれている。
精霊に似た存在ではあるが、普通の鳥と同じく性別を持ち、七つの卵を産み育てる。
七羽の子の中から選ばれたものが次代の御使いと成り、御使いが代替わりをすると、御使いに仕える巫女の筆頭である“御先”もまた変わらねばならない。
故に、御使いの性質に合わせて巫女頭を臨機応変に選べる様に、多くの御先候補と為る巫覡を育てているのである。
「“鳥小屋”ではよう褒められたんやけどなー」
「鳥小屋?」
「見習いの学ぶ館の名前やにー」
アズサは見習いの中では自分は優秀だったと言った。その言葉に誤りがない事は、これまでの旅が良く証明している。
だが、優秀故に早くに村へと派遣され、その村では運悪く彼女の力を必要としていなかった為に、滓扱いを受けていたのである。
『今にして思えば、計画の穴だな。アズサを大根姉妹の元へと派遣したのはミサキであろう? ミサキなら分かっておったろうに』
「そやにー? 何でやろなー?」
首を傾げるアズサ。見習いの証の片耳輪が揺れる。
「ま、良いじゃない。その御蔭でこうして一緒に居られるのだから」
「そやにー!」
繋がれる手。山林の枝が立ち去り、長閑な小村の風景が現れた。
「ここが霧の里の、うちの出身の村やにー!」
浮足立ったか、繋いだ手を解いて駆けるアズサ。
振り返り、両手を広げて村を強調する。
とはいえ、良くある何の変哲もない村。鍬を担いで畠の冬の作付けを験す男や、粘土や皮を弄る女の姿があるだけだ。
子供達も仕事をする大人の傍で蟋蟀を追っている。
「なあ、あれ……巫女に成った……こーっと何て巫女名やっけ?」
「アズサやなー。でも、アズサは生贄にされてもうたって聞いたで」
「違うさー。アズサは里を追い出されたんやにー」
「お父やんもお母やんも死んだんやろー?」
「ミサキ様にも捨てられたんやって」
村の子供達が囁き合う。
アズサは寂し気な顔で彼らを見詰めていた。あの中には、彼女と同じ年端の童女も混じっている。
『ほれ、誤解を晴らして来い。序でにこの村でお前の巫力を見せ付けてやるが良い』
ゲキが促した。
「そうよ。貴女は胸を張って良いのよ。心配なら、お姉ちゃんが付いて行って上げようか?」
ミクマリは笑い掛ける。
「ん……だんないです。うち、一人で皆と話してくるさー」
少し苦味の残る微笑み。
アズサは二人に背を向けると、勝手な噂話を続ける子供達へと歩んだ。
立ち止まり、それから両手を上げて……。
「こらぁ!! なーにをうざい話をしとー!!」
己の声を無闇矢鱈と大きくするは調和ノ霊性。
霊気の籠った大声が子供達の全身をぶるぶると震わせた。
「出たーっ! アズサの大声ノ術ーっ!! 皆逃げりー!」
年長の童男が耳を塞ぎながら叫んだ。
駆け出す笑顔の子供達。それを拳を振り上げ追い駆ける童女もまた、彼等と同じ貌をしていた。
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