巫行100 調律
己の音に命ずるは調和ノ霊性。大弓より発せられた眩しき閃光が館に満たされ、人の姿と人骨誂えの調度品を白く塗り潰す。それでも色濃く残るは影巫女の分身。
音速の一撃は情け容赦なく老婆の左腕に命中。余りの威力に肩や胸まで巻き込んで肉を吹き飛ばした。
老婆の穢き大絶叫。
「アズサ!」
慈愛は姉だけのものだったか。再会を喜ぶ間も無く、ミクマリの顔に後悔の色が浮かんだ。
「小娘と思って侮ったのう!」
いーっひっひっひ。半身を吹き飛ばされた老婆が笑った。
「……きっしょ! ゲキ様の言った通りやなー。お前も鬼やろ?」
鼻で嗤う童女。切り揃えられた髪の下に輝くは理性の光。
ミクマリは胸を撫で下ろした。
「左様。儂は影鬼。人の心の装いから生まれし稜威なる存在」
クヤミの露出した骨格へ集合する夜黒ノ気。そして額から伸び始めるは鬼の証。
「小さい癖にやるわね。解体したら直ぐに皆と分ける心算だったけど、もう少し育てて畠にするのも良いかも」
ツゴモリは赤く濡れた口元を舌で舐め取り微笑を浮かべた。
「アズサ、気を付けて。あいつは影を操る術を使うわ」
警告するミクマリ。敵を滅するに足りる火力はアズサも持っている様だが、守りの面では不安が残る。自身の霊気と神器の衣を抜ける影の打撃をアズサが受ければ、骨まで砕けるに違いない。
「ふむ、こちらの種は明かされ、あちらの術は見知らぬものときておる。……小娘よ、結界はどうした? 御主は確かに油断ならぬ腕前ではあるが、あの結界は儂等が永きに渡り織り込んだ代物。その程度の霊気では、結界内で碌に術を編む事は出来ぬ筈じゃが……」
クヤミが構える。彼女の背後にある不自然な影も、腕を六本に増やして構えた。
「結界はうちらの御師匠様がみじゃいたさー」
アズサはもう一度弓を構える。
「師匠? まだ仲間がおったか。じゃが、数ではこちらが圧倒しとるぞ。御主等に良い事を教えて進ぜよう」
老婆が尖った牙を見せる。
「ここの民達はな、儂等の“仲間”なのじゃよ。協力者と言う意味ではないぞ。住民は皆凡て、鬼じゃ!」
外で穢き悲鳴が響いた。
「知っとるさー。散々追い回されたからなー。今、ゲキ様が御祓いの最中やにー!」
放たれる音矢ノ術。
老婆は身じろぎもしない。代わりに漆黒の六腕が影向し、矢を受け止めた。
「御主の力はそれっぽっちかえ?」
握り潰される光の矢。
「まだいけるさー!」
急速に練り上げられる霊気。三本目の矢は六本の腕を相殺する。
「ぬう! 儂の術と相討ちか! だが儂の影腕もまだ……」
老婆が呻く。影がまた蠢き隆起を作る。
だが、醜き顔は更に歪み、絶叫と共に上半身が滅された。頭蓋に刺さる四本目の矢。
「矢も一本とは限らへんなー」
倩兮と笑う童女。肉を奪われ露出した骸骨が、悔しそうに歯を鳴らした。
「お遊びはここまでよ」
白い裸の少女、ツゴモリはそう言うと何かを投げた。姉妹の前で砕けたのは土器。飛び散る破片と液体。続いて松明が落とされる。液体は激しく燃え上がり、瞬く間に妙な香りを館に充満させた。
「う、うちも知らへん毒やにー」
弓を取り落とし、慌てて両手で口と鼻を覆うアズサ。
ミクマリはアズサを衣の胸に抱き隠すと、自身は袖で鼻口を覆った。
「毒じゃないわ。寧ろ、解毒剤みたいなものよ」
凄艶なる微笑みを浮かべる裸体の少女。彼女の身体中に見知らぬ印が無数に浮かび上がり、光り輝く。それは何処かで見た“文字”に似ていた。
「……」
ミクマリは何だか妙な気持ちに為って来た。何処となく自由になった様な、何でも出来る様な気持ちに。
「術が掛かったわね。貴女の“心の影”を頂くわ」
ツゴモリは一歩踏み出し、印の光る掌を翳した。
ミクマリは瞼を中程に落とし、袖で口を覆うのを止めてしまった。
「ね、貴女達。若い巫女の姉妹が揃って旅をして来たなんて、相当大変だったんじゃないの?」
ツゴモリの口から憐憫の音が奏でられた。
「そうよ……。旅は大変……」
呟くミクマリ。
「色々とやらされて来たんでしょう? 巫女だものね。その石女の腹は仕事の為なのね? 酷いわ。さっき言っていた師匠にも、相当に不満があるんじゃないの? そいつにやらされてるんでしょう?」
迫真の同情。奇怪な少女の目に涙。
「そう……。ゲキ様が…・…。私は私の役割を熟さなきゃ……」
ミクマリはアズサの頭を強く抱いた。衣の中で呻き声。
「厭だったでしょう? 辛かったでしょう? 教えて。思い出して。貴女がやらされてきた役割を。その艱難と落魄に満ちた生を詠いなさい」
掲げられるもう一方の腕。横に居た骸骨はいつの間にか肉を取り戻し、醜き皺を歪ませ見物を決め込んでいる。
「私は……もっと人の役に立ちたい。もっと、頑張りたい」
ミクマリの影から何か黒い靄が沸き立つ。それは二人の鬼の影の中へと吸い込まれてゆく。
「……? そうじゃないでしょう? 思い出すのも恐ろしいの? 他にもっとあるでしょう。飢えて食事を偸んだ事は? 毒の験しになった事は? 男のものを咥えさせられた事は? 人を殺した事は?」
詠う様に訊ね、手招きする影鬼。
だが、ミクマリはぼんやりと首を傾げた。影から沸き立つ靄が薄らぐ。
ツゴモリは舌打ちをすると、顎に手を当て考える素振りを見せた。それからもう一度手を翳し口を開く。
「貴女のやりたい事を仰りなさいな」
「やりたい事……? 里の人の魂を救って、幸せな里を作るの……」
影の供給が止まる。
「そんな事じゃない! 我慢している事があるでしょう? その役目の為に。貴女が着せられてるその憎き衣の為に!」
僅かに焦燥。言葉の尻が浮き立つ。
「……したい事。アズサ……」
ミクマリはアズサをきつく抱きしめた。衣の中でアズサが藻掻き、くぐもった悲鳴を上げた。
「妹を如何したいの? 分かった。貴女、姉だからって、いつも苦労を押し付けられているのね?」
「違う。私、アズサが大事。誰にも上げない。食べちゃいたい位……」
ミクマリの腕の中で「姉様ー!?」と叫ぶ声が上がった。
「あはは!! そっかあ!! なあんだ、貴女も“こっち側”だったの? だったら、遠慮なく食べたら良いわ!!」
鬼達が笑う。
ミクマリの影から沸く靄は急速に濃くなり、止め処なく鬼達のものへと注がれ始めた。
「来たわ。貴女の強い影が!」
ツゴモリは愉悦の痙攣と共に角を伸ばす。その女の影からは巨大な一本の腕が生えた。拳は鼓動の様に繰り返し握られる。
「儂が食べ易く切り分けて進ぜよう」
高まる夜黒。三十の黒爪が針の様に尖った。
「姉様、逃げりー!」
アズサが腕から抜け出し、姉を押す。
童女の背へと迫る鬼の爪。
「……」
ミクマリは顔を上げ、何かを呟いた。
玉響、老鬼の身体がミクマリの発した祓の光と共に四散した。地の理に従い散らばる骸骨。
「姉様!?」
見上げるアズサ。彼女の顔には姉の吐いた血が降り注ぐ。
「アズサ……!?」
正気を取り戻し、腹を押さえて咳き込むミクマリ。背を摩ってやるアズサ。
その様子を見ていた鬼の片割れは、舌打ちと共に館の外へと逃げだした。
「姉様。無理したらあかんわー」
涙目拭うアズサ。
「私、今霊気を使った?」
完全に術中に嵌り、無意識であった。またもあの香りで意識が遠のき始める。
「ええから。早うここから逃げりー!」
アズサに引き摺られて館の外へ。
外へ出ると遠方で光。それから穢き絶叫。師はまだ仕事中か。
「力の調律が出来てないのが幸いしたわ。貴女達、勿体無いけど、魂ごと喰らってあげるわ!」
頭上に響く女の声。
見上げれば赤黒き光に包まれた娘。白き肌、黒き髪、紅き印。
ツゴモリへと集まるは強烈な気配。霊性乱れる巫女にもはっきりと伝わるそれ。
館から、山から、ゲキの居るであろう地点から、大量の気が鬼女の胎へと集まっていく。
紅き唇が苦悶の声を漏らし、角を一層太く長くする。
溢れる夜黒が月光隠し、ある筈も無い紅き月を創り出す。夜の國は紅に包まれてゆく。
他人の影縛るは招命ノ霊性。
女が印だらけの腕を音の巫女へと翳した。
「う、動けへん!」
アズサが呻いた。
「先ずは貴女から。姉の方は心を壊してから、じっくり調理するわ」
鬼の紅き背景に揺らぐ巨大な影。不自然に肥大化した片腕が持ち上がり、動けぬ童女へと拳骨を落とす。
衝突音と呻き声。
「姉様!」
声上げる童女の前に立ち塞がるミクマリ。先程の老鬼の殴打とは比ぶるまでも無い大衝撃が、肉と骨格を揺るがす。
舌打ちと共に離される影の腕。
ミクマリは気付いた、老婆と同じく、自身に触れた巨大な拳が黒き蒸気を吹いている。
「これでも喰らいなさい!」
巨大な腕が薙ぎ払う。土抉り、小屋砕き、その破片が姉妹を襲った。
瓦礫に打ち付けられ吹き飛ぶミクマリ。額が赤く濡れ始める。
「なあんだ。こっちは普通に効くのね」
顎に手を当て笑う影の巫女。
「このやろー!」
怒りの罵声と共に閃光。影の傀儡操る鬼の腕に光の矢。だがその矢は直ぐに霧散する。
「お前も私の術を受けても動けるの!? ……良いわ、お姉さんはもう守ってくれないんだから」
物質の影繰るは探求ノ霊性。
砕けた小屋や樹木の影が地面より抜け出し、無数の剣と為りアズサへ迫る。
「あかん、やっぱ動けへん!」
動かぬ足をそのままに、上半身だけを藻掻くアズサ。
「そう、貴女は動けないの。役立たずなのよ」
笑うツゴモリ。またも妖し気な印が光った。
「役立たず……滓……」
アズサの表情が沈む。
「アズサ……」
呻くミクマリ。愛しき妹へと迫る死の影。影は自身の護りで打ち消せる。滅する力を操れぬのなら、この身を以て盾と成せ。
「しつこい奴!」
舌打ちをするツゴモリ。影の刃が刺したのは姉。衣に触れた影は消え失せ、影に触れた肉は紅き命を噴き出した。
「貴女、どうして妹なんか庇っちゃう訳? さっきの影の言葉も嘘っぽかったし、納得がいかないわ」
ツゴモリは影の腕ではなく、自身の印の両腕を翳した。
「殺すのは首を一刺しで終わりよ。本音を詠いなさい。その影を全て晒して、私に寄越しなさい」
心の影引き出すは招命ノ霊性。
……。
されど姉妹の影から力は顕れず。
「このままやと、姉様が死んでまうさー。うちはええから逃げりー。その内ゲキ様が何とかしてくれるさー」
「貴女を死なせる訳にはいかない。アズサ、さっきは矢を撃てたでしょう? もう一回、霊気を確り練ってやってみましょう」
姉は妹の背に回ると、その弓を握る腕を取った。抵抗するかのように妹の腕は重い。
「……あかん、でけへん。うちは滓や。腕がめっさ重い。霊気、練られへん!」
「大丈夫よ。一緒にやりましょう」
添える腕、壊れぬ様にと霊気流す。
妹は受け入れ、その気を弓へ。
髪を孕んだ弦が震える。
「何が一緒にだ! 食べてしまいたいと言っていたでしょうに!」
剛腕が夜黒込めた影を纏わせた瓦礫を投げた。
ミクマリは身を丸め、その一撃を背に受け入れる。
「姉様!」
心配をする妹。
「大丈夫、痛くないわ」
「嘘言うてるやん! うちには分かるんやにー!」
「良いの、“だんない”よ、アズサ。霊気を練ってあいつを斃しましょう」
再び添えられる手。
「分かった……」
心添え、姉妹の指を重ねれば、梓の弓の長弭満たし、形作るは光の一矢。
「お前の姉は嘘吐きよ。本当はお前を喰いたがってるんだから!」
投げ付けられる瓦礫。割れる頭蓋。
「……姉様、ほんまなん?」
何処か不安を孕んだ言葉。姉は微笑み、「そうよ」と呟く。
「食べちゃいたい位に大事って事よ」
嘘を見抜ける娘の頬が、一旦緩み、再び引き締まる。
「お前達も私の仲間になりなさい! 何の目的があって旅をしているか知らないけど、自分を騙してまでする事じゃないでしょう!?」
再び伸びる黒い影。されど妹へは届かず。
「アズサ、頑張って。もう少しよ」
励ます姉の面は血みどろ。
「頑張りたいなんて嘘! 人の役に立ちたいなんて嘘! 自分の為に生きたい癖に! こんな筈じゃなかったんでしょう!?」
鬼の身体が強く光る。印は更に深い赤へと変じ、影からは無数の腕が生えて手招きを始めた。
「本当の自分を曝け出しなさい!」
嘲笑う鬼。妹抱える影から靄。
「貴女の言う通り。そうです、嘘です。……でも、今はそれで良いの」
偽りを認める言葉。それでも身体は妹を掻き抱く。
噴き出す影と、萌え出る矢。認めの言葉は力を注ぐ。
「良い詩が来たわ! 今度は衣ごと纏めて滅して上げる!」
紅き月に翳されるは夜黒の腕。その巨大な掌が開かれ、五指の先全てから掌を生やし、更なる異形に変じた。
はっきりと分かる。先程の老婆の持つ気等は比較にならない。桁違いの夜黒ノ気。
「あかん、あんなん斃されへん。うちじゃ霊気が足らんやん!」
「御免ね、役立たずな姉さんで」
ミクマリは唇を噛む。再び滲み出る血の味。自身の霊性が、狂ってさえいなければ。
「……なあ姉様、うちら、一緒け?」
「一緒? そう一緒にね」
胸に抱くアズサの背から伝わる鼓動と血の流れ。それは則ち霊気の響き。
処女等が、構える弓が鬼を狙う。
命混じりて乱れ去り、絡む指達求む霊性。
調律済みて放たる一矢。
月夜明け、白む未来を切り拓く。
疾く駆け穿つは鬼が影か。
影鬼の絶叫。
水と光の一矢は、背負った夜黒を全て泯ぼす。
印の輝きを失いて、地に落ちるは娘の身体。
「姉様、出来たなー……」
「そうね、アズサもちゃんと出来たわ」
互いに優しく触れ合う掌。
揃って一息吐くと、ミクマリはその身をアズサから離した。
「糞ぉ。出来損ないの女の癖に! 何で恨まないんだ! 何で憎まないんだ! 詠え! 詠ってよ! どうして自分に嘘を吐くの? どうして……」
這い擦り呻くツゴモリ。次第にその罵声は勢いを失い、独りの少女の呟きの様になった。
「恨みました。憎しみました。でもそれは、疾うの昔に過ぎ去りし事です」
決して穢れぬ衣を纏いし巫女が、断ち斬る様に言い放った。
己が血液操るは調和ノ霊性。
肌に流れし穢れを清め、集めし血液を以て剣と為せ。
血が拳十個分の長剣へと変じた。
「詩はお終いです。鬼は鬼の役目を果たしなさい」
乱れぬ霊性と覚悟湛えた瞳の前に、構えられるは迷いを布都る穢れの太刀。
鬼の断末魔と共に、狂乱の宴に幕が下ろされた。
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長弭……弓の矢を引っ掛ける部分。
布都……断ち切る様。