巫行001 稲霊
小夜中。革作りの沓が土を叩く。
麻の衣を纏った細い身体を躍動させて、若い娘が闇を掻き分ける。彼女の後に棚引くのは、夜よりも深く艶やかな一つ結び。
娘を追い、華奢な首筋に食らいつかんとするのは異形の群れ。その姿は山犬とも狐ともつかぬ。
「あの方の言った通りにやれば、大丈夫」
娘の口から顫動を帯びた言葉が、乱れた吐息と共に漏れる。
この娘の行く手に横たわるのは幅広の川。
一見穏やかな流れではあるが、処々腰を沈める程に深く、加えて闇夜がそれを隠している。
そして追い縋る獣達は、四肢を空に滑らせ、人の走る悪路を囃し立てるかの如く。
罠の流れに突き当たり、娘は足を停めた。振り返れば濁った無数の牙。
娘は川に“気”をやり、その流れを探った。下流でありながら水底は歪、転がる石の粒は長大。
――まだ若い川。私と同じだ。
娘は川の荒さに安堵を憶え、微笑と共に追跡者へと気を戻す。
獣共は獲物を囲い、嗤いの混じった咆哮を唱えていた。声の数は七十四を数える。
魁の一頭が若き血を啜らんと跳躍した。
娘の首元へと迫る死の牙。
「やあっ!!」
娘は渾身の気を絞り出し、両の細腕を前方へと素早く払った。
玉響。川より水が弾け出でる。何にも触れられもせず、地に落ちる理をも無視して。
さかしまの水は刃と成り、七十四全ての毛皮を裂き、肉を爆ぜ、骨を圧し折った。
その血肉は全て赤に非ず。
それらは夜黒き気で構成されており、霊気を帯びた水に切り裂かれ、赤黒い霧へと変じた。
娘は夜黒ノ気の残滓が意志を失ったのを感じ、若い川へと一礼をし、上下する肩を溜め息を以って宥めた。
『マヌケめ。まだ終わってはおらぬぞ』
何処からか響く声。喉を持たぬ者から発せられるは霊声。
警鐘を受け、娘の提髪が円を描く。
振り返れば月の居らぬ道に青い光。
のたりと影向するのは、小屋程もある“狐”であった。
「……悲しや。……憎しや」
狐の身より放たれる人語。悲痛な怨嗟は娘の胸骨を震わせる。
「貴女は村民に害を為しました。私は彼らに頼まれて、貴女を祓わなければ為らないのです」
「道理に合わぬ。畠が潤ったのは吾への願いの処も多かった筈なのに。淫祠邪教に縋り、神を蔑ろにし、剰え不作を吾の所作と宣ったのじゃ。神罰も余儀無し!」
狐の言い分に娘はたじろぐ。非は村民に在り。
夜黒ノ気で形作られた獣ではあるが、その赤き瞳は何処か仔狐の輝きを思い起こさせる。
『何をしている。早く祓え』
霊声が娘に命じる。
「でも、あの子の言い分も……」
娘は空を仰ぎ言葉を返す。
『マヌケが。稲霊の零落など珍しくもないわ。稲霊はその名の通り、稲穂より生まれ出る神。田畠の神が農民達との絆も無しに正体を保てないのは論ずるまでもなかろうに。信心の不足は人の責ではない。神の力不足にある』
叱咤する霊声。
「あゝ、悲しや、苦しや。民が、子が、吾が」
繰り返し苦悶を述べる狐の霊。青き光が赤黒く変ずる。
娘は堪りかねて腕を伸ばした。
「どうか鎮まって」
清めの塊である巫女の指が、憎しみの鼻先へ触れようとする。
瞬間、娘の身体は川の中へと弾き飛ばされていた。
川面は激しい音と共に逆水立て、巫女の立っていた場所には夜黒に染まった巨大な尾が揺らめいている。
『ミクマリよ。マヌケにも度と云うものがあるぞ。お前が今し方に祓った七十四の霊は、あの落ちた稲霊の子とも呼べるものだ。神でもなければ鬼でもない。祓われれば霧散するのみ。子殺しへの憎悪は信仰の欠落よりも深いぞ』
霊声は呆れの色を纏っている。
しかし、“ミクマリ”と呼ばれた巫女の娘は既に頭で川底を叩いており、霊声は最早届いてなかった。
「吾が子を殺した小娘め。神に叛逆する巫女騙りの売笑め。貴様には死すらも生温いわ」
激怒の妖狐。沈む霊気を探り、歪に並んだ歯を剥き出しに吠え立てる。逆立つ毛から染み出るのは、黄泉の臭気か。
『拙いぞミクマリ。起きよ』
呼び掛けに返事は無し。彼女の意識は水底に沈み、黄泉送りの企みにも感付かない。
狐は川ごと娘を呑み込もうと顎を開いた。吾が子を産んだと同じ胎内の洞へと導かんと。
『黄泉國に引かれ掛かっているな。霊気も野良の国津にしては褒むべき質だ。まだマヌケ娘には荷が重かったか』
溜め息混じりの霊声。
『ミクマリよ、お前はまだここで死んではならん。暫しその身体、借り受けるぞ』
続いて狐の牙が川を砕いた。
「子の怨みよ。巫女を喰ろうてその霊気で母をやり直すか、神をやり直すか」
狐は慈しみと共に呟き、口の中のものを吟味する。
しかし、食んだ感触に力は無し。
「何処へ消えた!?」
狐が霊気を探るまでも無く、川の畔に濡れた着地音が鳴った。
巫女。解けた髪と麻の衣を濡らし、肢体に貼り付け立ち尽くす。
「……久方ぶりの肉体だ。どれ、俺が片づけてやろう」
巫女の喉から発せられるのは低い男声。
狐は敵の変異を察知したか一瞬怯みを見せたが、構わず喰らい付いた。
しかし、歯の閉じた内に巫女は居ない。
「気配が変わった。貴様、男であったか?」
振り返る大狐。その視線の先には巫女の妖笑。
巫女は首元に両手をやると勢い良く衣を割き、二つのなだらかな丘を晒け出した。
「どうだ、女であろう? 分からぬと言うなら下も見せるが」
「……人の身体の事は分からん」
狐はその行為を更なる侮辱と受け取り、貌を歪ませた。
しかし、その歪みの意味は直ぐに苦痛に取って代わられた。
母狐の胎には、既に巫女の腕が深々と突き立てられていたのだった。
「稲を荷う神よ。嘗ては人々に崇められし土地神よ。零落し黄泉に引かれたとはいえ、汝もまた神には相違いない」
男声が狐に語りかける。
狐は何か言いたそうに口を開いたが、出たのは黒い血反吐のみであった。
「神の還るべき場所は黄泉國ではなく、高天國だ。葬り、祝り、寿ぐのが巫覡の務め。この“覡”がお前の夜黒を祓い清めてくれよう」
胎に刺さった腕が薙ぎ祓われ、大狐の半身が滅した。
鼓膜に爪立てる絶叫と共に、霧散する夜黒ノ気が黒き花を咲かせる。
「高天に、還りし命を寿ごう」
――閃光。
浮かび上がるは寿ぐ巫女の美しくも妖しげな貌。
皮肉な微笑を張り付かせてはいたが、その祝詞に衒いや外連味は含まれていない。
天の原へと昇る霊魂。それは巫女を振り返る様に一度立ち止まり、焔の様なゆらめきを示した。
そうして母狐の魂からは怨みも憎しみも消え、覡国を発って逝った。
巫女はそれを見届けた後、元の少女の貌を取り戻し、瞼を閉じ、地へと伏したのであった。
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提髪……日本の巫女に良く見られる長髪を後頭部で纏めて提げた髪型。
影向……姿を現す。
玉響……勾玉同士がぶつかり音を立てる僅かな一瞬。
魁……先頭、先駆け。
売笑……売春婦などを指す。