真夜中のドライブ ~野良猫のような彼の愛に気付いた~
エブリスタの「三行から参加できる 超・妄想コンテスト 第82回「真夜中」に参加している作品。
『真夜中のドライブ』https://estar.jp/_novel_view?w=25144510
短編を練習しよう、と思い書きました。
古い時代の音楽が響く車内は、外よりほんの少しだけ温度が高い。一昔前の軽自動車の座席が狭いせいで、隣合う人肌が否応なく近くなる。どこへ向かうのかわからないドライブに付き合って、しばらく黙り込んだまま車窓を流し見ていたら、唐突に名前を呼ばれた。
「え? なに?」
「さっきから、何考えてんの?」
それはこっちのセリフ。何を考えて私を車に乗せたのか、そろそろ話してくれても良いんじゃない? って思っていたから、私は尻をずらして体をほんの少しだけ運転席の彼に向けた。
「そっちから言いなさいよ」
彼は唇の端っこを持ち上げながら前を見つめていた。アクセルを踏み込んでスピードが上がっていく。一般道なのに時速九十キロまで加速した。
「やめて!」と怒鳴ると、彼はちらりと目だけで私を見た。
「……たぶん、お前と同じことだよ」
「そ、それ! ……狡いと思う」
「そうだよ……。俺が狡いってことは、とっくに知ってるだろ?」
ぶっきらぼうに、不貞腐れた子供のように、ユキヤはつぶやいた。いつものポーカーフェイスがどこにもないせいで、調子が狂う。自分がいかに魅力的かを熟知している遊び人の彼は、シフトレバーに乗せていた左手を一瞬だけ私の右膝に乗せ換えて、すぐに戻って行った。
私は完全に、取り乱している。様子の違うユキヤから、言いようのない色気を感じて急に暑さを覚えた。
いつだってスキンシップはさりげない。真正面から目を合わせて話をするなんてことも、殆どない。ファミレスのテーブルで向かい合わせに座ると、テーブルに凭れてだらしなくうつ伏せになるか、頬付けを吐いて斜めに体を向け、何考えてるかわらない顔をして、気怠そうに腕時計を弄ったりスマホを眺めてる。そんな、猫みたいな彼が今日は珍しく自分から私にボディタッチをするなんて、これは地震の前触れだろうか。
デジタル時計は間もなく零時になった。
常に恋人を切らすことのなかったユキヤが、こんな時間帯に愚痴り相手の私を呼び出すとしたら、決まって彼女との別れを決断する時。察するに今回の彼女とも、半年持たなかったということだろう。いくら待っても話を切り出そうとしないユキヤに変わって、私から話を進めることに、決めた。
「それで、あの子とはどうなったの?」
「……あの子って?」
ユキヤは細い眉尻を挙げて、ギロリと鋭い視線を送ってきた。
「バイトの……」
「知らない。消えちゃった」
彼は涼しい顔をして、唇だけで微笑んで見せる。でもまだ、神経質そうに眉間に皺を刻んで、今度は前を睨みつけるとまたアクセルを踏んだ。
不機嫌そうにしているけれど、ユキヤという男は無責任で軽薄な上、何人もの女の子をたぶらかして一通りのお楽しみを済ませると、「なんかしっくりこないんだよね」などと平然と切り捨ててしまう、文字通り狡くて傲慢で救いようのない自分勝手な男。
そんな浅はかな男になる前から、私とユキヤは親友だった。出会いは小学五年で隣の席になったこと。オカルトマニアという共通の趣味で意気投合し、二人で廃墟探検に行ったり、夜の街をあてどなく歩いたこともある。
彼もまた、自分の家族と良い関係を築けない家なき子だった。自分の親に嫌われていると思い込んでいて、他人の方がずっと優しいなんてことを言う。それは私も同意見だから、余計に私達は肩身を寄せ合うように懐いたのかもしれない。
専門学校に通うようになってから、まるで野良猫が住み着くように私の家に転がり込んで一緒に暮らしている仲であり、人に言えない事情を抱えていた私の唯一無二の相談相手でもある。私の最大の弱点でもあるその秘密を握る彼から、度々お小遣いを無心され渡してきた経緯もあるというのに、私は密かに彼のことがずっと前から好きだった。
好きという気持ちは簡単には消せないものだということも、ユキヤの存在が私に知らしめる。彼が適当に付き合う彼女たちの話を聞かされるたびに、顔は笑って心では泣いていた。でも、ユキヤには何か大きく欠けているものがある。
「ねぇ。いつも思うけど、あんたって本気で誰かを好きになったことある?」
そう。この男は冷たい。ユキヤのハートはドライアイスのように乾いたブリザード。そんな言葉が似合うぐらいいつも淡白過ぎるため、志願して始まった恋愛関係を一方的に終わらせてくる歴代の彼女たちのことを想うと、気の毒だとは思う。物事に執着しないし、記念日なんて端から覚える気がないし、相手を喜ばせることも思いつかないし、気の利いた言葉のひとつも言わない……。
そんなユキヤがなぜ女を切らさないのか、いつも不思議だった。爬虫類顔で色白、線の細い体、特別高いわけでもない身長、運動神経も普通レベル、学校の成績はほぼ下だし、声も少年のように高い。それでも生まれながらに人目を惹くような妙な色気がユキヤにはあった。人たらしという言葉が正しいかどうかわからないが、彼は性別関係なく、どんな年上の相手にも可愛がられるという才能がある。
三白眼みたいな小さな瞳が、キョロリと動いて私を捉えた。一瞬でも目と目が合うだけで、心臓が強く反応する。
「ずっと前から好きな女はいる。いつもそいつのことばっかり考えて、でも絶対に手が届かない女だから、他の女に惚れたくて努力してたんだよ」
ドキリとした。もう、顔が見れない。ヤバいぐらい心臓が高鳴っていく。息が苦しくなる。
そんな私の耳に、突然ユキヤの指先が触れた。ビクッと反応すると、彼は静かに手を降ろした。
「……そうは、見えなかった」
「はっ」と、短く笑ったユキヤは、シフトレバーに乗せていた手を私の右膝に乗り換えた。強い握力で握り絞めてくる。
「今だって、好きなんだ。その女のことがどんどん俺の中で膨らんでいく」
私はまるで自分のことを言われている気がして、目をぎゅっと瞑った。膝を握り絞めるユキヤの力がどんどん強くなるのに、振り払うこともできない。それでいて相変わらず速いスピードで古い軽自動車を走行させながら、そんな軽薄な行動に呆れと苛立ちと喜びと落胆が混じり合っていく。歴代の彼女たちが辿った運命の末路を知り尽くす私には、この男との関係はハードルが高い気がしてならないからだ。
「気の迷いじゃない?」
「責任、取ってよ」
「なによ? ……その言い方」
笑うしかない。
笑ってやり過ごす、それが無難だと自分に言い聞かせ、私は下手な芝居で笑ってみた。
でも、ユキヤの手は更に私を追い詰めてきた。
膝の上にあった手が上へとずれていく。短いスカートの裾の下に指が忍び込んでくる。私はその手を持ち上げて、ユキヤの膝の上に押し返した。チッという舌打ちが聞こえた。
「あんたさ。親友まで失う羽目になったら、嫌じゃない?」
「親友が永遠の恋人になったら、最高じゃんか」
さらりと凄いことを言った。
何が起きているのか、わからないとは、このことだ。
――― 永遠の恋人? 私とユキヤが?
「今すぐ、車を停めて!」
「なんで?」
「話が、しにくいからだよ!」
「いいよ。このまま、ドライブしようよ」
なぜか立ち止まることを嫌がっているユキヤの横顔を、目いっぱいの目力で睨みつけた。彼は訝し気に眉間に皺をよせ、面倒くさそうにため息をつく。
「さっきから、何よ? 私を揶揄ってるの?」
そうとしか思えない。
頬が痙攣し、呼吸は浅くなり、胸の奥を五寸釘で打たれているみたいに痛んで、私は窓を全開にした。モヤモヤとした気持ち全部、この風に乗って飛んでいけと思いながら、車窓から少しだけ顔を出すと、襟首を掴まれて引き戻された。
「顔出す奴があるか!」と、怒鳴られてしまう。
長い付き合いの中で、ユキヤが怒鳴るなんて初めてだ。顔を覗き込むと、忌々し気に苛立ちながら、バックミラーを見て車を道路わきに停車させた。ハザードランプを押そうとしたら、手と手が触れる。いつもは冷たい彼の指先が今日はやけに熱く感じた。
「お前、あの男とはどうなったの?」
突然の質問に固まる。あの男って、どの男だろうか? ユキヤが誰を指して言っているのか、心当たりも思いつかない。
「誰の事を言ってるの?」
「教育係って言ってた奴のことだよ」
そのキーワードで検索された私の過去に一人だけ該当者がいる。だけどその人とは一年以上も前に関係は終止符を迎えている。関係と言っても、職場で指導員と部下という関係以上に発展したことなど全くない。とっくに忘れて去った過去だ。何をいまさらと首を傾げていると……。
「お前さ、なんで女のくせに自分から何も言ってくれないの?
コイバナするのはいつだって俺ばっかでさ。
いっつも不思議だったんだよね。俺のこと、何だと思ってんのかなって」
ユキヤは苛立っている。透明感のあるハスキーボイスが掠れている。ザラザラとした感情をぶつけられ、私はしどろもどろになった。
「そんな大昔のことを聞かれても……。それに、あの人とは全く何もないから。知ってるでしょう? 私が男性恐怖症だってことは」
ユキヤの頬がさらに引き攣った。
そして、彼は両腕を伸ばして私の肩を掴まえ、助手席のシートに押し付けてきた。運転席から身を乗り出した彼に覆い被されそうになり、慌てて両手で突っぱねる。間一髪で唇を死守したけれど、同時に心臓が爆発しそうなぐらい高鳴った。
「俺も男だけど? 怖い?」
今にも泣きそうな声で言われ。
驚いて、目を向けると。
本当にユキヤの目から涙が流れ落ちていた。
ズキン。
どうして、胸が痛むの。
「どんだけ待てば、お前は俺のことをちゃんと男として見てくれるの?」
それは耳を疑うセリフだった。
「……リアクションなしか」
ユキヤは私を離すと、運転席のシートを倒して身を預け、右腕で目元を隠すようにしてしばらく黙り込んだ。私も何が起きているのかいまいち掴み切れずにいる。リアクションをしないんじゃない、できないのだ。
それを、伝えたいのに体は石像になったみたいに動かない。
重苦しい空気を吸って吐く車内の酸素濃度が急速に低下していくようだ。窓を開けようとスイッチを押しても、うんともすんとも言わない。運転席でロックをかけているのだろう。しょうがなくドアを開けたら、右手首を掴まれた。
「どこいくの?」
「外の空気を吸いたくて」
「真夜中に車から降りたら危ないから」
「でも、息が苦しいんだもん」
「お前さ、息苦しいのは自分だけだとでも思ってんの?」
「離して。痛い!」
「もう五年も待ってんだよ、こっちは!」
またしても、怒鳴られてしまった。
恐い顔で、憎らしい相手を睨みつけるような目で、私を見ているユキヤが知らない男の人に思えてきて、とても怖くなる。
体が震えた。あの夜を思い出す。
「やだ!離してよ!触らないで!!」
乱暴に振り払った手を、さらに強く掴んできたユキヤが謝ってきた。
「ごめん、ごめん…、俺…」
ユキヤはオロオロしながら、ゆっくりと指から力を抜いて私を離してくれた。
咄嗟にドアを開けて車を降りると、そこは全く知らない場所の明りひとつない道路の片隅。途方もなく心細い感覚を味わっていると、運転席から降りてきたユキヤが私の肩に自分のはおり物をかけてくれた。
「どうすればいいのか、わからない。だけど、俺はずっとお前のことが好きだった。あの日、意地張ってないで俺がお前を迎えに行ってたら、あんなことにはなってないって思ってた…。だけど、起きてしまったことは今更引っ繰り返せないから…」
ひんやりとした夜風が私たちの間を通りぬける。
木々のざわめきなのか、牧草地の湿った土の匂いと共に香るのは、もうすぐ本格的な夏を迎える前のほんのりと甘い稲穂の香り。
「俺、もう誰とも付き合わない。お前の代わりになる女なんていないって、わかったんだ」
遊び人なイメージのユキヤから出たセリフとは思えなかった。
無言で帰宅して、その夜は別れた。
いきなり夜の海に突き落とされるような出来事が起きたのは、五年前。私が男性恐怖症になったきっかけだ。結論から言えば事件は未遂で終わったというのに、私が失ったものは何もない筈だった。
思春期だったせいもあるのかもしれない。今、同じことが起きても同じように恐怖心を感じるかどうかも、わからない。小さい頃から家族ぐるみで付き合いのあるお母さんの友達の家で、それは起きた。ただ、思い出す度に五寸釘を深く打ち付けるような痛みを覚えるから思い出すことさえ怖くて、今だって震えてしまう。とにかく、高校一年生になったばかりの私には強烈過ぎる体験だった。
目の前が突然、暗闇に覆われて誰ともわからない荒々しい吐息が肌に触れた。両手を捕まえられ頭の上で固定されたと思ったら、私の口に丸めた布切れを押し込んでからすぐに、服の下に入って着た手に大事なものを壊されて行った。
唯一自由になる脚で私は抵抗した。柔らかな場所にめいっぱいの力で惜し返そうと思い切り蹴ると、その人はうめき声をあげてどこかに身体を打ち付けた。鈍い音がして、静かになった。バタバタと無数の足音が聞こえ、暗闇に突然光が差し込んだ。開かれたドアには幼馴染たちの顔が並んで、何が起きたのか一瞬で理解した。
私を襲ったのは、ずっと信頼していた五歳年上のお兄さんだった。幼い頃から度々集合して、一緒にキャンプに行ったり遠出して釣りをする、そんな家族ぐるみの付き合いをめいっぱい楽しめる開柄だった。それが、彼の軽はずみな衝動で全部壊されてしまった。お母さん同士の友情も壊れ、その一家はこの町から消えてしまった。未遂なんだからそんなことぐらいで、と心ないことを言う人もいた。私が大袈裟に騒ぐから、彼らが一家で引っ越ししなくちゃいけないようなことでもない、と耳に入ってきたこともある。
未遂って何? どこからどこまでが未遂なの?
悲鳴もあげられない。両手はベルトでパイプベッドに固定され、私は彼にいきなり素肌を侵された。触れて欲しくない場所を我がもの顔で強く捕まれ、恐怖と嫌悪とそれ以外のおぞましいものが雷に打たれたように広がり、焦げ付いた。男の指なんてわずかな体積なのに、それが私の身体の奥に入ってきて掻き回された。
それが未遂だというの?
最後まで行かなかったら未遂なの?
私がどれほど傷付いたのか、あの人達にはわからないんだ!
確かに軽率だったよね。二十歳の大学生の部屋でくつろぎながら新刊の漫画を読んで、直前まで他愛無い話をして笑い合っていたんだから。一緒にお菓子を食べて、同じ漫画が好きで、夏は花火をして、冬はソリ遊びやらクリスマスパーティーをした間柄で、油断も隙もあった。そんなことをされるとは直前まで思ってもなかった。普段の彼は眼鏡をかけて大人しい雰囲気の、どこか頼りない線の細いお兄さんだったんだから。全く警戒なんかしていなかった。それを軽率だと言われたら、私は軽率だったのだろうとしか言いようがない。自分の愚かさが招いた出来事だと言われて、私は怖くなった。ただ只管怖かった。
親友を失ったお母さんはどこか冷たくて、お父さんはその時は別居して別の女の人と暮らしていた。私の身に起きた事を知ったお父さんはお母さんを散々罵って、離婚して消えた。
だから、私もお母さんから離れて暮らしている。私がいたらお母さんはもっと苦しむから。
一人で生きていく。
男の人は信用できない。
ユキヤは私のことを男みたいな奴だと言っていた。まさか、私に恋愛感情を持っていたなんて微塵も感じたことは……。いや、違う。
私がそうとは思わないようにしていた。目を反らし、勘を鈍らせ、ただ孤独を埋めるために野良猫のようにやってくる彼の気配に甘えて。そんな彼が好きだった。
涙が溢れ出す。
自分のことしか考えてない、こんな身勝手な私のことを好きだと思ってくれていたなんて。腫物に障るようにしか接してくれなくなった他の誰とも違って、ユキヤは変わらなかった。変わらず傍に居てくれていたんだ。一人でご飯を食べずに済んでいたのは、彼の好意だったんだ。そんなこと、もっと早くに気付くべきなのに、私って本当にバカだ。
ユキヤが好きなカレーを作って帰りを待ったけれど、ユキヤは二日間行方不明になった。同じ部屋で眠っても指一本触れなかった彼が、真夜中のドライブで突然告白をして私に拒絶されたのだから当然の結果なのだろう。私が彼ならきっと、戻れない。
親友を失って、心にぽっかり穴が開く。お母さんの気持ちが良くわかる気がした。
かけがえのない人を失うこと程、辛く寂しいことはない。
ユキヤは私にとって、かけがえのない人だ。
震える指でスマホ画面に触れた。電話じゃうまく伝えられそうにないから、私は何度もメールを書いた。回りくどい言い訳を並べた長い長いメールを一度は送信しようとしたけれど、寸前でやめた。全部消去して短いメールを書いた。
「さびしい。帰ってきて。ユキヤがいないと、私……」
心臓が破裂しそうなほどドキドキしながら、下唇を噛みしめて、両目をぎゅっと閉じて、渾身の勇気を振り絞って送信ボタンをタップした。
カレーを処分してお鍋を洗っていると、階段を駆け上がる足音が聞こえた。ガチャガチャとドアノブが踊り出し、私はびっくりしながらもドアに向かって大声で確かめた。
「誰?」
「ミユ! 俺だよ、ユキヤだよ!」
鍵を開けた途端、素早く開いたドアから長い腕が伸びてきて私の腕を掴んだ。強く引き寄せられて、その男のわりに細い肩に頭を抑え付けられて長い腕に包み込まれた。
「あれはどういう意味?」
息を切らしながら彼はまだ恐る恐る聞いてきた。
私は彼の背中に手を回し込んで、ぎゅっと抱き寄せ返しながら言った。
「……好きだよ、ユキヤ。ずっとそばにいて」
おわり
人生の一場面を切り取って書く。
誰にでも他人には理解されずに持て余す暗い過去や傷がある。その程度は大小あるかもしれないけれど、きっと大きさは関係ない。自分にとって傷付いたならそれは紛れもなく大事件だった。
身を守るために築き上げたハードルを自ら乗り越えるとき、人生は新しい方向へと流れ出す。
そんな思いを込めました。