ブルー・リトル・バード 1
この町は、オールド・シティと呼ばれている。
事実、古い。住人まで、オールドだ。戦火に焼かれることもなかったので、石造りの町並みは、絵画のようだった。
この町の広場に面した場所に、祖父の店がある。
朝から晩まで開いていて、ご近所さんが、依ってくる、カフェ兼酒場。
祖父は店に名前を付けないものぐさだった。
その、名無しの店を学生時代から手伝っているうちに、気が付けば、僕の生業になっていた。
「今日の珈琲は、孫息子が煎れたな」
口うるさい常連達は、そう言う。不味いとは言わないが、違うらしい。
額縁屋のおやじ、酒屋のおやじ、近所のご隠居と、たまに自分が宅老所にいるような気がするが、それこそ、おむつの頃から知られているので、逆らえない。
僕の子供の頃から老人で、今も、老人。毎日、同じ日々、その堆積。時間がすり抜けていく、場所。
僕は毎日、珈琲を煎れて、酒を給仕する。もう何年も変わらない生活が、昨日、ひっくり返った。
祖父が倒れたのだ。いや、全く心配はしていない。
客と一緒の酒盛りで飲み過ぎて、転んだ、頭を打って、入院した。
という次第で、名無しの店を、預かることになってしまった。
「孫息子、珈琲の味が落ちたら、休業しろ」
額縁屋のおやじは、初日、朝の一杯を飲むと、そう言い、自分の店に引き上げる。この額縁屋のおやじが一番、厳しい。
その日、初秋の風に誘われ、夜には雨が降り始めた。
夜の営業は、きっかり零時に終わる。常連さん方が引き上げた店を片付け、ゴミ箱を外に出す。
雨の町に、人通りはない、はずだった。
その夜は、違った。
静かに降る雨、広場の真ん中の街灯が、琥珀色に滲む。
そこに、女の人が、凭れるように、立っていた。
こくん。
胸の奥、何かが響く。
僕は、ゆっくりと、歩みよった。
その人は、小さな声で歌っていた。
ラ・ヴィアン・ローズ。
その人は、裸足だった。
小さな白い甲が、雨に打たれていた。
その人の、少年のように短い髪も、伏せた長い睫毛も、雨の雫に濡れていた。
「こんばんは」
僕がそう声を掛けると、歌声がやむ。そうして、夢を見ているような大きな瞳が、僕を見つめ返した。だが返事はなく、また、小さな歌声が続く。
「風邪をひきますよ」
僕の言葉に、答えはもらえない。
「裸足ですよ」
そう言うと、やっと微笑が返ってくる。
「私は捨て猫、道端で、凍えて死ぬの」
澄んだ声。僕にもし、尻尾があるとしたら、びりびりと震えている。
「……家の人を呼びましょうか?」
僕のおせっかいがまだ続く。すると、今度は少し怖い顔をして、
「捨て猫なの」
そう言い放たれた。
微かに匂う、酒精。あぁ、酔っているのか。
「珈琲でも、いかがですか」
些か困って僕が言うと、その人はやっと歌うのを止めた。
「お金がないの」
少し哀しそうに彼女が言う。
それが嘘でも、本当でも、お金を貰う気は、僕にはなかった。
店の扉を開けると、その人はすんなりと入ってくる。
手近の椅子に、ぽてりと腰掛けた。
石窯の火も落としたし、サイフォンも洗ってしまった。
珈琲ケトルをガス台にかけ、お湯を沸かし、祖父が嫌う電子レンジで、今日の残り物、ほうれん草とベーコンのキッシュを温める。
珈琲は、二杯。
トレーにマグカップにいれた珈琲と、キッシュの皿を載せ、僕は彼女の前に差し出す。
脇目も振らず食事をする人の姿を、久しぶりに見た。
猫なら、にゃぐにゃぐといいながら、食べている感じだ。 キッシュを三口で平らげ、珈琲で流し込み、そうして、ぱたりと卓にうつ伏せると、その人は、寝てしまった。
「嘘でしょう……?」
そっと近づき、肩を揺すってみたが、起きる気配はなかった。
祖父のベッドにあった毛布をその人にかけ、足元にスリッパを置く。
店の鍵は、かけないでいた。
帰る場所を思い出せば、きっと出ていくだろう。
そう、思っていた。