この世界の一部(ノエル&パティ)
きみの笑顔を見たんだ。
夜の暗がりにいながら、太陽みたいに明るい笑顔をふりまくきみを。それからちょっと怒った顔をして、普段よりずっと幼い表情をしてみせる。まるできみは俺の知らないひとのよう。体の真ん中を冷えた風が通り過ぎた。
そして気づいたんだ。あの表情を知らないのは、自分だけなんじゃないかって。
きみが笑顔をむけていたのは、兄のように慕うあの人だから、親しげな表情も納得いくものだったけれど。直接きみに何かを言われたわけじゃないけれど。こちらはフードをかぶっていて、はなれた場所の俺に気がつかないのも無理はないけれど。
手をのばす気力さえ失われたのは、なぜだろう。
「ノエル?」
友人がいつもの泰然とした笑みの中に心配を載せていると気づいて、ノエルは問題ないと表現するため微笑もうとした。けれど頬の筋肉は妙に強張って、うまくいかない。先ほど見た場所に目を戻すと、そこには誰もいなかった。かえってノエルは安堵しそうだった。今は夜の仕事中、感情的になるような要素は取り除かれるべきだ。そう考える冷静な自分もいるけれど、誰かのために知らない顔をするあのひとを、見たくないだけかもしれない。
ふるふると軽く首を振ると、ノエルはヨハンに呼びかける。
「ごめん、何でもないよ」
さっきよりは笑顔作りに成功した気がする。そう思いながらまだ疑わしげな瞳を向けてくるヨハンに、先へ進むよう促した。
「行こう」
すべてを見透かすようなヨハンの翡翠の瞳は、ノエルの事などお見通しだと告げていたが、ノエルは気にしない事にした。友人の視線を避ける訳ではないが、フードを深くかぶり直し目元に影を作って、ノエルは足を動かした。ヨハンが何も言わずに隣を歩いてくれる事に、小さく安心しながら。
誰かに呼ばれた気がして、ノエルはもう一度、背後を振り返った。ノエルたちが立つ狭い小道から見える風景は、わずかだ。暗がりには地面と家屋の壁しかなく、あとは遠くから酔っ払いの笑い声が聞こえるだけ。
小さな風が、ノエルの体の中へと吹き込んでくる。けれどそれを握り締めるようにして、ノエルはきゅっと拳を握る。
月のない夜だった。
『うわあ、すっごく美味しい~!』
単純なことば。飲食店に勤めていれば、何度だって耳にする定型文のひとつ。食べ物のよしあしを判断しただけの単語。それなのになぜ、きみの唇からつむがれるだけで、特別な言葉になってしまうんだろう。
目が乾燥したみたいに瞬きを要求してくる。ノエルは眠気を振り払おうとするかのように、一度強く目をつぶって、開いた。
夢を見た。けれどもう覚えていなかった。ついさっきまではおぼろげながら、その断片が脳に居座っていた気がするのに、少し活動をはじめただけでもどこかへ行ってしまった。目元をこすりながら、ノエルは小さな息を吐き出す。あんまり楽しい夢だったとは思えない。
眠りから覚めたばかりの脳みそは、たいていすべてを白紙に戻すような、すっきりとしたものばかり。悩みもよろこびも、他所に置いた状態で目覚める事が出来る。けれどこの日の朝は、わずかに満たされない気持ちになっていた。
それのあるべき場所から、何かが欠けてしまったような――。
窓からの明るい陽の光に似合わない感情を抱いていると気づいて、ノエルは気分を切り替える事にした。たとえ空元気だったとしても、何もしないよりはましだ。大きく伸びをして、ノエルは着替えはじめた。
「最近、パティ見ないわね。パンの配達にも来ないし」
その名前に過剰な反応をしないように、ノエルは気をつけなければならなかった。心底不思議、という様子ではないがアニータはちらと海竜亭の入り口を見やる。そこに待ち人はあらわれず、他の客さえもやって来なかった。忙しい時間も過ぎ、閑散としてきた店内に手持ち無沙汰になったので疑問を口にしてみただけなのだろう。相槌を打つべきか迷うノエルの代わりに、マクシミリアンが娘の問いに応じる。
「そう言われればそうだな。よく来てくれる常連さんだったが、どっか新しい店でも見つけたな」
パティは仕事が休みの日には、菓子店を中心に飲食店をめぐっている。海竜亭もそのうちに含まれるはずが、ここ最近、何日も来ていない。どこか他所に好みの店でも見つけてそちらに通うようになったのでは。そう考えるマクシミリアンの言葉に、ノエルは小さくうつむいた。
「ノエルは何か聞いてないのか」
マクシミリアンからの問いかけに、反応が遅れた。その自覚のあるノエルだが、声は落ち着いたものになったはずだ。
「えっ、なんで俺なんですか?」
「何でって……」
ちら、と意味深な視線をアニータが父親に投げかけたのにも気がつかず、ノエルはマクシミリアンのこたえを待った。
「お前らよく話ししてるだろ」
それだけ、だった。
何も聞いていない、とマクシミリアンの問いに答えると、ノエルは仕事に戻った。何の変哲もない会話だったはず。それなのに、ノエルの胸のうちにひっかかって離れなかった。
あの日の見知らぬ顔をしたパティが脳裏によみがえって、消えなかった。
たとえば俺が、このまま会いに行かなかったら、きみはこのまま海竜亭に来ないままで、そのまま日々はすぎていくんだろうか。
「――また上の空だね?」
どこかからかうようなヨハンの声に、ノエルは我に返った。昼間は海竜亭、夜間は情報屋ヨハンの護衛をしているノエル。夜こそ気を引き締めなければならないと知っていたのに、ぼんやりしてしまった自分に内心で慌てた。
「わ、悪い」
「君の友人は君の悩みがすぐに分かる優秀な人物みたいだけれど、当ててみようか?」
わざわざ遠回りな表現を使って、ヨハンは目を細める。ノエルもヨハンも、今は仕事中。先日情報がほしいと言ってきた男に、情報を渡すためにヨハンの店にやってきた。ノエルは、友人の笑みが自分にとって楽しい未来を導くたぐいのものではないと気づいて、頬を引きつらせる。
「遠慮しとく」
「気がねしないで。そうだな……君の悩みは、ずばり女の子の事じゃないかな」
「いつも女の子の事で頭がいっぱいなのは、そっちの方だろ」
「否定しないんだ?」
ヨハンの笑みは、完全に友人をからかって楽しんでいるものだった。改めて否定すべきか迷って、ノエルは今がどういう状況かを相手に思い出させる事にした。
「仕事中だろ。そういう話は後にしろよ」
まだ言い足りない様子のヨハンだったが、やってきた人の気配に彼らは黙った。
男が一人現れる。それは数日前にヨハンに情報提供を求めた男ではなかった。新規の客かと思い、ノエルは対応しようとする。
「情報屋ってここでいいんだよな。ラルフの代理で来たんだが――」
店内を見回してどこか居心地悪そうにしていた男だったが、ヨハンの顔を見るなり――顔色を変えた。最初は目を見開いて、次にひどく顔をしかめて。いいや、怒りに顔を染めたのだ。
「お前……ヨハン・ペタルデス!」
男のあまりの怒気に、ノエルは反射的に愛剣に手を伸ばす。けれど男の行動の方が早く、男はヨハンに近づくとその襟首をつかみ上げた。
「お前、お前のせいで……!」
こんな状況だというのに、ヨハンは泰然とした表情を変えない。その事が一層男を怒らせるのか、ヨハンの胸元を締め付ける力が強くなる。
「やめろ、手をはなせ」
ノエルは自分のショートソードを抜いた。これだから、ヨハンに護衛が必要なのだ。彼の扱う情報にはいわゆる不可侵のものもあり、人の生死に関わる情報だって、ない訳ではない。命のやりとりに触れる情報を扱う人間に、飛び火がまったく来ないはずがない。ヨハンの情報がもとで、被害や不利益をこうむる人間がいないとは言い切れないのだ。
男はヨハンを荒々しく突き飛ばすと、腰に手をやった。取り出したのは、小さな短刀。
「お前のせいでっ、おれは……!」
よろめいたまま男に顔さえ向けられずにいるヨハンに、男は飛びかかった。
「――!!」
ノエルが、ヨハンの姿を隠すように男の前に出る。カラン、とノエルのショートソードが地面に落ちる音がする。
わずかに反応の遅れたヨハンは、ぱたと小さな音を聞いた。雨が地面に落ちてくる時に耳にするものと同じだ。ヨハンのいる場所からは、ノエルの背が邪魔で何がどうなったのか視認出来ない。
ぱたりともう一つ、血のしずくが落ちた。
「ノエル――」
わずか乾いた声を出す友人に、ノエルは口元だけで笑う。
ノエルは、短刀を持つ男の手をその細腕でおさえこんでいた。男の短刀は、ノエルのわき腹に突き刺さっている。ノエルの腹部から男の短刀の刃をつたって落ちる血の量は多くはないが、確かにノエルの体内から血液があふれ出ていた。
男の力は強く、ノエルは攻撃を完全に防ぎきる事は出来なかった。互いに相手の力をおさえきれず、ノエルも男も手をふるわせながら押し合いをしていたが、ノエルが一瞬で勝敗をくだした。
ノエルが一度力をゆるめ、均衡が崩れた瞬間、男は油断をした。
男は自分の身に何が起こったのか、すぐに理解出来なかったに違いない。あっという間に地面に仰向けになり背中を打ちつけた男は、ノエルが剣術だけでなく体術もたしなんでいるとは、知らなかったのだ――。
出血も少なく、傷も浅かった。ほとんど致命傷にもならない程度の軽傷。
それなのに一瞬でも生命の危険にさらされたからだろうか。
よぎったのは、きみの顔。
見ているこちらまで微笑みたくなるような、笑顔。
それを見るだけで、すべて満たされた気分になる。陽だまりの中にいるみたいに、あたたかくなる。ずっと見ていたいと思ってしまう。
マクシミリアンからただの友人認定された時から、考えていた。
俺に、ずっとあの笑顔を見ている資格なんてあるのだろうか。客と従業員という関係、そうでなければただの友人。もし何かあれば、たとえばきみがどこかへ引っ越すとして。自分は会いに行っていいのだろうか。自分の種族の事だって、俺を動けなくさせる。
そもそも、自分にとって、きみは――きみにとって、自分は、何なのだろう?
考えこめば、螺旋のような渦の中に引き込まれて、終わりのない問いの海におぼれる。その波は、思考力さえ奪って、手を伸ばす気力さえ失わせる。
ずっと、動けないままでいた。
けれど。
あの時、死ぬかもなんて思わなかったのに、やり残したことがあると、気づいた。
たとえこの手が届かなくても、せめて――
「あっ、ノエル!」
突然の声に、ノエルはわずかに身構えてしまった。それを悟られないようにと、振り返る前に表情を取り繕う必要があった。
そしてそこにいたのは、パティ一人ではなく、彼女が兄のように慕う相手――ユリシーズだった。彼はノエルを視界に入れても白けた顔をするだけで、特に興味がなさそうに視線を他所に向けた。
ノエルは仕事場である海竜亭に向かう途中だった。店の外でパティに出会うのは珍しくもないが、ユリシーズと同行しているパティに会うのは、頻繁にある事ではなかった。いつかの夜の事が思い出されて、ノエルはわき腹の傷の疼きよりも強く心臓が重くなるのが分かった。
「ちょっと久しぶりだね~元気だった?」
怪我してた。内心でどこか皮肉げに思ったが、ノエルは海竜亭で仕事中に浮かべるものと同じ笑みを浮かべて頷く。
「あのね、ノエルにちょっとお話があるんだ~。今度ね、お花見に行こうって話になってて~」
誰と誰が。ノエルの脳がパティとユリシーズを花見の話と関連付けるのに時間は要らなかった。黒いもやのようなものが、ノエルの脳裏を浸食する。目の前の二人が仲良く花見をする脳内の光景に、苛立ちが増す。
どうしてだろう、今、パティと話をする気分になれない。彼女に何か、言いたいことがあった気がするのに。天から降ってきたかのような閃きは、今はどこかへ身を隠していた。
ノエルは怪我をしたわき腹をそっとおさえるように、片手を添えた。
先に口火を切ったのは、ノエルではなくユリシーズの方だった。
「パティ。長話するなら俺はもう行くぞ」
「いいけど、お花見の話、忘れないでね~?」
パティに背を向けて手だけ上げると、ユリシーズは去っていく。言葉は少なくとも、かえってそれが彼らの親しさを思わせる。結局は仲のよい二人なのだ。ノエルは腹部を掴むように、服にしわを作る。怪我なんて本当にたいしたものではなかったのに、ノエルは傷が痛むあまりに体調不良に陥りそうなのだと、錯覚した。
「それでね、ノエル」
「ごめん」
わざと話を途中でさえぎって、ノエルは地面に視線を落とした。
「今日はちょっと、疲れてるんだ」
言い訳を口にする自分が嫌になったけれど、こんな時の顔を見られたくなかった。情けない自分を、パティの前にさらしたくなかった。
「そうなの? ごめんね……」
パティの方も、声のトーンが落ちていく。何を言ったらいいか分からなくて、「それじゃ」とあまりにも格好悪い撤退をはじめようとしたノエルの背に、パティは何かを見つけたように目を軽く見開いた。
「そうだ。これ」
ノエルに差し出されたのは、小さな紫色の巾着のようなもの。それに長い紐がくくりつけられている。
パティが手渡したものが何なのか、はかりかねていて、ノエルは怪訝な顔になった。相手の疑問を察してか、パティは口を開く。
「お守り。最近、藤の湯にシラハナのお客さんが来て、作り方習ったんだ」
しばらく家にこもって作ってたのと続けるパティ。後になってノエルは彼女が海竜亭にしばらく訪れなかった理由がそれだったのと気づく事になる。
「紐くっつけてネックレスみたいにしたけど、シラハナではこれがお守りなんだって。ノエル、夜のお仕事で、たまに怪我することあるでしょ? だから……」
全部、一人で考えた事だった。ノエル一人が勝手に感じた事。
人の感じた事は時に本当に身勝手で自身に都合のいい事だったりするが、ノエルはむしろ、その逆だったのだと、分からないでいた。
パティを遠く感じていた日々も、ノエルの身勝手。
パティは、ノエルをちゃんと覚えていたのだ。
ノエルのために、お守りなんて作ってくれていた。
こんな事、思いもしなかった――。
「……ありが、とう……」
心臓の音が、急かすように速くなる。
それがたとえ、相手にしてみれば友達だからという理由でも。
自分がここにいるって、認められるだけで、なんでこんなにも満たされてしまうのだろう。
大丈夫だと、言われた気がした。心配いらないよと、問題はないのだと。
安心感がノエルをつつむ。落ち着いた穏やかな気持ちになってもいいはずが、心臓だけはうるさくて、体中にひろがるあたたかさは、もう止められなかった。
本当にもう、困ってしまう。
きみの笑顔を見たんだ。
まるで俺が笑ってるのがうれしいみたいに。
泣きたくなるくらい、やさしい笑顔に。
「パティ、あのさ――」
たとえ上手く口に出来なくても、せめて――
もっと傍に、いさせて。
きみは俺の世界の――たいせつな、一部だから。
ノエパティが好きなのもありますが、夜のお仕事してるノエルくんが書きたくてかきはじめた話、だったと思います。
あんまりノエパティっぽくなくて、またリベンジしたい気もするのですが、ヨハンくんとのやり取りも書いていて楽しかったです。
ちなみに、パティちゃんが話してたお花見は、いろんな人誘ってみんなでお花見、っていう予定です。
ノエルくんもお花見に誘おうとしてました。
お花見してるところも話にできたら楽しそうだなあとは思うのですが……まだ思いつかないので、未定で(笑)