いつか両親が2(フェッロ&ビアンカ)
その夜、客人は宿へ戻らず寺院に泊まる事にした。サン・クール寺院の施設の中には客人が数人増えたくらいでは満室にならない程度の空き部屋がある。だが、イルブレック夫妻は自分の子どもたちの寝起きしていた部屋を使うと言って一家で眠る事にした。
静まり返った寺院の中で、フェッロは夜の見回りをしていた。月の明るい夜だったから、中庭に面した回廊に座り込む人影が誰だかすぐに分かった。ベールを外した修道女は、黄金の髪を月明かりにさらしていた。
「ビアンカ。何してるの」
急な声がけに一度身を震わせると、ビアンカは慌てるようにして立ち上がる。
「あ、フェッロさん……えっと、その……」
この時間帯にビアンカが部屋の外にいるのは珍しい。規則正しい生活を心がける彼女は、大抵は明日の支度をしているか、自室に戻っているかが常なのだから。
「何か、あった?」
常と違う行動を取るのだからと口にした言葉に、ビアンカは少なからず目を丸くした。フェッロは何かおかしな事を言っただろうか。やや狼狽したような相手の様子に、しかし予測は外れてはいないのだろうと見当づける。
「……いえ、大した事じゃ、ないんです」
ビアンカは、あまり自分の感情を表には出さない。無表情というのではなく、どこか自身の気持ちをある程度制限しているような節がある。それはあまり我がままを言っては他者に迷惑だ、と考えての事の類のように思える。彼女は優しいから――自身よりも他者を優先してしまうのではないか。それで、自分が大きく感情を表現する事によって、周囲に広まる波紋を大きくするのはよろしくないと考えていてもおかしくない。ビアンカが自身に優しくたっていいはずなのだが。
「気になって夜も眠れないから、話してよ」
本当に眠れないほど気になっているのか、と疑問になるような淡白な口調だったが、しかしビアンカはかすかな困惑交じりの微笑みを浮かべてしまった。
(本当に、どうして見つけてしまうの……?)
視線を自分の足元に落として、ビアンカは観念したように口を開いた。
「……喜んでいいこと、なのに」
先を続けようとしたビアンカは、フェッロが指さした方向を見た。地面を示す彼は、どうせなら座って話をしようと言っているのだ。二人は、中庭の芝生に足をのせて座った。
「今回の事は、例外だって思ってしまったんです」
「ミアラたちの事?」
ビアンカは頷いた。
「……孤児は、本当の両親が迎えに来る事なんて、ほとんどないんです」
そう、今回の件は稀な事項。
他の子どもたちは、どう思っただろう? 自分の親も、本当は生きていて、いつか自分の事を迎えに来る予定で、本当は、本当は――。
それは、フェッロも少し思った事だった。幸せな終わりを迎えたはずなのに、そうはならなかった子たちは? ミアラやコウを、妬ましくさえ思えるだろう。欲しくて仕方がないものを、手に入れた相手を。
「みんな、それぞれ家庭の事情があって、一概には言えないですが、孤児たちはきっと本当の両親にあんな風に優しく迎えられたら、嬉しくないはずがないんです」
それが叶わない子どもたち。それに匹敵するものを与えられないビアンカ。どうして、喜ぶべきはずの時にビアンカは、気持ちを暗くさせてしまっているのか、その事すら、彼女に影を落とす。
「それをみんなに与えられたら……なんて……出来るはずがないのに」
なんで。
なんで、彼女は、こうも優しいのだろう。
言葉にしなくともフェッロには見える、ビアンカの他者を思いやる心――。
まるで冬の日、彼女は手にたくさんもっていた毛布を寒がる子どもたちに全部あげてしまって困っているかのようだ。自分の分はもうなくなったので、もう誰かにそれを渡す事は出来ないと困っている。それでは彼女は自身の体をあたためる事は出来ない。
何故だかフェッロの体の真ん中辺りがゆらゆらとした。彼女の優しさは、どうしてか少しあばら骨の隙間をきしませる。
「ビアンカが、そういう事を言うのは少し珍しいね」
「――ご、ごめんなさい、私、」
「謝る事はないよ。そうじゃなくて……なんだろう。なんて言えばいいかな」
難しい。フェッロにとって、自身の気持ちを正確に外に出すのは簡単な仕事ではない。だけれども、形にしたいとは思うのだ。
「ビアンカは、そういう、気持ちを少しは外に出した方がいいよ。あんまりためこまれると、周囲が心配する」
「……でも、私は」
「例えば、寒い日にさ、寺院にある毛布をみんな周りにあげちゃったとする。それで、もう大きな毛布が一枚残ってるだけ。毛布がなくて震えてる子がまだ少しいる。ビアンカも自分だけの毛布はない。そうしたら、どうする?」
急で奇妙なたとえ話に、ビアンカは怪訝そうだった。それでも彼女は思案する。彼女の正解を探して。
「毛布のない子とみんなで、一緒にくるまって寝ます」
明るい緑の瞳が導き出した答えは本当に彼女らしいものだったから、かすか胸を圧迫する何かを感じながら、フェッロは口角を上げていた。
「たぶん、そう思う子が他にもいると思うよ」
「……え?」
誰だって、明るくて優しくてあたたかい家族に恵まれたいと思うはずだ。それでも、手に入らないものをただ羨ましがるだけが、人のする事ではない。子どもだって、そうだ。言葉が足りなくても、言動が幼くても、孤児だったとしても、ただ羨み自分のものを独占しようとし続ける事も、そうはないのだろう。誰もが皆そう出来るとは言わない。
「誰かがあったかくなってるのを見たら、ビアンカはうれしく思うんじゃない? それは、他の子にだって当てはまらないとも言えない」
たとえ話を使った事で、フェッロ自身も最初に言いたかった事はなんだったのか、分からなくなっていた。これでは相手にも伝わらない。難しい。言葉は、感情は、心の中は明確な形になんてならない。
「あれ、何か上手く言えてないな……。うーん、それから、前も言ったかもしれないけど、ビアンカがいるでしょう、他の孤児たちには。本当の親よりすごく優しいかもしれない育て親が。本当の家族だって、上手くやれない事もある。でもそれ以上のものを他者が与えられるって事だって、あり得ないとは言えないはずだ」
いつの間にか、ビアンカは膝の上に自分の頭を伏せていた。顔をつっぷすようにしていて、何を思っているのだろうか。別段フェッロは他者の顔色で心の中身まで分かるような脳みそをしてはいないが、顔が見えないと尚更相手が分からない。もしかして、彼は余計な事を言ってしまったのだろうか。
「ビアンカ、もしかしておれ、変な事言った?」
「ち、違うんです。えっと、その」
ビアンカは、ずっと泣きそうだったから。光のあたる瞬間を見て、そこに生まれる影を見て。ビアンカには何も出来ないと思いこんで。まるで結婚式に喪服を着てやってきたような気分。
(涙に、早く乾いてもらわないと……っ)
それをどうして、結婚式場でも葬儀場でもない場所へと、引き戻してくれるのだろう、このフェッロは。地に、足をつけられたような思い。手を引いたのは、あなた。
他者に――特に想いを寄せる相手には――見せられない顔をしている自覚のあるビアンカと、それを察せぬフェッロとでは、会話が途切れてしまうものだった。
自分の隣りに座る娘の思考するものが少しも感じ取れないのはフェッロ本人もよく分かっている事だった。だから、どうしたらいいか分からなくて、彼はただぼんやりと空を見上げた。べっとりインクを塗りつけたような濃い黒の夜空に、ただ一つ浮かぶ淡い光の月。
太陽の妖精を焦がれる月の妖精は、フェッロと似た気持ちだったのだろうか。相手の思う事が分からなくて、追いかけてしまうのだろうか?
考えつつ、黄金の輝きを持つビアンカの髪こそが、月の色と似ていると感じていた。フェッロはそれを一房、手に取った。いつか彼女のベールが風にさらわれた時、空に流れる金糸を、見慣れないそれに、触れてしまった事がある。あの昼の明るい光の下で見た色はもっと違う色をしていた。
ああでも、黄金の光は太陽の持つものだったか――。
やわらかな羽根にでも触れているかのような感覚。さらさらとなめらかにフェッロの手の中からこぼれ落ちていく金の糸。細くて、淡くて、やわらかくて、本当に存在するものなのか疑わしくなる。最後に残った数本を、ついと引っ張ってみる。さすがに気づいたビアンカは反射的に顔をフェッロに向けた。するりと失われる、手の中の感覚。金の輝き。
「あ――」
「ビアンカ、もしかして」
「違うんです! これは、思い出し涙です! さっきの、イルブレックさんたちに惹起されて!」
やっぱり彼女は、涙していたのか。一瞬見えた光の輝きは、目元にたまる涙の雫を月が照らしたあかし。
ビアンカはすっくと立ち上がると、違うのだと尚も否定した。そこまで言うのなら、親子の再会の場面を思い出しての事なのだろうと、フェッロは思う事も出来るのだが――本当だろうか?
彼女は、無理をするから。誰かのためなら、気丈に振舞って、嘘もつくから。
「ビアンカ」
自分も立って彼女を呼びかけると、ビアンカはフェッロに背を向けていた。
「もう、遅いので、寝室へ戻りますね」
呼び止めたいのだけれど、フェッロはよさそうな言い訳を思いつかなかった。
それに、今ビアンカを引き止めたら、何かおかしなことをしてしまいそうで、それが出来なかった。フェッロの持つ“毛布”を手放して、彼女に巻きつけて――
「おやすみなさい」
ビアンカの挨拶に、フェッロは返事をすぐには出来なかった。もう少しで脳内に再生しそうになったそれは結局上手く形にならず、そのため喉に引っかかった魚の骨みたいに、もどかしかった。
「……おやすみ」
ただそれだけをこぼすと、フェッロは立ち去るビアンカの姿を見るでもなく、ぼんやりとたたずんでいた。
翌日の昼前にイルブレック親子はサン・クール寺院を離れる事にした。
「それではみなさん、本当にお世話になりました」
子どもたちの中には泣き出すものもいた。ミアラとコウは、生まれ故郷のサングリエに帰ってそこでずっと暮らすのだ。
フェッロも少なくない関わりを持った相手だった。とても活発で小さい子の面倒もよく見れるお姉さん肌のミアラに、泣き虫でまだちょっと甘えたいざかりであるけれど年長の子には頼られるのがうれしいといわれるようなコウ。お姉さんであっても、時折泣いてしまうミアラ。コウのわがままに振り回された事もあった。
「ミアラっ、元気でね……っ」
「手紙ぐらい書いてよね!」
「書く! 書くから、お返事ちょうだいよね!」
「やだ、ぼくみんなといる!」
「何言ってるのコウ! ママたちといたくないの?」
「ママともいっしょにいる~! みんなともいっしょにいる!」
「ばか、そんなのできるわけないでしょ!」
ミアラもコウも泣いていて、子どもたちはみんな寂しそうだった。
けれどもいつかは別れが来る。小さなコウも諦めて、父の腕に抱かれて孤児院の子たちを見ないまま手を振った。
「では、本当にありがとうございました」
ミアラを父と母が守るように間に挟んで、仲のよい家族は手をつないで帰って行った。
ぼんやりと、彼らを見送ったビアンカは、ふと視界に入ったものに目を奪われた。細身の全身と同じく、細長いが骨ばった男の人の手をした、フェッロの右手。
自分に注がれている視線に気づいた彼は、「何?」とビアンカに顔を向ける。
「な、何でもないです」
ビアンカにとって幸運な事に、この場面をホープに見つかる事なく済んだ事だ。自分が無意識に感じていた事も相手に隠し通せた。
やっぱりフェッロはビアンカの考えがさっぱり分からなくて、首を捻るだけだった。
***
数日後。ホープは寺院のすぐ外で、思わぬ人物に出会った。先日別れたばかりの家族の一人、マキラ・イルブレックとその息子コウ・イルブレックだ。
「……あれ、マキラさんにコウくん。どうしてまだティル・ナ・ノーグに?」
さすがのホープも驚きを隠せなかった。マキラは笑って答える。
「いやあ、それがね、旅の途中でよく持ち歩いてたイノシシの干し肉が美味いって、ある店の店主にひどく気に入られてね。ぜひ彼の店で出させてくれって言うんだ。なら狩りに出て店に持っていきましょうかーなんて半分冗談で言ったらそうしてくれって……まあ、早い話仕事が見つかったんで、しばらく一家でティル・ナ・ノーグに住むことにしたんだ」
「なるほど」
「子どもたちもここの人たちとは別れ難いみたいだしね」
折角だからとホープはマキラをサン・クール寺院へと誘う。マキラの夫やミアラは町で買い物をしているらしい。なんともあっさりしたものだ。あの涙のお別れは一体何だったのかと思うような結果である。
とはいえ、孤児院の子たちは吉報を聞いて非常に嬉しそうにした。マキラの周りに集まって、ミアラが来るのはいつかコウはいつまで寺院にいるのかと話を聞きたがった。
「またミアラたちと遊べるの?」
「うん、そうしてあげて」
マキラは孤児たちに優しく笑いかける。
そこへ居合わせたフェッロも、ビアンカから詳細を聞いてホープと話すマキラを遠巻きに眺めた。
人の縁は不思議なもの。途切れたかと思えばまた巡ってくる。消えないものもある。
フェッロは、ちらとビアンカの横顔を盗み見た。何かを彼女に言おうかと思ったけれど、ビアンカは嬉しそうにしているので、それでよしとする事にした。
あたたかな日差しが地上に降り注いで、太陽の妖精も祝福してくれているかのようだ。
結局、ミアラとコウの姿が孤児院から完全に消える事はなかった。夜こそ別の場へ行くが、ほとんど孤児院にいる時間が多い日々を、この姉弟は続けていく事になるのだった。
『楽園をふちどる色彩』の中に入れるには長すぎるし話がそれすぎると思い、カットした部分をお届けしました。
孤児院の子どもたちは、最初はモブ程度のつもりだったんですが、どんどんキャラが生き生きしてしまい、孤児たちの話をいろいろとやりたくなって、この話を書きました。
キジャリーのその後が半端な感じですいません……。
フェロビアとの同時進行は難しかったので、また別の機会を探します。