MOTHER
登場人物は少年のみです。作品上、少年の性描写などがありますので、お嫌いな方はご遠慮ください。
中央監査班から、レノのノート型パソコンに月一度の定期身体検査の順番を表すコードと日付が送られてきたのは、ちょうど食堂棟で夕食を済ませステーション十七号棟施設の部屋に戻ってきた時だった。中央監査班からデータが送られてきたことを示す、赤い小さなランプがパソコンの側面で光っていた。
レノが部屋に入ると、頭上のセンサーが体温を感知して自動的に部屋の明かりが付いた。机の上のパソコンを開いて、定期身体検査の通知を確認した。それから今日一日の体調の変化や行動を打ち込んで監査班宛に電子メールとして送る。これは此処での規則であり、守らなければ直ちに中央監査から呼び出しを通知され、強制的に身体検査に回されてしまう。しかしこれは一度習慣になればそう苦痛なことでもなく、レノは夕食後必ずこうして送ることを欠かさなかった。
送り終わると、レノは備え付けの小さな冷蔵庫からアクアドリンクを取り出して飲んだ。空蒼色のそのドリンクは水分補給の効率がよく、喉に流れ込む前に体に吸収されて冷たさだけが奥へと落ちていく感覚が特徴だった。レノはこれを愛飲している。アクアドリンクを飲みながら、椅子に腰掛けると、他に電子メールが送られてきていないかをチェックする。標識ランプが赤色から薄緑色に変化した。他に変化がないのを表すサインだ。
ステーションの方針上、夕食後のある一定時間からは最小限の電力の供給に押し止める為に、部屋は薄暗くなる。手元のパソコンの画面が青白くレノの顔を照らし出した。あちこちに点在するスタンドランプは白乳色の光を点して周りの家具を浮き上がらせた。とは云え、此処にある家具はすべてステーションの備品であり、余分なものは何一つない。部屋の真ん中にパソコン用のラウンドテーブルが一つ、冷蔵庫と壁に嵌め込まれたテレビジョンが各一。簡易シンクが奥にあるくらいで、後の私物は自分の部屋のクローゼットの中だ。余り飾り立てられた環境を好まないレノは余分なものがないこの部屋を気に入っていた。窓は存在しない。このステーションは母星があるS型系銀河から約5000万キロ離れた宇宙に存在している大型宇宙船で、万が一の為に衝撃に弱い透明ガラスの使用はされていなかった。
母星は此処では「MOTHER」と呼ばれている。「MOTHER」には発達した都市国家が形成されていたが、異常なまでに発達した文明と豊かさが、人口増加や食糧難、汚染などを引き起こし始めた。その為全ての成人男女から精子と卵子のドナーを集めてそれをステーション内に収め、中央監査班によって人口の調節がなされるようになったのだった。此処の生徒達は母星で人口増加を引き起こさない為に、生殖機能に関する遺伝子を破壊された状態で生まれてくる。人工子宮の中である程度まで育ったあたりから、全てにコードネームと番号がつけられ、その成長を監視される。そうして一六歳までの間にその生殖機能が完全に無能であることが確認されれば、彼等は「MOTHER」に永住する権利を得るのである。
レノはパソコンを閉じた。電子音が鳴って、機械の回転音が止む。既にぬるくなり始めたアクアドリンクを簡易キッチンのシンクに持って行き、グラスに移し変えると、レモンと氷をたっぷり入れて飲み干した。
自動ドアーが開く音がした。レノが使い終わったグラスをちょうど頭上の棚にしまったところだった。入ってきたのは同室のルカオだ。
レノは椅子に座った。
「遅かったじゃないか」
レノは云った。食堂棟は各号施設ごとに設置されている。一七号棟施設の食堂棟にレノが居た時、ルカオの姿はなかったようだったが、食堂棟に行ったのが一番込む時間帯と重なってしまった為、確かではなかった。
ルカオはレノの横に腰を下ろした。相当疲れているのか項垂れている。彼は着ていたジャケットを脱いだ。電力が落ちると、廊下は相当に冷え込む。巨大な宇宙ステーション内では移動に時間がかかる為、部屋を出る時は殆どの場合防寒用ジャケットを着用する。
ジャケットの下は黒のタートルネックセーターを着ていた。ルカオは華奢な身体つきで、半袖から突き出た腕は白く枝のようだ。同じく臙脂色のハーフパンツから覗いた脚は灰紫色の靴下で膝まで隠れているが、その細さは明らかだった。そのくせ彼は運動能力が極めて高い。毎日の運動トレーニングを欠かさない。
「トレーニングマシーンを使ってた」
確かに彼の黒髪は濡れている。帰りにシャワーも浴びてきたのだろう。
ルカオは冷蔵庫からラバーパックを取り出した。ラバーパックは栄養価が高い即席食品で、名前の通りゴムのような弾力性を持っている。少量で満腹感を得られるが、匂いも味も薬品臭く、余程でないと食べる気がしない。
ルカオはそれを力任せに噛み千切った。
「ツール・ウォッチを合わせてたと思ってたのに、アラームが鳴らなかったんだ。お陰で夕食に間に合わなかった」
ルカオの腕にはいつもツール・ウォッチが嵌められていた。これがあれば、いつでも中央監査班に通信出来たり、パソコンと連絡が取れたり出来る。しかしそれの入手ルートは不明で、ルカオすら何時からしていたか記憶がないと云う。それと同じにレノの腕にも小さい頃からバングルが嵌められていた。自分のコード番号と「RENO」と名前が彫り込まれたそれは、自分も知らないうちに嵌められていた。濁りのない銀色のバングルはどういう物質で出来ているのか、レノの成長と共に拡がって、締め付けられることもなく二の腕に納まっている。しかしそれを不思議と思ったことはない。施設の子供たちの幾人かがそれを身につけているからだ。同じ施設ではルカオと親しいスカイと同室のラウルが身につけている。よく四人で施設授業などに参加する。
ルカオは自分のパソコンを開き、右手だけで器用に操った。左手には食べかけのラバーパックが握られている。レノは彼の作り物のような細く長い指を見つめた。
「明日、定期健康診断の順番が回ってきた」
「早かったな。俺のところはまだ来てないぜ」
ルカオはパソコンの電源を切った。画面が光を失う。まるで死んでしまったように機械はしんと静まり返った。
「今月は『MOTHER』に行ける子はいるのかな」
レノは椅子の上で膝を抱えた。
「さぁな」
ルカオはさして興味もなさそうに云って、ラバーパックを噛む。その度に眉間に皺を寄せた。
レノはテレビジョンを見た。其処にはまだ行ったことのない「MOTHER」の風景が放映されている。ステーションでこれを見せることで、「MOTHER」がどんな所であるかを子供達に自然と覚えさせ、星へ戻った時にパニックを起こさせないようにする狙いがある。テレビジョンは音声もなく長閑な田園風景を静かに映し出している。植物はこのステーション内にも存在したが、それらは全て4D立体プログラムによって映し出されるもので、種類にも限りがあった。広大な土地に沢山の草花や畠が広がっているということはレノには実感がわかなかった。
「僕は、『MOTHER』に行けるのかな」
ステーション内の生徒達は皆が「MOTHER」に憧れを抱いている。レノもその一人であり、ドナーの中の自分の母親に会うのが夢だった。彼らはどのドナーの子供であるかという事がはっきりと分かっていて、母親と電子メールをやり取りすることを許されている。レノは殆ど返事を書かないルカオとは逆に、熱心に見たこともない母親に電子メールを送った。ルカオと話したこと、通信学習で知ったこと、「MOTHER」や母親に対しての気持ちなど毎回思いのたけを電子メールを通して母親に語りかけた。しかしながら、母親からの連絡はここ最近途絶えている。
ルカオは食べかけのラバーパックをシンクの横のダストボックスに捨てる為立ち上がった。ぬるくなったラバーパックは弾力を失いルカオの手の中で伸びきって横たわっている。こうなってしまっては全く食べる気が失せるのは当たり前だった。
「さぁな。気にしたって仕方ないことだろう」
確かにルカオの云う通り、行ける権利を得るかどうかは分からなかった。身体検査の結果は極秘となって、レノ達自身に知らされることはない。何かしらの異変があった場合だけ、パソコンを通じて対処法が保健総合班から通知されることになっていた。レノは今年で十五だった。あと一年もすれば「MOTHER」に行けるかどうかが決定する。
「ルカオは興味ないの」
「どっちでもいいさ。此処の居心地だって悪くないからな」
「行ってきたような云い方するなよ」
「想像はつくだろう。通信学習の歴史で習った」
ダストボックスにラバーパックが捨てられた間の抜けた音が響いた。ルカオは戻ってくるとアクアドリンクを取り出して飲んだ。レノはそれ以上食いかかることもせず、黙って左腕のバングルを弄った。どんなに触ってもこれが指紋で濁るようなことはない。今も横のライトで白乳色の光を帯びている。
ルカオはレノに顔を近づけた。彼の睫は長く、整った鼻筋だ。
「ヘマするなよ」
小声でそう囁くと、ルカオは自分の部屋へと歩いていく。レノは彼を振り返る。
「何をだよ」
「分からないなら、それでもいい」
ルカオの部屋の扉が閉まり、それ以上問いただすことは不可能だった。
その夜レノはベッドスタンドの光の下で「MOTHIER」について思いを馳せていた。定期検査で自分の何を調べられているのか、大体予想は付く。要は身体の健康と生殖能力の有無だ。健康については自分が一番判っていると思う、だが生殖関連の学習をまだ何も知らされていないレノにとってそれは全く判断出来ないことだった。一度だけ自分の中をとても熱い感覚が襲いかかったのを覚えている。火照ったモノを抑える為にレノは自慰行為を半ば野性的な感覚で行った。その後は冷静さが襲い、そして羞恥と後悔の念に駆られた。それ以来そうしようと云う気はさらさら起きない。ルカオにそれが普通なのかを尋ねても見たかったが、彼の深い目を見ると到底云えそうもなかった。
ノックが響く、レノは我に返り声をあげた。
暗い部屋のドアーが開けられる音がした。闇の中に黒い人影が動く。暫くそれが誰か判らなかったが、発せられた声でルカオだと判る。
「寝れないのか」
レノは首を振った。ただぼんやりと考えていただけだ。ルカオの部屋まで物音がするとは思えない。何故彼がそう云って入ってきたのか不思議だった。
ルカオは白いシャツに濃紺のパンツ姿でドアーの傍の壁に寄り掛かった。ベッドスタンドの明りはそこまで照らすには遠く、ルカオの姿は闇に沈んで見づらい。唯白いシャツが少しの光を吸収して仄かなシルエットを示していた。
「俺は寝れない」
「どうして」
ベッドの傍までルカオは黙って歩いてくると、良いかと示してからレノの隣に座った。スプリングがぐっと沈み込む。
「お前、今何考えていたか当ててやろうか」
驚いたレノは顔を背けて、どんどんと身体が熱くなるのを抑えようとした。まさかとは思ったがもし自分が「あの日」の事を考えていたと知れたら、ルカオはきっと半分軽蔑したような笑みを零す気がした。
ルカオの低い笑い声が部屋の空気を震わせる。
「ほんと、判り易いな」
「何が」
「俺は聴覚が優れてる。学習で習っただろう、マイナスの『欠陥』を持つ子供もいるが、反対が特化する『欠陥』もある」
レノは恐る恐るルカオを見詰める。十二歳の頃ルカオと同室になり、彼の友人のスカイやラウルと仲良くなった。それまでのレノは六人部屋で生活をしていたが、元々積極性がないためか誰とも親しくはなれなかった。漸く心地の良い仲間を見つけたのに、アノ所為で友人を失うのは莫迦らしい程恐れることだった。
見た彼の眼は優しかった。今まで見たことのない位穏やかに見えた。だからこそレノにはそれが彼が「あの日」の全てを既に周知していて直、自分を憐れんでいるように見えた。自分がした低俗な行為をレノはまた恥じなければいけなかった。
「だから何ンなのさ。僕を莫迦にしに来たの」
「何ンでそうなるんだよ。俺はお前と同じ気持ちだ」
レノは眉を顰めた。ルカオは息を吐いて前に向き直ると「普通だぜ」と云う。レノはベッドで膝を抱えて長パジャマから突き出た自分の踝を見詰め、「普通なもんか」と不貞腐れた声で云う。暫く沈黙が続いた。レノは言葉を探すこともなく、唯正面の壁に映る二人の影を見る。一つの影が揺れ動く。だがレノは目を伏せたまま身じろかなかった。
「レノ、ソレは俺達に残された名残さ。生殖能力さえあれば誰もが陥る心理だ。そして愛する者がいれば尚更其の衝動に駆られる。もうすぐ学習する、それを習えばお前もきっとそんな変な清純を保とうなんて考えなくなる」
「ルカオは、そんな野蛮な行動をとって、何とも思わないの」
「思わないね、むしろ快感だ。野蛮だと思うならそいつを却って憐れむよ」
レノは反射的にルカオを睨みつける。ルカオは意に介さない表情でレノを見ていた。明らかな挑発だと判っていたが、レノは悔しさに喰ってかかる。
「スカイもそうだって、ラウルも」
「そうさ、スカイは承知だぜ。俺等は同室の時もあったんだ、一緒の秘密を交換した」
「スカイと」
レノの胸に小さな衝撃が走る。ルカオは構わず続ける。
「あいつから云って来たんだ、独りは怖いって。俺はスカイが好きだ、それを受けて無下に断る程冷酷な奴ぢゃない」
レノには理解出来なかった。唯、自分だけが周りに置いていかれ、いつしか自分が一人になるような恐怖に包まれていく。昼間見惚れたルカオの指が自分の頬に触れたので、レノは身体を弾ませた。ランプの光でまるでガラスのように光を放つルカオの眼に背筋がぞくりとした。ルカオはふっと眼を細めて自称気味な笑みを浮かべる。
「レノ、俺を独りにするなよ。お前に拒絶されたくはない」
レノはルカオの黒い瞳を見詰めるしかなかった。彼が自分に弱さなど言葉にして示したことなどない。どこか可笑しい。「どうしてしまったんだよ」と小さく呟いたが、「普通だ」とルカオは云ってレノの唇を塞いだ。
がっくりと身体中の力が抜けていく。だがルカオが自分の唇を吸い上げる度、下半身に熱が貯まるのを感じる。じわじわと広がる感覚が恥ずかしく、重い手を動かしてルカオを振り払おうとしたが、その手も易々と彼の指が絡まり封じられた。感覚はどんどん研ぎ澄まされやがて快楽が襲う。怖いとレノは思った。しかし緊張と恐怖とそして快楽で自分の身体はまるでラバァのごとくだらりとだらしなく力を失っている。ルカオは「怖くない」と耳元で呟いてレノをベッドにゆっくり押し倒した。ルカオの歪んだ笑みがどんどんと離れてとうとうレノの熱を持ったモノを咥える。レノは強い衝撃に身体を弾ませ今まで力が入らなかった両手でルカオの頭を掴む。「やめて、ルカオ」叫んだが彼はやめなかった。レノはそれから洩れる喘ぎを歯を食い縛って堪える。
「やめろよ、辛いだけだ」
ルカオは涼しい顔でそう云ってレノをまた咥え込む。レノは涙が溜まる目でルカオを睨むが彼は目を伏せたままだ。そうしてとうとう耐えられなくなったレノの口から声が漏れ、それと同時に目の前が白くスパァクする感覚に陥った。ルカオの細くしなった喉が動く。
途端に襲う気だるさでレノはベッドにぐったりと身体を横たえた。ぼんやりとした思考がどんどんと動き出す。レノは訳も分からず枕に顔を埋め嗚咽を漏らして泣いた。ルカオの顔が近づいてくるのが分かる。耳に軽く唇があてがわれたのが判った。ルカオの手がレノの背を撫でている。
「判んない、判んないよ。ルカオ。どうして君がこんなことをするの」
「したいと思った」
「何で」
「スカイも、お前も好きだから」
「それは僕に対して大きな驕りだ。僕は君にこうしてまでやりたくはなかったのに」
「じゃあ云い方変える。俺がお前にしたいと思った」
判らないとレノは声に出さずに云った。もう眠気と気だるさで思考も言葉も出てこない。
四角い部屋で、ランプに映し出される二つの影が大きく揺れる。
翌朝眼が覚めると、瞬時に作晩の出来事が頭を巡ったが、レノはそれを振り払うように健康診断の支度を始めた。クリーム色の半袖セーターに萌黄色のワークパンツを合わせる。長袖はバングルを嵌めた腕が目立って厭だった。それなら初めから見せたほうがいい。
自室から出ると、パソコンの側面が光っていた。レノは電源を入れ、データを確認した。
電子メールの受信ボックスに「To 102104MT RENO From【MOTHER】」と表
示されている。母親からのメールだった。
レノは読みたい気持ちに駆られたが、既に身体測定の指定時間ぎりぎりであった為、読むのを諦めパソコンを閉じた。辺りを見回したがルカオの気配はなかった。
廊下は既に空調機システムが作動して、夜のような寒さはない。廊下の天井は真っ白なドーム型をしている。照明はなく、壁自体が発光して廊下を明るく照らし出していた。周囲の壁はドアーが沢山並んでいる。ドアーの中央には其処に住む子供のコード番号が書かれていた。時間に余裕がない為か、今回指定された十七号棟施設の子供が自分だけだったのか、廊下には他に誰もいない。レノはオート・ペデに乗って指定の施設を目指した。床部分に嵌め込まれたベルトコンベアー状のオート・ペデを使えば、通常の歩く早さの倍以上の速度が出せる。また指定の靴の底についているダイヤルを合わせれば、摩擦力と重力を調節出来、そのスピードは自在に操ることが可能だ。レノは靴のダイヤルを3に合わせる。オート・ペデに乗るだけでは心もとなかった。少し急いだほうがよい。
ステーションの廊下の殆どが大きくカーブしているのはステーションの構造上螺旋を描くように作られているからだ。直線が現れるのは、各号施設同士を繋ぐ長い陸橋形の廊下だけだ。レノは滑るように廊下を走った。保健総合班施設は十七号棟施設から陸橋を一つ渡った場所に存在している。
数分走ったところで陸橋が現れた。陸橋は建物同士を繋ぐ接続部分として吹き抜けになっており、上には同じような陸橋がいくつも見えた。下にも同じく見られるが、何処が天井で、何処が最終階なのかは、下は暗く、上は行き場をなくした光が溜まっている為に全く見えない。安全ネットが陸橋の回りを囲ってはいるものの、レノは此処を通る度に足が竦んだ。
「レノ」
其処を渡ろうとしていた時、後ろから呼び止められた。レノが振り返ると、スカイが立っていた。薄水色のパーカーに白のハーフパンツ、紫色のハイソックスを穿いている。栗色の髪の毛は切り揃えられたばかりのようだ。
「君も健康診断」
「スカイもか。十七号棟施設は僕だけかと思ってた」
「レノが見えたから、ダイヤルをあげて走ってきた。やっと追いついたよ」
スカイは片足を上げて、ダイヤルの数字を落とした。レノはワークパンツから小型のウォッチを取り出す。時間はない。
「珍しいな、こんな遅いなんて。君はいつも時間に正確じゃないか」
「アラームが鳴らなかった。その所為だよ」
スカイは腕のツール・ウォッチを示した。彼もルカオ同様、これをつけている。
「ルカオも昨日、それでぶつくさ云っていたよ」
「彼のも鳴らなかったの」
スカイは怪訝そうに眉を顰めた。レノは肩を竦めて見せる。
「単なる機械の故障だろう。壊れれば中央監査班に云えばいいんだ」
レノは其処まで云って走り出した。これ以上の遅れは危ない。陸橋を渡りきって後ろを振り返るとスカイもついてきているのが見えた。彼の表情は硬い。機械の故障が其処まで深刻なことなのか。確かにアラームが鳴らないのは厄介なことかもしれないが、ならば自分と同じように携帯ウォッチを持てばいいことだ。レノはそう考えながら施設へと足を速めた。
身体検査といっても、医者や看護婦がいる訳ではない。保健総合施設の中はパイプが幾つもついた、カプセル状のベッドが規則正しく並んでいる他は、奥に着替え用のスペースが設けられているだけだ。指定されたペーパースーツを着てベッドに寝そべるとカプセルの蓋が自動的に閉まり、弱い睡眠ガスが噴射される。ここで出される情報は全て極秘なため、彼らは寝かされるのである。そうして彼らが寝ている間に全ての検査が行われる。
レノは入り口付近のパソコンに、自分のコードネームと番号、指紋をつけて中へ入った。既に多くのカプセルの蓋が閉まっている。カプセルの蓋は全て不透明な為に、誰が入っているのかは全く分からない。レノはペーパースーツに着替えると近くのベッドに腰を下ろした。スカイも用意が出来て、その横のベッドに腰をかける。彼は此方を見ていた。
「レノ。あの、ルカオは昨日どうだった」
彼は妙におどおどとした態度で、レノに尋ねた。レノは白を切った。
「どうって。夕食を食べそびれた所為で苛立っていたみたいだ」
スカイは困ったように口を動かした。何かを隠している態度は見え見えだ。
「そう、それだけ。他には」
「なンだよ。」
スカイの眼は落ち着きがなく、動く。レノはそれが不愉快だった。スカイがルカオと仲がよいことは認めるが、自分の知らないことを隠されるのにレノは激しく苛立った。それが嫉妬なのか、どちらに対するものなのかは分からない。それでなくても昨日はあんなことがあった。スカイが知っている訳もないが、詮索されているようで少しの恐怖感もあった。
「レノ」
「ルカオが気になるなら、直接聞けばいいだろう」
スカイはレノの強い口調に驚いたのか、目を瞬いて此方を見た。彼の下がった目じりは中性的な顔立ちにはよく合っている。レノは強く云い過ぎた気がして俯いた。
ペーパースーツはごわごわして着心地が悪い。足元の床は濁った浅葱色をしている。
スカイは目元を緩め、笑顔を作った。
「ごめん、そうだね。悪かった」
スカイはそのまま寝そべった。自動的に蓋が閉じられ、彼の姿は見えなくなった。レノはしばらく彼の入ったカプセルを見詰めていたが、やがて自分も寝そべり、目を閉じた。
レノが目覚めると、既に周りには誰もいなかった。全てのカプセルの蓋は開いており、スカイの姿さえ見当たらない。レノは慌てて起き上がる。左二の腕のバングル以外、何も身につけていない。ペーパースーツも見当たらなかった。レノは驚いてベッドの下の衣服入れの中を覗いた。自分の服はきちんとたたまれて其処に収まっている。安堵の息を吐くと、レノは素早くその場で服を着る。ポケットの小型ウォッチを探り出し、時間を確認した。既に夕食時間が終わって二十分は経過している。レノは驚いた。どんなに遅くとも昼近くには終わるものだと思っていた。こんなことは初めてだった。睡眠ガスが効きすぎたようだ。レノは慌てて保健総合施設から駆け出し、十七号棟施設へ急いだ。夕食時間を過ぎてもしばらくの間は昼の空調のおかげで暖かさは残っている。しかし金属の壁ではその暖かさは十分ともたずに冷え切り、廊下の温度をどんどん下げていく。既に二十分を経過した今は、間に合わないかもしれない。すぐ済むことだと思い油断した。レノは防寒用ジャケットを持ってきていなかった。
廊下に出ると、途端に寒さに足が竦んだ。バングル部分がもり上がるのが厭で、長袖を着なかったレノは、半袖から突き出た肌に、直接切るような寒さを受けた。ここから陸橋を渡るのはそう大変なことでもないが、その後は上り坂が続く。来た時より時間がかかるのは当たり前だ。尋常ではないこの寒さの中、長時間薄着で出歩くことは自殺行為だった。靴のダイヤルを上げれば、もう少し早く走れるのだが、寒さで凍結したオート・ペデの上を走るには相当の技術が必要だ。レノには凍結上を上手く走る自信がなかった。その上、転べばかなりの衝撃になる筈である。ジャケットの必要性を痛感し、レノは唇を噛んだ。
レノはダイヤルを上げることはせず、そのままオート・ペデの上を滑った。夕食から帰ったルカオが、自分がいないことに気付いて探しに来てくれることを祈った。スピードが上がるにつれて、吹く風が強くなり、レノの頬や腕の体温を奪った。既に指先は悴んで感覚がなくなり始めている。吐く息は白く、視界を悪くした。
陸橋を渡る頃には、もう殆ど体温が奪われていた。
レノは渡る手前で、下を見る。
陸橋の下からは強く風が吹き上げ、安全ネットを揺らしている。橋の両端には手すりがついておらず、ただ白い陸橋が真っ直ぐに向こうの棟へと続いている。普段は真っ直ぐ進むオート・ペデに任せておけばいいから、落ちることはない。しかしながら凍結したこの状態で渡るのはかなり億劫になった。加えて自分の足はもう殆ど感覚がなくなっている。
レノは息を吸った。
この場で止まっている訳にもいかない。レノは一息に渡りきることにした。靴のダイヤルを最大に合わせる。スピードを加速すれば直線を一気に突ききれる計算だった。しかし走り出した瞬間、レノは自分の過ちに気がついた。下から巻き上がってきた風の抵抗が予想以上に強く、レノは反射的に目を瞑ってしまったのである。次の瞬間自分の足が縺れ、身体を床に強かに打ちつけた。激しい衝撃が身体中走り、レノは地面を滑る。両手で床を掴んだが、摩擦力が小さいオート・ペデの上ではそれも空しく、レノは空中に放り出された。レノは心臓が冷たくなるのを感じた。何が起きたか理解出来なかったが、身の危機は悟った。無重力感が彼を包み、彼の前をゆっくりと白い陸橋の側面が通過していく。レノはそのまま意識を失った。
冷たいものが唇に触れ、喉の奥をそれがそのまま通り抜けていったような感覚を感じ、レノは目覚めた。ベッドの上に横たえられている。働かない頭で、辺りを見回した。クローゼットと小さな机と椅子、箱に詰められた本。其処は見慣れた自分の部屋のようだ。部屋の隅にある背の高いスタンドランプが室内をぼんやりと映し出している。
レノはその中にルカオが腕を組んでたたずんでいるのを見つけた。彼の緑色の長袖は、ぼんやりとした視界の中に、強烈な印象を与えた。ベッドから起き上がろうとすると、身体中に鈍い痛みが走った。見ると右腕には手首から肘にかけて痣が出来ている。掛けられたタオルケットを剥ぐと、脚にも軽い擦り傷と痣が出来ていた。ルカオの口元は歪んでいる。既にあの日のことはなかったかのようにいつもと変わらない調子だ。
「身体検査に行って怪我するなんてとんだ間抜けだな、レノ」
やはりルカオが自分を助けに来てくれたのだと、レノは思った。しかし莫迦にされたことが腹立たしく、ルカオを睨みつけた。
「麻酔が切れるのが遅かった所為だ。気付いたら夕食時間を過ぎていた」
「だから、ヘマするなって云ったんだ。軽いとは云え全身打撲だ」
ルカオはベッドの側の机から椅子を引き出して腰を下ろすと、レノを見詰めた。彼の瞳はスタンドランプで桜赤色を帯びている。レノはそれに惹かれ、彼の顔に見入った。ルカオはそれを知ってか知らずか、話を続ける。
「何の為に小型ウォッチを持ってるんだよ。検査が夕食前に終わるのが分かっているならアラームをかけておくのが常識だ。冷え切った廊下は命取りだって云うことが分かっていないからこうなる」
レノは素直にその言葉を受け止めた。確かに麻酔はすぐ切れると思い、油断していた。ジャケットも持たずに出てきた。何処を取っても悪いのは自分だった。ランプの光で、白い壁に大きく二人の影が浮かび上がっている。
「どうして、分かったの」
「何が」
ルカオは手のツール・ウォッチを弄っている。電子音が二回部屋に響いた。レノは横目で俯いたルカオの横顔を眺めた。長い睫毛が白い頬に影を落とし、黒い髪は艶やかに光を反射している。ルカオの両親はどんな人だろうとレノは思った。ルカオは顔を上げる。
「何が」
もう一度ルカオがそう云った。レノは見惚れていた恥ずかしさで俯き、口の中でもごもごと話した。
「どうして、僕がいた場所が分かったのかなと思ったんだよ。確か、保健総合施設から十七号棟施設への陸橋から落ちた筈だ」
ルカオは息を吐いた。
「そうだ、安全ネットの上で失神してたんだ」
レノはあの時の感覚を思い出し、また心臓が一瞬冷たくなるのを感じた。ひやりと額に汗を感じる。
「お前を探しに出たが、何処にも見当たらない。まさかと思って陸橋の下を覗いたら、案の定、ネットに引っ掛かってたんだよ」
レノは安全ネットと陸橋の距離を考えた。少なくとも上下に一メートルは間隔があいていたように思う。ルカオはどうやって自分を引き上げたというのだろう。レノの怪訝な表情を見て、ルカオは笑いを零した。
「間抜け。いいか、彼処に何故手摺りがないと思う。ネットを巻き上げた時に邪魔になるからだ。手摺なんてつけてもオート・ぺデで通過する俺たちが普通落ちるなんてヘマしないから無意味だしな。中央監査班にツール・ウォッチで連絡を取って、安全ネットを巻き上げてもらったんだよ」
レノは目を伏せて、納得したと頷いた。ルカオはツール・ウォッチに目を落とした。
「朝食の時間だ」
「そんなに、眠っていたの」
「水分は取っておけよ。何ならラバーパックをくれてやってもいい」
ルカオはまた皮肉な笑いを零す。
レノは喉を押さえた。渇きはまるでない。それと同時に目覚めた時の喉を通り抜けた冷たさを思い出した。あれは紛れもなくアクアドリンクの感覚だった。レノは部屋を出て行こうとするルカオを慌てて呼び止めた。
「ルカオ」
「何だ」
「アクアドリンク、飲ませて、くれた」
レノの問いかけにルカオは眉を寄せた。
「其処まで面倒見れるか」
扉が閉まり、彼の姿は見えなくなる。レノはあの冷たく後を引く感覚が気の所為だとは思えず、ぼんやりと閉じたドアーを見詰めていた。
昼近くになってレノはようやくベッドから起き上がる気になった。ゆっくりと体を起こす。身体中が縛られているように手足は痛みを伴いながらぎこちなく動いた。重い身体を引きずって部屋を出ると、レノは冷蔵庫からアクアドリンクを取り出して飲む。朝から何も口にしていないレノの身体に、アクアドリンクはするすると落ちていった。
やはりこの感覚だ。
レノは冷蔵庫いっぱいに詰め込まれた、ルカオのラバーパックの一つ取り出して噛んだ。途端口内に薬品の味が広がる。噛み千切られた破片が口の中で徐々に弾力を失っていく感覚が気持ち悪い。レノはアクアドリンクでそれを無理やりに流し込み、残りはダストボックスに投げ入れた。
部屋は静まっていた。
ラウンドテーブルに着くと、パソコンの電源を入れる。受信ボックスを開くと、昨日見た母親からのメールがまだ其処に未開封のまま置かれている。レノは一度息を吐くと、そっとキーを押してメールを開封した。
「愛するレノ。貴方からのお手紙、拝見しました。元気そうで何よりです『MOTHER』との通信電波が悪く、貴方から沢山の手紙が届いても、余り返事が出せない状況なのです。貴方のことだからとても心配しているでしょうが、安心して下さい。手紙を出せないことを私も心苦しく思っています。いつでも貴方を思っていますから、そのことは忘れないで下さい。」
手紙はそれだけだった。いつもの返事の半分もない。しかしレノはそれで十分に満足し、息を吐く。母親からのメールが途切れて既に三ヶ月が経過していた。その間レノは毎日のように彼女からの電子メールを待ち続けた。ようやく来た返信が嬉しくてたまらず、短いその文を何度も読み返す。
急にドアーが開いてルカオが姿を見せた。気配は全く感じられなかったが、彼は自室にいたようだ。レノは驚いて、反射的にパソコンの蓋を素早く閉める。一時的な終了を知らせる電子音が部屋に響いた。ルカオはレノを一瞥して椅子に腰を下ろした。自分のパソコンを開く。
「随分な慌てようだな。誰もお前の母親に興味なんかないぜ」
ルカオはキーボードを叩いた。レノは俯く。レノは幼稚な自分の行動が恥ずかしく、この場を立ち去りたかったが、そうすればまたルカオに莫迦にされることを案じた。レノが黙っていると、ルカオが先に口を開く。
「身体はどうだ」
ルカオは画面に顔を向けたままだ。青白い光が、彼をより病弱に見せる。そのくせレノより遥かに運動能力が発達している。
テレビジョンは「MOTHER」の中心都市【metropolis】を映している。この間の映像とは打って変わり、高い高層ビルが空にそびえ、その周りを鳥のように低空飛行専用の飛行機が飛び回っている。サァチライトが幾つも強烈な光を発生させ、暗い闇を取り去っていった。
「重い」
レノはバングルを触った。部屋の白乳灯の所為かバングルは少し赤みを帯び、白金色に近い色を放った。ルカオはパソコンを打つ手を止めない。
「二、三日は傷むだろうな」
「まさか陸橋であんなに風が巻き上がるとは思わなかったんだよ。その上、凍結したオート・ペデだ。ルカオはよく平気だったね」
「どうして毎日トレーニングマシーンを使ってると思う。凍結したオート・ペデのほうがスピードが増して面白い。陸橋なら三秒で渡りきるぜ」
「どうかしてる」
レノは呆れて肩を竦めて見せた。
アクアドリンクを飲む。少し温くなり始めている。
ルカオのツール・ウォッチが二回電子音を発した。
レノは立ち上がると、シンクに向かう。棚からグラスを取り出し、氷を取り出して入れた。ルカオが後ろでパソコンを閉じた音が聞こえた。
「ルカオ。ツール・ウォッチ直ったのかい」
「昨日はたまたま調子が悪かっただけだ。壊れてはいない」
レノはレモンを絞った。鼻を酸の香りが衝く。その中に飲みかけのアクアドリンクを入れると、氷が軋む音を発てた。
「そう云えば、昨日スカイも鳴らなかったと云っていた」
レノが振り返ると、ルカオはちょうど、冷蔵庫からラバーパックを取り出したところだった。ルカオが一瞬、目を見開いたのをレノは見逃さなかった。しかしルカオの表情はすぐに元へ戻る。レノは怪訝そうにルカオを見詰めた。
「なンなの」
「何が」
「何か隠してる」
レノはラウンドテーブルにドリンクを置き、座った。ルカオは冷蔵庫に背を預け、黒のハイソックスに包まれた細い脚を交差させた。口元は微笑を含んで歪んでいる。
「何を隠してるって」
レノは食い下がらなかった。ルカオの自信に溢れた態度がよりレノを苛立たせた。
「スカイはルカオのウォッチが壊れたことをしきりに気にしていた。理由を聞いても濁すだけだ。何か隠しているんだろう」
ルカオは堪えきれずに低く小さな笑い声を発てた。
「莫迦、何を嫉妬してるんだ」
「嫉妬ぢゃない」
「嫉妬だろう。仲間に入れてもらえないからやっかんでる」
ルカオはそう云ってラバーパックを噛んだ。レノはそれを、眉を顰めながら見た。
「よく平気だな。アクアドリンクなしじゃ食べられたもんじゃない」
「俺には殆ど味覚がないんだ。何を食べても同じさ」
ルカオはそう云ってまたラバーパックを噛み千切った。レノは始めて聞いたその事実に 驚き、ルカオを見詰めた。
「そうなの」
「遺伝子の欠陥だよ。俺達は生殖機能に関する一切の遺伝子を破壊されている。時たま其処から狂いが生じて他の場所にも異常が出て来る生徒もいるんだ。習っただろう」
「そうだけど、まさかこんなに身近にいるとは、思ってなかった」
「あの夜だって、欠陥の話はしたはずだぜ。そこまで余裕なかったか」
茶化す口ぶりでルカオは笑い声を発てる。レノは一度顔を紅潮させ食い掛ろうとしたが、すぐに勢いを失う。急激に熱く膨張した何かがレノの胸元から喉の辺りを圧迫し始める。それを追いやる為に、手元のグラスを掴む。結露したグラスは火照った手に気持ちがいい。一口飲むとアクアドリンクの冷たさに混ざってレモンの強い酸味が口に広がった。少し入れ過ぎたようだ。
ルカオは額にかかる長い前髪を煩そうにかき上げる。細い髪はさらさらと微かな音を発てそうだ。緑色の長袖はやはり景色の中に目立っている。部屋の中は静まっていた。窓がない分、部屋は点在する幾つかのスタンドランプで一定の明るさを保つ。夜になったと分かるのは電力の供給が落ちて部屋が少し薄暗くなった時だった。
「ツール・ウォッチはその為のだ」
しばらくの沈黙を破ってルカオは云った。冷蔵庫から離れると、レノの横に腰を下ろした。ラバーパックの匂いが微かに此方まで漂ってきた。
「全てのデータは中央監査班に集められる。俺は常にその欠陥の具合をツール・ウォッチを通じて送らなきゃならないんだ。スカイもそうだろ。あいつは何かと心配性だから」
ルカオは目を伏せた。レノは子供じみた自分の態度が恥ずかしく俯く。ルカオの口ぶりはルカオとスカイの親密さを現しているように感じた。高ぶった感情を抑える為に小さく深呼吸を繰り返した。口の中が渇いている。アクアドリンクは既に飲み干してしまった。
突然レノの頭に温かいものが載せられた。
ルカオの手だった。彼の手は酷く暖かい。レノはそれが心地良く、俯いたまま目を瞑る。何度も彼の手はレノの髪の毛を撫で付けた。レノは戸惑う。彼が自分を慰めたことなどこれまでになかった。こんなにも暖かい手だとも、知らなかった。見上げると、レノの目の前に泣きそうなルカオの顔があった。目が潤んでいる訳でも、眉を顰めている訳でもない。じっと此方を見詰めたルカオの顔。しかしレノには、それが彼の泣き顔に見えたのだった。「なぁ、レノ」
ルカオが云う。レノはルカオの表情が一転して意地の悪い顔になっている事に気がついた。こう云う時は大抵自分を莫迦にするときだ。レノは身構える。
「オトナってどういうものかな」
ルカオの問いにレノは戸惑った。明確に大人と云い切れるものをレノは見たことがない。あらゆる統制がコンピューターで行われるこのステーション内で「大人」と云うものを実際にレノ達は見たことがない。全てテレヴィジョンの映像と通信学習の文章のみで想像する以外に術がなかった。
「こう云うこと、昼間でも平気でするの知ってるか」
ルカオは云うや否や、力任せにレノをテーブルに押し倒し覆いかぶさるようにして、レノの唇を吸った。レノは驚いてルカオを押しやろうとするが彼の力のほうが数倍上だ。彼はレノの服の中に手を忍び込ませ、レノの胸へと指を這わせる。レノは羞恥で顔を紅潮させ叫ぶ。
「ルカオ、行き成りなンだよ。やめろ」
レノがルカオの腕に爪を立てると、ルカオは漸くレノから離れ低く笑い声を洩らした。
「なんだ、レノ。お前こんなことで顔赤くして此間はもっと凄いことしたくせに」
「なんだよ、何で行き成り」
レノはそれ以上言葉が出てこなかった。その代わりじわりと熱い涙がこみ上げた。今まで驚きと怒りで忘れていた身体の痛みが全身に蘇る。もう一度言葉を発しようとしたが何と云って良いか分からない。ルカオの行動も、何故自分に接吻したかも理解できない。
「オトナの真似、しただけだろ」
「そんなんじゃないよ」
「何が違うんだよ、昔はみんな生殖能力があってこうやって子供が出来た」
「今は違う、この行動の所為で人口が増えすぎて僕等は人工的に生殖能力を破壊される。それで人口統制も可能なんだ。今の大人はそんな野蛮な考えじゃない」
「野蛮?まだ云ってるのか。レノそれ本当にそう思ってるのか、少しは俺の接吻に感じただろう。前だって」
レノはルカオが云い終わる前にその頬を思い切りひっぱ叩いた。自分の手も痛みを生じた。耐えていた涙が一気に溢れる。
「ルカオ、僕分からないよ、どうしてこんな」
嗚咽で何も云えなくなる。ルカオはそれを見て目を伏せた。
「ほんと泣き虫だな、お前。やり過ぎた、ただお前が、羨ましかったんだ」
ルカオはそれだけ言うと、自室へ戻って行った。レノはまだ心臓が激しく鳴るのを感じていた。ルカオの唇は熱かった。一瞬見せた泣きそうなルカオの表情、その後の一転した意地悪な笑み。全く理解が出来ない。一体彼は自分の何が羨ましかったのだろう。自分のほうが余程ルカオを羨望の目で見ていると云うのに。レノは止まらない涙に困惑しながら気分が治まるまでその場で嗚咽をあげた。
ルカオが云った通り、二、三日経った頃にはレノの体も回復し始めていた。腕や脚の蒼痣も心なしか薄くなったように思われる。しかし相変わらず体が鈍い痛みで思うように動かず、レノはこの数日間は部屋の中で過ごしていた。食事も仕方なくルカオのラバーパックで済ませていた。走れない訳でもなかったが、オート・ペデに乗るのは億劫だった。
レノはジャケットを着込んだ。夕食時間終了までまだかなりの時間はあったが、今のレノにとって、あの事故は教訓にせざるを得ない。ルカオを誘おうと思ったが、やめた。ドアーの前で一度立ち止まり、ルカオの部屋を見つめる。何度か入った彼の部屋はレノ以上に無機質だ。在るのは白いシーツが丁寧に皺もなく掛けられたベッドと、備え付けのスタンドランプ、幾らかの本がベッド脇の箱の中にきちんと納められているだけで、他には何もない。彼らしいと云えばそうなのだが、レノにはそれが何処か哀しく見えた。
靴のダイヤルが1であることを確認して、外へ出た。ゆっくりと廊下に足を踏み入れると、オート・ペデは思いのほかゆっくりとレノを乗せて走行した。レノは時折、足を蹴って加速をしたが、カーブになる度にその速度をまた緩めた。食堂棟付近まで来ると、
食事を早々に終えた生徒達が、レノとすれ違っていく。その中に見慣れた顔を見つけ、レノは呼び止めた。
「ラウル」
栗色の巻き毛の少年はレノの声に気が付いて方向を変えると、レノの横へ寄った。彼はレノを見て笑った。鼻の頭から頬にかけての薄茶色のそばかすが目立つ。
「もうジャケットを着てるのか。暑いだろう」
「寒いよりはマシだ」
レノは肩を竦めた。ラウルは、今度は声を発てて笑った。
「スカイに聞いたよ。大変だったんだって。全くドジったものだね、夜のオート・ペデなんて考えただけでぞっとする。初めに聞いた時、スカイが真っ青になって部屋に入ってきたから、本当、何事かと思ったさ。彼は目に涙を溜めながら云ったよ。ルカオは笑いながら話していたけれど、あの時僕はレノを待っていてあげればよかったって。僕は彼を慰めたけど、彼はずっと落ち込んでいたよ。彼は、自己責任が強過ぎるんだよ、そう思わないかい」
ラウルは流暢に口の回る少年だった。早口でまくし立てて話しているが、不思議とそれが苦痛ではない。安定した一定の声のトーンがレノの耳には気持ち良かった。
ラウルはスカイと同室で、今年十六になった。しかし「MOTHER」永住権を得る年齢に達したにも関わらず、中央監査班からの連絡は一向にない。「MOTHER」に行くこともまだ決まっていなかった。彼はレノよりも遥かに、「MOTHER」に行くことを望み、最近では毎日の中央監査班への電子メールに、いつ自分が「MOTHER」に行けるのかを訊ねていた。
ラウルはまだ喋り続けている。
「僕は云ってやったんだよ。そんなに自分を責めるべきじゃない、君にはどうしようもない運命だってあるだろう、それを全て自分の思うように出来ると思う方が可笑しい。君は何も悪くないんだって」
レノはぼんやりとそれを聞いた。ラウルは構わず続ける。
「最近彼は一段と自分を責めるんだ。青い顔して、何かに怯えている。僕はその度に聞いてあげようとするんだけれど、彼は特有の笑顔を見せるだけなんだ。何度それで僕が腹を立てたか、判んないよ」
レノは保健総合施設に向かう途中を思い出した。陸橋を渡っていた時の彼の硬い表情が浮かぶ。自分の遺伝子欠陥が不安なのだろうか。次にルカオの顔が浮かんだ。レノは考えたが、答えがある筈もなく、無駄なことだと悟った。そうしてラウルが話しているのを聞いているうちに、二人は食堂棟の前までやってきていた。ラウルはそれに気付くと、また笑い声を発てた。
「ごめんよ、喋っていたらまた戻ってきてた。最近、知り合いに会わなくてさ、誰かに話したくて仕方なかったんだ」
「会ってない」
「検査に回されることが多いんだ。気付いたらそれで一日が潰れてるなんてこともあるんだぜ。もうすぐ『MOTHER』に行けるのかもしれない」
ラウルは八重歯を見せて笑う。レノは彼を羨ましく思った。
ルカオが提案を持ちかけてきたとき、レノはシンクに溜まったグラスを洗っていた。レノはテーブルに着き、携帯ウォッチで日付を確認する。
「まだ一カ月経ってない」
「だから何ンだよ」
ルカオは意に解する様子もなくテーブルに腰掛ける。
レノは彼を責めることはもうしなかった。蒸し返したくもない。ルカオもまた謝ることも、悪ふざけもしなかった。
彼が云い出したのは、ラインボードの勝負だった。トレーニングマシン施設と隣接している遊戯場の一つにラインボードと呼ばれる場所がある。オート・ペデを応用して作られたグラウンドを走ると云う至ってシンプルな遊びだが、靴のダイヤルの上げ下げで難易度を変えたり、グラウンド自体の形状を変えることでその遊戯の仕方は多様性があった。レノ達は時折其処で賭けをする。勝者は一人のみ、一周のタイムで競う。敗者は勝者に支給される一番人気の菓子パルカを渡さなければならない。支給される即席食品のラバァ・パックと違いその菓子は月に一度だけ支給される。さっくりとした食感の菓子の上には光でてらてら光る程たっぷりと白乳蜜が塗ってある。レノ達はそれを食べるのを我慢していつもこの賭けに使っているのである。
前に勝負をしてからまだ二週間も経っていない。前回はルカオの圧勝だった。何か条件をつけて勝負をしなければ大抵は彼の独り勝ちになってしまう。
「前の菓子を全部食べたの」
「いや、燃やした」
レノはテーブルでツール・ウォッチを弄る彼に詰め寄る。
「燃やした。パルカを。全部かい」
「ああ、そうさ」
「正気の沙汰じゃない」
声を荒げるレノに対して、ルカオは心外だと云わんばかりに苛立った表情になる。
「俺の菓子だ。何に使おうと関係ないだろう」
「僕達はパルカを食べたいのを必死で耐えたんだぞ、燃やすぐらいなら返せよ」
「勘違いするなよ、燃やすのだって立派な用途だ」
「燃やす用途、何の為に」
「何でもかんでも大声で云うなよ、間抜け。パルカはちょっと変わった元素から作られているの知らないのか」
そんな話は初めて聞いた。学習でだってパルカのことは何も習わない。他の友人から聞いたこともなかった。レノは半信半疑の眼をルカオに向ける。ルカオは呆れた様子で黙って此方を見るレノに肩を竦めた。そしてテーブルから勢いよく飛び降りると、レノに部屋へ来いとと云う。
レノはそれに従った。変わらず簡素なルカオに部屋。レノを中に招くとベッドに座るよう促す。深い紅玉色のガラス容器をルカオは引出しから出してレノの前の簡易テーブルに置いた。レノはその容器を繁々と見る。深い色は光を反射して赤い影を落とす。角ばった場所は研磨され丸いフォルムをしていた。それ自体が飴のようにとろりとした光をその側面に溜めている。ルカオは部屋の電気を最小限に落とす。
ルカオは渋々と云う顔だ。「最後の一つなんだ」と云ってその中にパルカを入れる。ガラスにパルカがぶつかる高い音がした。ルカオはそこに燐寸の火を近づける。すると目の前の容器の中でパルカが勢いよくスパァクして発光し出す。紅玉色の中で藍い炎を上げる。側面から見ると炎は紅玉と藍が混ざり合い深い臙脂に変わる。立ち上るパルカの蜜は熱を受け一段と甘い香りを放つ。レノがそれに夢中になっているのを見てルカオは得意気に「どうだ」と問う。レノは不思議なその炎を見詰めたまま云う。
「こんなの初めて見た。炎だと云うことすら忘れそうだ」
「だろう。こいつの元素の中には炭素が存在しない。だから黒く焦げることもない。空気中の酸素と結び付く元素は微量の水素か酸素そのものだ。燃やし続ければ跡方もなくなって終わりだ。味覚障害の俺には一番楽しめる方法だろう」
確かにとレノは思う。こんな魅力的な使い道があるのなら味覚がある自分でもやりかねない。唯気になるのはこの二週間足らずでルカオがこの全てを燃やし尽くしてしまったと云うことだった。配給が月に一度だと云うことは彼も承知だし、一人六個もらえるパルカの全てをレノのほかスカイとラウルからも徴収した筈だ。毎日使っても簡単に底をつくものでもない。
「ルカオ、どうしてこれを全て使ってしまったんだい。あんなにあっただろう」
レノがルカオを見上げると、彼は黙っていた。パルカの光とガラスの光、どちらも映すルカオの肌は複雑な色をしていた。
「何だって、良いだろう。俺の勝手だ」
「次に賭けるんだったら僕にだって聞く権利はある」
「権利?だからこうして用途を教えてやった、これ以上文句は云わせないね」
「また直ぐに使われた堪ったもんじゃない」
「煩い奴だな、使いたいから使った。それ以上あるか。そんなに云うならお前が勝てば良いだろう、万年負けてばかりだけどな」
「はぐらかすなよ」
「スカイとラウルには話してある、今日の午後だ」
「二人に云うぞ」
「何を」
「この使い方、きっと二人も知らないんだろう」
ルカオは途端に笑いだす。レノは顔を紅潮させる。
「そんな訳ないだろう、二人とも承知でこの賭けに参加してる。何ならどちらにも聞いてみたら良い」
レノは云い返せずただルカオの顔を見る。ルカオは炎に目を落としている。色が青みを強くした。部屋はパルカの香ばしい甘い香りに満たされている。余りの心地よい香りに目を閉じれば寝てしまいそうになる。
「出てけよ」
ルカオが不意に云う。また沈黙が続いた。レノにとって次第に心地よかった空間が息苦しいものに変わる。ルカオの顔をもう一度見た。ルカオも此方を見る。藍い炎を映した目は有無を言わさない。レノは溜息を吐いて立ち上がると、ルカオの部屋を後にした。
午後、四人は一七号棟施設から食堂棟方面で待ち合わせ、揃って遊技場へ向かった。レノの横を走るラウルは上機嫌のようだ。一番向こう側を走るスカイを見たが、彼は既に穏やかな顔をしていた。それを見てレノは安堵の息を吐く。
「今日は何賭ける、またパルカ」
ラウルの問いにレノは肩を竦める。
「残念ながら僕はもうないよ、全部ルカオに捕られた」
「人聞きが悪いことを云うなよ、お前が勝手に負けたんぢゃないか」
ルカオは意地の悪い笑みでレノを見る。
「だけど歩が悪すぎるよ、ルカオ。僕等は君の身体能力には敵わない」
スカイはレノをフォローするように云って苦笑を洩らす。すかさずラウルも同意と頷く。
「幾ら練習したって無理だよ。僕もスカイも練習しに何度も行ってるんだぜ。あんなカーブを高速で曲がれるのは君ぐらいだ」
ルカオはレノを得意げに見る。
「良い友達を持ったな」
「どう云う意味さ」
レノが食い掛ろうとするのを、ラウルが腕を引っ張って宥める。
「今の時間を借りだしたのは」
「僕だよ。今から一時間は僕等貸し切りだ」
ルカオとスカイはどう云った手順でゲームを始めるかを話し始めた。レノはオート・ペデを蹴っては加速し、直ぐに踵でその速度を落とすという行動を繰り返していた。ラウルが小声でレノに話しかける。
「喧嘩、したのかい」
レノはラウルに目配せすると、ラウルはくすくすと肩を震わせる。
「ラウルはパルカの他の用途、って知ってる」
「他の?食べる以外にってこと」
ラウルが目を瞬いて、聞き返してくるのを見てレノはやはりと思う。レノは眉を顰める。
「彼は巧妙に嘘をつく。自分は近しい距離を好まないのに、僕に必要以上に近づく。僕が彼の距離感に入れば逃げる。その癖それが酷く気に入らない顔をいつもする」
ラウルは笑った。
「彼らしい」
「らしいの問題で済めばいい。毎回ペースをめちゃくちゃにされてみろよ」
「それは多分、ルカオもそうなんじゃないかな。故意的に彼はやっているんぢゃない、レノだと距離を許してしまうんだ。そして気付く、これ以上は駄目だ。距離を広げなけりゃって」
「そんなの、勝手だ」
「レノ、彼だって完璧じゃない。傷つくのが怖い事だってあるだろうし、実際傷だってある。君が近づいた距離はきっとその傷がある場所だったんじゃない」
「知るもんか、そんなの」
レノは口を歪めた。そうは云ったがレノも心の中では分かっている。だから強く云えないことにこんなにも苛立ちが募る。
施設に着き、スカイがキーボードにパスワードを打ち入れていく。今回はルカオにハンデ距離が加えられた。八〇〇mのサークル状のオート・ペデを三周だがルカオはそこを五周走ってかつ他の三人に勝つと云って見せた。中に入るとそれぞれ腕と脚にサポートを巻く。ルカオがつけないのはいつものことだ。
「今回は何を賭ける」
レノが脚にサポートをつける為地べたに座っていたらルカオが話しかけてきた。他の二人は残りのパルカを賭けるらしい。レノは考えた。だが自分達に支給されるもので賭け事に使えそうなものなど皆無に等しい。
「ぢゃあ、アレが良い」
「アレ」
意味有り気に微笑むルカオを仰ぐ。ルカオはしゃがんでレノの耳元で囁く。
「接吻」
レノはルカオを両手で思い切り押し倒した。派手にルカオは地面に背を打つ。その音に驚いてスカイとラウルが駆け付ける。ルカオはスカイに支え起こされる。レノは眼の奥がジンと熱くなるのを我慢してルカオを睨みつけていた。
「冗談も通じないのか」
「ルカオの冗談はもううんざりだ」
レノは叫んだ。スカイはレノを制す。
「二人とも止めろよ、ルカオ何を云ったんだい」
「ちょっとからかっただけだ、本気ぢゃない」
「本気ぢゃないならそんな言葉口にするなよ」
レノがルカオに掴みかかろうとするのをラウルが慌てて止める。レノには限界だった。あの夜にされたことまでもが、全部彼の云う「冗談」だったとしたらとても生きていけない。レノにとってあの行為は舌を噛んでしまいたいほどに恥ずかしいことだった。
ルカオはすでに勢いを失っている。スカイは青い顔でルカオに何か言っている。ルカオは俯いて長い睫毛を瞬いた。レノはそれを食い入るように睨みつけていた。ラウルが自分に話しかけるが全く頭に入らない。結局彼の距離の中にスカイは入っていけると思うと堪らない気持ちだった。ルカオはスカイが呟いた言葉に「お前とは違う」とはっきりとした声で答えた。スカイは少し悲しそうな、少し安心したような表情になる。
一体何を話したかはレノには判らなかった。
結局レノは次の配給分のパルカを賭けることにした。それなりの日が過ぎたオート・ペデの事故経験は今回の勝負には障害になることもなくなっていた。
自動スターターをセットしてコースに四人は並んだ。全員ダイアルは3に合わせている。高い機械音が鳴ると同時に四人は飛び出す。慎重に蹴って加速をしていく。その隣をラウルが真剣な表情でついてくる。スカイは前に飛び出し、既に距離を離しつつあるルカオに並ぼうとした。ルカオは余裕の笑みでスカイを振り返ると、大きく右足を蹴り出す。ぐんっと彼が遠のく。カーブに差し掛かろうとしているのに、ルカオは加速をやめない。バランスを崩せば転倒は免れない。レノはあれだけ莫迦にされては負けるわけにはいかないと思っていた。二週目に入ってレノはスカイと並んだ。今日は調子がいい。その時だった。
「はっ」とスカイが息を呑む高い声が聞こえた。レノが振り向いたときにはスカイは転倒した後だった。レノは加速を緩めて、スカイの下へ慌てて戻る。最後尾だったラウルがスカイを支え起こして怪我をしていないかを確かめる。スカイ自身も転倒に動揺を隠せないようだった。身体を支えている両腕が震えている。周を回っていたルカオも戻ってくる。
スカイに駆け寄って素早く目の色を確かめる。
「貧血を起こしかけてるな。直ぐには立ち上がるな。ラウル、悪いがアクアドリンクを俺のロッカーから持ってきてくれ」
「判った」
「大丈夫だよ、これ位で大袈裟だ」
スカイがラウルの腕を掴む。
「莫迦。いつも僕の心配ばかりしている癖に。僕にだって心配させてくれよ」
最後の方はラウルは笑いながら云う。ラウルの腕を掴んだスカイの手の力が抜ける。ルカオは自分も座るとスカイの頭を自分の両脚に押し付けて無理やりに寝そべらせる。スカイは抵抗することもなくその膝の上で息を吐いた。
レノは手持無沙汰で唯スカイの傍に座って覗き込むしか出来ない。彼の眼は薄い空蒼色で丁度アクアドリンクと同じようだった。有り触れた栗茶色の自分の眼が嫌いなレノにとっては羨ましい。
「大丈夫かい」
「ちょっと、考え事をしてしまったら脚が縺れた」
「勝負中に考え事とは相当な自信だな、スカイ」
「ルカオ、そんな云い方するもんじゃない」
「良いんだ、レノ。彼の云う通りさ」
栗色の髪の毛がかかっているのを払って、スカイの細くて白い喉にレノはそっと指を触れた。携帯ウォッチに目を落とす。
「脈が少し早い。アクアドリンクを飲んだら休憩所で少し休もう」
ラウルがアクアドリンク片手に戻ってくる。レノはスカイが何を考えていたのかが気になっていた。先程ルカオと話していたことだろうか。それともまだ身体検査の件を引き摺っているのだろうか。ラウルはスカイに何度も「大丈夫」と尋ねていた。スカイに血の気が戻って休憩場に戻るまで終始ルカオは無言だった。不機嫌そうでもなく、かと言っていつもの活気がある感じでもなかった。
四人ベンチに座る。ラウルは携帯ウォッチを見てから天井を仰いだ。
「仕様がない、今回の勝負は白紙だね」
「ごめんよ」
スカイは小さく云う。ラウルは首を振る。
「気にしてないよ、僕はどちらにしろ最下位だったからね。逆に助かったくらいさ。残念なのはレノじゃないの」
「次だってラウルには勝つさ」
ラウルが茶化しに入るのでレノもそれに口を出す。ラウルはスカイを挟んでレノのほうに身を乗り出した。
「へぇ、大した自信」
「云うのは無料だしな」
ルカオが口を出した。レノは眉を顰める。
「どう云う意味さ」
ルカオが笑う。そんなやり取りをしていたら、貸し時間の一時間を告げるベルが鳴った。四人は肩を竦め合い遊技場を出る。最後に鍵のパスワードを入力し直すスカイにルカオが「気にするな」と云って肩を組むようにして抱きしめていたのを見た。スカイは眉間に皺を寄せ、睫毛を瞬いて、唯頷いた。
通信学習の時間、レノはルカオとテーブルにパソコンを開き送られてきた問題集や参考資料に目を通したりしていた。ルカオとレノは歳が違う為、学習の内容は異なる。レノの今回の学習は数学と科学だ。どちらもレノの不得意分野である。それもあるのだが、今度の学習内容はどうも可笑しい。今まで自分が学習で習ったどの数式を応用してもこの問題は解けそうもなかった。
レノのキーボードを打つ手は早々にして止まっているが、ルカオの手は流れ作業のように動き続けている。レノはルカオに助けを求めようと思ったが、彼は顔を上げることはない。声をかけることを躊躇っていると、ルカオが顔をあげた。
「何ンだ」
「数学なんだけど、全く解けないんだ」
「お前が間抜けだからだろう」
ルカオはそう言ってまた手元に視線を向けた。
「違うよ。何か可笑しいんだ」
ルカオは立ち上がって、レノ方へ回るとパソコンを覗き込んだ。
「これはお前の歳に習う問題ぢゃない」
「通りで数式がどれも応用できない筈だ。中央監査班に連絡しないと」
ルカオは黙ってレノのパソコンを見詰めている。青白い光が彼の褐色がかった瞳を照らす。ルカオは椅子を引っ張ってくると半ば強引にレノのパソコンを奪う。
「ちょっと貸せ」
不満を漏らそうと思ったが彼の真剣な表情を見てレノはそれを諦めた。
仕方なくテレヴィジョンに目を向ける。
ある男と女、そして子供が映っている。キッチンに女が立ち、男と子供は傍のテーブルで何かを話している。キッチンから振り返って女が笑う。見たことのない食べ物を三人は食べ始める。これが「家族」なのかとレノは思う。こことは違う。ガラスがはめ込まれた部屋で沢山の光が溢れた場所だ。母親もこうして自分に「料理」をして一緒に食べてくれるのだろうか。食べ終わったら自分は田園に出かけて「MOTHER」の大気を胸一杯に吸い込むのか。そう考えるだけでレノは堪らなく母親が恋しくなる。一度も会ったことのない母親に甘えてみたいと思えてくる。
一瞬だった。「ざっ」と音と共に画面が歪んだ。レノはルカオの声で振り返る。
「先に進んだら、文字化けを起こしやがった」
レノはルカオが示す自分のパソコンを覗く。判らない文字の羅列が続いていた。
「これは流石に監査班に報告だな。俺がしておく」
ルカオはツール・ウォッチを触る。レノはまたテレヴィジョンを見たが、画面はいつの間にか「海」の映像に変わっていた。電子音が二度鳴る。
夕食の時刻までレノは自室で本を読んで過ごしていた。携帯ウォッチのアラームが鳴る。レノは起き上がると、自室を出て、ルカオの部屋のドアーをノックした。
「ルカオ、一緒に食堂行かないかい」
中から返事はない。判ってはいたが、レノはルカオの部屋のドアーを開けた。途端咽返るほどの甘い香りが部屋から流れ出した。部屋を見ると簡易テーブルの上に何時か見た紅玉色のガラスの入れ物が置いてある。周りには崩れかけたパルカが転がっていた。彼はまた支給されたパルカを燃やしたのだ。だが何故こんなに蜜の匂いが充満するまで燃やす必要があるのだろう。何もない彼の部屋でガラスの置物は不釣り合いに存在を主張して見えた。
レノは一人食堂棟に入った。中に入ると、際立って生徒達の喋り声が大きくなった。高く丸いドーム型の天井は廊下と変わらず、壁自体が発光して室内を明るく照らし、生徒達の笑い声を反響させている。天井を支える柱など一本も存在しない。広々とした空間に沢山の長テーブルと丸椅子があるだけだ。入り口のすぐ真横にあるカウンターに自分のコードネームと番号を打ち込むと、隣の搬送エレベーターの扉が開いて、食事が現れる仕組みになっている。レノはそれを受け取ると、ざわついた室内を見渡した。殆どの椅子が埋まっていたが、隅の方に辛うじて席を見つけ、座った。レノは余り集団行動を好まない。このステーション内で食事を共にする程仲の良い生徒も多くはなかった。
レノは出された食事を食べ始めた。どれも余り味がない。科学的に合成され作り出された食品は美味しさを追及したものは一切ない。アクアドリンクだけが別格だった。レノは早々に食べる気力を失い始めた。しぶしぶに粉っぽいパンを口に運んだ時、ちょうど前の席の生徒が立ち上がり、レノの前に向かい側の席が見渡せるようになった。向かいの席にいたのはスカイだった。
レノは一瞬胸が高鳴ったのを感じる。
彼は泣いていた。
泣きながら、パンを千切って口に入れていた。その度に彼の目から涙が零れ落ちている。顔はいつもよりもさらに青白く、栗色の髪の毛は涙でその頬に張り付いていた。レノは反射的に顔を伏せた。何か重大なものを見てしまったかのように、心臓の高鳴りは増す一方だった。
レノはすぐに部屋には戻らず、資料施設に足を向けた。早くに食事を済ませたお陰で、電力が落ちるまでにはまだ時間があった。資料施設は丁度九号棟施設と十号棟施設の間にある。通信教育の他に、各棟ごとに生徒が集まってこれらの資料施設で「MOTHER」についての知識を体感する学習システムがある。生徒の学習のほかにも、備え付けのコンピューターに自分のデータを入力することで自由に使うことも可能だ。レノは暇つぶしによく此処を訪れる。今の時間帯が空いていることは承知だ。
いくつかある種類の中からレノは植物資料施設を選んで、その中に入った。大きなドーム上のスペースで、中央にあるコンピューターを使って、ドーム全体に「MOTHER」にある、あらゆる植物を4D立体プログラムで映し出すことが出来る。レノはコンピューターを操り、いつかテレビジョンが映していた田園風景を選んだ。途端にレノは田園の中に佇んだ。田園を駆ける風すらシュミレーションされる。静かに風がレノの前髪を持ち上げた。遠く続く田園は此処がドームの中だということを忘れさせる。
「MOTHER」ではこれが普通なのだ。コンピューターを操作しなくとも自然にこの風景が広がっているのだ。風が吹き、草が揺れ、青い空が広がっているのだ。
レノは信じがたく、その場に立ち尽くした。レノは【metropolis】のような都会の景色よりも、自然の景色を好んだ。特に何も遮るもののない田園風景は一番のお気に入りだ。部屋と同じ、さっぱりとした景色がレノの好みだ。その場に立ったまま、スカイのことを思った。ただ事ではなさそうだと云う事はレノにも察しはついた。泣きながらパンを引き千切る彼は鬼気とした気配さえ纏っていて、どこか酷く思いつめたような、苦しそうな表情だった。パンを引き千切る度に、彼自身の何かがえぐられているように彼は痛々しく涙を流していた。
レノは風に吹かれ、はるか遠くに見える一軒の家を見詰めた。
母さんもあんな家で暮らしているのかもしれない。
「MOTHER」のことだろうか。彼は「MOTHER」に行けなくなったのかもしれない。
レノはラウルの言葉を思い出した。
「最近彼は一段と自分を責めるんだ。青い顔して、何かに怯えている」
身体検査のあったあの日、スカイは硬い表情を崩さなかった。彼は確かに何かに怯えている。しかしそれが何なのか、いくら考えてもレノには理解が出来なかった。ただ、自分だとどうだろうかということを考えると、やはり「MOTHER」に行けなくなったのではないかと思うのだった。
映像がぶれた。
レノは我に返って、現れたドアーを振り返った。ドアーが開くと同時に、映し出されていた田園風景が途切れ、元の白乳色のドームが目の前に広がった。
ラウルだった。
お互い意外そうに、肩を竦めあった。ラウルはドームを見回す。
「珍しいね、この時間帯は僕だけだと思った。何を見ていたの」
「田園風景。でもラウルが来た途端に途切れた」
普通であれば、ドアーが開いた所で映像が途切れるということはない。田園風景の中に突如としてドアーが現れ、生徒が入ってくるのだ。二人はコンピューターの前に立って操作を試みたが、映像はそれきり現れることはなかった。ラウルは残念そうに肩を落とす。
「『MOTHER』に着いた時のシュミュレーションをしたかったのに。もうすぐ僕にも連絡が来るんじゃないかって気が気じゃないんだよ。何かしていないと身体中がむず痒くて仕方がない」
ラウルはいつもの調子で、早口で喋っている。
「なのにコンピューターが壊れてるんぢゃとんだ無駄足だよ。レノにも悪いことしてしまったね。せっかくの田園風景を邪魔しちゃったみたいだ」
「それはいいよ。ただ中央監査班に連絡を取らなきゃ。コンピューターの故障は」
レノたちはツール・ウォッチを持っていない。部屋のパソコンからでしか中央監査班に連絡を取ることが出来ない。機械の故障をすぐに直すことは不可能だ。
ラウルはその場に座り込んで、ため息をついた。レノもその横に座る。ラウルは小型ウォッチを確認しながら云った。
「スカイの姿が見当たらないんだ」
「スカイなら、食堂にいたけれど」
レノは少し躊躇いがちに呟いた。ラウルは気にするそぶりも見せず、首を振った。
「今、此処へ来る途中に覗いたけど、いなかったんだ。部屋にも戻ってきていないし」
「トレーニングルームかな」とラウルは独りごち、両腕をついてドームを仰いだ。レノはラウルの腕に気が付く。
「ラウル、君、バングルはどうしたのさ」
ラウルの腕にもレノと同じくバングルが嵌められている。同じ銀色のバングルで、同じく名前とコード番号が掘り込まれていた。しかし、彼の白いシャツから突き出た真っ直ぐな左腕には今はもう何もない。ラウルは左腕をさすりながら云った。
「今朝、外れたんだよ。起きた時には既に外れてベッドの脇に転がっていた」
「痩せたの」
「さぁ」
二人は首を傾げた。小さい頃からどう云う訳か左腕にまるで皮膚の一部かのように納まってきたバングルがそう簡単に外れるのはどうも腑に落ちなかった。ラウルは八重歯を見せて笑いながら「なんだか変な感覚だよ」と云った。ラウルは暫らくドームを仰いでいたが、やがて口を開いた。
「ねぇ、レノ。君は、その。もうしたかい」
口籠った質問にレノは首を捻った。
「何を」
「ケイケンさ」
「ケイケン」
レノは察しがついた。だが敢えて知らない体を装った。
「まだ習ってないのかな、そうだよね。レノはあと一年あるし。僕もこの間習った」
ラウルはレノの視線を避け自分の爪を弄る。
「僕達は生殖能力を持たないだろう。だからこそ原始的な性行為は重要なんだって」
「どう云う意味」
「全てを忘れてはいけないってこと。だから男女の性行為を習う」
「通信でかい」
「それもある、勿論実習的なことも」
レノはラウルを見詰める。ラウルは相変わらず爪を弄っている。元々防音がなされているこの資料施設で黙っていると耳が可笑しくなりそうな感覚に陥る。軽い耳鳴りを覚えて頭が痛い。駄々広い施設の真ん中のコンピューターが赤いランプを点滅させてデータ処理中を表す。微かに残っている草の香り。今まで此処が田園だった事を思い出させる。
レノは自分の中に蟠る想いを他人事のようにラウルに問うた。
「どうやって」
ラウルを横目で見やると、彼は少し照れたような表情になっていた。
「疑似だけど、スカイと」
「恥ずかしくなかった」
レノは窺うように視線をラウルに合わせると、ラウルは少し不思議そうな、少しはにかんだような複雑な笑みを浮かべる。
「なんで、必要なことだ」
「僕等には関係ない行動だ」
ラウルはレノを穏やかな表情で見る。自分の声が幾分粗ぶったのを悟られたと思って、レノは顔を俯けた。ラウルの表情は何時か見た、ルカオと被った。レノの頭に手を乗せた時の彼の表情と似ていた。もしそれが憐れみなら耐えられない。
「レノはその行為を野蛮だと捉える」
レノは頷く。今までこのステーションを旅立った生徒達は皆その行動を必要としない訳だし、自分の母親もここにドナー登録したのはその行動を不必要と考えているからだ。実際その野蛮な行為で人口が増えて自分は母親と離れて生きなければならない。レノはそう思っていた。ラウルはレノの気持ちを知ってか知らずか肯定の返事をしてから話し始める。
「確かに人口統制には無意味かもしれないね。でも昔『MOTHER』で生まれ育った人間も他の生き物もそうして繁栄した。僕等が『MOTHER』に行けば次世代人間としてどんな扱いを受けるかは判らない。でも僕は彼等がそうして来た軌跡を知っておきたいし、自分にも刻みたい。それが『MOTHER』の一員になる資格の一つだと思っているんだ」
レノはラウルの言葉で耳まで紅潮していく。自分が表面的な快楽だけを思って野蛮と決めつけたそれを、ラウルは深く捉え、スカイの力を借りた。きっとそれが本来の「実習」と呼べるべき姿だったのだ。自分はルカオを拒み、結局空虚な羞恥だけを抱えた。レノには、スカイがどう云ったのか、ラウルがどう云ったのかは判らないがきっとどちらもすんなりと認め合えたのではないかと想像する。ルカオとスカイも同様だ。レノだけが、訳も知らずに拒み続けていた。独りだったのは自分だと思った。
ラウルは少し慌ててレノを覗き込む。
「レノ、どうしたの」
レノは不思議に声を上げる。自分の頬と眉間に少しの筋肉の痛みを感じた。そして自分が今までどれだけか険しい顔をしていたかと思うと可笑しくなってレノは笑う。
「僕、ルカオに謝らなきゃいけない」
レノの言葉で察したのかラウルは頷く。
「僕は、ルカオもスカイも、ラウルとも友達になれてよかった」
「ああ、僕もだ。今度また四人でラインボードで競おうか」
「また、ルカオの独り勝ちで終わる」
ラウルは楽しそうに笑い声を発てる。レノも微笑んでみせた。
「部屋に戻るよ。もうすぐ電力も落ちる頃だ」
「中央監査班には僕から云っておくよ」
ラウルの後姿にレノは云った。ラウルは振り返って苦笑した。
「そうしてくれる。スカイに云ったらまた余計な心配をしそうだから」
レノは小さくなっていくラウルに何故か不安を覚え、呼び止めたかった。しかしそれが躊躇われてそうしている間に彼の姿は消えてしまったのだった。
部屋に戻ると、レノはラウンドテーブルに伏しているルカオを見つけた。黒い髪が、白乳灯の光を映して、丸い光を落としている。レノは静かにルカオに近づいた。そうして、彼が泣いているのではないかという思いは、確信に変わった。小刻みに震わせる肩がそれを証明していた。レノはスカイとルカオの間に何かあったことをすぐに悟った。レノはジャケットを脱ぎ、空いていた椅子に掛ける。そして踵を返すと、冷蔵庫からアクアドリンクを取り出した。シンクへ行って、二つのグラスに均等に注ぐ。そうして氷をたっぷり入れると、それを持って、もう一度ルカオの前へ行った。彼はやはり顔を上げず、時々耐えられずに痙攣を伴って嗚咽を漏らす。
部屋の電力が下がった。辺りは薄暗くなり、ルカオの白い額が浮かんで見える。レノは椅子に腰を下ろすと、アクアドリンクをルカオの前に置いた。自分も片方を飲む。味のない夕食の後に飲むアクアドリンクは少々くどいくらいに感じた。レノは何も云わず、ルカオが落ち着くのを待った。彼のことだ、自分が問いただしても、反って何も云わないだろう。レノはそう思った。その間に、レノは中央監査班に送る自分のデータをパソコンに打ち込み始めた。一緒に先ほどの資料施設の故障も知らせた。辺りは静かで、レノのキーボードを打つ音しかない。ルカオは嗚咽を上げなくなったが、まだ顔を伏せったままだ。一通りのデータを書き終え、レノはシンク手前の壁にはめ込まれたテレビジョンを見る。しかしそこに映っているのは砂嵐だった。音もなく、青白い何億もの電子が光を発しながら蠢いている。こんなことは初めてだった。レノは目が光を吸収し過ぎて可笑しくなるのを感じ、顔を背けた。振り返ると、ルカオが顔を上げていた。虚ろな顔をしたルカオは、いつにも増して妖艶に見える。レノはその顔に見入った。泣き腫らしたにしては、殆ど変化はない。ただ、スカイ同様とても青白い。
レノは言葉を探した。しかし気の利いた言葉など何一つ浮かんでこない。焦れば焦る程、単純な疑問しか思いつかない。
「ドリンク、ありがとう」
ルカオは掠れた声で呟き、レノが淹れたアクアドリンクを飲んだ。しなった彼の首が、ドリンクを飲む度に動いた。レノはそれを見て、何処か恥ずかしい思いになった。レノは頷いただけで、何も云わず俯いた。
「なんで泣いているか、知りたいんだろう」
ルカオは云った。レノは顔を上げた。彼がぼやけたように見える。
「云いたかったらで、いいよ。無理にとは云わない」
ルカオは目を伏せた。長い睫毛が微かに震えている。
「察しの通りさ。スカイと喧嘩したんだよ」
ルカオは口元を歪ませて、レノを見た。しかしその顔にはいつもの強さはない。部屋が暗く、静かな所為か、レノは耳鳴りを覚えた。
「仲直り、すればいいんだよ」
幼稚な答えだと、レノは思った。彼らの間にあるものはもっと深いものだと直感出来るのに、出てくる言葉はどうしてこうも単純なのかと、レノは自分自身に苛立ちを感じる。「やっぱりお前、単純だな」
ルカオの声ははっきりとして、低く響いた。レノを見詰める目は穏やかだ。
「ごめん」
「謝るなよ、莫迦にしたんぢゃない」
レノはルカオを見詰めた。彼の表情は苦しそうに顰められた。
「なぁ、レノ。お前は『MOTHER』に行きたいか」
「何だよ、急に。当たり前だろう」
レノは突然の質問に驚いて、戸惑いながら答えた。ルカオは息を吐く。
「そうか」
「何だよ、一体」
「部屋に入っただろう」
答えをせがんだがそれを拒むようにまた突然ルカオは云う。レノは目を伏せた。
「ごめん、一緒に夕食を摂りに行こうと思った」
「パルカの香りが凄かっただろう」
「ああ、軽く目眩すら覚えた。よく平気だね」
「パルカには微量の阿片が含まれてる。燃やした香りを嗅ぎ続けると伝達回路の中毒を起こす。媚薬効果があるのさ」
レノの心が急にざわめき始めた。先程偶然見た、スカイの時よりもさらに胸が忙しなく波打った。体の血が引いて、額が冷たくなるのを感じる。レノのパソコンが一時的な終了を告げる電子音を発した。
「どうして、そんなことに使ったの。今までもそうしてパルカを使って来たのかい」
「本来の使い方はそれが正しい。辛くて、耐えきれない。そう思ったら、パルカを燃やす。少しの間何も考えなくていい」
「ルカオ、一体」
「ラウルが『MOTHER』に行くことになったんだ。だが、まだ本人は知らない」
レノは困惑した。確かに先ほどラウルに会ったとき、彼はそんな話は一つもしなかった。饒舌な彼のことだ、もしそれが分かっていれば必ずレノに報告しただろう。
「どうして、それを、ラウルが知らないのにルカオは知っているんだ。個人情報は全て本人にしか通知されない筈だ」
「スカイに聞いたんだよ。彼はラウルが『MOTHER』に行くことになったと、俺に云ってきた。信じられなかったよ。俺自身が、信じられなかった。俺はスカイを殴ったんだよ。あいつは何も悪くない、分かっていたんだ。云われていたことを実行しただけだ。なのに、俺は殴っていた」
「何を、云ってるンだ。云われたことって」
レノはルカオの話が理解出来ず、彼を凝視した。ただ、自分の心臓の音だけが矢鱈と煩い。ルカオは弱々しい目で、レノを振り返った。白乳灯の明かりで、彼の瞳が潤んでいるのが分かった。
「レノ、お前は何も知らないんだ。何も」
ルカオは両手で顔を覆った。レノはその両手を無理やり掴み、自分の方へ向かせる。
「いい加減にしろよ」
険しい顔で彼を見る。ルカオは泣いてはいなかった。口元を歪め、全てを放棄したような虚ろな目を向けている。目の下に落ちた影が、それをより際立たせている。先程の妖艶さはもうない。レノはその顔に一瞬恐ろしさすら感じた。
「レノ、俺達はどうして生殖能力を破壊されていると思う」
突拍子のない質問にレノは戸惑った。それについては通信教育で習っている。当たり前の答えをレノは口にした。
「人口が増え過ぎたからだ。人口調整を行わなきゃ、『MOTHER』が破裂する」
ルカオはその答えを聞いて笑い声を上げた。彼の笑いは何処か可笑しい。レノは不安に駆られ、眉を顰めた。
「あぁ、そうさ。殆どの生徒がそう思わせられている。お前、考えたことはないのか。ドナーの数だって無限にある訳ぢゃない。どうして生殖能力を破壊される必要があるんだ。数を管理すればいいだけの話だろう。生殖能力を壊されたら、俺達の代までなんだ。次世代は生まれない。いつかは全滅してしまうんだぞ」
目の前に闇がかかった気がして、レノは首を振った。頭が痛い。考えもしなかったことが頭の中を支配した。どうにかこの考えを振り払いたくて、レノはルカオを睨み付け、怒鳴るように云った。
「どうかしている。そんな事実あるもんか」
「どうかしてるのはお前らの方だ。どっちが事実かなんて、考えれば分かるだろう」
ルカオの声は苛立っていた。レノはそれでも認めたくなかった。何かが足元から崩れていきそうな予感がして、どうにかこの事態を回避したいと懸命になっていた。声は次第に興奮で大きくなり、レノは気がつくと激しい怒鳴り声でルカオに食いかかっていた。
「莫迦。じゃあどうして、どうして遺伝子を破壊して、僕達に障害が出るかもしれない、そのリスクを負ってまで生殖能力を奪うのさ。僕にはその理由が分からない」
「反対だからだ」
レノの怒鳴り声よりはるかに大きな声で、ルカオは制す。レノは動きを止め、彼を見つめた。ルカオは体を震わせている。長めの黒いカーディガンが彼を小さく、貧弱に見せた。
「レノ、反対なんだ。俺達は、俺達には初めから生殖能力なんてないんだよ」
レノは体中の感覚を失った。座っている椅子が頼りない。握った手の平に冷たい汗が滲んでくるのが分かった。困惑した頭の中で、それがしっくりときてしまったことに恐ろしさを感じ、レノは耳を塞いだ。自分の耳たぶは冷たかった。しかしすぐに熱を帯び、手の中で発熱し始める。
「突然変異さ。『MOTHER』の激しい汚染で長い年月をかけながら少しずつ殆どの生物が生殖能力を失い始めた。人間はコンピューターを使って膨大な計算をした。そうして俺達の代で完全にそれが消えると判った。絶滅の日がやってくることは目に見えていた。そこで人は考えたのさ。自然受精より人工授精の方が何倍も確実だ。その為にドナーは集められ、宇宙ステーションに集め飛ばした。遺伝子の異常を直しながら俺達は生まれて来るんだよ。だが、それだって上手くいかない。いくら直しても結局ほぼ全員が生殖能力を持たずに生まれる。それどころか、何処かに欠陥がある生徒まで生まれて来る始末だ。何が悪いのか、どうしたら完璧な生徒が生まれるのか。中央監査班が俺達の情報を日々集めている理由はそれさ」
ルカオは一通り喋り終わると、既に氷が解け、完全に薄まったアクアドリンクを飲み干した。レノは椅子に座ったまま項垂れた。ルカオの云った言葉を信じたくなかった。しばらく沈黙が続いた。部屋は静かだった。夕食時間が終わった今、外に出る生徒は滅多といない。ステーションの廊下からはオート・ペデの微かな回転音だけが漏れ聞こえてきている。ルカオはテーブルに肘をつき、両手で顔を覆っていた。
「『MOTHER』に行けるなら、僕はどっちでも構わない」
レノは呟いた。レノは例えルカオの云ったことが本当でも、もうどうでも良かった。自分に生殖能力がなくても、いつの日か「MOTHER」に帰って、自分の母親と一緒に暮らせればそれでいいと思ったのだ。その心を見透かして、ルカオは顔を覆ったままで笑い声を発てた。レノは完全に溶けた氷で薄まった自分のグラスを見つめた。
「無理だ」
ルカオは云った。声が震えている。
「無理だよ、レノ。お前は母親になんか会えない」
「何だって」
「お前の母親となる遺伝子を持ったドナーなんか、とっくに死んでる」
「嘘だ」
レノは勢いよく立ち上がると、ルカオに掴みかかった。反動で、レノの座っていた椅子が音を発てて倒れる。ルカオはその手を振り払おうともしない。疲れきった顔だった。「『MOTHER』は汚染が酷いんだ。人なんか生きていけるもんか」
「それは昔の話だ」
「じゃあなんで俺達はずっとステーションにいるんだよ」
ルカオも立ち上がり、レノの腕を振り払った。
「考えろよ、間抜け。特定の専門家達とドナーの精子と卵子のみでこのステーションは構成されてるんだ。もしも、もう『MOTHER』に汚染がないなら、わざわざ宇宙の中にステーションを飛ばさなくたっていい筈だろう。人口調整なら『MOTHER』でだって出来る」
レノは握り締めた両手が酷く震えているのが分かった。
「じゃあ、あの母さんからの、手紙は何だって云うんだよ。死んでいるなら誰が書いてるって云うんだ」
「中央監査班さ。コンピューターによってランダムに作られたメールが通達される。実際の『MOTHER』にはもう人はいないんだよ、レノ」
「嘘だ、嘘だ」
レノはまた耳を塞いだ。今度は初めから、自分の耳は熱い。
「聞けよ、俺は今まで逃げてきたんだ。真実を受け止めずに生きたって何の意味があるんだよ。一生騙されて何の意味がある。レノ、俺はお前に知って貰いたい」
ルカオはそう云ったきり、急に黙り込んだ。一瞬にして部屋はまた静まり返る。レノは耳を塞いだまま、ルカオを見る。項垂れて立っている彼の顔は青い。
「ルカオ」
ルカオは返事をしない。レノの声など聞こえていないように、一点を見詰めながら静かに話し始めた。覚悟を決めたような、重々しく低い声だった。
「レノ、生殖能力を持った生徒は稀に生まれることがある。その生徒は何かしらの目印をつけられて、監視されるんだよ」
「誰に」
「中央監査班にも勿論、監視される。でもそれだけじゃ不十分だ。だから彼らは同室の生徒に監視される。生まれてから、中央監査班役と監視役に回される生徒は隔離されて育てられるんだ。本当の全ての知識を持たされ、もしもの時の専門知識さえ、教え込まれる。中央監査班役の生徒は他の生徒と接することはない。だが監視役の生徒は一定年齢で一般生徒の中に混ぜられる。同時に生殖能力を持った生徒と同室にして、監視させるんだ」
レノは眉を顰めた。ルカオは息を吸う。
「ラウルも、」
ルカオが吐いた息は震えていた。
「その一人さ」
「じゃあ、スカイは監視役の生徒だって云うの」
「そうだ」
ルカオは椅子に座った。レノは立ったまま、今までの話を整理しようとした。
「ラウルは、生殖能力があったんだ」
レノの問いに、ルカオは俯いたまま首を振った。
「なかった」
「え」
「あったと思われていたんだ。だが彼の体内からは殆ど微量の精子しか検出されなかった。彼は中央監査班の能力リストから外され、そうして『MOTHER』に送られることが決定したのさ。スカイからの報告が主な決定理由だった。あいつは中央監査班に忠実に従った。それは仕方のないことさ、そう教え込まれている。あいつらの云うことは絶対だ。分かっていたんだ。でも俺は、あいつを殴っていた」
「でも、『MOTHER』は汚染が酷いと云ったじゃないか。母さんもいない。人は生きていけないって」
「だからそう云うことだ」
レノは立ち尽くして、ルカオを見た。彼の目は、また潤み始めている。
「生殖能力のない生徒は、居てもステーションの飽和を生むだけだ。だから一六歳までにリストに載らなかった生徒は殺されるんだよ。そう『MOTHER』に、行けるんだよ」
部屋が静かになった。レノは放心したように突っ立って、ルカオを見詰めた。
「スカイの報告って。ラウルの生殖能力」
「身体、知能、運動、そして一番はそれだ。学習で疑似の性行為をすることになっている。その時にははっきり判る」
「だから相手がスカイだったの。ラウルは『MOTHER』に行く資格だと誇りに思っているようだった。彼の気持ちは全く報われない」
「そう、だな」
「何だよ、それ」
レノは呟いた。声は震えて巧く出てこない。
「何だよ、それ」
今度は大声で叫び、その場に蹲った。頭を振って叫び続けた。涙が流れる。全てが理解出来た訳ではなかった。だが、此処のシステムの残酷性だけはレノにも理解が出来た。「僕らが、悪い訳じゃあない。勝手だ。そんなの勝手過ぎる」
レノは喘いだ。ルカオの膝に縋り付く、自分の手が重く、巧く動かない。
「何の為に、僕らは生きてきたの。何の為に生まれてきたの。分からない。僕は母さんに会うことだけを夢見ていた。『MOTHER』で幸せに暮らせる日が来ると、信じてた。ねぇ、ルカオ。僕達はなんで生まれてきたの」
見上げたルカオの顔は、スタンドランプの光で上手く見えない。しかし自分に落ちてくる水滴で、彼が泣いていることが分かった。レノは溢れ出てくる涙を何度も拭った。それでもすぐに次の涙が頬を濡らす。レノは顔を伏せた。その時、自分の腕に嵌められたバングルの存在に気が付いた。相変わらず、曇ることもなく白金色に光っている。床についた腕が大きく震えだした。ルカオを見上げる。彼は押し黙ったまま闇に姿を潜めているようだった。
「目印」
レノはそれだけ呟いて、後が続かなくなった。ラウルのバングルが外れたという話を思い出した。漏れる息が荒くなり、喉が音を発てた。ルカオは喘ぐように、声を漏らした。顔を覆った彼の両腕もまた震えていた。
「そうだ、レノ。お前には生きる意味があるんだ。お前は間違えなく完璧なんだ」
レノはルカオの行動を思い返した。自分との疑似行動。自分と話しながらパソコンやツール・ウォッチを触るルカオが浮かんだ。そうして二度鳴ったあの電子音。中央監査班からの了解の合図だったのだと理解した。彼は自分の遺伝子欠陥について報告していたのではなく、レノ自身の状態を報告していたのだ。レノはルカオに掴みかかる。勢いに負けて、椅子から落ちたルカオは床に背を打ちつけた。レノは構わずその上に跨り、ルカオの頬を打った。
「知るもんか、僕が完璧だろうと何だろうと、知るもんか」
「お前は、間違えなく次世代を作れる体なんだ。分かるだろう」
その時だった。いきなり部屋の電力が全て落ちた。辺りは闇に沈み、部屋中のスタンドランプは仄かな残影を映し出す。ルカオはそれまでと一転して、素早く起き上がると、ラウンドテーブルの自分のパソコンを開いた。電源を押してもパソコンからの応答はない。ルカオはツール・ウォッチに内蔵された、小型のライトで周りを映し出した。レノは初めての事態に驚き、青白く光を発するルカオの手を取った。彼の手は暖かい。
「ルカオ。一体何が」
「分からない」
ルカオはカーディガンを脱ぐと、ラウンドテーブルの上に置いてあったジャケットを着込んだ。倒れた椅子の下敷きになったレノのジャケットを拾い、それを投げて寄こす。
「着ろ」
レノは云われた通り、ジャケットを羽織る。ツール・ウォッチを覗き込むルカオの顔が闇に浮かび上がっている。先程とは異なり、強い眼差しでツール・ウォッチを見詰めていた。何度か通信を繰り返していたが、それが無駄だと分かると、ルカオはウォッチを外して思い切り床に叩き付けた。レノを振り返る。その顔は悔しそうに歪められていた。
「レノ、小型ウォッチをつけろ。それで周りを照らすんだ」
ルカオはアクアドリンクのボトルを一つ持つと、ポシェットに入れ、腰のベルトに吊るす。レノはその間、ルカオの手元を小型ウォッチで照らし続けた。彼の行動は敏速で、その動きには無駄がない。レノはしなやかに動くルカオの白い指を照らしながら、動きを目で追い続けていた。手足が悴み始めたことで、室温が下がっているのが分かる。レノはステーションの電力が全て絶たれたことをやっと理解していた。ルカオはレノの手を取る。やはり彼の手は暖かい。冷たくなり始めた指先に心地良い暖かさがじんわりと広がる。レノはルカオを見上げた。その顔は今が緊急事態であることを告げていた。
「いいか、今から中央監査班メインコンピュータ室がある最上棟まで行く。何が起こったかは解らない。でも何かが起こっている筈なんだ」
「十八号棟施設以降は、僕達は入れない。どうやって行くかだって分からないだろう」
「間抜け、今までの話を聞いていなかったのか。俺は監査役生徒だ。ステーションの全てを把握している」
レノは泣きたくなって下を向いた。ルカオの言葉が重く自分に圧し掛かるように思えて仕方がなかった。二人を隔てているの何かがもどかしかった。繋いでいる手も頼りなく、レノは懸命にルカオの体温に集中した。
ルカオはレバーを下げて、かたくなに閉じたドアーを手動で開ける。途端に冷たい風が部屋の中に吹き込んだ。廊下は壁自体が発光する為に、いつも通りの明るさを保っている。二人はその明るさに慣れず、目を何度も瞬かせた。オート・ペデは動いていた。しかしその動きは通常よりも殊更早く、脚を取られる危険性が高い。レノはルカオを見た。
「これじゃあ、危険だ。一八号棟施設への陸橋で、前みたくなる。もしかすると前より酷いことになるかもしれない」
ルカオは靴のダイヤルを1に合わせた。
「ダイヤルが1でも、十分なスピードが出せるな」
「本気か」
レノは上擦った声を上げた。ルカオを見上げる。彼は楽しそうに口元を歪めていた。
いつもの笑い方だった。
レノは自分の靴のダイヤルも1であることを確認し、もう一度だけ、ルカオを説得しようと試みてみる。
「ルカオ、やっぱり待とう」
「誰を」
「中央監査班だよ。何か指示があるかもしれない」
「室内の電力は全て絶たれているんだぞ、どうやって俺達に連絡をよこす。あいつらが俺達の前に姿を見せたことがあるか。あいつらが一番とするのは、ドナーと自らの命だけだ。このステーションに異常があれば、生徒なんて簡単に見捨てるに決まっているだろう」
レノは黙り込んだ。彼の言うことが正しいことは分かった。ルカオはレノに笑いかける。
「俺の手を離すんじゃあないぞ。お前独りじゃ到底このオート・ペデは操れない」
レノは悔しいがその通りだと、肩を竦めてみせる。ルカオはそれを見て、軽く声を上げて笑った。彼は先程の、逃れにくい物憂さなど忘れたようだった。レノは彼の部屋を見た時の感情を思い出しながら彼を見詰めた。
ルカオはタイミングを見てオート・ペデに乗り移った。続いてレノも飛び移る。途端にレノの体中に強い風が吹き付ける。頬を冷たさが切りつけ、薄目を開けているのが精一杯で、直ぐに両目には涙が溜まった。バランスを保つのが難しい。確かに自分独りでは十秒ともこのオート・ペデを乗りこなすことは出来ないだろう。横のルカオの顔を見れば、一瞬にしてバランスを崩してしまいそうだ。レノは吹き付ける風に体をとられないようにすることだけに集中した。
十八号棟施設へは食堂棟とは逆の道を行けば良い。その為、上り坂が続いて、加速がそれ程利かないのが二人にとってせめてもの救いだった。レノは既に黒のコーデュロイパンツが暖かさを失い始めたことに不安を覚えた。健康診断の日を思い出し、心臓が一度だけ大きく揺れたのが分かった。レノはルカオの手を強く握り締めた。暫らくしてルカオよりも少し下がった方がお互いにバランスが取り易いことに気が付き、レノはルカオの斜め後ろを走行した。凍結したオート・ペデはひと蹴りしただけで、大きくスピードが増す。その度にルカオは踵を巧く使ってそのスピードを調節した。彼はまるでそれを楽しんでいるように何度も速めたり緩めたりを繰り返す。レノはその都度、冷や汗を掻かなくてはいけなかった。彼の細い黒髪が風に流れているのが見える。その間から形の良い彼の耳が見え隠れしていた。その先は寒さで赤みを帯びている。レノは繋いだ自分の指が悴んで、いつか感覚が途切れてしまうのではないかと案じた。既に指先の感覚はない。ただ、合わさった二人の掌は熱を持っている。レノはそれがルカオの体温だけで温まっているのではないかと疑った。
陸橋の前まで来ると、ルカオは一端オート・ペデの途切れで立ち止まった。そうしてレノを振り返る。
「レノ、俺の腰に両腕を回すんだ。一気に渡り切る」
レノはルカオの先にある陸橋を見詰めた。遠くに一八号棟施設の入り口が見えた。陸橋は普段より細く、長くなって映る。あの日と同じように足が竦んで、前に進めない。周りの安全ネットは下からの風に煽られ、大きく揺れていた。全ての制御を失ったステーションではあの日とは比べ物にならない程、風が吹き上げているようだ。ましてや、オート・ペデもコントロールを失っている。今度二人で此処から落ちては助からないだろう。ルカオはレノの手を強引に掴む。我に返ったレノは、苛立って眉を顰めているルカオに気が付いた。
「早くしろ。一刻を争うかも知れないんだぞ」
レノはルカオの言う通りに、彼の腰に手を伸ばす。そろそろと伸ばした腕を、ルカオは強く掴み、自らの腰に掴まらせた。彼の腰は細く、しかし鍛えられた腹筋がジャケットの上からでも感じられる。レノは姿勢を低く構え、ルカオの腰に回した腕に力を込め、その背に右の頬を強く押し付けた。ルカオが「行くぞ」と云った瞬間、物凄い風がレノの周りを通り過ぎた。風の音が耳に響き、他の音は全く聞こえない。瞑った目がちかちかと光を放ち、何が起こっているのかすら、把握出来なかった。しかしそれは一瞬の出来事で、風が止んだのを感じ躊躇しながら目を開けると、既に自分は一八号棟施設の入り口に立っていた。陸橋を見詰めて呆然と立ち尽くしていたが、レノはルカオを振り返った。彼は得意げに微笑を浮かべている。
「云ったろう、三秒で渡り切るって」
「信じられない。どうやったの」
レノは、もう一度陸橋を振り返った。先程と変わらず、安全ネットが揺れている。ルカオを見る。彼は何も云わずに唯、微笑を浮かべ、手を差し出した。その手を取る。レノはまた泣きたい感情を抑えなければならなかった。
十八号棟施設を通り、廊下を上り切ると吹き抜けの広場に抜けた。廊下と同じように光に溢れ、見上げても天井は見えない。陸橋と同じように頭上には光が溜まり、余りに見詰め過ぎて、レノは目が痛くなった。周りの壁には凹凸も何もなく、のっぺりとしたドーム型の広場は静かだった。ルカオは辺りを忙しなく見回すレノを置いてドームの奥へと歩いていく。
「一八号棟の先にこんな所があったなんて。」
レノはルカオを追いながら云った。自分の足音がドームに反響する。ルカオは広場の突き当たりで、壁に手を伸ばした。壁は思いがけず、軟らかく、ラバァの様にルカオの手をほぼ埋め込んでしまった。
「誰も此処までは来ないからな。そして誰も興味を持たない。否、持たせないようにしていると云った方が正しいかな。お前みたいに、生徒は皆『MOTHER』しか考えない」
「興味を持ったって仕方ないだろう」
レノが云うと、ルカオは小さく「そうだな」と答えた。
ルカオの手を飲み込んだ壁は、暫らくして彼の手を吐き出した。そうして、二人の目の前に直線の亀裂が入り、壁はドアーへと変化した。ルカオは「最小限のエネルギーはあるな」と独りごちて前へ進み出ると、ドアーは自然と開き、その先にエスカレーターが現れる。レノはその光景に圧倒され、息を呑んで見守っていた。ルカオは何も云わず、停止したままのエスカレーターを上り始めた。レノもその後に続く。回りは変わらず光を放つ壁が取り巻き、目を眩ませた。その為、レノは下を向いて歩いた。前にルカオの脚が見えた。ぴったりとしたスエードのパンツがその細く形のいい脚に良く似合っている。レノは息を吐いた。出る息は白い煙のようで、すぐに辺りに散っていった。
長い間上った。どれだけ上ったか、既に感覚がない。何処まで上っても景色は変わらず、終わりがあるのか不安になる程だった。膝が痺れるように痛みだして、ルカオから少し遅れるようになった。ルカオは気付いていないのか、振り返らず、一定の速度で上り続けた。見上げても、ルカオの頭で先が見えない。エスカレーターの幅しかない壁はレノを圧迫させ、息苦しさが酷くなった。レノは堪らず、ルカオを呼び止めた。彼は振り返る。
「辛いか」
「少し休もう。膝が酷く痛むんだ」
「まだ、あの時の傷が完治してない所為だ」
ルカオはレノの元まで戻ってくると、レノの手を取った。発熱しているかと思う程に、彼の手は熱い。レノはルカオの額に汗が滲んでいるのに気が付いた。ルカオは優しくレノを促す。
「もう少しなんだ。頑張れよ」
レノは何も云わずに頷いた。膝は内側が疼くように痛んだが、我慢してエスカレーターを上った。暫らくして、空気が冷たくなった。その後にエスカレーターは終わり、急に開けた広い部屋へと出た。今までの息苦しさから開放され、レノは息を吸い込んだ。熱を持った身体には今の部屋の寒さが心地良かった。辺りを見回したレノの視界に入ったのは、巨大なコンピューターの数々だった。このステーションの頭脳部といえる程の機械がその壁の側面に隙間なく詰め込まれている。沢山の赤いテールランプが緊急を知らせて忙しなく光っていた。ルカオはレノの前で立ち尽くしている。レノはルカオを覗き込む。
彼の顔は青白い。
「ルカオ」
レノはその目線の先を追った。巨大なコントロールボードの前に蹲った少年がいる。レノはその栗色の髪の毛に見覚えがあった。
「スカイ」
レノが叫ぶのと同時に、ルカオは彼の元へと走り寄った。そうして、蹲っているスカイを無理やりに立たせ、彼の頬を思い切り引っ叩いた。レノは驚いて、ルカオを止めに入った。押さえつけたルカオの腕は震え、彼の目には涙が溜まっている。
「何をやったか解ってるのか」
「全てのコンピューターと電力の供給を一時的に絶ったのさ」
スカイは声を震わせて答えた。顔は食堂棟で見た時と同じく真っ青で、レノはその鬼気迫った表情に焦りと恐怖を覚えた。
「一度停止したコンピューターの電力が回復するのはいつになるか判らないんだ。全てが停止した状態で俺達は生きていけないんだぞ」
「だからやったのさ。ルカオ、君だって気付いていた筈だ。ステーションは遅かれ早かれ何処かしらの欠陥があったんだ。老朽化だって懸念されてた。だから僕らのツール・ウォッチだって鳴らないことがあったのさ」
「莫迦、あんなのただの偶然だ。お前は考え過ぎなんだ」
「君らは考えなさ過ぎだ」
スカイは喘ぐように云った。途端に彼の目から涙が溢れ、腫れた頬を伝った。しかし泣きながらも、彼は笑っていた。満足そうに笑っている。
「僕らは何の為に生きてる。次世代さえ確保出来れば、僕達はいらない。そんな中で生きていて何の意味があるんだ。いつかは殺される。憧れた『MOTHER』への裏切りに絶望を感じて死んでいく。そんな生に何があるって云うんだ」
ルカオは黙ったままだった。スカイはだんだんと声を荒げて、喋り続けた。
「僕がラウルの能力を調べた時、彼はありがとうと言ったんだ。僕が調べてることなんて全く疑うこともなく。『MOTHER』永住可能の通知を受け取って、彼は大はしゃぎだった。最高に幸せだと、僕に涙を浮かべ言った。本当に幸せそうに。僕が彼を死刑台に追いやったとも知らずに。もう堪らなかった、僕は部屋を飛び出して此処へ来ていた」
スカイは辛そうに顔を歪めた。その時のラウルが蘇ったのか。しかしまた彼は苦しそうな息と共に笑い声を発てた。
「コンピューターを停止させようとした僕を中央監査班は止めには入ったよ。どんなに押さえつけられても、僕は手を止めなかった。そうして電力を完全に落としたら、あいつらどうしたと思う。コンピューターを回復させるどころか、予備電力が続く間に我先にコールドスリープしたよ。結局生徒なんてどうでもいいんだ。自分とドナーとが助かるのなら、彼らには生きる意味がある。でも僕らにはないんだ、生きていたって殺されるだけだ。それを待って生きるなんてどれだけ残酷だと思う。殺される為に生きるなんて」
「それでお前は救世主のつもりか」
ルカオは不意に口を開いた。
「それでお前は満足なのか。全てを壊して、全ての生を奪って満足なのか」
「どうせ死ぬんだ。絶望で死ぬよりはマシだろう。僕は何も知らない皆を見ていられなかったんだ」
スカイは大声で喚きながらルカオの胸倉を掴んで揺さぶった。彼はまるで答えを強請っているように見えた。ルカオは顔を歪めた。噛んだ唇の間から震えた息が漏れる。
「どうしてお前が、」
スカイの目が怯えて揺れた。
「全ての生を、背負う必要があるんだ。お前が握る運命じゃない。何も知らない生徒達はステーションの電力が絶たれた今だって『MOTHER』に行けないことに絶望して凍え死んでいくんだぞ。全てを承知して此処で生きていくことは絶望だ。そんなの俺達監視役生徒だけでいい。それが運命だと使命だと俺達は思える。だがお前はあいつ等を救ったどころか絶望の淵に突き落とした。何も知らない彼らの希望は『MOTHER』にしかないんだ」
ルカオの一言に、スカイはその手を緩め、放心してその場に座り込んだ。「僕はただ、良かれと思って、」スカイはか細く呟いたが、誰もそれには返事をしなかった。スカイはそのまま項垂れた。レノとルカオはその様子を長い間眺めていた。しかし彼は死んだように動かない。栗色の巻き毛に隠れて顔は見えず、ずっと力なく項垂れていた。部屋の中は静かで、その間にも室温はどんどん下がっていく。レノはラウルの言葉を思い出していた。
「最近彼は一段と自分を責めるんだ。青い顔して、何かに怯えている」
スカイは「MOTHER」に行けないことを恐れていたのではない。「MOTHER」に行けることを恐れていたのだ。スカイは全てを背負い過ぎた。しかし今更それを口にしたからといって、自分にはどうすることも出来ない。レノはまた、手の指先から悴んでいくのを感じた。引いていく汗が、より早く体温を奪っているのだろう。ルカオは口を開いた。
「行こう、レノ」
ルカオはレノの手を取って、スカイの前を横切った。レノは戸惑いながらも、従い、ルカオと共に歩く。彼は振り返らなかった。レノはルカオが泣いていることを知っていた。
コンピュータールームの隣の別室まで二人は歩いた。ドアーは半開きになったままで、二人は手続きをすることもなく中へと入ることが出来た。其処はコールドスリープの為のカプセル型のベッドが幾つも並んでおり、保健総合施設と殆ど変わりはない。趣味の悪い濁った浅葱色のタイルも全く同じだった。ベッドの殆どは蓋が閉じられていた。奥の方にはまだ幾つか空きのベッドがある。ルカオはレノを連れて、その前まで来ると、ベッドの操作ボタンを弄り始めた。レノはその様子をぼんやりと眺めた。自分の存在価値や運命よりも、今、自分の前に居るルカオの背に圧し掛かったものの方が幾倍も大きいような気がしてならなかった。ルカオは振り返る。
「コンピューターが完全に停止している。手動じゃないと動かない」
ルカオはポシェットから、部屋で詰めたアクアドリンクを取り出し、レノに渡した。
「いいか、コールドスリープから目覚めたら、これで水分を補給するんだ。強い眠りの後は頭痛を伴いやすい。アクアドリンクは幾らか目覚めの助けになる筈だ」
「僕が。手動は外からしか操作出来ない」
「だから、俺が居るんだろう。お前は中央監査班にとっては大切な存在だ。一からやり直すより、お前が居ることで次のドナーの生徒達が生殖能力を持つ可能性は大きく増すんだ。スカイのように思い詰める奴も居なくなる。そうして、いつか監視役の生徒も、居なくなる」
最後の方は微笑を浮かべ、ルカオは云った。泣きそうな笑顔が彼の複雑な心境を物語っていた。レノはルカオの腕を掴んだ。レノは必死になって訴える。
「厭だ。僕は独りでなんて生きたくない。僕の生き方は僕が決める。ルカオ、独りにしないで」
「お前は生きろ。生きるんだ」
「厭だ。絶対に厭だ」
レノはルカオの腕にしがみ付いて泣いた。自分の望みが叶えられないのは知っている。しかしどうしても、現実を受け入れたくなかった。レノは声を上げて泣いた。咽ぶ度に、ルカオはその背を優しく撫でていてくれる。そうして暗示のように、「お前は生きろ」と繰り返し呟いた。長い間、レノは泣いた。手が悴み、脚の感覚がなくなっても彼の熱い体温を頼りに、ルカオの腕に懸命にしがみ付いた。頬を濡らす涙が外気で冷やされ、刺すような痛みさえ伴う。
しかしいつしか、レノの記憶は途切れた。頭の中が真っ白になっていく感覚を覚えた。目を閉じているのか、開いているのかも解らない。天井に溜まっていた光がゆっくりと自分の上へと降りて、圧し掛かり、完全に自分を埋め尽くしたのだと、レノは思った。彼の名を呼ぼうとしたが、もう声も出ない。そうして体の気だるさと疲労を感じながらレノは眠った。
「全施設の電力が、実に約八十年もの間ストップしていました。『MOTHER』からの信号がなければ、ステーションはその倍の年月をかけて再生していたでしょう。勿論のこと、一号棟施設から一八号棟施設全ての生徒が全滅です。その中に生殖能力を持った生徒は二%と居りません。研究が進んでいなかっただけ、幸いだと云えるでしょう」
「撹乱した監視役SKYの引き起こした事態です。これからは監視役生徒の教育と忠誠をより強いものにしていかねばならないでしょう。N126薬剤の投与を増やせばそれも可能です。副作用の危険性もありますが、今回の事を考えれば、それもやむを得ないこと」
「『MOTHER』からの信号が来たとご報告されましたが、汚染状況は改善されたと」
「既に『MOTHER』に人類は存在しませんが、自然の治癒力と人類とが残した最大の技術により、この百五十年の間にかなりの回復を遂げたようです。人が生存出来る確率は六十六%。百%になるまでに後百十年程かかるようです。『MOTHER』からのメインコンピューターからの信号は以下の通りです」
「只今生徒の生存者が確認されました。我々と共にコールドスリープを行っていました。左二の腕のバングルから、成功例の生徒と思われます。バングルから身元が判明。コード番号102104MT 生徒名RENO。監視役RUKAOの同室者です。コールドスリープ用ベッドの側に監視役SKYの遺体が。彼の仕業でしょうか」
「RUKAOはどうした」
「同じくコールドスリープを行っています」
「覚醒した時にどちらかが錯乱状態を起こす可能性があります。RUKAOにはN126の投与を、RENOには記憶操作を行うべきです」
「我々はすぐにも成功例、102104MT RENOのデータから新たなドナー生徒の開発に臨む。彼らの覚醒はその後だ。もしもの混乱を最小限に防ぐ為に、ステーション全てを同じにしておく必要がある」
真っ白の中でレノはそれと一体化していた。身体が何処なのか分からない。自分も光になって、全ての線が混ざってしまっている。右を見れば、既に其処に自分は移動している。また左を見れば、いつの間にか左に移動していた。しかし光の中では位置もはっきりせず、次の瞬間にはそれすらあやふやになってしまう。不思議な感覚だった。
自分の腕は何処だろう。頭は何処だろう。
レノは考え、身体を捜した。しかし辺りは白い光の中で、白金色の光が時々スパークするのが見えるだけだ。レノ自身の感覚など、何処にもなかった。何も考えられない。唯、不安定な視界が気持ち悪い。レノは嗚呼そうか、と納得しながらぼんやりと、スパークする電子の流れを見詰めた。
僕という人間はもう居ないのかもしれない。
レノがそう思った時だった。確かにレノは、喉を通り抜ける冷たさを感じた。彼は懸命にその感覚に集中する。また、同じく、自分の中に冷たい液体が流れ落ちていくのが分かった。そうして冷たさは身体の中を辿るように隅々に染み渡って行く。意識をより集中する度、何度も何度もそれが続く。レノは次第にはっきり自分を意識出来るようになった。すると少しずつ目の前に溜まっていた光が分散し始めていることに気付いた。光の間から闇が少しずつ広がっていく。段々と、取り戻される視覚。
レノは目が覚めた。目の前には薄暗い部屋の天井が映っている。頭が重い、身体も巧く動かせない。ゆっくりと辺りを見回す。白乳灯の背の高いスタンドランプ、クローゼットと小さな机と椅子。見慣れた自分の部屋だった。
体を支え起こす両腕に鈍い痛みが生じた。顔を歪め、どうにか背を起こすと、ドアーの前にルカオが立っているのが目に入った。手にはアクアドリンクのボトルが握られている。
レノは頭が働かず、声を掛けることもしないで、唯彼を見詰めた。先にルカオが口を開く。「身体検査に行って怪我するなんてとんだ間抜けだな、レノ」
「え」
レノは一瞬言葉に詰まった。記憶が巧く出てこない。そうして長い時間をかけてようやく、状況を理解した。
「あぁ、麻酔が切れるのが遅かったんだ。それで、気付いたら夕食時間を過ぎていた」
「おい、まだ朦朧としているのか。頭を打ったか」
「分からない。少し、痛むんだ」
ルカオは近寄って、レノの頭に手をのせた。温かい掌は心地良い。しかし目を閉じて幾秒もしないうちに心地良さは去った。レノは目を開いてルカオを見上げた。ルカオはツール・ウォッチを触っている。レノは呟くように云った。
「なんだか、変な夢を見たようだ」
「夢」
「覚えていない。けれど二度と、見たくない」
ルカオが怪訝そうに自分を見つめている。レノは不思議そうに見返した。ルカオは近寄ってレノの頬に触れる。レノは漸く自分が泣いていることに気が付いた。すると途端に身体が震え、嗚咽が口から零れ始める。ルカオはベッドに座り、レノを覗き込んだ。切れ上がった目は強く、美しかった。ルカオは静かに背を撫でていてくれる。レノは急激に高まった感情が徐々に静まっていくのを感じた。
「全部、夢だ」
「嗚呼、そうだね。何を泣いているのかな」
「長い間眠っていた所為だろう。もう朝食の時間だ」
「僕はそんなに眠っていたの」
「水分は取っておけ。少しは頭痛が止む」
ルカオは持っていたアクアドリンクのボトルをレノに渡した。レノはそれを受け取る。空蒼色の液体が、ボトルの中でとろりと揺れた。
まだ冷たい。
ルカオはベッドから立ち上がると、出口に向かう。スタンドランプに照らされた、彼は派手な緑のシャツを着ていた。レノは反射的にルカオを呼び止める。
「ルカオ」
振り返ったルカオは優しい微笑を含んで、此方を見た。
「なんだ」
「アクアドリンク、飲ませて、くれたよね」
「そうでもしなきゃ、お前は起きないからな」
ルカオは笑って答えた。レノはようやく安心して、笑顔を見せた。
読んで頂きまして、ありがとうございました。
だいぶ昔に書いた作品を手直ししたものですが、とりあえず好きなように書いてみました。
こちらは私自身は「BLではない」と考えておりますが、一般的に作中描写がBL部類とされるものだと判断しましたので、BLカテゴリーにしております。
もともと、どこからがBLかと判断するのは難しい問題だと感じております。確かにレノとルカオの性描写などは出てきますが、これはあくまで「レノの生殖能力の有無を調べるため」であり、どちらか一方でも(気づかずとも)恋愛感情があった、と言う風には自分自身捉えておりません。また、出てくる少年たちの間にあるものは、「恋愛」「友情」など簡単な心情で表せるものではありません。そこには10代前半の少年が抱く、様々な感情があり、主人公レノもそれに嫌悪したり、苦悩したりしています。
この作品もBLと位置づけるならばBLの定義は一般的に考えられているものよりも、はるかに大きなカテゴリーを持っていると言うことが分かります。
一般標識として「男同士の恋愛、肉体関係」(男性の同性愛=BLと決めつけるのもいささか乱暴すぎると思います)が大きな区分として今は存在しておりますが、その先には様々に枝分かれしたものがあります。その枝分かれ部分をBLと捉えるか、または純文学と捉えるかは読者の判断にゆだねられます。もちろん書き手もそれを念頭の上で執筆されている方は多いと思います。
作品を「BL」のタグにするかを悩んだとき、こう考察していくと、こういった類は非常にデリケートであるのだな、と改めて気付かされた思いでした。
登場する少年たちの心の動き、そこに何があるのか、あったのか、反芻して思い起こして頂ければ幸いです。