背中
ゆるゆると書いてます。
変なところがあれば都度ストーリーに関わらない程度に直しております。
神楽坂ダンジョンの地上階。
ひよりは、誰もいない柱の陰で静かに意識を集中し、実体化させていたフウとライ、影の軍団を自身の指輪と影の底へと返還した。
涼やライ、フウたちがそれぞれの場所へ戻っていく感覚を確認すると、ひよりは心地よい疲労感を覚えながら、いつもの受付カウンターへと向かった。
カウンターの奥で書類を整理していた西川妃那が、ひよりの姿を見つけた瞬間に顔を輝かせる。
「妃那さん、ただいま戻りました。リベンジ、無事に成功したよ。……あ、それと、レベルも50になったよ!」
ひよりがいつもの穏やかなトーンで報告したその瞬間、妃那の手が止まった。
彼女は驚愕のあまり、言葉を失ってひよりを凝視し、それから大慌てで手元の端末を操作した。
「……おかえりなさい、三上さん。……って、えっ!? 50!? 」
妃那は目を丸くして、端末の画面に表示された数値と、目の前でニコニコと笑っているひよりを何度も交互に見た。
センターの職員として多くのデータを見てきた彼女にとって、その事実は常識の枠を完全に踏み越えたものだった。
「三上さんの成長スピード、正直に言って異常です。通常、高レベル帯になると、次のレベルに上げるために必要な経験値量は指数関数的に跳ね上がると言われてるんです。探索の頻度にもよりますが、一つ上げるのに皆さんどれだけ時間をかけているのか……」
「えへへ、ちょっとリベンジが楽しくなっちゃって、欲張って頑張りすぎたかな」
ひよりは少し照れくさそうに、後頭部を掻きながら笑う。
その屈託のない笑顔は、かつて世田谷ダンジョンの片隅で「チンピラ」という底辺職を背負わされ、周囲から蔑まれていた少年のものではなかった。
そこには、数多の経験を積み、自身の力で居場所を勝ち取ってきた自信と、ひより本来の優しさが宿っていた。
ふと、ひよりは声を一段階落とした。周囲の喧騒に紛れるように、妃那にだけ聞こえる距離まで顔を近づける。
「……妃那さん。妃那さんには、最初からいろいろ助けてもらってるから。今度、ゆっくり時間がある時に、僕の……秘密のこと、少しお話ししますね」
それは、自身の職業の真実、精神的屈服や略奪によって経験値を得る異質なシステム、そして影に潜む軍団のこと。
信頼できる彼女になら、少しずつ打ち明けてもいいのではないか。
ひよりが勇気を出してそう口にすると、妃那は一瞬驚いたように瞬きをした後、いたずらっぽく、どこか艶やかに微笑んで返した。
「……それって三上さん。つまり……デートのお誘いだったりします?」
「っ!? い、い、いやっ、そういうわけじゃっ! その、お話しする場所が必要かなって思っただけで……!」
一気に耳まで真っ赤にして狼狽えるひより。
その、あまりにも初心で可愛らしい反応に、ロビーで休憩していた探索者たちが一斉に反応し、その場は爆笑と野次に包まれた。
「おい三上さん! そこで真っ赤になって引いちゃダメだろ!」
「そうだぜ! 勢いで『そうだ、デートだ!』って言っちまえよ、漢だろ!」
「ひよりくん頑張れー! 妃那ちゃん、押しに弱いんだからチャンスだよ!」
揶揄い飛ばすような言葉が次々と飛んでくるが、そのどれもに棘はない。
そこにあるのは、格上の探索者に対する「畏怖」ではなく、共にダンジョンに潜む仲間に対するような、温かく確かな親愛の情だった。
世田谷や蒲田のダンジョンでは、ひよりに向けられる視線は両極端だった。
実力への「称賛と畏怖」、あるいは「チンピラ」という名前への「蔑み」と「嘲笑」。
だが、ここ神楽坂は違った。
"三上さん"、"ひよりさん"、"ひよりくん"。
ロビーを歩けば誰もがひよりに挨拶をし、他愛ない雑談を交わし、明るい笑顔を向ける。
ひよりがこの数日で変えたかったのは、ダンジョンの踏破階層という記録だけではない。
初めてここを訪れた時に感じた、あの暗く、諦めに満ちた空気。
スタッフも探索者も「どうせここは、新宿への通過点でしかない」と腐っていたあの場所を、彼はその背中一つで見事に変えてしまったのだ。
ひよりが示した「結果」という揺るぎない答えは、神楽坂に集う者たちの心に「自分たちも変われるかもしれない」というやる気の種を植えた。
その種を育てて大輪の花にする者もいれば、まだ芽が出たばかりの者もいる。
中には変化を嫌って腐らせてしまう者もいるかもしれないが、それでも、神楽坂ダンジョンという場所は、確実に、そして劇的に変わり始めていた。
ひよりは真っ赤な顔のまま、それでも逃げ出さずに妃那の瞳を見つめ返し、声を絞り出した。
「……っ、あの。妃那さんのことも、いろいろ教えてもらえると嬉しいです。だから、その……お願いします」
ひよりが勇気を振り絞って放ったその言葉に、今度は妃那の方が想定外だったのか、頬を林檎のように赤く染めた。
彼女は視線を泳がせながら、小さく「……はい、喜んで」と囁くように答えた。
これまで、日本の探索者界隈において「神楽坂」は、ただの初心者用訓練所、あるいは新宿ダンジョンへ向かう前の準備運動の場でしかなかった。
しかし今、この場所に誇りを持って留まり、自分たちのホームとして愛そうとする探索者が増え、ダンジョンのスタッフたちの顔には活気が戻っている。
神楽坂にもたらされたこの「変革の風」は、単なる一箇所の成功例では終わらない。
探索庁東京本部直轄であるこの場所で起きた異常事態――「嘲笑されるデータにもない不遇職の少年による、高速の深層攻略と環境改善」という報告書は、静かに、だが抗いようのない力を持って、組織の中枢へと吸い上げられていく。
『三上ひより』
その名は、もはや一介の学生探索者の域を超え、巨大な組織の中枢に深く刻まれることになった。
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