7.偽りの色を塗る
ふっと意識が浮かび上がった、そう思ったら目が覚めていた。
浅く息をついて、ゆっくりと身を起こす。何度か息をくり返すうちに、左手の震えも落ち着いてくる。
国を出たときの夢を見るのは、珍しいことではない。
ベッドを降りて、汗の滲んだ寝間着をゆっくりと引き抜き、身支度を調える。
耳を澄ませると、階下から包丁を使う音がした。ふたりで暮らし始めてからというものの、テオより早く起きられたためしがない。手早く髪を梳かして、顔を洗いに階下へ降りた。
「おはよう、テオ」
「おはようございます、姫」
手を洗った私は、野菜を切るテオの隣で卵を割る。週末の朝食はオムレツと決まっているから、迷うことはない。
ちらりと見ると、テオは薄く切った林檎を野菜の上に飾り付けているところだった。
先日テオが抱えて帰った籠いっぱいの林檎は、王立騎士団の先輩からのお裾分けだという。朝日を受けてつやつやと輝く林檎は、テオが職場によくなじんでいる証でもあった。
オムレツとサラダ、そして新鮮なミルクで朝食を終えると、一緒にお湯を沸かした。
お湯を張ったボウルに髪の先を浸していきながら、少しずつシランの実から取れた油をなじませる。根気よく続けるうちにお湯は濁り、私の髪は生まれ持った本来の色を取り戻してゆく。
このまま乾かせばふわりと波打つ私の髪は父譲りの金髪で、この国ではとても目立ってしまう。
……八年前、私たちを保護すると決めたおじさまは、家族旅行と扮して戦の状況を直接偵察しに来ていた人だった。ヘルヴェスの王立騎士団長の前で染めた色を落とすのは危険だったし、目立っても良いことはない。自ずと、髪を染めるのが習慣になった。
「姫、そろそろ代わりましょう」
「ええ、ありがとう」
テオは目の粗い櫛でゆっくりと髪を梳きほぐしながら、残った色を落としはじめた。
私は膝に抱えたボウルに髪粉と乾燥させた薬草を混ぜあわせ、少しずつお湯を注ぎながらへらで溶く。とろりと粘性を帯びたそれを根気よくかき混ぜて、へらを持ち上げてもさらさらしてきたら完成だ。
ボウルを覗き込んだテオは頷いて、ボウルに刷毛の先を浸す。
「染める前に、少し髪を整えてほしいのだけど」
「もちろんです」
このくらいと指で示した長さに、鏡の向こうでテオが瞬いた。
「いくら何でも短すぎやしませんか?」
「この頃は鎖骨の下で切るのが流行なのですって。ヘルヴェスは短髪の女性も多いでしょう」
テオは黙って私の髪を一房すくい取り、しばし濡れた髪の筋をたどるように眺めていた。
できうる限り手入れをしているおかげで、週に一度染めているにしてはきれいだと思う。
「本当に切りたいのですか? 俺に遠慮してではなく? 姫が髪粉を溶くのに慣れたように、俺も髪を染めるのに慣れました。もちろん、姫が本当に望まれるのでしたらお切りしますが」
言いながら、テオは静かに髪に櫛を通した。毛先へ落ちた櫛を追って、剣を握ることに熟れた指先が髪の間を通って落ちる。首筋に触れるか触れないかのところで感じたあたたかさに、一瞬、息が止まった。
鏡の中に映るテオは目を伏せていて、こちらを見ていない。
ただ私だけが、密やかにうろたえていた。
一度鏡の中を離れたテオは、鋏を手にして戻ってくる。
鏡越しに視線が合わさって、テオが唇を緩めた。彼の瞳が私を安心させるように細められるとき、私はいつだってその視線の先にいることに驚いて、いいのかしらと迷ってしまう。
「どうしますか? 髪を大切になさっておいででしょう」
テオはいつも、こうして私がお人形だった頃に揺り戻されようとするとき、そっと手を引くように接してくれる。
ほんの少し拗ねたような気持ちを持て余していると、テオはくすりと笑んで、いつものように鋏を動かし始めた。
頬が少し熱いから、きっとそういう顔をしているんだろう。鏡の中に映る自分を見ていたくなくて、私は目を伏せる。優しく鳴る鋏の音が降り積もり、ほんの少し頭が軽くなっていく。
テオは鋏をしまうと、刷毛を手に取ってボウルの縁で何度か扱いた。ややあって、ひんやりとした感触がして、一房ずつ髪に色が塗られていく。
私はもう自分の世話ができるようになっていたし、髪が伸びる間隔だってわかっているのだから、ひとりでも髪を染められるだろう。それでも、私はテオに髪を染めてもらいたかった。
「昨日、騎士団にお越しになったイレーネ様が、週明けに夕食に来ないかとおっしゃっていました」
「おばさまが? ありがたいことね」
おばさまは、私たちがあの屋敷を出た後も何かと気に掛けてくださる。
ヘルヴェスで、貴族が移民を保護する例はそう多くない。こうしてお屋敷から出た後も食事の誘いを続けてくれるのだって、通常ならありえない厚遇だ。
おじさま夫婦が今もなお私たちを気に掛けてくれるのは、気さくな人柄ばかりが理由ではない。
森を出てすぐに向かった国境の街で、ドミニクを診察した医師が一歩遅ければ足を切り落とすところだったと言ったからだ。おじさまとおばさまは仰天し、私たちに何度も感謝の言葉を述べて、何でもお礼をすると言い出した。
「……今でも、思い返す度に不思議に思うわ。おじさまたちと出会うなんて、私たちはなんて幸運だったのかしらと」
無意識に喉元に触れようとした指先が、染料が付かないよう巻いた布に触れる。
「そうですね。団長のおかげで、国境も難なく越えられました。
……姫、後悔しておられるのですか?」
髪の根元が染まっているか丁寧に確認していた指が離れて、そっと髪を後ろへかきやった。
静かな問いに促されるようにして、私は鏡の中に目を向ける。
鏡越しにこちらを見つめるテオの表情は、ひどく穏やかで揺るぎない。森の中で誓いを交わしたときと同じまなざしが、私という存在の輪郭を定めようとするかのように包み込む。
「いいえ、ちっとも。私は最善の選択をしたわ。何もいけないことだとは思わないし、恥じてもいない」
……王都を離れて数日経ち、川で身体を洗うことにも慣れた頃。
テオは、私の首筋に痣が残っていると言って唇を噛んだ。さしだされた小さな鏡を覗き込むと、確かに私の首にはお母様の手の痕が滲むように残っていて、不思議な気持ちがしたことを覚えている。
テオがこまめに薬を塗ってくれたにもかかわらず、旅の間首の痣が薄れることはなく、テオは何も口にしなかったけれど、心理的なものだろうということは私にも見当がついていた。
国境の街の宿屋に着くと、おばさまは私たちにお湯を使わせてくださった。
侍女たちは主が浮浪児を拾ったのに不満げだったけれど、泥汚れを落とした私たちをまじまじと見つめたものだった。
そう、身ぎれいになった私たちは、貴族の子どもにしか見えなかった。
あらまあと呟いたおばさまは、私の首筋に浮かんだ痣が人の手の形をしていることに気づくと、何てことでしょうとため息して私を抱き寄せてくださった。おじさまの注意深い視線は、私の瞳が行方不明の王女と同じだと見抜いていたような気がして、恐ろしかったのを覚えている。
おじさまとおばさまは顔を見合わせて、何か事情があるなら話してほしいと言ってくださった。
それで、私の唇はするすると嘘をついたのだった。まるで物語を諳んじるように。
――騎士である父を戦で失い、母に首を絞められて殺されかけたことで、従兄と一緒に屋敷を出た貴族の娘。
あの日から、それが私たちの来し方になった。
私たちは不憫で可愛そうな子どもで、庇護すべき存在として見做されて、こうして無事にヘルヴェスにたどり着いた。優れた剣技を持つテオはおじさまに気に入られて王立騎士団に入団して、私はドミニクの妹の話し相手として遇されることになって……自分たちで生計を立てられるようになるまで、随分お世話になった。
……今はもう、私の首に痣はない。
ただ時折、最後にお母様から握られた左手がうまく利かないだけで。
染料が飛び散らないよう気をつけながら首をめぐらせると、テオが刷毛を洗い終えたところだった。
「ねえ、お土産に焼き菓子を持っていかない?」
「そうですね。きっと喜んでくださいます。ちょうど材料もありますね」
私はええと微笑みながら、林檎の数を目で数えるテオの横顔を見つめた。
高く上った日の光は、形の良い額からすんなりと通った鼻筋、柔らかに結ばれた唇を通って、淡く輪郭を縁取っている。
私はずっと、嘘をついて生きている。
けれど、わるいことをしているとは思わない。いつか誰かに許しを乞うべきだとも。
嘘も偽りも放り捨てた義務もすべて飲み下す代わりにこの平穏な生活を手にすることができたのだから、私は傲慢にも後悔していなかった。
ただ一つだけ。もし私がいなかったなら、テオはもっと自由に生きられただろうということだけが、刺さったままずっと抜けないでいる棘のように気がかりだった。




