6.森の出会い
「父は時折、俺にだけ特別な訓練をすることがありました。その一つが、ヘルヴェスに密入国して、あちらに生息する花を持って帰ることでした。あの頃はなぜそんなことをさせられるのかわかりませんでしたが、無事に達成できましたよ。ですから、姫が心配なさるほど大変なことではないんです」
たっぷり十数える間何も言えないでいた私に、テオは街で手に入れた地図と持参した地図を引き合わせながら、いまはこの辺りにいますと指で示してみせる。
「信じられないわ。騎士の家では当たり前のことなの?」
「いえ、流石に。父は、早くから色んな事態を想定していたのだと思います」
唖然とする私に、テオは静かに微笑んだ。
「父は、どうしても姫のお母上のことが忘れられなかったのでしょう。いつだって、城のある方角を眺めている人でした」
「……息子としては、嫌な気持ちがするものではないの?」
「普通はそうかもしれませんね。ただ、俺は兄たちと違って父に反発したことはないのです。
母が諦め、許していたせいかもしれません。母はよく、父は過去にした忘れものを追い求めて生きている人なのだと言っていました」
私はふと、お母様の癇癪から逃げ出すたびに、乳母の腕の中でくり返し説かれたことばを思い出した。
――可哀想な姫様。いい子ですから、王妃様を許してさしあげましょうね。王妃様は、大切なものを失ってしまわれたのですから……。
「どうかご心配なさらないでください。俺は、王妃殿下も姫のことも恨んではおりませんから」
ずっと気にしておいでだったでしょう。さらりとそう言って、テオは地図に目を落とした。
だから、私はそれ以上同じことを切り出すのはやめた。本心はどうであれ、テオの優しさに報いるにはそうするべきだと思ったから。
「……国境を越えてすぐのところに、新しい道ができたのね。公道の印が付いているわ」
「ヘルヴェスと公道を繋げる話が出ていたのかもしれませんね。姫の婚約は、その延長線上で出たお話の可能性があります」
テオは、城の大人たちのように私を意思のないお人形のように扱わなかった。
彼はいつだって必ず私の意見を聞いて、自分の考えと摺り合わせる。もちろん、私が考えるようなことは想定済みだったのだろうけれども、そうやって尊重してもらえるのがうれしかった。
私たちは相談して、街には戻らずにこのまま森を迂回して国境を目指すと決めた。
季節は春で、野草や木の実を探すのに困ることがなかったのは幸いだった。罠にかかる獲物だってたくさんいる。暑さに見舞われることもなく、寒さに凍えることもない。世界は、国を出ようとする私たちに優しかった。
森の中をゆっくりと移動して数日が経った頃。
私たちは、自分たちとそう年の変わらない子どもが倒れているのに行き会った。
一目で貴族の子息とわかる出で立ちの少年は森の中を彷徨ったのか、疲れ切ったように倒れ伏していた。
テオが迷うそぶりをみせたのに、私は助けましょうと囁いた。
私たちを捕らえるための罠とは到底考えられなかったし、少年が森に慣れていないことは明らかだった。それに、破れた裾から覗いた傷は赤く腫れて膿み始めていた。
少年は目を覚ますと、自分を助けたのが泥で顔を汚した子どもたちだと知って驚いていたものの、害がないと悟ると、賊に追われて家族とはぐれてしまったのだと教えてくれた。
私たちがヘルヴェスの建国神話に由来した名前で、きちんと言葉が通じたことも警戒を解いた理由だろう。まさか、彼がテオに懐きに懐くとは思わなかったけれど。
「テオは本当に何でもできるな! 僕の兄よりすごい」
「とんでもない。坊ちゃんのお兄様が聞いたら驚かれますよ」
「兄は騎士にならないと決めた人だし、明らかにテオのほうが腕が立つ。……なあ、坊ちゃんって呼ぶなって言っただろう。ドミニクって呼べよ」
ドミニクは溌剌としていて、自分が恵まれていることにまだ気づいていない年頃特有の奔放さがあった。
彼からテオのおまけとして扱われること自体は何とも思わなかったけれど、いつも繋いでいた手を当然のように奪われたことだけは憎らしかったものだ。ドミニクの手前、テオが私に敬語を使わなくなったのがうれしかったから、かろうじて我慢できたのだと思う。
テオがどんなに宥め賺してもドミニクが頷かなかったので、私たちは彼を送り届けることに決めた。そこには、ヘルヴェスへ戻るという彼の家が、一緒に馬車に乗せてくれはしないだろうかという打算もあった。
「ドミニク、どの辺でご家族とはぐれたのかわかりますか?」
「道沿いだったが、詳細にはわからない。ただ、護衛も少数に絞っているから、大きく道を外れて捜索しないと思う」
ドミニクは心配になってしまうほど警戒心が薄く、自分の家は騎士の家系で、父は王立騎士団長だと誇らしげに話した。将来は自分も父のように騎士になるのだと話すドミニクは、私たちがひっそりと彼の家族から褒美をもらうことを諦めたことなどいざ知らず、父の武勇を身振り手振りで話してくれたものだった。
テオがふいに足を止めたのは、ドミニクを拾ってから三日ばかり経ってからのことだった。
声を上げかけたドミニクの口を封じて樹の背後に回ったテオは、注意深く前方を伺うと――ほっと力を抜いて、ドミニクに立つよう促した。
「あちらから、ドミニクを呼ぶ声がします。おそらくご家族か護衛でしょう。見知った相手かどうか確認してもらえますか?」
「もちろんだ! でも、僕には聞こえないぞ」
テオは、力強く頷いたドミニクにくすりと笑った。
ドミニクの声はよく通る。程なくして、護衛を引き連れた大柄な騎士が姿を現した。赤みがかった茶の髪と瞳がそっくりであったから、一目でドミニクの父親だとわかった。
「父上!」
軽やかに駆け出したドミニクが父親に抱きつく姿を、私は不思議な気持ちで眺めたものだった。
ドミニクの父親は勢いよく腕の中に飛び込んできた息子を難なく受け止めて、朗らかに笑う。
「ドミニク! このやんちゃ坊主め! どれだけ心配したと思う?」
「痛いいたい痛い! わかっています、申し訳ありません!!」
私たちはそっと目交ぜして、ドミニクを羽交い締めにしている彼の父親に会釈する。
そのまま踵を返した私たちの背を、慌てたような声が追いかけてきた。
「待ってくれ! 馬鹿息子を送り届けてくれた礼をしたい」
「とんでもございません。当然のことをしたまでです。どうかご放念ください」
「いや、しかし……」
あのとき、ドミニクが朗らかに割り込まなかったら、きっとおじさまは私たちをそれ以上引き留めようとはしなかったはずだ。
何せ、外套で顔を深く隠した私たちは遠目にも薄汚れていた。浮浪児だと思ったのだろう、護衛たちもあまりこちらをきちんと見ようとはしなかった。
「父上、テオはすごいんですよ! 傷の手当をしてくれて、野営の仕方も教えてくれました。罠を仕掛けるのも料理だって、兄上よりずっと上手いんです」
「お前なあ。もっと反省するところだぞ」
おじさまは清潔な包帯が巻かれたドミニクの足に目を落とすと、ふむと頷いた。
テオはじりじりと後ずさりながら、ほとんど唇を動かさずに囁いた。
「どうしますか? 悪いことにはならない気がします」
人生には、ふいにその先を左右する決断を迫られる瞬間が訪れる。
私は確かに、あのとき自分で選択したのだ。テオの主として嘘をつき、この先も嘘を貫いて生きることを。




