30.私の愛しいあなた、ずっと一緒にいてください。
柔らかい風が頬を撫でて通り過ぎたのに、私は眠りから覚めた。
ぼんやりとした眠気の波が打ち寄せるのが心地良さに目を閉じていると、階下に人の気配を感じる。いつも早起きのテオは、今日も先に起きている。
生活をする気配が微かな音となって届くのをぼんやりと感じていると、近所の人がやって来た。声が大きいご近所さんは、どうやら野菜をお裾分けしてくれたようだった。
何でもない日常に、ほっと心が安堵する。
そろそろ起きようと思ったとき、階段を上ってくる気配が届いた。
テオだわ。そう思った瞬間、急に気恥ずかしさがこみ上げて、私はなぜだか上掛けの中に包まり直していた。部屋の扉が叩かれて、名前を呼ばれる。そわそわして黙っていると、遠慮がちに扉が開けられて、足音が近づいてきた。
「セシル、朝ですよ」
うん。そう返事をしようとした私は、優しい指が髪を撫でたのにどきりとする。
だって、こんなふうに起こされようとしたことなんてない。
「……お目覚めですか?」
髪の筋をたどった指が、ゆっくりと毛先までなで下ろす。
優しい仕種に、私は昨夜のキスを思い出さずにはいられなかった。
どきどきと忙しなく騒ぐ心臓が少し落ち着いたとき、指にくすぐったいような感触が触れた。
不思議に思った私は、瞼を押し上げる。淡く像を結んだ視界に、真剣な面持ちをしたテオの横顔をが滲むように浮かび上がる。彼の視線の先にある私の手も。私の指には、細いリボンが巻きつけられている。
「……テオ?」
ぴしりと動きを止めたテオは、私の手を覆った。もう見たわと言うと、テオはわずかに逡巡したのちにいつものように微笑んだ。
「セシル、おはようございます」
「おはよう、テオ」
しばし迷って、私はテオのほうへ手を伸ばした。テオが微笑み、ゆっくりとベッドの上に腰を下ろす。柔らかく抱き寄せられて、体温を分かち合うように身体を包まれる。それだけで泣きそうに心が安らいで、私はテオの肩口に顔を埋めた。あたたかい身体に腕を回すと、応えるように髪を撫でられる。
気恥ずかしくて、少し笑ってしまう。くすくすと笑う私の額に自身のそこをくっつけて、テオが目を細めた。テオのまなざしに、頬がじわりと色づくのが分かる。頷いて、私はそっと瞼を下ろした。
静かに、唇が重なる。鼻先を触れあわせるようにされると、くすぐったい。
薄く目を開けてテオを見ると、昨夜何度も見たのと同じ表情をしていた。つまり、私の胸をどうしようもなく騒がせる顔を。
頬の線をたどるように指でくすぐられて、指の腹が唇をたどった。そう思ったら、優しく唇が落とされる。触れるだけのくちづけを何度かくり返しながら、膝の裏に腕を通されてふわりと抱き上げられた。テオの脚の上に身体を下ろされる間も、キスは止まないでいる。
「ん……、ん、」
唇を柔らかく吸われる心地よさに、私はうっとりとする。
すぐ傍にある、明るい光を取り込んだ青の瞳がきらきらと揺れていて綺麗だった。ぼうっとみとれているとくすりと笑みが落とされて、唇が離された。
「……朝起きたとき、やはり夢だったのかもしれないと不安だったんです。でも、俺を見るセシルの顔を見ればすぐに違うとわかりました。あなたに触れたら、現実だとより確信できました」
深くふかく抱き寄せられて、テオの腕の中に包み込まれる。ほっと息をついて、テオの身体に腕を回した。
「私は、気恥ずかしかったわ。昨日あれだけ話をしたのに、何だか落ち着かなくて」
昨夜はあの後、これまでは何となくできなかった話をした。
手をつないで肩を触れ合わせながら、あの国にいたときのことや両親のこと、この国に来てからのことをぽつぽつと話すのはそっと心を撫でられているみたいに気の休まることだった。話の中にさみしさがまったくなかったと言えば嘘になる。でも、今まで言えないでいたことを話せた喜びの方を大事にしたいと思える自分がいた。
何気なくテオを見上げた私は、ふと胸にこみあげた、よくわからない――色んな感情が混ざり合った甘酸っぱさに喉を塞がれたように押し黙る。
「……どうして、そんなに優しく笑うの」
気づいたら、私はそう訊ねていた。
瞬いたテオは、そうですね……と少しの間考えるように首を傾げる。
「あなたのことが可愛くて、気づいたらこうなってしまうんだと思います。自分ではどんな表情をしているのかわからないのですが……でも、セシルが教えてくださるなら、知らないままでいいことにします。ずっと隣にいて、教えてくださいますか?」
……本当に、テオにはかなわない。こんなに優しく甘やかされたら、どうしたって喜んでしまう。
「約束するわ。……だからテオも、私の隣で、私がどんなにあなたとの暮らしを大切にしていて……幸せでいるのかを教えてほしいわ」
「はい、お約束します」
頬を撫でた指が顎先をすくいとって、くちづけが落とされる。
――当然のように、誓いのくちづけはたった一度では終わらなかった。
一緒に階段を降りて、食材を見ながらああでもないこうでもないと何を作るのか相談する。
近所の人がくれたという野菜は昼下がりの光の中でつやつやとして見えて、いっそうお腹が空いてくる。そうして、私たちはオムレツを作ることにした。いつもは卵だけのオムレツにするけれど、今日は余っていたきのこと鶏肉を入れることにする。
卵を割りほぐすテオの横で、私はスープに使う野菜の皮を剥いた。時折、震えた左手から野菜がこぼれ落ちることもあったけれど、私には一緒にかがんで拾ってくれる人がいる。
テオが鶏肉を焼きはじめると、いっそうお腹が空いてきた。野菜を鍋にいれながらじっと見つめると、テオがふむと考える。
「熱いですよ」
「うん……ん、」
「おいしいですか?」
私は口を手で押さえて、もぐもぐと咀嚼する。
……テオは十二分に火が通っているのを確認してから、少し火から遠ざけて冷ました小さな鶏肉を私の口に入れた。これまでほとんどそうしていたようにお皿に取り分けることはせず、直接。
「よかった。後は出来てからいただきましょう」
頷きながら、私はじんわり熱い頬に手を当てて冷まそうとする。でも、ちらりとこちらを見たテオがふふと笑ったので、うまくいくはずもなく。マフィンを口に入れてもらったときのほうが、まだ平然とできていた気がする。でも……これからはもっとこうした触れあいが増えていくのだと思うと、うれしさを堪えきれなかった。
テオが手際よく作ってくれたオムレツと野菜のスープ、それから林檎を切ってテーブルに並べる。
いつも週末の朝に作るせいか、しっかりと具の入ったオムレツを平日の昼下がりに食べているとちょっと贅沢なことをしているみたいだった。……これまでと違って、テオが私の隣で食事をとっているせいもある。
あの、とずっと考えていたらしきことをテオが言いだしたのは、食後のお茶でひと息ついていたときのことだった。
「セシル、俺と結婚してくださいませんか?」
気づけば、私の口元はほころんでいた。緊張に頬を強ばらせたテオはうろたえたように唇を噛んで、それでも視線を逸らさずに見つめ返してくる。
彼が、もう姫と騎士ではなくなった私たちの関係性を大事に思ってくれていることがわかる。なぜって、騎士としての仕種が身体に染みついているだろうに、いまテオは膝を突いてはいない。そのことがうれしくて、笑みを堪えきることができなかった。
「結婚、してくれるの?」
我ながら浮かれた声だった。だって、想いが通じただけでもう充分夢のようなのに。
私にとって結婚とは義務として与えられるもので、義務を越えた幸いが自分に訪れるかもしれないだなんて想像してもみなかった。
「したいです。……セシルは、結婚したくないですか?」
テオは、ぎゅっと眉を寄せる。否定されるのを恐れていて、でも懸命に押し殺そうとしているような硬い声だった。私はテオの頬に触れて、考えるまでもない答えを返す。
「うれしい。あなたと結婚したいわ」
「よかった。……ちゃんと、あなたと家族になりたいです」
偽りのいとこではなくて。
静かな囁きの余韻が消える前に、私はテオに顔を寄せてキスをした。
ほんの少しだけ顔を離すと、テオはいつになく真面目な顔をしてみせる。
「すぐにでも婚姻届を出しましょう。証人のサインは、殿下とクラウディア様にいただいてもいいかもしれませんね」
私は休日には届け出ができないことを思い出しながら、商家でふたたび働きはじめる日までの日数を数えた。私たちはいとこということになっているから結婚しても苗字は変わらないけれど、職場でも手続きをする必要がある。
「休暇が明ける前に出しておいたほうが良いわね」
「はい。できるだけ早く。明日にでも」
そんなに? と思っていると、テオが私の髪を一房すくいとって唇を押し当てた。
「少しでも早く、あなたと俺が夫婦だと言えるようにしたいです。もし今後何か起こったときに、従兄よりも近い関係であなたを支えられるように。それに、セシルのことを好きな人はたくさんいますから、早く諦めてもらわないといけません」
テオから大切に思われていることのうれしさとは別に、そんなことはないのにという気持ちになる。
言葉を選びかねていると、本当ですよといやに力強く頷かれてしまう。
「テオのほうが人気でしょうに」
「いえ、そんなことはまったく」
私たちは、じっと見つめ合った。ややあって、私は苦笑する。
確かに、テオの指に結婚した証である指輪が嵌められている様子を思い浮かべると、それはとても素敵なことのように思われた。
「……そうかしら? でも、テオが私以外の人と結婚できなくなるのはいいわね。一緒に役場に行きましょう。今日明日で、たぶん証人についても頼めるでしょうし」
クラウディアに手紙を書いたら、きっとすぐにサインしてくれるだろう。もしかすると、ディートフリートといっしょにまたお忍びでやって来るかもしれないほどには喜んでくれる気がした。
はいと破顔したテオのうれしそうな顔を見つめていた私は、ふと。記憶に引っかかりを覚えて瞬きする。首を捻ってしばしして、私は何に違和感を覚えていたのかに思い至る。
「指輪は、ふたりで支度したいわ。私だってちゃんと貯蓄しているの、知っているでしょう?」
先程、テオは不思議なことをしていた。指にリボンを巻きつけるだなんて何をしているのだろうと思っていたけれど、指輪の大きさを確かめたかったのなら納得できる。
私が眠っている間に色々と考えてくれていた彼の気持ちが愛おしく思われて、唇がひとりでに緩んだ。
ひそかに指輪を用意してくれるつもりでいたのだろうテオは、しばらく何も言わなかった。
ただ、その頬がひどく恥ずかしそうに染まっていたものだから、私はテオが頷くまで微笑んで待っていた。
「わかりました、そうしましょう。婚姻届を出すのも、指輪も楽しみです。……自分で言うのも何ですが、俺は独占欲が強いので」
隣り合った指先が絡んで、指輪を嵌める場所を撫でられる。
「ここに、俺とあなたが夫婦である印を嵌めておいてほしいです。俺のここにも、あなたが隣にいることを教えてくれる印がほしくて。……それで、ちょっと気が急いてしまいました」
テオの身体に肩を寄せると、そっと手を握り込まれる。
首を傾けて、私は目の前にいるひとの優しい輪郭を目でなぞった。
たぶん、きっと。私たちはこれからもずっと、こんなふうに話をして。私たち以外にとっては他愛がなくてごくささやかで、でも大切な約束を重ねながら過ごしていくのだろう。
もう私はヒルデガルトではなくなったし、テオもまたセオフィラスではない。
私を主にしてくれて、テオを騎士たらしめていたもの。私が知る何よりも思いやりに満ちていて、でも胸に刺さった棘のように抜けないでいた姫と騎士の誓いはすでに解かれて、いまはもう思い出の中にしかなくなった。そのことがほんの少しさみしくて、同時に愛おしくもある。あの約束は幼かった私たちの支えであり、いまの私たちにとってもなくてはならないものであったから。
……でも、新しく立てる誓いは解かなくてもいい。
これからずっと、ただのセシルとテオとして一緒に生きていくために交わす約束だから。
テオは、私がゆっくりと泣き出したのに瞬いた。
心配そうに名前を呼ばれながら、私はうんと頷くことしかできなくて――これは幸せな涙だとようやく伝えられたのは、あたたかい胸に抱き寄せられてしばらく時間が経ってからのことだった。
これにて完結です。お読みいただき、ありがとうございました!




