29.夢のつづき
初めてするくちづけに、じわりと頬が熱くなる。
ほんの少し離れた先にある唇をたどって見た先で、テオはくしゃりと顔を歪めてはにかんだ。そのはじめて見る表情に、心臓が跳ねる。
「……くちづけに応えてくれたということは、セシルの中にも俺への気持ちがあると期待してもいいですか?」
名前を呼ばれると、どうしようもなく心が喜んだ。
緊張した面持ちのテオのことばが胸に染みていくのを感じながら、目の奥が熱くなる。
頬を包まれているから俯くこともできなくて、膝の上で手を握りしめた。これが現実だと確かめようとして、強く。自分に都合の良い夢を見ているみたいで、まだこれが現実だという気がしなかった。
「ずっと、姫としてではなくて、騎士ではないあなたという人にとって大切な存在になりたかった。だから、一度離れようと思ったの。もし可能性があるのなら、少しずつ距離を縮めていきたいと思って……だから、話をしようとして、」
せき止められていたものが押し流されるようにして、ずっと喉につかえていた言葉が涙とともに溢れ出す。うまく続きを言えないでいると、優しい指が涙の跡をたどった。
「驚かせてしまいましたね。……あなたの話をきちんと聞いてからと思いながらも、焦って先を急いでしまいました」
私は首を振ると、指先でテオの唇に触れて続こうとしていた謝罪を封じた。
小さく目を見開いたテオを見つめて、私は勇気を振り絞る。つい先程、テオがそうしてくれたように。
「テオ、あなたが好き。あなたを、主としてではなく一人の人として大切にしたい。あなたがつらいときには側にいたいし、抱きしめてあげたい。
昨夜、あの国にいた頃のことを教えてくれたときだって、城であなたがしてくれたように抱きしめたかった。でも、あなたという人をちゃんと大切にしたいのなら、姫と騎士のままでいてはいけないと思ったの」
ようやく伝えられた。安堵したとき、静かに聞いてくれていたテオの手が頬から離れて、震えている左手を包み込むように握られる。
本当はね。囁くと、はいと優しく頷きが返された。
「泣くつもりはなかったのよ。だってあなた、私が泣いたら無理をしてでも気持ちに応えようとするでしょう。あなたはいつだって私を優先してくれるもの。うれしくないと言えば嘘になるけれど……それで、なかなか言えなかったの。家に帰りたいと言ったのは私だし、あんなに泣いてしまったから気がかりで」
瞬きをすると、またひとつ涙が零れた。
「教えて。あなたに気持ちを強いていない? キスしてくれたのは、私を慮ったからではないと信じてもいい?」
はいと力強く頷いて、静かに額が重なった。
ふたたび触れあった体温に、身体のこわばりがほどけていくのを感じ取る。
「正直に言うと、気持ちを伝えたとき、あなたが騎士の献身に報いるために気持ちに応えてくださるのではないかと気がかりでした。でも、セシルの表情を見ていればそうではないとわかります。セシルも同じだったんですね。だから、俺に騎士としてではなく一人の人間としての答えを望まれた」
うん、と頷いて。私はずっと自分の中で夢見るだけだった願いごとをした。
「私は、あなたと一緒に幸せになりたい。騎士の忠誠ではなくて、あなたの心がほしい。これからも、私と一緒にいてくれる?」
次の瞬間、目の前いっぱいに広がったのはテオの笑顔だった。
忘れかけていた涙が目の縁で膨らんでぽろぽろとこぼれても、喜びであふれたその表情の眩しさは薄れない。
「嬉しいです。俺にとって、あなたの騎士としてふさわしく在ろうとすることは嘘偽りなく心からのものでした。でも、そこにあなたの側にいられる理由を失わないための保身がなかったかと言えば違います。……本当は、ずっと望んでいて、でも望んではいけないと諦めていた気持ちです。ずっと、ずっとお慕いしていました。ただのテオとして、あなたの隣にいさせてください」
そっと背を引き寄せられて、私の身体は椅子から離れた。
あたたかい腕に包まれる心地よさに、ほっと緊張がほころんでいくのがわかった。そろそろとテオの背中に手を回して抱きしめ返すと、ああ本当はずっとこうしたかったのだという気持ちがした。想いを伝えられた安堵と気持ちが通じ合ったうれしさとが溶け合って、ゆっくりと胸に染みていく。
あたたかい胸元に顔を押し当ててとくとくと駆けるように脈打つ心臓の音を聞きながら、優しく髪を撫でられて。とめどなく溢れ出す涙が収まるまで、私はテオの腕の中に包まれていた。
「……あなたの胸、どきどきしてる」
涙が落ち着いてきた私が囁くと、身体を包んでいた腕が緩んだ。城で泣いたときのように、私の身体はゆるく組まれたテオの膝の上に載せられている。少しだけ身体を離したぶん距離の近さが迫ってきてどぎまぎしてしまうけれど、身体を支えてくれているテオの腕は小揺るぎともしない。
「叶うことはないと思っていた気持ちが通じたんですから、速くなろうというものです」
まあと呟いて、私は眉を顰める。
「でもあなた、私を抱き上げるときだって心臓の音が跳ねることはなかったじゃない。だから私、ずっと自分ばかりがあなたを好きだと思っていたわ」
「いつだって平静を装うのに必死でしたよ」
「ちっともそんな風に見えなかったわ」
ふむと考え込むように首を傾けたテオの手が、私の指先を包むように触れた。あたたかい指の腹が爪をたどり、問いかけるように指の背を撫でる。
指を絡め合う仕種の甘さに気恥ずかしく思っていると、テオは私をしばし見つめ。つと私の手を引き寄せると、指先に唇を押し当てた。騎士の忠誠ではなく求愛としてのくちづけとわかる、明確な意図を含んだ仕種だった。
「セシル、愛しています」
その声はいつものように優しいのに、けっしてそれだけではなかった。
私がうろたえていると、テオが微笑んだ。
「これからは、隠さずにお伝えしますね」
どうしよう。頬が熱くなっていくのに、こんなに近くにいるものだから隠れることもできない。目を伏せても顎を引いても、伝わってしまう。
「お願い、見ないで」
「……本当に?」
指の背が頬の線をたどるのに、私はそっと後ろに身体を引いた。
目と目が合うと、否応なしに気づかされた。
だって、そう。
私は、ずっとこの瞳の中に棲まわせてほしかった。
ずっとずっと願っていた夢の中にいるのだと気づいて、泣きそうに心が喜んだ。収まったと思った涙がひとつだけ、ほろりと転がり落ちる。
「いいえ、見ていて。ずっと、あなたの瞳の中にいたい」
祈るように囁いて、頬を包む手に触れた。その手がびくりと揺れたのに、私は瞬いた。
見つめた先で、テオはゆっくりと首を振る。だめかしらと思ったとき、身体が抱き寄せられた。深く。
「何ですか? 可愛すぎませんか?」
え? と瞬くと、ぎゅう、と強く抱きしめられて、心の中に沈んでいた錘が軽くなるような気がした。
そうしているとうれしいのに、知っていた以上に筋肉質な腕の力強さを感じて落ち着かない気持ちがしてくる。温かい胸に頬を押し当てて、きっとこの鼓動の速さも伝わっているのだろうと思いながら目を閉じた。
しばしして、ふっと腕が緩んだ。
身体が離されるのに、もうすこしあのままでもよかったのにと思ってしまう自分を見つけて、私はうっすらと恥ずかしくなった。さっき想いが通じたばかりだというのに、もうこんなに欲張りになっているなんて。
自分の気持ちをもてあましていると、優しい指先が髪を梳いた。
「セシル、もう一度くちづけても?」
うんという頷きは、すぐに唇に隠された。
背中に回された腕に引き寄せられて、応えるようにテオの胸元を握りしめる。すぐに離れた唇は、けれども長く離れたままでいることはなかった。
もう一度、と乞う声が吐息に溶けて、またくり返されて。不器用なくちづけをくり返すうちに、どちらともなく笑い声がこぼれる。くすりと笑みを一つこぼして、テオはほんの少し顔を離した。
微かに顎を引いて私の顔を覗き込むその表情は私の知る彼のものなのに、それでいてびっくりするほど甘い。どきどきして目を伏せても、青い瞳が追いかけてくるのがわかる。
ちらりとテオを見ると、青い瞳と目が合って。また唇が合わさる。触れるだけのキスの優しさに、かえって私はうろたえてしまった。
「すみません。あまりにお可愛らしいので、我慢できませんでした」
テオはいつだってまっすぐに言葉を選ぶひとだ。そうと知ってはいたのだけれど。
なんだか、私だけが動揺しているような気がする。初めてのキスからずっとふわふわしている私と違って、テオには私の髪を一房すくいとって指で梳く余裕さえあった。
それで、私は彼に婚約者がいたかもしれないことに思い至る。彼が私と一緒に故国をでたのは、貴族なら婚約していてもおかしくない歳のことだ。
「婚約者の方とも、キスをしたことあるの?」
「兄たちは婚約していましたが、父の意向で俺はしていませんでした。教育は受けましたが、くちづけをするのだって初めてです」
本当かしらと見つめた先で、テオは心外ですと唇を曲げてみせた。
「そんなことがありえるの? その、男性は娼館とか、そういうところに行くのではないの?」
「どうして好きな人がいるのに行かなくちゃいけないんですか」
俺がまっすぐ家に帰っているのはご存じでしょうと言われて、確かにと思う。
「だって、お父様にはたくさん側妃がいたものだから」
「お父上を基準にするのはお控えください。その、かなり奔放な方なので」
納得しかけた私は、ふと。城で過ごしていた間に、クラウディアがこっそり王立騎士団の訓練場が覗ける場所に案内してくれたときのことを思い出す。そこはヘルヴェスの貴族の娘たちの間で代々受け継がれてきた場所のようで、色とりどりのドレスが花のように連なって華やかに賑わっていた。
「テオは素敵だもの。……クラウディアと一緒に騎士団の訓練場を見たときだって、貴族のご令嬢がいっぱいいたわ。あなたのほうをちらちら見て、扇の影で楽しそうにしていたのよ」
身内の欲目を差し引いたとしても、テオはかなり目立っていた。
上品な挙措は遠目にも優美なのに、剣を振るう姿には重さと鋭さがあった。稽古でテオが勝つと貴族のご令嬢たちが華やいだ声をあげるものだから、私は何とも言えない気持ちになる自分を持て余したものだった。
テオが何も言わないでいるので、私は伏せていた目を上げて彼を窺い見る。
今度は、テオがまじまじとこちらを見つめる番だった。
「俺がこれまで、あなたに向けられる視線にどんなに妬いていたのかをお伝えしたら、きっと驚かれるでしょう。……好きなひとに焼きもちを妬かれるのは、わるくない気持ちがするものですね。いまこの時まで知りませんでした」
まだ熱い気がする頬を手のひらが包んで、優しく上向ける。
「では、一緒に練習してくださいますか?」
もちろん、嫌なはずもない。
こくりと頷くと、吐息が触れる。今度は瞼を下ろして、唇を受け止めた。
触れるだけのくちづけは、当然のように一度では終わらなかった。唇が離れたのに瞼を押し上げると、可愛いと囁かれてそっと影が深くなる。テオの胸元に手を置いていると、とくとくと早鐘を打つ心臓の音が伝わってきた。テオもどきどきしているんだわと思うと、自然と顔が緩んでしまう。
「……ほんとうに、はじめてなの?」
テオは、ぱちりと瞬いた。
だって。あまりにも落ち着いている気がするし、私の髪の毛を梳いたり頬を撫でたりする手の仕種は自然だ。呑み込んだことばを聞き届けたかのように、テオは柔らかく笑んだ。本当ですよ、と。信じられなくてテオをじっと見つめると、彼はゆるゆると喜びを滲ませて笑んだ。
その視線があまりにもまっすぐなものだから、反射的に目を伏せてしまう。テオの唇が指に触れて、手のひらの内側にくちづけられる。こちらを見てと囁くテオの声はいつものように優しくて、でもとびきり甘い。
「俺にもキスの仕方がわかってきたように思います。もっと、いいですか?」
伺いを立ててくる目が合うと、テオは喉の奥のほうでくすんと笑んで私の唇を食べた。まるで聞かずとも答えを知っているみたいに。私の唇も、そっと開くことで重ねてことばの外で答えを教えた。
「セシル、あなたが好きです。どうしようもなく」
唇を離すたびに、テオはくり返し囁いた。直截なことばはまっすぐでてらいがなく、穏やかなのに平生にはない甘さを纏っていて。目が合うたびに唇が重ねられるものだから、私もと答える隙もなくて。
「ん、……なんだか、夢みたいで。あまり、現実という気がしないの」
くちづけに翻弄され通しの私がキスの隙間を縫って呟くと、口の端に唇が押し当てられる。
「これでも、ですか?」
いたずらめいた表情を浮かべた瞳が、深く抱き寄せられたまま寄り添う熱が本当だと教えてくれているのに、私はまだほんの少し疑っていた。だって、あまりに私にとって都合が良すぎる気がしたから。
優しく頬を包む手のひらに、そっと肌を押し当てる。祈るように、ずっと傍にあり続けてくれた瞳を見上げて囁いた。
「夢では、ないみたい。でも、もうすこし……本当だと教えて」
微かに息を呑む音がして、彷徨った指先が肌をかすめる。離れようとした手のひらに指の先で触れると、テオはゆっくりと唇を噛みしめ。それから、ただじっと私を見た。
私だけをうつしとったその瞳は、私が知っている何にも勝るほど綺麗で。もっと近くで見たいという衝動のままに腕を伸ばして、テオの首すじを包むようにして引き寄せる。
このときの熱に浮かされたように熱い瞳の揺らぎを、私はきっと、いつまでも覚えているのだろう。




