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【完結済】私の騎士、最後にひとつだけ約束してください。 【全年齢版】  作者: ななな


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28.セシルとテオ

 唇を引き結んだテオは、沈黙したままこちらを見つめている。ただひたすらに、私だけを。

 その端正な顔からは一切の表情が抜け落ちて、彼が何を思っているのかを外に報せることはなかった。


「テオ」


 名前を呼ぶと、テオは深く顎を引いた。ぎゅう、と重ね合わせたままの指先があたたかさに包まれる。

 そうして手を握りしめられていると、お互いのほかには何もない森の中で体を寄せ合って暖を取っていたときのことが思い出された。でも、あのさみしくも穏やかな旅をしていた頃とは違って、私たちは大人になった。ヒルデガルトだってもういない。


「おじさまから縁談の話を聞いた日から、ずっと言おうと思っていたの。でも勇気を出せなくて、あと少しだけと思い続けるうちに色んなできごとが起こって、今日まで来てしまった。せっかく帰ってこられたのにと思うけれど、これ以上引き延ばしてしまうのはだめだと思ったの」


 俯いたままのテオは、ゆるゆると首を振る。

 私は彼がそうしてくれたように、沈黙が溶けるのを待った。

 前髪に隠れていて、いまテオがどんな顔をしているのかはわからない。空いているほうの手を伸ばしかけて、髪をかきやるのは親しすぎる振る舞いだろうかと悩んで、膝の上に戻す。


「……あなたを傷つけた?」


 囁くと、ゆっくりとテオが顔を上げる。

 微かに引き攣れるように笑んだ唇が、遠慮がちに少しと答える。


「ごめんなさい、あなたを悲しませたわね」

「いいえ。セシルが優しい人で、俺を大切に思ってくださっているからこそのお話だとわかっているつもりです。俺は……知らないうちに、あなたの負担になっていたでしょうか」

「違うわ、あなたを負担に感じたことなんて無い。私の勘違いでなければ、あなたにとっての私が重荷ではなかったように」

「はい。俺も、一度たりともそんなふうに思ったことはありません」


 では、どうして。

 言葉のほかで落ちた疑問が聞こえたような気がした。


「この家に戻って来たかったのも、戻って来られてうれしかったのも本当よ。でも、このまま暮らしていたらあなたの人生はどうなるの? 主と騎士だからといって、あなたを縛りつけたままになる。

 ……もちろん、今生の別れをしようと言っているのではないのよ。互いに蓄えもあるし、自立してもいい頃合いだと思ったの。私にも仕事があるし、遠くへ行くことはしない。たまには一緒に食事をしたり、近況報告をしたりしたいわ。それから。もし、あなたがよかったらの話だけれど……」


 ――これからは、主ではなくただのセシルとして、少しずつ好きになってもらいたい。


 姫から騎士への命令にならないよう、言葉を選びながらそう告げようとしたとき。

 私が一つ言葉を言う度に小さく首を振っていたテオが、私の手を軽く引いた。そのまなざしの強さに、私は唇を合わせる。


「正直に、俺の気持ちを申し上げてもよいのですね」

「ええ、もちろん」


 頷くと、テオは私の手に額を押し当てた。私の手は押されるまま膝に乗せられて、遅れてテオの前髪がさらりと落ちかかる。


「……どうか、捨てないでください。御側に置いてくださるだけで構いません。あなたの御側以外に、いったいどこへ行けと言うのですか」


 手の甲に触れた睫毛は水を含んでいて、触れあった肌の間で熱い滴が滴って体温に溶ける。

 驚いて、私はしばしの間何も言えないでいた。ようやくのことで喉から押し出したのは、ひどく鈍感な言葉だった。


「泣いているの?」

 

 テオの頭が、頷くように揺れる。

 躊躇ったのちに、私はそろそろと手を伸ばしてテオの髪に触れた。はじめてきちんと触れた黒髪は柔らかい。城で泣いたときのことを思い出しながらそっと頭を撫でるように手を動かすと、テオが微かに呻いた。


「嫌です。……嫌なんです」


 懇願するように手の甲に唇を押し当てられて、肌が震えたのが伝わったのだろう。

 膝に乗せられていた重みがふっと離れて、テオが静かに首をもたげる。影の内から抜け出でたその顔は、まるで自分が泣いていることなど知らないかのように無防備だった。


「セシルは、そんなに俺と離れたいのですか?」

「ちがうわ。私と一緒にいることで、あなたに不自由を強いているでしょう。あなたにはあなたの人生があるわ。あなたが私を安心させようと誓いを立ててくれたように、私はあなたに幸いでいてほしい。やりたいことをして、好きに生きてほしいの」

「お言葉ですが、俺はずっとやりたいことをして好きに生きています」


 そう言って唇を引き結んだテオの表情は強ばっていて、ただ涙だけが子どものように素直にこぼれている。彼はいま、ひどく無垢なようでいて頑なだった。いつだって余裕があって、どんな時も焦るということをしない人なのに。そう思うと、私の身勝手な気持ちで彼を振り回していることに後ろめたさを覚える。


 ほろりとこぼれ落ちた涙を追って、気づけばテオに握られているのとは反対の手で涙の跡に触れていた。


「あなたが泣いている姿を見るのははじめてね」

「幸いなことに、これまで泣きたいと思う出来事がありませんでした」


 そっと手を離すと、端正な目元がくしゃりと歪んでまた一粒涙をこぼした。瞬いた瞳に睫毛の影が落ち、その先に透明な滴が伝って落ちる。


 ややあって、テオはため息交じりにひっそりと笑んだ。


「もっと警戒してくださらないと。あなたの優しさに付け込んで、御側にいるのを許してくださるまで、一晩中だって貴女の膝を濡らして泣いて縋ることになりますよ」


 一晩中? 呟くと、テオは当然のように深く頷いた。


「わかっています。このまま夜を明かしたとしてもセシルは考えを覆さない。でも、嫌です」

「私がいることで、あなたは色んなものを我慢しているでしょう。騎士として出世して、自分らしく生きてほしいの」


 テオが何かを言おうとしているとわかっていながら、私は言葉を続けた。


「私たちの始まりは姫と騎士で、私たちの関係はずっと主従であることが軸だった。私はあなたに頼りきりで、生まれが抜けきらないずるさやあなたの優しさへの甘えがあるのも知っているつもりよ。……だからこそ、あなたときちんと対等になりたかった。ただのセシルとテオになりたいの」


 だって、ただのセシルとテオにならないと、好きという気持ちが強制になってしまう。

 私はテオに優しくされるのが好きだけれど、心まで強いたいわけではない。


 ふっと目の前に影が落ちかかる。

 床に膝立ちになったテオの影に入り込んだ私は、どきりとした。青い瞳がこちらをひたりと覗き込んで、静かな強さで私の視線を縫い止める。ぐらぐらと揺れる瞳が湛えたなまなましさに、私は何か、とてもいけないことをしているような気持ちになる。


 テオはしばらくの間、何も言わなかった。

 ややあって、ゆるゆると破顔したテオは微かに喉を鳴らした。


「もうあなたと俺は主従ではないとおっしゃるのなら、俺は」


 自分でも声の強さに驚いたのか、テオは一度唇を合わせる。


「……俺は、あなたが誰と縁づいても、あなたの騎士としてあり続けようと思っていました。それが俺の騎士としての生き方であり、務めであり、愛だと思っていたからです。あなたが幸せなら、俺の心はいくらでも殺しておけばいいのだと。あなたの忠実な騎士で居続けたならば、誰も俺をあなたの側から遠ざけられない。それだけで十分だと思っていました。

 ……でも、今わかりました。俺は自分から欲しがって、あなたの心を望まないといけなかったのだと」


 握られていた手が解かれて、両の頬を温もりが包んだ。ようやくのことで驚きに心が追いついてきて、私はただテオを見つめ返すことしかできないでいる。


 私も、ちゃんと言わないと。

 そう思ったとき、震えた唇に視線を感じた。くすりと苦い笑みが落とされる。


「俺の影はあなたをやすやすと呑み込んでしまえるし、俺の両手はあなたの優しさに見合わない力を持っている。……あなたの心を無視して、こんなことだってできるんですよ。あなたが思ってくださっているほど、俺は純粋な騎士ではありませんでした」


 そっと額が重なって、避けようがないほど近くに青い瞳があった。どうしようもなく近い距離で見つめ合った先にある瞳が湛えた感情に、私は息を呑む。繊細な黒い睫毛が瞬いて、私を見据えた。

 

「テオ、私……」

「はい」


 うわごとのような呟きに、テオは頷いた。

 頬を包んだ手のひらがすべり、目の下の膨らみを指の腹がたどる。顔の輪郭をなぞるように触れる指の腹が下の唇の縁をたどったとき、鏡はないのに、いま自分がどんな表情をしているのかわかった。だって……。


 まるで夢の淵に触れているような心地で、私は注意深くこちらを覗き込むテオをただ見つめ返していた。


「本当なら、この手で触れることなど叶わない方だとわかっています。それでも俺は、セシル、あなたを愛しています。騎士としてではなく、一人の人間として」


 口を開けばいまという一瞬が壊れてしまうように思われて、近づいてくる瞳から目を逸らすことも、目を閉じることもしたくはなかった。頬を包む手の甲に触れると、鼻先が触れあう。


 私。唇の先が囁きかけて、けれども触れた吐息がそっと声を制した。


「もしお嫌なら、教えてください」


 私の唇は、気づけば囁いていた。いやじゃない……。


 微かに見開かれた青い瞳を見つめながら、ほんの少し――大きく勇気を振り絞って、つと首を前へとさしのべて、わずかな距離を埋めてみる。


 そうして、私たちはお互いを瞳に映しとりながら一瞬を分け合った。



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