24.言えないでいた話を少し
蒸し上がったプディングの粗熱が取れるまでの間、私たちは小さな家事をして過ごした。とはいっても、テオは一人で完璧に家事をこなしてくれていたからすぐに終わってしまったのだけれど。
ぴかぴかに磨かれたカトラリーは触れるのも躊躇われるほどで、驚いた私にテオは眉を下げて苦笑した。一人で家にいる間は何かをしていなければ落ち着かなかったのだと言って。それで、私は彼もまたひとりでひと月を過ごしたのだと改めて気づかされたのだった。
テオにプディングを型から外すのを任せて、私はお茶の支度をする。
今日は家に帰ることができた日だからと、特別に茶器はうちにあるもので一番上等なものを出す。ひと月ほど前、初めてクラウディアと会ったときに使ったものだ。
茶葉は、クラウディアがあれこれと持たせてくれたお土産の一つを使うことにする。
城で過ごしていたとき、クラウディアは私が淹れるお茶を飲みたがってたびたびおねだりされたものだった。小さく笑うと、テオがちらりとこちらを見る。
「いえね、城でクラウディアにたくさんお茶を淹れたことを思い出したの」
「クラウディア様の側付きにというお話が出ていると聞きました。よろしかったのですか?」
テオがこうした言い方を選ぶからには、ディートフリートが何か言ったに違いない。
ディートフリートはあらゆることが自分の意のままになると信じているような人だから、私が直接断りを入れたときも不服そうにしていた。
「ありがたいお話だし、城勤めのほうがはるかに給金が良いわ。でも、いわゆる話し相手でしょう? そんなにいただいてもいいのかしらと思うと、頷けなかったのよ」
「先方が出すと言っているんですから、いただけるものはいただいたらよろしいのでは」
「そうね、もう少し考えてみるわ。長く休んだのにすぐ商家を辞めるのは不義理だもの」
そうですねと頷いたテオは、私の手から軽やかにトレイを取り上げてテーブルへ向かう。あまりに自然な動きであったから、私は瞬いてしまった。重さを感じさせない所作でトレイを置いたテオがこちらを振り向いて、くすりと笑う。
「さすがにトレイくらい運べるわ。知っているでしょう」
あわてて駆け寄ると、テオは椅子を引いてくれる。
「はい。でも、今日くらいはセシルを甘やかさせてください」
「いつも甘やかしてくれるでしょう?」
「いえいえ、そんなことは」
首を捻りながらも、私の身体は促されるままにすとんと椅子に腰を下ろした。
砂時計の砂が落ちきるまで、私は膝の上に手を載せたまま待つ。砂時計を見て、それから視線を上げると、向かいの椅子に腰掛けたテオが微笑んでいるのを見て。そのくり返し。
テオには、こうして程よい関心を保ちながら見つめてくるようなところがあった。答えを望まれているとは感じないほどにさりげなく、けれども何か言えばすぐに言葉を返してくれるような。
私がティーポットを置くと、いい香りですねとテオが微笑んだ。ええと頷いて、ティーカップに口を付ける。まだ少し熱かったわねと思いながら、プディングにスプーンを差し入れた。まだほんの少し冷めきっていないプディングは、ほろ苦いカラメルの後にふんわりと卵の甘さを感じておいしい。つるんと喉をすべり落ちる感触に、気づけば唇が微笑んでいた。
「おいしいわ。カラメルの味もちょうどいい」
「良い卵を使いましたから、いつもよりちょっとだけおいしいかもしれません。大成功ですね」
プディングを半分ほど食べ終えたところで、ふっと日が陰った。カーテンを閉めたままの窓の外を見遣ったテオは、雲が動いて日の差し方が変わったのを見てとると顔を戻す。そうして、ずっと聞こうと思っていたのだろうとわかる響きで問うた。
「城に行かれた日、本当はどんなお話をされるおつもりだったのでしょうか? これまでのお話から想像はついていますが」
そうだったわね、と私は記憶をたどる。色々と予定が変わってしまったから、きちんと話ができていないままだった。それに、これは近いうちにしなければいけなかった話だ。
「あの前日に、クラウディアが訪ねてきたことは城で伝えたでしょう? あなたとの縁談について話をしに来たのよ。おじさまからも面会でお話を聞いたところだったから、すぐにわかったわ」
私は一度口を閉ざし、意識して唇の端を少し上げる。
幼い頃に何度も練習して染みついているものだから、鏡を見なくともわずかな頬の動きだけで自分がいつも通りの笑みを浮かべているのがわかった。
「縁談が来ていると、あなたの口から教えてほしかったわ」
気をつけたつもりでも、あのときの驚きと諦念とが追いついてきて、つい責めるような響きになってしまう。テオは深く頭を下げると、ゆっくりと顔を上げる。
「申し訳ございません。団長からいただく話はこれまでにもすべて断りを入れていましたから、お伝えするまでもないと考えていました」
私が瞬くのも忘れてテオを見つめている間、彼は不思議そうに視線を返すばかりだった。
「これまでにも、すべて?」
「? はい」
確かに、おじさまの話しぶりからも縁談は初めてのことではないと感じてはいたけれど。あまりにも平然としたテオの様子を見るだに、私は混乱してしまう。
「私がなぜあなたの縁談を気にしているのか、わかっていないでしょう」
「それは、その。どういった意味でおっしゃっているのでしょうか」
テオが瞬き、何とも言い表しがたい表情で私を見つめ直してくる。青の瞳が私を静かに捉えて、心の内側を見透かそうとしているかのように細められた。
「あなたにとって大切なことだから、話をしておきたかったのよ。クラウディアが教えてくれたわ。移民の騎士は、ヘルヴェスに忠誠を立てなくとも働けると」
テオは開きかけた唇を結び直すと、喉の奥ではいと言った。
「俺の主はセシルですからね」
ごく当たり前のように頷いたテオに、私は言い募る。
「誓いを立てないと、一定の階級で出世は打ち止めになるのでしょう? そんな制限があるとは思ってもみなかったものだから、どうりでおじさまが面会のたびにあなたをもっと出世させてやりたいと言っていたわけだと納得したの。……テオは出世したくはないの?」
勢いづきそうになるのを抑えながら尋ねると、テオはいえと首を振る。
「ヘルヴェスは平時も戦力を保持することに重きを置いていますから、出世するのは難しくありませんが……俺個人としては、程々で良いと思っています」
それで、わかってしまった。テオはヘルヴェスで、意識して控えめに振る舞っている。
ただでさえ移民にしては早く出世しているのだ、これ以上となればやっかんで彼を排斥しようとする人も出てくるだろう。私たちは恵まれているけれど、だからといってヘルヴェスの人々からの偏見や疎外、同じ移民からの羨望や嫌がらせが全くなかったわけではない。……でも、私がいなかったら?
(私が、いなかったら。テオは、もっと)
そう思ったとき、テオが微笑んだ。いつもの優しい笑みだった。
「セシルは、俺がもっと出世したほうがうれしいですか? 生活の質を上げるには出世が一番手っ取り早いですから、検討してみるのも良いですね。セシルが今後クラウディア様の側付きになるのでしたら、俺もそれなりに出世していたほうが周囲からの干渉を防ぎやすくなるでしょう」
選択肢としては大いに有りですと微笑むテオに、私は慌てて首を振る。
「私は今の暮らしに満足しているわ。あなたの出世はあなたの功績で、それによってもたらされるものを私が欲しがるのはちがう。……出世は、騎士の名誉でしょう? あなた自身の生き方を左右することだわ。私に遠慮して、あなたが将来の選択肢を狭めていないかと気がかりなの」
私を見ていた青の瞳がゆっくりと瞬いて、視線を結び直す。優しくてあたたかい瞳が私を内側に招いて、見守るように包み込んだ。
「出世も名誉も、俺自身を鼓舞するものではありません。俺の名誉は、ただ一人貴女だけに捧げるものです。もちろん俺の主はこれからもセシルだけですから、ヘルヴェスで騎士の誓いを立てるのならばお許しをいただきたいと思います」
――正しく騎士として在ろうとしているひと。
自分が口にしたことばが追いかけてきて、ひっそりと胸の深いところを刺した。自分でも驚くほどに傷ついて、そう自覚したことでまた勝手に傷ついてしまう。
テオは、誰よりも私を大切に思ってくれているひとだ。国を跨いで二つ目の誓いを立ててもいいと言ってくれて、そのうえで一番は私だと伝えてくれるほどに。
主としては、喜ぶべきところなんだろう。きっと。
あのままあの国で育ったヒルデガルトなら、騎士のくちづけを受けるために手をさしだしたはずだ。ありがとう、私の騎士。あなたの献身に感謝します。そう、きっとそれが姫として正しい振る舞いだから。でも。
――このひとにとって主でしかない自分のことが、さみしく思われてならない。
ちゃんと、知っているつもりではいた。けれど、本当の意味では知ることがないよう目を逸らしてもいた。私たちは、もっと早く離れることだってできた。ただ、私が彼の側にいたかっただけだ。
(離れないと。こんなの、よろしくない。……この優しいひとを、私から解き放たないと)
本当なら、亡国の王女だなんて不安定で実のない主のもとに八年も留め置いてはいけなかったのだから。
「テオ、あのね……」
話を切り出そうとしたとき、玄関の扉が叩かれた。
はっとして、肩が揺れた。もう怯える必要なんてないのに。足音もなくテーブルを回ってきたテオが、大丈夫ですよと囁く。頷くと、目を走らせた先で閉ざされたカーテン越しにこちらの様子を伺おうとする人影が見えた。
「俺が出ます。近所の人ではなさそうですが」
テオの予測を裏付けるように、訪問を告げる声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
商家の主の側で働いている人だ。商家には近衛隊長を通じて出勤予定日を伝えていたから、何か書類でも持ってきたのだろう。
「商家の人よ。自分で出るわ」
立ち上がろうとした私を押しとどめて、テオが首を振る。
「お帰りになったばかりですよ。お嫌なのでは? 御髪の色のこともあります」
「でも、いずれ知れることだもの」
「今日でなくともよいと思いますよ」
注視されたくない気持ちを捨てきれずに黙ると、テオはそっと微笑んだ。
「どうぞお部屋に行かれてください。ご心配でしたら、階段でお聞きになるのでも構いません。さ、お早く」
「……わかったわ。ありがとう」
足音を忍ばせて階段の中程まで上がった私はしゃがみこみ、抱えた膝に頭を埋める。
穏やかに返事をするテオの声と、扉を開ける音が聞こえてきた。短い挨拶と私の帰宅を問う声に、テオが疲れて眠っていると説明している。商家の人が、出勤日に書類を持ってくるように伝えてほしいと言っているのが聞こえた。
そのままじっとしていると、鍵をかける音がする。ややあって、階段の先にテオが現れた。
「セシル? もう帰りましたよ」
階段を上ってきたテオが、私がいる数段下で膝を突く。近すぎなくて遠すぎもしない、礼節をわきまえた距離だと思う。気遣わしげな瞳がこちらを見るのに、私はお礼を言った。
「今日は引きこもるつもりだったから、助かったわ。明日か明後日には、外に出ないとね。食材も買いに行きたいし、商家にも挨拶に行っておいたほうがいいかもしれない」
「もっと甘えてくださっていいんですよ。誰にも迷惑をかけないことですし、たとえ誰かの迷惑になったとしても、セシルの思うままにしていいんです」
思うままにしたら、一生あなたを私のもとに縛りつけることになる。
どうしようもないことに、もしそう言ったとしてもテオは拒まないだろうと私は知っていた。
(それでも、私がこの家を出たいといったらあなたはきっと傷つくでしょう)
もう少し。あと少しだけ、彼を解放する前にふたりでいたい。せめて、明日が来るまでは。
彼を手放さないといけないのに、私はまた先延ばししようとしている。縁談の話を先延ばしにした結果、城に長く滞在することになったのに。
ヒルデガルトだった頃は、こんな心なんて持っていなかった。自分のために先延ばしをくり返すことも、手放したくないと思えるものもなかった。幸いなことでもあるし、不幸せなことだとも思う。
言えないことばを喉の奥に押し込んで、私はさしだされた手を取って立ち上がった。
「これ以上はだめよ。甘えっぱなしになってしまうわ」
テオの顔に「そんなことはありませんが」と書いてあったのに、私は少し笑ってしまった。いけません、と呟くように返して階段を降りる。なんだかんだ言いながらも、こうして甘やかされているのを心地よいと感じている自分に内心ため息しながら。




