23.約束のプディング
着替えて階下に降りると、すでにテオは洗い物を済ませていた。
私はテオに御礼を言ってエプロンをつけ、髪を後ろで結わえてから手を洗う。
「今日は失敗しないわ」
「はい。俺がいますからね」
まあとテオを睨んだ私は、一瞬のちに、彼が気まずくならないようわざと私をからかったのだと気づいた。こうしたやりとりをしていると、ああ戻ってきたのだなという実感が胸に落ちる。
家に帰れば元通りの生活が始まるかと思っていたし、実際そうなってはいる。ただ、私たちはお互いにどこか少しずつぎこちなくもあった。まるで、こちらに来たばかりの頃みたいだと思う。
テオが隣に立ったとき、ふっと鼻先に柔らかい香りが届いた。服を洗うときに使っている石鹸は一緒のはずなのに、自分とは少し違う香りがする。つい先程まで身体を包んでいた上着のことを思い出して、身体がひとりでに動きを止めた。
「まずはカラメル作りからですね」
私はほんの少し遅れて顎を引き、用意の良いテオが棚から出してくれていた小鍋を手に取る。ごく少量の水と砂糖を入れて、火に掛けた。
「そのままだとすぐに砂糖が焦げてしまいますから、鍋を揺すりながら温めてください」
「だから前は焦げすぎちゃったのね」
小さく鍋を振りながら煮詰めているうちに、ふつふつと大きな泡が立ってきて色を変えはじめる。
じっと鍋を見張っていると、肩先にあたたかさが触れた。礼儀正しく距離を設けながらも微かに触れる近さで鍋の中を覗き込むテオの横顔は室内に回る光を受けていて、伏し目がちの瞼となめらかな頬の輪郭が淡く滲んで見える。
(いつまでだって見ていられるわ)
ぽつりとそう思ったとき、微かに首をめぐらせたテオと視線が重なった。
「俺もちゃんと見ていますから、そう心配なさらずとも大丈夫ですよ」
あなたにみとれていたのだと素直に言える勇気がなくて、私は頷くばかりだった。
「セシルはほろ苦いカラメルがお好きですよね。焦がすほど苦味が増しますが……」
「いつもはどのくらいまで煮詰めているの? あんまり苦いのもちょっとね」
「そうですね……このくらいで色止めをしましょう」
テオが鍋にお湯を足し、私は言われるままに火から下ろした鍋をかきまぜた。
いつの間にかテオが並べてくれていた小さな器に、ダマのなくなったカラメルを注いでいく。白い陶器の底に溜まるカラメルの香りを楽しみながら、ずっと気になっていたことを聞いた。
「ねえ、どうしてずっとセシルと呼んでくれるの?」
テオは人前では私をセシルと呼ぶけれど、これまで家の中では姫と呼んでいた。きっと、騎士としての弁えがそうさせていたのだろう。
でも、城で再会したあの日から、彼は一度も私を姫とは呼ばない。
とろりと注がれていく深い色をしたカラメルの向こうで、テオが何かを思い返すように息をついた。
「城に連れて行かれたあなたに会いにいったとき、ドミニク坊ちゃんがセシルをお嬢様と呼ぶよう命令されていると教えてくれたんです。俺にも倣うようにということでしょう。それで、あなたの心が蔑ろにされているのではないかと思いました。あなたは助けを求めるのではなく、来ないでと伝えることを選ぶ人ですから」
鍋の注ぎ口を一つ隣の器に移したとき、左手が微かに震えた。そっと力を込めたとき、近づいてきたテオの手が鍋の柄を支える。見上げた先で、笑んだ唇がそのままでと囁いた。
「……綺麗に装われたあなたを見た瞬間、名前で呼ぼうと決めました。あなたに姫として過ごしていた過去ではなく、今を思い出してほしかったから」
最後の器にカラメルを注ぎ終えて顔を上げると、テーブルにぽたりとカラメルが落ちる。涙の跡みたいだと思いながら、布巾でそっとぬぐった。
「うれしかったわ。これからも名前を呼んでほしい。私が私であることを忘れてしまわないように」
「はい。お約束します、セシル」
ふわりと緩んだテオの笑みが思わずはっとするほど優しくて、心からの言葉だと伝わってくるものだから、私は何も言えなくなってしまった。
私が家に帰ってきてから、テオはくり返し約束と口にする。
私たちの間に約束が重ねられていくたびに、このままではいけないのにという気持ちが沸き起こる。
テオが私を安心させようとしてくれているのに、私の中には帰りたいと願ってしまったことを悔やむ気持ちが育ち始めていた。
だって。家に帰りたいと泣いたくせに、別れを告げるなんておかしい。
……いいえ、ちがう。
そんなのは後付けの理由にしか過ぎなくて、私にはこのまま元通りの生活に甘えていたいという気持ちがあるのだ。
促されるままにテオに鍋を渡して、私は自分の心の動きにいったん蓋をする。
「あなたは? 私と違って、セオフィラスとして生きた時間が長かったでしょう」
「俺ですか? 俺はセシルに名付けていただたときから、テオ以外の何者でもありませんよ」
私が注意深くカラメルを均等になるよう注いでいる間に、テオは砂糖を入れた牛乳を温めてくれていた。沸騰しきらないうちに火から下ろすのだそうで、今はほこほこと湯気を立てながら冷めるのを待っている。いつもながら、本当に手際がいい。
「俺からも、伺ってよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
ボウルに卵を二つ割り入れて、もう一つは黄身だけを入れる。
ボウルを横から支えてもらいながら卵をくずして、ゆっくりと溶いていく。
「ヒルデガルト姫としての権利を放棄なさったこと、本当によろしかったのですか?」
「ああ……いいのよ。私は王族としての責務を放棄した人間だもの」
私がヘルヴェス王と取引することを許されたのは、王太子の婚約を進めるきっかけを生んだことばかりが理由ではない。
私は城でテオと再会した日、とあるものを近衛隊長に渡すよう頼んだ。
国を逃れた際に持たされた荷物の奥底に入れられていたそれは、私とディートフリートの婚約が成立していたら持参金になるはずだった、ヘルヴェスとの国境近くにある領地と小さな鉱山の権利書と指輪だ。そう、テオの父は、書類と併せて王家の紋章入りの指輪まで入れてくれていた。ヒルデガルトの生誕時に造られたそれは、私の出生を公的に証明するものである。
「あなたのお父様は、私がヒルデガルトに戻る選択をしてもいいと考えていたのかしら。そこまでしてもらえるとは思っていなかったものだから、権利書を見つけたときは驚いたわ」
「父にも、幾許かは子ども二人で旅に出す負い目があったのだと考えることにしています」
テオは自分の父親について語るとき、いつも不思議なくらいに静かだった。何度か憾んでいないのかと聞いてみたことがあるけれど、その度に彼は小さく笑って首を振る。
「お陰で、きちんと証立てした上でヒルデガルトを売ることができたわ。あの頃の私には、何を持ち出せばいいのかもわからなかったから」
「急なことでしたから、当然ですよ」
まだ私とテオがぎこちなく会話をしていた頃、彼は森の中で本当は持っていきたかったものがあったのではないかと遠慮がちに問うた。何も思いつけないでいたあの頃の私は、たぶん何も持っていないに等しかったのだと思う。
――故国を併呑した敵国は、戦に強い分諍いの絶えない国だった。
併呑の調整のまっただ中を狙って起こされた内乱に対処するために、故国には暫時自治権が与えられた。
戦に負けたとはいえ一定の自治期間があったことで、貴族たちは併呑後の権益を巡って多少なりとも自分たちの意見を通そうとし、ヒルデガルトの生死が判明していないのをいいことに、少なくとも王女の所領は自国のままだと主張しはじめた。その言い分が敗戦国のものとして妥当かはさておき、貴族たちが自らの権利を主張する足がかりにしたかったのだろうことはわからないでもない。
結局のところ、敵国はたいして旨味はないと見做した王女の所領の扱いを保留にすることで戦後の処理を行った。強引に自国の所領にすれば面倒になると考えたのか、向こう十年という期限を設けてヒルデガルトの生死がわからないうちは誰のものでもない土地だとすることで、貴族たちの反発を突っぱねたのである。
「ヘルヴェスの陶器と生地には、シランが使われていますからね」
「商家で価格を見て驚いたわ。ヒルデガルトの領地にはいっぱい生えているのにと思ったもの」
亡き王妃が力を入れていたことで知られるヘルヴェスの陶器と染色には、シランが用いられている。ヘルヴェスに自生する染料と相性が良く、一番鮮やかに色が残るのだそうだ。私がはじめて髪を染めたときにシランの実を使っていたのは単純に安かったからだけど、この国で個人がシランを手に入れようとすると結構値が張る。商家勤めでなければ、髪を染め続けるのは難しかったかもしれない。
温暖で気候の良いヘルヴェスで、日陰を好むシランは根を張るまで育てるのに一苦労だそうだ。品種改良も進めているのだろうが、ヒルデガルトの領地ではシランが自生している。
「あと二年経っていたら、取引していただけなかったかもしれないもの」
口にはしなかったが、私は幸運だった。ディートフリートが婚約者を亡くしておらずそのまま結婚していたなら、ヘルヴェス王は私と話をしようとさえ思わなかっただろう。
先頃若くして亡くなったディートフリートの婚約者は、故国を併呑した国の姫だ。仔細は知らないものの、ヘルヴェス王は婚姻を足がかりにシランの輸入価格を抑えるなり、持参金としてヒルデガルトの領地を得るなりしたかったはずだ。けれども、婚約は誰も予想し得ない不幸によって破綻した。
小さいとはいえ鉱山のおまけも付いてくることで、ヘルヴェス王はご満悦だった。
求められるままにヒルデガルトとして権利書の譲渡を約束する文書を書いたけれど、ヘルヴェス王がこの先どういった手に出るのかはわからない。婚約後の調整でしばらくの間揉めていたようだから、破談の賠償として要求していたとも考えられる。とまれかくまれ、状況を動かすのに使えるものは使うつもりなのだろう。ヘルヴェス王のことだ、自信があるに違いない。
「ヒルデガルトが持っていたものを取り戻そうとは思えないし、何の責任も果たしていない私はそう思ってはいけないの。それに、ちょうどよかったのよ。いつまでも放ってはおけなかったから」
「そうですね。十年という刻限が来てヒルデガルト姫の領地が争いのもとになる前に、手放せて良かったと思います」
冷ました牛乳をボウルに注いだテオは私にボウルをかき混ぜるよう促すと、しばし言葉を選んだ。
「正直に言いますと、安心したんです。城でお会いする前、あなたが姫として生きることを選ばれたのなら、騎士として力を尽くそうと決めていました。でも、ただのテオとしてはそうでなければいいと願っていたんです」
砂糖を溶かし終えた生地を濾しながら、テオはめずらしく私のほうを見なかった。
そうして、ごく何でもないように囁いた。
「だってこの八年、セシルとテオはちっとも不幸ではなかったでしょう?」
この新鮮な驚きを、どうやって言葉に表せばいいのだろう。ずっとどこかに刺さったまま抜けないでいた透明な棘が、緩やかに押し出されていくような心地がする。
こちらに顔を向けたテオが、黙っている私の顔を見て安心したように唇を緩める。それで、私は自分で思っている以上に気持ちが表情に表れていたことを知った。
「そう、私はこれまで自分が不幸だと思ったことはないの。移民だから何か可哀想な事情があるらしいと思われていると感じるたびに、いつも違うのにと思っていた」
哀れみが気に障ったのでも、透明な理解を示されたことに苛立ちを覚えたのでもない。
可哀想にというまなざしに込められた優しさと労りを感じると、私はいつも不思議な気持ちがした。本当にそうなのかしら、と。だって、この八年間、セシルは充分過ぎるほどに幸せだった。
「そういうところが、セシルの勁さなのだと思います。だから、俺も前を向いていられました。俺があなただったら、もっと世を憾んでいたと思いますよ」
「テオは私のことを良く捉えすぎだと思うわ。そんなに立派なひとじゃないもの。……でも、これからは自分の望む幸せを守れる私でありたい」
カラメルの表面が固まっているのを確認して、ボウルからすくった生地を一つひとつの器にを入れていく。テオは私がこぼした生地をさりげなく拭くと、器を琺瑯のバットに並べた。
私はお湯を器の周りに注いで、小さく息をつく。
「おいしくできるかしら」
「もちろんです」
私たちは顔を見合わせて、小さく微笑み合う。
プディングを蒸し焼きにしている間、私たちはなんとなく口を閉ざしていた。私とテオにとって沈黙は親しいものであったから、気まずく思うことはない。
プディングは綺麗に蒸しあがり、家の中がふんわりといい香りで満たされてゆく。
自分で食事を作ったときのささやかな満足感は、私をこの八年の間で積み重ねてきた生活に引き戻してくれる。私の、大切なもの。私の、大切にしていきたいもの。
きっと、気持ちを告げたらこの生活はこのまま保たれることはないんだろう。
テオが丁寧に整えてくれていた家の中で、大切にしてきたものを自分から壊そうとする重みに、ひっそりと胸が軋んだ。




