22.よそ行きのドレス
「お休みになりますか? それとも、プディング作りをしますか?」
食事の間、泣いた気恥ずかしさから黙りがちだった私がぱっと顔を上げたのに、テオが笑う。
「プディングがいい……。覚えてくれていて、ありがとう」
「俺がセシルとの約束を忘れたことがありますか?」
そんなの、記憶をたどらなくともわかることだ。私が眉を下げると、テオはどこか誇らしげにする。
流しに重ねた食器を置いて袖をまくると、テオがやんわりと制止する。
「先にお召し替えをなさったほうが良いかと」
「エプロンをかければ大丈夫じゃない?」
瞬いたテオの視線が、頭のてっぺんから爪先までを行き来する。その目は、明らかに大丈夫ではないと告げていた。
「そこまで汚れるような作業はしませんが、せっかく素敵なドレスですから」
「わかったわ。近いうちに売るつもりだから、綺麗なほうがいいものね」
指先で艶のある生地をつまむと、えっとテオが声をあげる。
「そんな、よそ行きに取っておけばいいじゃないですか」
「ドレスで出かける予定がそうあるとは思えないもの」
「クラウディア様からお招きがあるのでは?」
すぐに否定できなかったのは、もしそうだったらいいなという幾許かの期待を抱いてしまったからだ。唇を合わせた私と目を合わせて、テオは静かに囁いた。
「ヘルヴェスに来て、初めてのご友人ですね。
短い期間で終わる関係なら、クラウディア様はきちんと態度でお示しになったでしょう。セシル、大切にしたいものを大切にしたって良いんですよ」
テオが何かを言うことはなかったけれど、私とクラウディアが一緒にいる様子を好ましく思ってくれていることには気づいていた。
テオは、何かと私とクラウディアの会話に割って入ろうとするディートフリートを丁重に押しとどめていたときと同じ、優しい表情をしている。思わず、これまでは訊けないでいた問いがこぼれ出る。
「……あなたも、そうしてる? この家の外に、大切なものがちゃんとある?」
テオは、毎日まっすぐ家に帰ってくる。休日だって、必要な外出のほかはずっと家にいてくれるのだ。この八年の間ずっと私は自分が彼の私的な時間を狭めていることが気がかりで、でも彼の気遣いがうれしいのも事実で……。何度か追い出すように騎士団の食事会に送り出してみたけれど、彼の不在を狙って家を訪ねてきた人がいたせいで、それもうまくいかなくなった。私がもっと母に似ていない娘であったなら、テオはもっと自由に過ごせていたのかもしれない。
「ありますよ。王立騎士団での職も同僚たちも、大切です」
見つめた先で、テオはいつも食卓で話すときのように王立騎士団での出来事を軽く語って聞かせてくれる。そうだった、私はずっと彼から聞く何でもない日常の話が好きだった。テオにも私の介在しない時間があると知るとき、私はほんの少しのさみしさを感じる。でも、必要な痛みだと思う。
ならよかった。呟いた私をテオは不思議そうに見つめていたけれど、ふといいことを思いついたような顔をする。
テオがあまりにも真面目な顔をしてこちらを見るので、なんだか落ち着かない気持ちがしてきた。左手を握って、流したままの髪を指の先で梳く。
「なに?」
「セシル、お願いがあります。着替える前に、くるっと回ってみてくださいませんか」
「え? こう?」
不思議なことを言うのねと思いつつその場でくるりと回ってみせた私は、ドレスの裾がふわりと落ちたとき、遅まきながらいったい自分が何を求められていたのかを悟った。だって、私を見つめるテオがあまりにも優しい表情をしていたから。じわ、と頬に熱が差して、ごまかすようにドレスの裾を握る。ヒルデガルトに礼儀作法を教え込んだ教師が見たら、きっと咎めただろう。
どんな顔をしていいのかわからなくて、唇をそっと噛んだ。
「よくお似合いです。これで見納めになってしまうのはもったいないと思ってしまうくらいに。せっかくですし、取っておきませんか?」
テオが私の気持ちを損なわないように提案してくれているのがわかったけれど、私はふいと顔を背ける。
「あなたは、あまり私の装いに関心が無いと思っていたわ。だって、城でもほとんど何も言わなかったじゃない」
なんだか、褒め言葉をねだるようなことを言ってしまった。
気恥ずかしい気持ちをおさえてちらりと横目で見ると、テオはおやと片眉を上げて、そんなことはないですよと笑った。
「そうですね。何というか、後からドレス姿もいいなと気づくのだと思います」
いったいどういうことなのだろうと思って続きの言葉を待っていたけれど、テオは唇をきゅっと結んで、私に着替えをするよう促した。
久し振りに二階の自室の扉を開けると、ふわりと清潔な匂いが鼻先に届いた。
窓辺に飾られた小さな花瓶や自分でするときとはうってかわって綺麗に掛けられたシーツを見ると、テオの心配りを感じる。触れるのは最低限にしてくれていたのだろう、机の上はあの日家を出たときのままで、掃除だけ綺麗にされていたことが窺えた。あの朝、きちんと部屋を片付けてから家を出ていてよかったと思う。
花瓶に生けられていた花を撫でて、私は背中に手を伸ばした。のだけど……。
背中に並んだ真珠の釦がこうも厄介だとは思ってもみなかった。生地があまりにも艶やかで滑りがよく、釦のために空けられた穴がごく小さいせいだろう。そうとわかったものの、外せたのは二つだけだ。
そう身体がかたいほうではないとはずなのにと思いながら、私はつま先立ちになったり身体を屈めたり、ああでもないこうでもないと背中に手を回す。上から外すのを諦めて、下から外した方がいいだろうかと悩み。そうこうするうちに、上の釦が外れなければ脱ぐことは難しいと気づいた。
腕がつりそうになったとき、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。テオは普段から挙措が静かな人だけど、しばしばこうして私に気づかせるように音を立てもする。
「セシル? どうかしましたか?」
私がいつまでたっても降りてこないので、心配してくれたのだろう。
扉に駆け寄った私が扉を開けた勢いに、テオは瞬いた。私は身体を傾けて髪をかきやると、背中に連なった釦を指で示す。
「このドレス、一人では脱げなくて……。釦がものすごく外しにくいの」
私の背中に目をやったテオが、ぱっと顔を伏せる。うろうろと足下に落とした視線を彷徨わせて、テオはそうだと呟いた。
「どなたか、近所の人に来ていただきましょう。いや、でも、御髪の色のことがありますね」
そうだった、と私は今はもう染めていない髪に触れる。
女官たちによって手入れされ続けた髪は、昼下がりの光を受けて淡く輝いている。城で染め粉を落とされたときはどこかよそよそしかった金髪も、今はすっかり自分の色だという気がしていた。
「もう、このまま染めないのも良いかもしれないと思っているの。毎週染め直すのも不経済だから」
「いい機会だと思います。ヘルヴェス王のお触れのおかげで、金髪の娘が召し上げられたことは広く知られていますしね。商家でも、城への滞在が長引いたのもお触れの条件に適っていたからだったと納得されるでしょう」
「ええ。しばらくはじろじろ見られるでしょうけれど……でも、そうね。いきなり近所の方を驚かせてしまうのも良くないわね」
クラウディアが贈ってくれたドレスは、およそ移民が纏う機会のない上等すぎる品だ、好奇心を抱くなというほうが無理だろう。お触れのことがある分、城での話を聞かせてほしいと言われるだろうことも想像がつく。一人に知られれば、きっと明日には近所じゅうに話が広まる。
それは私にとっても都合がいいことではあるけれど、ため息がこぼれそうになる。せめて、今日くらいは穏やかに過ごしたかった。
「テオに釦を外してもらうのはだめ? 釦の糸を切ってあとから縫いつけ直すのでもいいとは思うのだけど、自分では見えなくて。たぶん、コルセットは自分で脱げると思うわ」
「えっ……」
ええと、と壁の方を向いてはもう一度顔をこちらへと戻し。テオはぎゅうと眉根を寄せて逡巡する。
まじまじと顔を覗き込まれて、私は顎を引く。だめかしらと思っていると、きつく寄せられていたテオの眉が解かれて、何か言いたげに唇の線がかすかに揺らいで閉ざされる。
しばしの沈黙ののち、テオは喉から絞り出すように声を漏らした。
「……わかりました、頑張ります。迅速かつ丁寧に」
「ありがとう。ゆっくりでいいわ、すべりやすい生地だから」
「いえ、出来うる限り急ぎます」
「そう?」
「はい」
私は促されるままにテオに背を向けて、髪を肩の前に回す。
首をめぐらせると、テオの指が釦に触れようとするところだった。視線が重なる一瞬前、黒い睫毛が伏せられる。
「確かに、これはお一人では難しいですね」
「でしょう?」
前を向くとわずかに生地が引っ張られて、背中にあたたかさを感じた。ゆっくりと指の腹が真珠を押し込む微かな気配がして、釦が一つ外される。
男性の手には釦が小さすぎるのではないかと思っていたけれど、手先の器用なテオはすぐに要領を掴んだようで、最初はぎこちなかった動きが少しずつなめらかになっていく。ふつり、ふつりと背中の釦が外されていくたびに、とめられていた生地が緩んでふわりと波打った。
もしかすると、テオの手つきは女官たちよりも丁寧でやさしいかもしれない。そんなことを思ってくすりと笑んだ私に、テオがなんです? と喉の奥で囁いた。
「なんだか、不思議な気持ちがして。またこうしてドレスを着るとは思っていなかったものだから。ほら、物語でよくあるでしょう? 庶民の娘がドレスを着て鏡を覗き込んで言うの。まるでお姫様みたいって。このひと月、ずっとそんな気持ちでいたのよ」
「俺にとって、セシルは今も昔も変わらずお姫様ですよ」
まあと振り向こうとした私は、ドレスを手で押さえてほしいと言われてはあいと頷く。
テオができましたよと言ったのに、私はそろそろと身体の向きを直す。背中がはだけてしまわないようにドレスの生地を摘まんでくれている手の下をくぐるように前を向くと、ほっとしたようにテオが息をつく。
お礼を言おうとした私は、テオが物言いたげにしているのに唇を合わせた。言いにくいことを言おうとしているとき、テオは慎重に言葉を選ぶ。
「……その、俺を信頼してくださっているゆえのことだとわかっているつもりです。ですが、着替えを異性に頼むのはよろしくないと思います」
そう言われて、今更ながらに気づきが追いかけてきた。遅れて、羞恥がこみ上げる。
「あの……人に服を脱がせてもらうのは、特別なことではないと思っていたものだから」
分かっていますと頷いたテオが自分の上着を掛けてくれるのに、私はいたたまれなく思った。
八年という歳月を経ても移民になりきれないでいる自分に、気づいてはいた。けれど、きっと完全に分かってはいなかったのだろう。これでは商家の移民たちに良く思われないわけだ。このひと月の間、女官たちに傅かれていたことで勘違いしてしまったのかもしれない。
そうして、私は自分の過ちに気づいた。
「違うわ。テオを使用人扱いしているから頼んだのではないの」
「俺が言いたいのは、そういうことではありません」
え……と困惑していると、テオの腕が伸びてきて、肩にかけられた上着の前を閉じる。テオのほうが体格がいいから、釦をとめられても窮屈ではない。腕を通していない袖を指でつまんで伸ばすと、私の腕よりもうんと長いことがわかる。くぐもった音を漏らしたテオを見上げると、青い瞳が私をじっと見下ろしていた。
「俺も男ですので、あなたがあまりに無防備でいらっしゃると不安になります。もし俺がもっと悪い人間だったらと思うと、心配です。不埒な振る舞いをする人だっているんですよ」
私は大変遅まきながら、女官たちがなぜこのドレスをすすめてくれたのかに思い至った。もしかしなくとも、クラウディアと女官たちは、私たちの関係が進むきっかけになることを期待してこのドレスを贈ってくれたのだろう。でも、テオはこういう機に乗じる人ではないし、そもそも気持ちがないことにはどうにも転ぶはずもない……。
「テオは、悪い人ではないもの」
「……そうですね。あなたにとってそう在れたらと思っています」
私がごめんなさいと言おうとしたのを悟ってか、ぎこちなく笑んだテオはいいんですと首を振る。
「セシル、約束してくださいますか? どうか俺以外の男に、こういうことを頼まないでください」
「当たり前でしょう、テオ以外の人に頼もうなんて思わないわ」
テオは深く寄せていた眉をほどいて、何とも言いがたい顔をしてみせる。
絶対にですよと念押しされて、私は何度も頷いた。テオはしばらくの間じっと私の目を覗き込んだ後、微かに顎を引いた。
プディングの支度をしておきますと言ったテオの背中が扉の向こうに消えると、私はぽすんと寝台に顔を伏せる。そうしていると、テオの上着に残った香りに包み込まれているような心地がして、いっそう居たたまれなさが募る。
自分の考えの浅さと、いまだにお姫様気分が残っていることが恥ずかしかった。




