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私の騎士、最後にひとつだけ約束してください。 【全年齢版】  作者: ななな


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12/22

12.わずかな猶予

 クラウディアを見送って茶器を洗うと、私は家計簿を開いた。

 私たちは毎月お互いの給与明細を見せ合い、家計の相談をする。家の賃料はテオの父が遺したお金から出し、残りは何かあったときの備えに回して、日々の生活費は決まった額を出し合う約束だった。私たちの間にたくさん結ばれている、小さな約束の一つ。


 約束。言いさしたことばを逃した唇を噛み、ため息する。

 この国にたどり着いた私たちには、ごくささやかで他愛のない約束が必要だった。

 ベーレンドルフのお屋敷を出て始めた新しい生活は私たちにとって戸惑うことも多かったけれど、ふたりで一つひとつ約束を決めていくのは楽しいことだった。テオは最初、私からすべての家事を取り上げようとして、私は彼から家事を奪おうと必死だった。


 小さな衝突とその後の摺り合わせを思い出して、ひとりでに唇がほころんだ。


 家のものとは別に付けている自分の家計簿を開いて、指で貯金額の欄をたどる。商家で働き始めてから何度か昇給したし、残業代も貯金に回していたから、そこそこの額になっていた。それこそ、今から一人暮らしをするには十分な額が。


 申請すれば、商家の伝手で安く部屋を借りられるだろう。おじさまに頼めば、快く安全な部屋を探してもらえるはずだ。

 思い返せば、おじさまは常々、テオをもっと出世させてやりたいと言っていた。移民でなければという意味の言葉だと受け止めていたけれど、今の私には違うとわかっている。


(……きっと、耐えられるわ。いまが一番つらいだけ。いつだってそうだった)


 だって、私は色んなものを国に捨てて、置き去りにしてきた。

 私があの国で得て手放していないものは、テオだけだ。でも、もう彼の手を離さないといけない。


 もし、心が目に見えて手で触れられるものであったなら、きっと鏡のように自分の姿がよく見えるだろう。そうであったなら、砕いた欠片を人に差し出すこともできただろう。


 お母様と最後に話したときに、そうできたならどんなに良かったことか。お母様の幸いを願っていますと言えていたなら、きっとお母様は笑ってくださった。

 同じように、森の中でテオに見捨てないでほしいと素直に言えていたならば、優しい彼に誓いを差し出させることだってなかったかもしれない。

 

 どんなに心を砕いても、たったひとりの心に届ききらないことがある。

 どんなに心から願っても、口をついて出なければ伝わらない気持ちがある。


 テオが帰って来たら、話をしなくては。

 そう思うのに、何度考えようとしても、彼に何と言って伝えるのが一番いいのかわからない。

 いつも私の望みを優先しようとする彼に、いったい何と伝えたなら自分の望みを優先してもらえるのだろう。


 ほかのことなら、ほとんど何でも言うことができるのに。 

 悩んでなやんで途方に暮れた私は、机の上に伏して瞼を下ろす。テオが帰ってくる前に、はやく考えておかないと。そう思いながら。



 はっと気がついたとき、私の身体は懐かしい感覚に揺られていた。

 どうやら、あのまま眠り込んでしまったらしい。重たい瞼を押し上げられないでいるうちに、自分の身体が抱きかかえられているようだと理解が落ちてくる。背と膝の裏に通された腕は、ほかでもないテオのものだ。触れたところから伝わる鼓動に、ああと心が安堵する。


 夕食の支度だってできていない。はやく目を開けないと。

 そう思いながらも、私はこの一瞬ができるだけ長く続いてほしいと願う自分を見つけた。だって、こうして彼の腕の中にいられるのも、これが最後になるだろうから。


 静かに階段を上ったテオは、律儀に扉を叩いてから私の部屋に足を踏み入れる。

 優しくベッドの上に寝かされて、ふわりと上掛けを掛けられる。もう行ってしまうとさみしく思っていると、手のひらがそっと髪を撫でるように触れた。乱れた髪を整える指先の優しさに、長い間忘れていた涙を思いだしてしまいそうになる。


「……姫。起きていらっしゃいますか?」


 テオに、心以外のものを隠すことは難しい。

 そっと目を開けるとぼやけた視界が静かに定まって、柔らかく笑んだテオの顔が見える。


「ごめんなさい。寝てしまっていたみたい」

「そんなときもありますよ。意識が醒めた後も、なかなか目を開けられないでいるご様子でしたが、気分はいかがですか?」


 大丈夫と頷くと、失礼しますと囁いたテオの手のひらが額に触れて、すぐに離れる。


「熱はないようですが、疲れが溜まっていたのかもしれませんね」


 明日は仕事を休んではどうかと言われて、私は笑ってしまう。

 熱も出ていないのにだめよと返すと、テオはぎゅっと眉を顰めた。


「何か、ありましたか?」


 私はいいえと答えようとして、やめる。

 テオのことだ、普段使いをしていない茶器を洗ったことだってきちんと見ているはずだ。近所のおばさま方から、見慣れぬ貴族の馬車が停まっていたことだって聞き知っているかもしれなかった。


 事前に用意していたのだろう、テオは小机に置かれた水差しから香草と果実で香り付けした水を注いで渡してくれた。受け取って一口含むと、肌の内側に籠もっていた熱がほどけるように清涼な香りが広がる。


「今でなくとも構いません。俺に話して楽になることなら、いつでも話してください」

「ええ。……明日の夜、話を聞いてくれる?」

「はい。明日は早く仕事を切り上げて帰ります」

「もう、いつも通りで大丈夫よ」


 真面目なテオの返答に笑ったとき、小さくお腹が鳴った。ちらりと見上げた先で、テオが安心したように目を細める。


「食欲はありますね。何よりです。消化の良いスープを作りましたから、温めてきます」

「ありがとう。明日は私が作るわ」


 身を起こそうとした私は、けれどもやんわりと上掛けごとベッドに戻される。

 寝ていてくださいと言って踵を返したテオを見送って、しばし。私は上掛けの中にくるまって、ゆっくりとため息をこぼす。

 どうせ明日はすぐに来てしまうのに、別れの時までにほんの少しの猶予が生まれたことがうれしいだなんて。そう自嘲しながら、再び優しい足音が聞こえてくるまで目を閉じていた。



 翌日、まだ心配そうなテオに送られて商家に向かった私は、割り当てられた帳簿を開いた。

 いつもなら早く過ぎ去ってほしいと思う時間の進みがいつになく軽やかに感じられるのは、きっと夜に約束が控えているからだろう。

 ついテオのことを考えてしまいそうになる頭を切り替えて、一つひとつの数字を丹念に追いはじめる。


 先日、ドミニクとの仲を尋ねてきた娘が駆け込んできたのは、目に付いた数字に抱いた違和感をもとに計算をやり直していたときだった。


「セシル! 旦那様が、今すぐ裏から出るようにって……!」


 最初に思ったのは、テオに何かあったのかということだった。

 促されるままにペンを置いて尋ねると、彼女は首を振る。目の端で、ぱらぱらと立ち上がった人が入り口を塞ぐように書類保管箱を運んでゆくのが見えた。


「とにかく急いで! 荷物も何も持たないで」


 早くと腕を引っ張られながら立ち上がったとき、どん、と重たい音が響いた。

 それが扉を蹴破った音だとわかったのは、陰に濡れた人影がゆったりと足を下ろしたからだ。その人は、壊れた書類保管箱を軽々と爪先で押しやり、舞い散らばる書類に包まれながら室内へと足を踏み入れる。床を蹴るように進んだ長靴の刻む音は鋭く、重い。


「お嬢さん、先程きみがお茶を供したときに主人から紙片を渡されたのを見ていたが、いったい何をしようとしていたのか教えてもらえるかな?」


 こちらへと差しのばされたのは、ひどく気さくでありながら、その実とても冷ややかな声だった。


 私の腕を取った手のひらがびくりと震えて、そっと離された。

 俯いた彼女の横顔は、微かに震えている。ごめんなさいと囁かれたのに首を振ると、また一歩こちらへと長靴が歩みを進めた。


 艶のある黒の外套の隙間から覗いたのは、ヘルヴェスの近衛騎士の中でも一握りの騎士しか身に纏うことを許されていない制服だった。おじさまより十は年上だろう騎士は、私を頭から爪先まで眺めると、こちらへと近づいてくる慌ただしい足音に背後を振り返る。

 そこには、息を切らした商家の主と護衛、それから数人の近衛騎士がいた。


「お待ちください! いきなり中座したと思ったら、うちの人間を断りもなしに連れて行こうとするとは、一体どういうことですか!?」

「おや、いいところに。彼女が我々の探しているセシル嬢で相違ないか?」

「先に理由を答えていただきたい! セシルは、ベーレンドルフ王立騎士団長が後見となった移民ですよ。何も後ろ暗いところのない真面目な娘です」


 ふむと騎士は頷いて、深く低い声を響かせた。


「ならばその息子に問おう。騎士ベーレンドルフ、答えろ。このお嬢さんだな?」


 坊ちゃん、と商家の主が呟いた声を振り切るように進み出たドミニクは、苦しげに私を見つめた。

 ベーレンドルフ。騎士が短く催促すると、顔を歪ませたドミニクは私から目を逸らし、微かに首肯する。


「……はい。彼女が、父が後見している移民の娘です。ですが彼女は、」

「十分だ。お前の意見は聞いていない」


 騎士はゆったりとした足取りで私に近づくと至極優美に外套の裾を払い、躊躇いもなく膝を突く。部屋のあちこちから息を呑む音が立ち、問うようなまなざしが幾つも肌に突き刺さる。


「突然の訪問をお詫び申し上げます。我が主の命に従い、お迎えに上がりました。さる高貴な御方が貴女と話をしたいとお望みです。ご同行願えますか?」


 目元だけを細めた騎士の笑みは、丁重な言葉とは裏腹に、私に頷き以外の何も求めていなかった。

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