11.誓いはひとつきり
バイルシュミット公爵令嬢クラウディアと名乗ったその人は、日頃私たちが使っている椅子に躊躇いもなく腰を降ろした。私より幾つか年嵩に見える彼女は、興味深そうに室内を見回している。
私は侍女に立ち会ってもらい、紅茶を淹れる。昨夜、おばさまがお土産に持たせてくださった茶葉があって良かったと思う。
「よろしければお召し上がりください。お口に合うとよいのですが」
クラウディアはにこりと笑って、この家にある一番上等な茶器に口をつける。
クラウディアは長い睫毛を瞬かせると、侍女を下げさせた。とはいえ、ここは貴族の屋敷ほど広くはないから、侍女も壁際に控えただけだった。
「移民と聞いたけれど、以前は貴族だったのね? お茶を淹れるあなたの手つきは、侍女や女官のものではなかったもの。それに、すごくおいしいわ。ヒュメルの春の茶葉を分けられるなんて、ベーレンドルフ子爵家は本当にあなたたちを可愛がっているのね」
ベーレンドルフは、おじさまの家名だ。
クラウディアはおよその事情を聞き知っているのだろうし、私たちが移民の届け出をしたのは八年前のことだから、戦の混乱に紛れて国を出たと想像するのは難しいことではない。
「過去のことですが、祖国では貴族の末席に名を連ねておりました。ベーレンドルフ子爵家の皆様には、過分なほどに良くしていただいています」
長い睫毛に縁取られた瞳がやんわりと瞬いて、正面からこちらを眼差してくる。
クラウディアは気さくな笑みを浮かべて突然の訪問を詫び、宰相を務める父が使節団の対応をしている隙を見計らって馬車を出したのだと説明した。
「ベーレンドルフ子爵から聞いていて? 父が貴女の従兄を気に入って、わたくしの婿に迎えようとしているの」
「お嬢様のお名前までは存じ上げませんでしたが、従兄に縁談のお話が来ていることは伺っています」
私は紅茶に口をつけて、確かにいい香りだと思う。
ティーカップをソーサーに置いて顔を上げると、クラウディアがまじまじと私を見つめていた。大きな瞳がこぼれんばかりに見開かれて、きらきらと輝いている。
「まあまあ、本当に優美な所作だこと! 貴女よりも所作の綺麗な娘がどれだけいるものかしら」
「紅茶のお支度も、とても丁寧でいらっしゃいました。私に立ち会いを求めるのも当然だとお考えだったことにも驚きましたが」
壁際に佇む侍女が囁いたのに、私はいたたまれなく思った。
あれから八年も経つのに貴族の所作が抜けないのは、必ずしも良いことばかりではない。
現に、商家で働く移民たちからは陰で気取っていると言われていた。けれども染みついた教育は拭い去りがたく、時に私を助けてくれもする。
クラウディアは大きく一つ瞬くと、きゅっと唇を吊り上げる。
それは、自分の美しさを知っていて、どうすれば魅力的に映るのかも華やかな笑みが何を齎すのかも心得ている人の笑みだった。
「直裁に言いましょう。従兄のためを思うなら、早く家を出て自立して頂戴。もちろんそれなりの謝礼はするし、家も用意するわ」
ああまるで、物語や演劇の一幕みたい。
最初に思ったのは、それだけだった。
心が傷つこうとするとき、私の肌に染みついた教育はまず、淡い笑みを硬くする。自分の心を守ろうとするとき、私は涙よりも笑みに頼るのが常だった。
口を閉ざしたままクラウディアを見つめ返すと、堪えきれなかったというように、ふっと呼気が漏らされた。お嬢様、と侍女が小声で窘める。
「ええ、わかっているわマリー。一度くらい、ちょっと悪役ぶってみたかったものだから。
……ごめんなさい。冗談だったのだけど、無作法よね。こんなありきたりの、安っぽい台詞を言いに来たんじゃないの」
クラウディアは大きく首を振ったかと思うと、高位の令嬢とは思えぬほどの気さくさで謝罪を述べる。
「違うのですか?」
「ええ。もし貴女に何かを要求するなら、自分で足を運ぶことは選ばなかったでしょう。物語ではよくあるでしょうけれど」
そう、確かにそのほうが貴族らしい振る舞いではある。直接要求を通すのは、少なくとも遣いの者が脅しても通じない過程を経てからになるだろう。
「確かに、物語や演劇でよくある展開ですね」
「けれど、人は物語の定型に沿って行動するいきものではないわ」
きっと、この人はお人形であることを選ばないできた人なのだろう。
正直な人だと思いながら、私は膝に置いた左手を反対の手で覆った。
「お嬢様は、私の従兄を望んではいらっしゃらないのですね」
「ええ。貴女の従兄に会いに行ったけれど、わたくしにはいささか刺激が足りないの」
テオに足りないものなんて、この国での身分くらいのものだろうに。
刺激? と不思議に思った私の心を見抜いてか、クラウディアはふふっと小さく笑った。
「語弊があったかしら。貴女の従兄がどうという話ではなく、あくまでわたくしの問題よ」
クラウディアは、あのね? と何か打ち明け話をするように囁いた。
「父は宰相なのに、陛下とは個人的に不仲なの。それというのも、わたくしが小さな頃に王太子殿下の婚約者に決まったと思えば即破談になったことを随分恨んでいて……。
破談のきっかけになった王太子殿下の縁談相手は失踪、次の縁談相手にも先頃ご不幸があったことで、再びわたくしが候補に挙がったの。身分も年齢も釣り合う未婚の娘に、ほかに宛てがないから」
まさか話の中に自分が登場するとは思わなかったものだから、私は密かに驚いた。
クラウディアは白い指を頬に当てて、水鳥のようにほっそりとした首を傾げてみせる。
「確かに、貴女の従兄は貴族の間でも評判よ。ヘルヴェス人とは違う見目も柔らかな物腰も、あの父が三度調べさせても何ら後ろ暗いことが出てこない清廉潔白ぶりもね。だから、父が陛下への意趣返しがてら、わたくしに宛がおうとしたのもわかるわ。父は普通の貴族らしからぬところがある人だから」
ヘルヴェスの貴族社会について詳しくないものの、クラウディアの話が本当だとすると、彼女の父は相当な変わり者である。娘を王家に縁づかせるのは、貴族の夢の一つだろう。お母様の両親だって、喜んで決まりかけていた縁談を破棄したのだから。
とはいえ、いわゆる貴賤結婚がまったくありえないわけでもない。テオのように優秀な若者を取り立てたり、心から愛した恋人を伴侶に迎えたりする貴族もいる。
ふと。私は、なぜ彼女が今まで未婚でいたのだろうかと思った。
公爵令嬢として生まれたクラウディアは、縁談相手に事欠かないはずだ。それこそ多少の年齢差があろうと、彼女の婿がねに収まりたい人は多いだろう。
でも、彼女はこれまで未婚のままでいることを許されている。
「貴女に会いたいと思った理由は幾つかあるけれど、単純に興味があったことと、もしわたくしが貴女の立場なら嫌だと考えたからよ。男たちは女の心を軽んじすぎる」
静かに言い切った唇には、彼女の意志を縁取るかのように綺麗に紅が塗られている。
私は、自分がかつてお人形であった頃のことを思い出した。あのまま故国で時を重ねていたならば、きっと私はお人形であることを従順に受け止めて、今のようには生きられなかっただろう……。
「お嬢様は、ご自身で結婚を選び取るおつもりだということでしょうか」
「そうよ。ただ、思いのほか対処に時間がかかってしまいそうだから、貴女の従兄に伝えてくれるかしら?
もしヘルヴェスに忠誠を立てる予定があるなら、少し待ってもらいたいのよ。父は、貴女の従兄を婿に迎えるにあたって、そのことを一番懸念しているの。おそらく、結婚を承諾するにあたっての条件になっているはずだわ」
私とクラウディアは、しばしの間お互いを見つめて、沈黙の中を探り合うように唇を閉ざしていた。
「それは……どういうことなのでしょう? 従兄は王立騎士団の騎士として働いているはずですが」
「移民の保護には、信仰と故国で立てた誓いも含まれるのよ。貴女の従兄ほど出世している移民は稀だけれど、生計を立てるために騎士団に入る移民は少なくない。だから、貴女の従兄のようにヘルヴェスの騎士として誓いを立てずに働くことができるの。その分、出世には限度があるわ」
知らなかったのね。静かに囁いたクラウディアはまだ何か言葉を続けていたけれど、私の耳はうまく彼女の声を拾い上げることができないでいた。きんと頭の奥が痛んで、肌がじっとりと汗ばんでゆく。
――私の騎士。
いつも心の中でそう呼ぶことができる意味を、本当にはわかっていなかった。
おじさまから騎士団で働かないかと誘われたというテオの背中を押したのは、私だった。
あのときテオが逡巡していたのは、単純に一度騎士の身分を捨てたことからくる遠慮だと思っていた。私は気兼ねせずに好きなことをしてほしいと思ったから、お受けしたら? と勧めた。
姫がお許しくださるなら。
テオは静かにそう微笑んで、迷いが晴れましたと言っていたけれど、内心はどう思っていたのだろう。
彼は真面目なひとだから、騎士の忠誠を偽れるはずもない。二つの国でそれぞれの誓いを立てればいいのだと考えられるような、割り切りの良いひとではない。
現に、テオはヘルヴェスで騎士の誓いを立てていないのだ。……先に、私に誓ってしまったから。
クラウディアは口を閉ざして、心配そうに眉を寄せて私を見つめた。
私は意識して笑みを浮かべながら、膝の上で震える左手を隠すように握りしめる。
(……私の存在は、彼に与えられるはずだったものを奪っている)
ふたりで過ごすささやかな暮らし。何でもないやりとり。いくつもの約束。
私が大切にしたいと思っていたものの重みがひと息に押し寄せて、胸を圧した。




