1.降ってわいた縁談
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手鏡を覗くと、柔らかく唇を合わせた顔がこちらを見返している。
いまの自分を鏡の中に見つける度に、私はいつも新しい人に出会ったような気持ちになった。
前髪を軽く整えて、ついでに白い襟をぴんと引っ張ってから手鏡を閉じる。蓋面に彫刻された花と遊ぶ鳥の図案を指で撫でると、隠しにしまった。
廊下を曲がって顔なじみの騎士に会釈をすると、握り込まれた拳が扉を叩く。
扉の向こうから聞こえた応えの声に、意識して肌の上に微笑みを形作る。
鏡を覗かずとも、私は自分が何の利も害もない娘に見えることを知っていた。騎士が開けた扉の向こうで立ち上がったおじさまの目にも、同じように映っているだろう。
「セシル、よく来たな。いつだって君は時間をきちんと守る」
「ごきげんよう、おじさま。約束を守るのは当然のことですよ」
王立騎士団の騎士団長を務めるおじさまは、いつも手ずからお茶を淹れる。
幾つも傷跡の残る大きな手が包んでいるとき、茶器はまるで人形の小道具のように見えたけれど、その仕種は静かで優しい。ほらと箱を開けて見せられたケーキは王都でも評判の店の品で、一緒に一切れずついただいた後、残りはおみやげに包んでくれるのが常だった。
「最近はどうだ? セシルのことだから、心配してはいないが」
「おかげさまで、つつがなく過ごしています」
「あの偏屈なヴィクターも、顔を合わせるたびにセシルを褒めているぞ」
私が働いている商家の主は、おじさまの旧友だ。後見人の務めだと言って、おじさまは働き口を世話してくれた。
「ありがたいお話です。おじさまが紹介してくださったおかげです」
「謙遜しなくともいい。君たちは実に模範的だと評判だ」
うんと大きく頷いたおじさまに、私は慎ましく見えるよう顎を引く。
当然だろう。だって、私たちはこの国で穏やかに過ごすために心を砕いてきたのだから。
ヘルヴェスで、移民は五年真面目に働けば定住権を得られる決まりだ。
八年前に収束した戦の影響で、周辺諸国の移民の扱いは未だ厳しい。定住権を得た移民には、その後三年間は定められた後見人による面会が義務づけられている。この春が終われば、私の面会も終わる。
とはいえ、王立騎士団長を後見に持つ私たちの面会は随分簡略化されていて、私は毎月仕事を早退してお三時をいただきに来ているようなものだった。そう、私たちは実に幸運な移民だった。
「もうすぐ面会も終わりだな」
「はい。あっという間の八年でした」
紅茶に口を付けた私は、ふとこちらを見るおじさまの表情に違和感を覚える。
瞬くと、テーブルの上でゆっくりとおじさまの手が組み合わされた。
「セシル。直截に訊くが、本当にテオとは恋仲ではないのか?」
それは、ヘルヴェスで暮らすようになってから数えきれないほど私たちへ投げかけられてきた問いだった。この国の人々は、知り合って少し時間が経つといつもきまってこの質問をする。
私には、五つ年上の従兄がいる。
一緒にこの国へとやってきたテオは、おじさまの後援を受けて騎士になった。今も鍛錬に勤しんでいるはずだ。窓の外から遠く聞こえる剣戟の音の中には、彼の剣も混じっているのだろう。
私はにこりと微笑んで、いつものようにはいと頷いた。
いつも通りの月に一度の面会で、耳慣れた質問にいつも通り答えたこのとき。そうかと頷いたおじさまが続けた言葉だけが、いつもとは違っていた。
「実は、テオに縁談の話が来ている。定住権を得て数年の移民の騎士にはもったいないほどの好条件だ」
――テオに、縁談。
唇が、勝手にぽつりと呟いた。
おじさまが頷いて、驚き以外の感情が混じっていやしないかと見極めようとするように私を見つめてくる。おじさまの注意深い瞳に、私はいったいどんなふうに見えているのだろう。
私の中のひどく冷静なところが、ひっそりと囁いた。
(テオを望んでいるのは、それなりの家格の貴族なんだわ。それも、王立騎士団長であるおじさまが配慮しなければならないほどの……)
おじさまはぎこちなく笑むと、慎重に言葉を選んでいるとわかる速さで囁いた。
「テオは素晴らしく腕の立つ騎士だ。いったい何度、うちの娘と結婚させたいと思ったか知れない。
……あいつは見た目もいいだろう。ヘルヴェスにはない繊細な顔立ちは、貴族の間でも人気でな。こうした申し出は初めてじゃないんだ」
おじさまは言いづらそうにしていたが、何を言いたいのかわかってしまう。
思わず、つと笑みがこぼれ出た。
「私のような若い娘がテオと一緒に暮らしているのは、心証が良くないということですね」
自分で口にした言葉が、柔らかに胸を刺す。
おじさまは苦い顔をするものの、否定しなかった。
貴族の家なら、年頃の若い男女が暮らしを共にしていることを疑うのは当然だ。テオを婿がねに望む貴族にとって、私は厄介な存在だろう。たとえ恋仲ではなくとも、庶民出の入り婿の親戚は厄介ごとに発展しやすいのが常だ。
「これはセシルにとっても悪い話ではない。君は若く綺麗な娘だ。テオがいることで、君に声をかけられないでいる男も多い。君なら良縁も引きも切らないし、俺が責任を持って結婚を世話したいと考えている」
胸の内側へと深く刺さりゆく透明な針の痛みを感じながら、私はただ、噛んで含めるように告げられる言葉を聞いていた。
何でもないふりをするのは上手いほうだと思う。心の内を隠すのも。
なぜって、私は――私たちは、ずっと嘘をついて生きているのだから。
「君たちが苦労しながら助け合ってきたことは知っている。だが、もう八年だ。君もテオも成人して、立派に働いている。だのに、君たちは離れようとしない。
君たちの故郷ではいざ知らず、ヘルヴェスでは年頃の男女が生活を共にするのは、恋人同士だと触れて回るようなものだ。……俺には、どうも君たちが依存しあっているとしか思えない」
言い終えてこちらを振り向いたおじさまは、微かに息をこぼした。私が涙を浮かべていないのを知って安堵したのだろう、優しい人だから。
「次の面会までに、君がどうしたいのか決めてもらえるだろうか。すまないが、それ以上は引き延ばせそうにない」
こういうとき、涙の一つも流せるような心を持っていたなら、もっと生きやすかったのだろうか。
そう思いながらも、はいともいいえとも言えず、私はただ微笑んでいた。




